30 janvier 2007 

Bad Guy:journal

KIM Ki duk監督の『悪い男』を観た。
やくざもののハンギはある日公園で清楚な大学生ソナに目を奪われる。ソナを見つめるハンギだが、すぐにソナの彼氏が駆け寄ってきてソナには彼氏がいることを知る。しかし、ハンギはおかまいなしに強引にソナに口づけをする。それがもとでトラブルとなり、ソナにののしられてしまう。その後、ハンギはソナを陥れて借金を負わせ、自分が仕切る売春宿に売ってしまう。それはソナへの復讐と彼女を近くでみていたいという屈折した感情からだった・・・。
 あまりに激しく、異常なストーリーでちょっとついて行けない感じになるが、監督は歪んだ愛を純愛物語に昇華したかったようだ。しかし、心理学に少しでも通じている人がみれば、主人公の女性は典型的なストックホルム症候群にかかっていることがわかるだろう。この売春宿は構造的には監禁部屋とほぼ同じ状況なので、監禁された女性が過度に男性に好感情を抱くということも理解できる。しかし、多くの観客は、特に男性はこの物語を不器用で純粋な男性の女性への愛が、彼女にも通じたというロマンティックな空想をするに違いない。監督はこうした点に関して鈍感なのか敏感なのかは僕にはわからない。ただ、男性によって都合がよすぎるストーリーだなと呆れるばかりである。これと非常に似た作品はビンセント・ギャロの『バッファロー'66』である。これも男によって連れ去られた女性が最後には男に恋愛に似た感情を抱く物語。KIM Ki dukとヴィンセント・ギャロという一見、系統やスタイルが全く違う監督に共通するのは彼らの「男性性」であろう。彼らはどんな非道い自分でも、どこかに自分を受け入れてくれる女性がいるに違いないというストーリーを好む傾向が強い。僕的にはこんなのはファンタジー以外の何物でもないと思うのだが・・・。

29 janvier 2007 

nom de famille:journal

 選択的夫婦別姓制度で、反対派がポイントを伸ばしているそうである。僕は容認派(どうして賛成派とはいわれないんだろう?)に入るが、いまだに反対する人の理由がよくわからない。
 繰り返しいわれていることだが、これは結婚する全ての人が夫婦別姓にする制度ではなく、それを望む人のみが夫婦別姓を選択できるという制度である。容認派のなかでも全てを別姓にと考えている人は少数派だろうと思われるし、同姓にしたい人の意志を妨げようとは思ってないだろう。しかし、夫婦同姓にしたい方々は別姓にしたい人の意志を妨げようとしている。
 さらに反対の理由として「別姓は家族の一体感を損なう」といった反発があるそうである。では、逆に問いたい。同姓しか認めない現在の家庭はそれゆえに「一体感」があるというのだろうか?姓が違う人とは一体感を感じることができないなら、他人と親和的な関係を築くことなど絶望的である。また、同姓の制度だと、多くの場合、どちらか一方が親の姓と変わってしまうのだが、それで「一体感」が損なわれたのだろうか?逆に育ててくれた親世代と同じ姓を使いたいから別姓にするという人もいるのである。記事には年代別の回答結果もある。
 「年代別にみると、20代で容認派が44.4%となるなど若い世代ほど理解を示した。逆に70歳以上では反対が58.2%に上った。」
 結婚などもうしない可能性が極めて高い70歳以上の方々が、結婚したい世代の意志を圧殺している。人には寿命があるから、いずれこういう人々はいなくなるだろうが、こういう統計をみると年長者を大切に敬う気持ちが損なわれてしまうと危惧するのは僕だけだろうか。一方で報道のしかたにも文句がある。新聞ももうちょっと丁寧に統計を分析したり、反対理由を考察したり、議論を深めるような資料を提供したりできないものだろうか?こんな記事じゃ、何にもならんよ。こんな新聞はネットで無料で読むに限るね。

28 janvier 2007 

YouTube:journal

 お笑いブームといわれるなかにあって、僕は海外にいた関係でお笑いブームにすっかり乗り遅れた感がある。2004年から2005年にブレイクした多くのお笑い芸人は今やコントや漫才をしている姿をみない。そこで出世が早いと言われているオリエンタルラジオと結構気に入っているタカアンドトシのコントをYouTubeでまとめて観た。どちらが面白いかと言われれば、タカアンドトシの圧勝。オリラジは凄く練習しているんだと思うが、ネタ的には小粒感を抱く。あと、以前の動画もあり、森高千里が17才を歌っている画像を見た。僕的には完全に懐かしさのツボだった。

 

Gilasole:journal

次の車を購入するのはやや時期尚早だが、この車がいいのではないかと思っている。イタリアのエコ・カーGilasoleだ。この名前、フォルムもまたいい。Gilasole、イタリア語で太陽。沖縄にピッタリではないか。詳細はこちら
 先日ガス欠で立ち往生したからではないが、ガソリン代がかからないというのはいい(ちなみに環境にやさしいからでという動機は僕は持ち合わせていない。環境を最優先するなら車には乗れないからである)。僕の場合、通勤がメイン(片道20分程度)だし、それほど遠出するわけではない。気になるお値段だが、Girasoleの場合、
77万円の補助金交付が得られるので、実質的には183万円程度。燃費に関して言うなら、空の状態から満充電するには30kWh程度の電力が必要で、夜間充電するなら約330円、昼間充電するなら約750円で200kmを走行することができる(理論上は。実際はクーラーなどでも消費されるだろう)。
 ガソリン車と比較しよう。リッターあたりの走行距離が10km
/1Lで、ガソリン代リッター120円/1Lとする。200kmの走行には2400円かかることを考えると、ずっとお得である。
 しかし、問題は故障したときの対応。また沖縄のように塩害が叫ばれる地域ではどうなのだろう。電池の劣化も心配だし、車の耐用年数はどれだけなのだろう?税金は安いが車検のメンテナンスにはいくらかかるのか・・・不透明な点が多いのでこの辺はリスクではある。

 

machine à accoucher:journal

今朝の新聞を読むと、現厚生大臣が女性を喩えて「産む機械」と表したと報道されていた。一般的にこうした発言が真意を伝えているかということは文脈をよくみなければならないが、これに関して言えば釈明の余地はないだろう。
 こうした発言がなされた状況を想像してみる。場所は地方都市・松江。自民党の決起大会。雰囲気を想像するに地方の利権獲得に血道をあげる高齢のオジサンたちばかりがいる状況を想像してしまう。ここでは出産年齢にある女性は視野に入らない。また視野に入ったとしても会場の職員さんとかぐらいか。政治家が「失言」をするのはだいたいこうした地方の講演会が多いような気がする。「先生」、「先生」(何の先生?)と持ち上げられ、多様性を感じられない場所で本音が出る。この場合、あまりにも程度が低すぎる。しかも厚生大臣であるところに、この国の悲惨がある。
 昨日「移動するための機械」に乗り、帰途に就く途中、その機械がぷすぷす鳴った後、動きを止めた。原因はガス欠。夜の雨の中、横断歩道直前の三叉路で立ち往生してしまった。僕の車をめんどくさそうによけていく後続車を眺めて3分ほど途方に暮れてからタクシーでガソリンスタンドへ向かった。タクシー代450円、出張費1050円(最近はポリタンクを借りて自分で給油させてくれない)とガソリン代を支払い、給油した。給油すると何もなかったように機嫌を直してくれた。
 機械は単純である。給油すればいいのだから。人間も機械のようだったらいいのにと頭をよぎることもあるが、自分自身が機械のようにガソリンを与えればなおると思われては困る。残念ながら、大臣が期待するようには動かないよ。

27 janvier 2007 

sous-titre:journal

僕はそれほど英語ができる訳ではないが、アメリカ映画を観ていると「この字幕はあのババアだな」と、ある翻訳者の顔が浮かぶ時がある。たまたまテレビで放映していた『ブリジット・ジョーンズの日記』を何気なくみているときにも「またか」という思いであった。'Bridget Jones, already a legend.'という台詞を、「ブリジット、君はスターだ」と訳していた。直訳しても十分に意味が伝わり、しかもよりセンスが感じられるのにどうしてダサイ訳をわざわざ付けるのだろう。彼女の訳はあまりにも表現がかけ離れた「超訳」に近いので、原語の発音と字幕がシンクロしないので、ストレスがたまる。
 僕の単なる印象なのだが、フランス映画の日本語字幕は比較的原語に忠実に訳されているように感じられる。中国語の字幕は時に翻訳が英語経由だったりすることもあり、そのためか作品によって原文の忠実度にばらつきがあるように感じられる。しかし、あのオバサンの訳した日本語ほどかけ離れた印象はない。この違いの一因は、翻訳者の翻訳に対する考え方にあるのだろう。つまり、英語のオバサンの場合、原文の趣を伝えることより、自らの日本語世界を構築する方に心血が注がれているように思う。つまり、原文を全くrespectしていないのだ。彼女はフランス語の字幕作成者がフランス語を愛するように、英語を愛していないのではないかとさえ思う。もちろん、字幕という制約があることも承知している。しかし、上記の例のように、制約だけが理由では決してないと他の言語の字幕を比較して思う。

15 janvier 2007 

空中庭園:films

豊田利晃監督の『空中庭園』を観た。
郊外のニュータウン。両親と一男一女の家族。京橋家のルールは秘密をつくらないこと。しかし、実際は、夫は浮気をし、娘も息子も学校をサボり、母・絵里子の実母との間に確執がある。しかし、絵里子はそうした家族が偽りと気付きつつも彼女の理想とする家族を作ろうとする…。
 「嘘のない家庭」の家族による嘘まみれの日常を描いた作品。「家族の崩壊と再生」がメインのテーマだと思われるが、一方のテーマは「絵里子の思いこみと現実」も挙げられよう。絵里子がtraumaとして抱える家族の記憶は本当にそんなに悲惨なものだったのだろうかということが、観ていると揺らいでくる。
 だが人は自分が愛されている、あるいは愛されていたかをどのように判断するのだろう?絵里子は断片的なエピソードの記憶から愛されていないと心に銘記しているが、第三者からは必ずしもそうではないという印象を持たれている。絵里子が思いこんでいたものが、つまり彼女の記憶がそんなにも信頼の置けないものであるなら、一体、私たちは何をもって体験したことを心に刻んでいけばいいのだろう?
 最近はこうした記憶にまつわるテーマを題材にした作品が多いように感じる。そこで扱われる記憶はしばしば「自分を裏切る」記憶、記憶とは曖昧なものだというメッセージである。人はしばしば自分が信じたいと思っていることを信じ、そうあってほしいと願うほうに意識が向きがちである。これは過去の「記憶」についても同様である。絵里子は本当に母に嫌われ、疎まれていたのだろうか?それは兄の「証言」によってあっさり否定され、その確信めいた記憶は揺らぐ。また絵里子が夫から愛されていなかったか、ということについてもバスのなかでの夫の言葉によって、観客にはその思いこみが一面的であることを知らされる。
 えげつなさを求めすぎた劇中の崩壊家族は逆にリアルさを失っている。団地の家を子宮にみたて、絵里子を赤児と見立てれば、それが彼女が再び「泣きながら、それも血だらけで生まれる」ことの比喩になっていることが判るが、
やや過剰な演出だ。そしてラストは純白のイメージで家族の再生を高らかに宣言する。やや唐突な、ある意味で予定調和的なラストだったと思う。一般的には救いのあるラストということになるのだろうが、理想的な家族の幻想に取り憑かれていた絵里子が再び「家族」のなかへと囲われてしまうのではないかと危惧したのは僕だけだろうか。
 家族の再生というテーマで言えば、ひょっとすると先日観たSpielberg監督の『宇宙戦争』もその範疇に入るであろう。この映画、ナンセンス・アクションとでも名付ければいいのだろうか。ともかく宇宙から野蛮な侵略者でもこなければ、家族再生の契機にならないのであれば、その可能性は絶望的な数字になろう(笑) 家族とは難しいものである。

14 janvier 2007 

Camus ? connais pas:films

柳町光男監督の『カミュなんて知らない』を観た。
予告編を劇場で観ていたので、スピーディな展開のサスペンス的な作品かと思っていたら、なんだかゆるいようなイマイチ緊張感が欠けている作品だった。強いて言うならこの映画、巨匠監督へのオマージュをコラージュにした作品だろうか。あるいはパロディをモザイクにしたような作品だろうか。いずれにせよ、こうした試みがこの作品を引き立たせているとは言い難い。登場人物の行動などは、ロバート・アルトマン監督の『ザ・プレイヤー』、フランソワ・トリュフォー『アデルの恋の物語』、ルキノ・ビスコンティの『ベニスに死す』などのキャラクターをパロっているので、これが判る人は悦にいることができると思うが、典拠を知らずにこの映画を観た人はどのようにこの映画を観るのだろう。また彼らの特徴も取り入れて、長回しが多用されている。これは臨場感や緊張感を持続する効果が期待されるが、この映画では逆に締まりのない印象を与えている。ある意味でこうした学生たちの生ぬるい感じは何となく時代の空気を感じさせるものの、最後の撮影と実際の映像が重なるシーン以外は特筆すべき点はないように思えた。いかにも大学らしい部活動を活発にやっているような雰囲気をつくろうとあちこちに練習に励む学生のカットを入れるが、逆に不自然な印象を受けてしまうし、学生たちの台詞もあまりリアルさを感じがしなかった。全体的にずっと下手な芝居を見せられている気分になり、「殺人の衝動と倫理」や「不条理殺人」に深い内省を促すようなデキでになっていなかったように思う。

13 janvier 2007 

INSIDE MAN:films

Spike Lee監督のINSIDE MANを観た。
4人の銀行強盗グループが、白昼のマンハッタン信託銀行に押し入る。グループは自分たちと同じ服装を人質に着せ、銀行に立てこもる。NY市警のフレイジャーは事件の解決すべく、犯人たちと交渉するが、なかなか埒が明かない。一方で銀行会長は女性弁護士を事件現場に遣わし、独自にフレイジャーたちに接触するが・・・。
 ハリウッドの銀行強盗モノだし、ありきたりのテイストを予想していたが、いい意味で裏切られた。逆にこの映画で典型的な犯罪ものを期待した向きは少々物足りない思いをしたかもしれない。僕は安易でありがちなカタルシスを演出するものよりは、観客に歴史的な経緯や犯人グループの思いなどを想像させ、かつ社会のありようを切り取ってみせるこうした手法の方が断然すぐれていると思う。ナチスの戦争犯罪やそれに荷担して財をなした人々がいるということ、また現在の戦争でもこれと同じことが繰り返されていることに敏感な人々にとっては数少ない説明でも多くの事柄が伝わるのだろう。
 殺されたユダヤ人の多くの財産は、ナチスだけでなくユダヤ人が住んでいた地域の「一般市民」もゆきわたった。Gerard Jugnot監督の『バティニョールおじさん』でも、医師だったユダヤ人一家が連行された後に、密告をした一家が何の良心の呵責もなくそのアパートに移り住むというシーンがあった。規模の大小はあるものの、こうしたことはフランスだけでなく、ポーランド、イタリア、ヨーロッパ全域でおこっている。また『ザ・コーポレーション』ではユダヤ人強制収容所の捕虜管理のためにIBMがパンチカードを作ることで協力し、これにより企業業績を上げたことや、コカ・コーラ社がナチスのためにファンタオレンジを開発したことなどが暴露されていた。こうした過去の過ちが現在も道義的な問題として残っているが、銀行強盗を扱ったサスペンスでこのテーマが扱われるとは驚きであった。またNYを舞台にしていることもあり、エスニシティの描き方も監督の視点がふんだんに盛り込まれていてこうした点でも楽しめた作品。

12 janvier 2007 

NURSE BETTY:films

Neil LaBute監督の"NURSE BETTY"を観た。
 街の人気者のベティはソープドラマの主人公の大ファン。しかし、現実の生活は不遇で浮気をする夫はベティの誕生日さえも忘れている。ある日、ベティは夫が自宅で殺されるのを目撃してしまう。そのため彼女はショック状態に陥り、その影響でドラマの世界に逃避してしまう(映画ではPTSDのショック状態と言っていた?)。そして、ドラマの主人公に会うためにテキサスに向かい、ついに憧れの主人公と出会うことになるが・・・。
 整理して考えると荒唐無稽なストーリーだが、伏線が張り巡らされており、シナリオがよく練られている。またアメリカの作品には珍しく、テキサスの多言語状態にも十分に配慮しており、ヒスパニック系同士の会話はきちんとスペイン語を使っていたし、こうした点は非常に好感がもてる作品であった。Renée Zellwegerはこうしたロマンティック・コメディの主役をやらせたらピカイチである。夢見がちな女性をうまく演じていた。邦題は『ベティ・サイズモア』

11 janvier 2007 

AMERICAN SPLENDOR:films

Shari Springer Berman・Robert Pulcini監督のAMERICAN SPLENDORを観た。
 オハイオ州クリーブランドの病院で書類整理係として働くハービー・ピーカー冴えない日々を送っている。そんな彼がある日、
友人に作画を頼み、自分の日常をコミックにした”AMERICAN SPLENDOR”を刊行し、評判を得るが・・・。
 この原作は読んだことはなかったが、劇中に挿入されるカットを観ているとナンセンスな部類に入るのだろう。最近はあまり読まなくなったが昔からナンセンスなマンガが好きだ。以前はよく『じみへん』などを読んでいた。虚を突く発想に苦笑することも多かった。この映画はハービー・パーカーという役柄を、マンガ”AMERICAN SPLENDOR”のバーチャルな主人公、俳優が演じる再現された主人公と本人のインタビュー(?)という3者が演じている。また、マンガに出てくる変わったキャラクターも本人が出ていたりするので、演技が決して誇張でないことに笑ってしまう。
 映画の冒頭で仮装した子供たちが家々を回ってお菓子をもらうシーンがある。他の子供はスーパーマンの衣装を付けているのに、普通の恰好をして「自分はハービー・パーカー」と言う男の子は、家のオバサンにそんなの知らない、と言われてしまう。子供には夢を、男はヒーローに、という社会の願望が見え隠れしている。ハービー・パーカーのマンガもこの映画と同様、一貫して冴えない男を描くが、夢がなくても、栄光が待ってなくても、英雄にならなくても、超リッチにならなくてもいいじゃないかと思う。先日、「お兄ちゃんには夢がない」となじられた男が妹を惨殺した事件があったが、理由はこの言葉だけではないにしろ、夢ごときにプレッシャーを感じる必要はない、と思う。
また、この作品は背景に流れるジャズの選曲がセンスがいい。まあそれも主人公がジャズ・レコードのマニアだった訳だから、選曲には十分にコダワリをもっていたことが想像される。

10 janvier 2007 

花よりもなほ:films

是枝裕和監督の『花よりもなほ』を観た。
殺されてしまった父の無念を晴らすため、敵討ちを探しに江戸へ上京してきた若い侍、青木宗左衛門。しかし、彼の腕前はからっきしダメ。仇討ちの機会をうかがいながら汚い長屋で暮らす歳月の中で、仇討ちそのものの意味を問い直してゆく。
 時代劇というジャンルはあまり好きなではないので、期待していなかったが、すごくいい作品だと思った。この作品を観る前はV6の岡田が出ているぐらいしか知らなかったが(彼はこの作品で単なるアイドルから脱皮した)、観てみたら凄い、凄い。個性的で、豪華で、実力のある役者が勢揃いであった。なかでも浅野忠信はやはり存在感が違う。近頃、映画によく出演しているキム兄や古田新太はいい味を出していたし、宮沢りえ、加瀬亮、夏川結衣のキャラクターも際だっていた。しかし、現代語風の台詞回しが随所にみられるところが、興ざめするところであったが・・・。
 最初は是枝が何故時代劇を?と疑問に思っていたが、この映画をみるとこうした時代を選ぶことの必然性や是枝の問題意識というのがはっきりと伝わってきた。今もなお世界的に巻き起こっている怨念や報復の連鎖をどう食い止めるのか?日本という舞台でこうした問題意識を表出するにはどうすればいいのか?仇討ちが半ば社会のシステムに組み込まれている時代でなければ、日本でのリアリティを獲得できないと監督が感じたからこそ、この時代を選んだのではなかろうか。流石、是枝!と快哉を叫びたい気分であった。
 さて、話題の『武士の一分』はどうなのだろう?やっぱり「男」のプライドに拘るのだろうか?

08 janvier 2007 

FEVER PITCH:films

David EVANS監督の"FEVER PITCH"(邦題『僕のプレミアライフ』)を観た。
この作品を観て、そっくりだと思った作品があった。その作品も題名が"FEVER PITCH"(『2番目のキス』)。今回観たのは先に映画化されたイギリス版で、原作により忠実に描かれている。アメリカ版はサッカーがベースボールに置き換わり、Premiere leagueのArsenalはアメリカのmajor leagueのBoston Red Soxになっていた。両者の共通点はチームカラーがレッドで、名門で強いのだが、最強ではなく、強豪チームの後塵を拝してばかりというポジションである。イギリス版とアメリカ版では多くの点が異なっていたが、最大の相違点はアメリカ版の主人公が彼女のためにチームのファンであることをやめようとする点。イギリス版はそういうことはしない、彼女よりもずっと長い関係であるチームを選ぶ。結果的に女性が妥協して円満になるが、この差は極めて大きい。僕の好みとしては、
イギリス版の方がずっと味がある。アメリカ版の方がより作り物的な演出が多い。
 イギリス版で印象深いシーンは、PKを外して落ち込む生徒が明日のArsenalの勝利を信じて気持ちを切り替えるシーン。「失敗してもArsenalがある!」仕事で落ち込んでも趣味や他の楽しみがあれば、人生は悪くないと思える。こうしたさりげない演出があるのも、イギリス版の方がずっと上だと思う理由である。両方ご覧になった方は大同小異じゃないかと思うかも知れない。むしろイギリス版の方が安上がりで豪華さに欠けるという声もあろう。そうともいえるが、アンチ・ハリウッドの私からすればどうしても判官贔屓になってしまうんだな。
 『僕のプレミアライフ』を観るにあたって、同じ原作者の『ハイ・フィデリティ』も観た。イギリスと日本は地域的には随分と隔絶しているが、30代の中途半端さやマニアックな趣味の方向性にかけては強い共感をおぼえる。さらに『アバウト・ア・ボーイ』を観ると、やはりその共感はある種の同一性に基づいていることを確信する。イギリスを舞台に30代の男性を描く時、結婚して、子供がいて、バリバリ仕事をしている男性はなかなか想像しにくい。この三本の主人公の同一性はイギリスの一つの典型的な姿がなのだろうか。そう言えばフランス映画『ロシアン・ドールズ』の主人公も精神的にも社会的には中途半端だったな・・・。大きな夢をもつわけでもなく、結婚などの社会的な安定を求めるでもなく、日々をそれなりに悩み、それなりに楽しくやっている。それでいいじゃないか、と僕は思う。

07 janvier 2007 

CINEMANIA:films

Stephen Kijak監督のCinemaniaを観た。
NY在住の映画マニアの生態を追ったドキュメンタリーだが、いやはや彼らは常軌を逸している。映画ファンを自認する僕であるが彼らには敵わない。観ている本数もさることながら、フィルムのコンディションや映写技師の技術なども勘案しながら作品を選ぶというのだから凄い。NYのロードショーの価格は日本よりもずっと安いとはいえ、一日に最低2,3本観ていればお金が続かないだろうと思っていたが、果たして彼らの殆どは美術館やホールの無料かそれに近い作品を観ているようだった。また、劇場の会員になっているようでそれでかなり安く観られるようだ。
 これはパリも同じだが、安く観られるという点ではパリの方が上を行っているかもしれない。一ヶ月で2500円程度の会費で無制限に映画が観られるし、UGCとGaumontの二つの系列合わせて5000円も払えば一ヶ月に見切れないほどの作品が観られる。さらにビデオテックなどにも加入すれば一日何時間あっても足りないだろう。こういった点ではやはりNYとParisが世界で群を抜いている。こうしたマニアが出てくるのも環境があるが故である。
 現代的な物言いをするなら彼らは映画依存症である。確かに彼らが劇場に足を運ぶ姿は強迫観念に近く、周囲からは異常視されている。彼らも意に介しているうだが、やめられないようだ。なかには上映中にトイレに立つことがないように食物繊維を敢えて摂らない人もいたり、劇場から入場差し止めを喰らう女性もいた。
しかしなかには「フランス映画は全部ダメという」御人もいた。この辺は嗜好の問題なので多くは語らないが、この方に関してはただ多くの作品をみているだけだという印象をもつ。やや残念なのは彼らが思い入れをもっている作品に関するコメントが殆どなかったことである。
 マニアは凄いと思ったのはスカパー!でやっていた企画もののクイズ番組カルチョQ。チャンピオンズリーグの知識を問うものだが、え?そんなことまで?と思うほどのマニアックな問題にも解答していた。「CLのPK戦で当時AC Milanのトマソンが蹴ろうとした直前にゴール裏に何が起こったか?」答えは、救急車が通ったのだが、こんな問題まであっさり解答されていた。このクイズ番組の告知があったときに少しだけでもエントリーしようかなと思った自分が恥ずかしい。
 今日からやはりスカパー!でアメリカのAMAZING RACEという番組が始まる。2人1組のペアがそれぞれの難関をくぐりぬけてアメリカから目的地まで行く素人参加番組だが、過去にこのテの番組にはまったことがあるので、今回も同様になりそうな予感がする。以前ハマッたのはサバイバーという番組だったが、日本版はあまり長続きしなかった。仲間を蹴落としていくというゲームスタイルが馴染まなかったこともあるだろうが、結構僕的には楽しめた。現実の話ではなく、単なるゲームだからである。

05 janvier 2007 

Crimson Gold:films

Jafar PANAHI監督の"TALAYE SORGH"を観た。
どこにでもいるようなピザの配達員フセインが宝石商に強盗に押し入り、店主を殺害して自害に至るまでを淡々と、リアリスティックに描いた作品。
 フセインはもとから性格が凶暴だとか、悪事をはたらいていたわけではない。日常をみているとむしろど彼は無口でおとなしい方である。仕事ぶりも悪いという訳ではなく、職場の人々だけでなく、社長からさえも好かれている。そして、親友の妹との結婚も間近に控えている。本当はとても幸せなはずなのに彼の表情には笑顔は殆どみられない。喫茶店でお茶を飲んでいれば泥棒家業と間違われるし、高級宝石店では入店さえも拒絶されてしまう。次に正装をして同じ店に入るがやはり慇懃にもっと安いバザールで買うようにと追い出されてしまう。フセインは外見だけ取り繕っても越えられない障壁が存在していることを肌身で感じるのだ。また、ビルの4Fにあるピザを届けに行くだけなのに、逮捕の妨害になるからと軍や警察から逆に仕事の妨害をされてしまう。どちらも同じ「職業」なのに軍や警察の仕事が自分たちの仕事より優先されてしまう。ここでも自分が劣位にいることを否応なく思い知らされる。やがて周囲から泥棒か強盗のように思われていくうちに実際に強盗をはたらくようになってしまう。
 この映画で見逃してはならないのは、フセインの経歴であろう。劇中でさりげなく言及されるが、フセインが重度の閉所恐怖症であること、治療薬の影響で以前とは見違えるほどに太ってしまったこと、通信兵として戦争に従軍していたこと・・・彼には常に戦争の影が付きまとっている(時代的にはイラン・イラク戦争か)。そして、そうした彼の境遇や苦労とは全く無縁で、仕事もしてない男がフセインがどうあがいても手に入れることができない贅沢な暮らしを享受している(プール付の桁外れに豪奢なアパートが凄い)。フセインはピザの配達という仕事を通して、こうした圧倒的格差の上位にいる者たちの生活ぶりに接してしまうことになる。イラン社会の圧倒的な経済格差と社会格差がフセインを犯罪へと囲い込んでいってしまうのだ。
 昔から貧富の格差は確かに存在した。しかし、今の世界の趨勢としてはその格差をなるべくフラットにして、底上げをしていこうという方向へは向かっていない。権力や経済のヒエラルヒーのトップにいる者たちが自らの利権をさらに拡大し、強固なものにしていこうとしているのが現状である。これが日本やアメリカだけの傾向ではないことに愕然とする。脚本はAbbas Kiarostami。邦題はクリムゾン・ゴールド。

04 janvier 2007 

EDGES OF THE LORD:films

Yurek Bogayevicz監督の"EDGES OF THE LORD"を観た。
1942年秋。ポーランドのクラクフ。11歳のユダヤ人少年ロメックがナチスの手から逃れるためにポーランドの農村に一人かくまわれる。ロメックは最初は家の息子二人とうまくいかないが次第に関係を築いていく。ある日、一家の父親が豚を売りに行った時に殺されてしまう。父の息子の一人・トロは父親の死後、父の復活を願って自らキリストとして振る舞うようになり、子供たちもキリストごっこをするようになる・・・。
 ポーランドが舞台の物語だが、ポーランド語は一語たりとも使われず、全編英語である。最初、どうしてハリウッドがポーランドのユダヤ人少年を主人公にして物語を作ったのか疑問に思いながら観ていたが、最後にその製作意図が理解できたような気がした。もしかしてアメリカの製作会社はこの物語を通して
キリスト教至上主義を宣伝したかったのではなかろうか?キリストと同一化した男の子がユダヤ人の男の子の身代わりになり、つまりユダヤ人の受難を引き受けるがごとく収容所行きの列車に乗る。そしてユダヤ人のロメックは最後に敬虔な面持ちで聖体受領の儀式に参加する。考えてみればユダヤ人も多く、カトリック教徒が圧倒的な多数を占める宗教国家・アメリカでは好まれやすいストーリー構成になっている。物語自体は子供の世界を描き、感動的な演出をしているが、一方でアメリカの映画製作会社は他国の戦争の不幸でも何でも金儲けの道具にしてしまうといった気持ちがぬぐえない。ポーランド人、あるいはアメリカに在住していないユダヤ人ならこの映画をどう観るのだろう。性質は異なるが日本や中国の観客が『SAYURI』を観たのと同じような違和感を抱いたのではないだろうか。
 主演のOsment君はあの年齢で既に名優である。難しい役所を見事に演じていた。その他の子供たちも熱演していた。その点は評価したい。

 と ころで、映画の冒頭のシーンはポーランドのクラクフ。ロメックの父親は「教授」と言われていたのでヤギェウォ大学の教授なのだろう。ヤギェウォ大学はコペ ルニクスやヨハネ・パウロ二世の出身大学である。この点にあえて言及するのは以前、この大学所蔵の資料を使わせてもらった縁があるからである。今夏、この 大学を訪れることになるが、歴史の長いキャンパスを歩く日が楽しみである。
。原題は「神の端しっこ」(聖体受領のパンをくりぬいた時にできる余りの部分が題名のもとになっているのだろう。ラストの聖体受領のシーンでも実際にロメックは端っこを与えられた)。邦題は『ぼくの神さま』

03 janvier 2007 

Schultze gets the Blues:films

Michael Schorr監督の"Schultze gets the Blues"を観た。
旧東独の鉱山で働いてきたシュルツェは定年を迎え、無為に過ごしていた。若者からは「ああはなりたくない」などとささやかれる。一人暮らしの彼の唯一の趣味は、アコーディオン演奏。普段はポルカを演奏していたが、ある夜、ラジオで聴いたブルースの旋律が頭から離れなくなってしまった・・・。
 シュルツェがラジオで耳にしたメロディはザイデコと呼ばれるルイジアナ州南部の音楽。これがなかなかノリがいい。しかし、彼が街の人々の前でそれを演奏した時は、黒人音楽だ!と罵声が飛ぶ。そうした保守的な土地柄で肩身の狭い想いをしてしまう。
 この映画、主人公のシュルツェがとにかくコミカルでかわいい。コロンとした体型は観ているだけで癒し系の雰囲気を醸し出す。シュルツェがアメリカに行っても結構、珍道中で、殆ど英語が話せない彼は帽子を持ち上げて「シュルツェです」としか言えない。しかし、偶然に出会った人々に助けられ、これがほんわかした気持ちにさせてくれる。
 老後の人生をどのように生きるべきか。「老後」として想定された時間が長くなってしまった今日では深刻な問題である。特に「幸せ」に対するイメージが極めて貧困になりつつある現在、問題の深刻さの度合いはより深まっていると言えよう。この映画を観る限り、老後は退屈と社会の冷たい視線と健康不安との戦いである。さらに付け加えるなら孤独感もあろうか。翻れば労働というのは生活の維持だけではなく、精神の安定や日々の充実感の基礎となっていることが分かる。ほのぼのとしたいい映画だが、日本では劇場未公開なのが惜しまれる。邦題は『シュルツェ、ブルースへの旅立ち』

02 janvier 2007 

Tournesol:films

張揚監督の《向日葵》を観た。
1976年の北京。胡同(モンゴル語語源、沖縄方言ではスジグヮーか)の四合院に住む母子のもとに下放されていた父が帰ってくる。かつて画家を目指した父は息子にその夢を託すが、息子は突然現れた「父親」になじめない・・・。
 この映画に登場する息子は年齢的には1970年前後の生まれだろうか。そうなると物心がついた時には
文化大革命を経験していないし、それが中国社会を未曾有の混乱に陥れ、人心を荒廃させたことなどは関知することはないのだろう。学者、作家、医者などの「知識人」だけでなく、芸能関係者や芸術家の被害者も数多い。父親がその被害者の一人であったことを理解するのは、子供心には難しかったであろうと思われる。こうした時代的な背景を知らずにみると、父親の息子への粘着的な愛情が常軌を逸しているようにみえるであろう。過度に教育熱心な親は自らの夢や欠落感を埋め合わせるために子供への過干渉(これも依存の一種)の度を強める。こうした姿はある意味で現在の中国でも、日本でもよくみられる状況なのではないかと思われるのだが、この映画では社会的な要因がより強調されている。
 この映画を通して、中国社会の移り変わりや若者の意識の変化などもよく分かる。『玲玲の電影日記』や『ジャスミンの花開く』などの作品では過去を美化して扱いたい気分を感じる(時代考証がひどい)が、それらと本作が決定的に異なるのは、過去をリアルに描こうとする姿勢である。負の歴史にも真摯に向き合う姿勢がこの映画では感じられる。また再開発のなかでの中国の住宅問題なども描かれているが、どこの国でも古い街並みが失われていくのはやはり哀しい。年始に録画しておいた紀行もので海外(特にヨーロッパ)の街並みをみているといっそうその思いを強くする。89年に北京の瑠璃廠に行ったときに附近の胡同に紛れ込んでしまったことがあった。そこで迷ってしまい、不安な思いをしたことがある。土壁に囲まれた迷路のようなイメージが残っているが、今ではそうした家屋も再開発で少なくなってしまったのだろう。伝統を潰してお金に換える行為を日本もやってきたが、世界中でこうしたことが行われるのはやはり残念である。
 それはともかくストーリーでやや不自然に思った部分もある。それはあれほど反発した息子がその後、絵を続けていたことである。絵画に対する情熱が息子には全く感じられなかったのに、展覧会で家族の肖像をモチーフにした絵を発表し、それが評価されるのはやや唐突な感じもしないではない。また、絵の手ほどきは音楽や勉強とは決定的に方法が違うので、父親のレッスンが息子に大きな影響を与えたとはあまり思えない点も違和感を感じた。ストーリーの根幹に関わるのでこの点に関してはもう少し丁寧に描いてもよかったかもしれない。
 観ていて懸念したのは、こうした題材は中国の多くの親を勇気づけたのかも知れないということ。中国の教育熱というのは今や壮絶を極めていると聞いているので、スパルタ系の親のもとで結果的に息子が成功したお話は、親に大きな自己肯定感と自信をもたらしたかも知れない。これは『北京ヴァイオリン』も同様であるが、もしそうした副次的な効果があったのであるなら、残念なことである。なぜなら監督の主張としてはやはり自分の人生を生きることを逆説的に描きたかったと思われるからである。
ラスト附近のカットで思い思いの趣味に興じる老人たちの姿が収められているのはその証左である。邦題は『胡同のひまわり』

01 janvier 2007 

Kukushka:films

Александр Рогожин監督のКукушкаを観た。
第2次大戦末期のフィンランド北部・ラップランド。フィンランド軍はかつて奪われた土地を奪還するためドイツ軍と同盟を組み敵対するフィンランド兵とロシア兵が、先住民族の女性アンニに助けられる。3人は言葉が全く通じない。フィンランド兵はドイツ軍の軍服を着せられて戦場に置き去りにされたため、ロシア兵は彼をナチスだとずっと思いこんでいる。アンニは5年前に戦場に出て行った夫を待ちながら自給自足の生活をしているが、この生活に二人が加わったことで微妙な三角関係が生じてしまう。次第に人間的な交流をしていく・・・。
 戦争を背景にした一つの寓話。三人はお互いに言葉が通じないのに自然に相手に語りかける。彼らのディスコミニュケーションは映画を観ている者だけがわかる。「神の視点」ということではなく、まさにカメラの視点といえよう。この視点がある時は笑いを誘い、ある時は登場人物たちの不幸を招いてしまう。
 劇中に「世界は完全ではないが、人生はまんざらでもない」という台詞がある。どこかで耳にしたような文句だが、今でもこの力強さは失われていない。この台詞で思い出したのは、「美しい国」と愛国精神を結びつける動きに対する誰かのコメント。自分の母親を愛するのに美しいかどうかが関係がないように、自分の国が美しいなら愛すると考えるのは大きな勘違いだという主旨だったように思う。「美しい国」を偽装するために過去の過ちを覆い隠すという態度は逆に摩擦を増やすだけである。
 我々が外国のことを知り、そこに住む友人を作るということは、それだけで大きな平和に貢献している。そうすることで相手への理解や親和性が高まり、そのことは戦争などを抑止する効果があるという。この映画は後半の場面で相手への無知や思いこみが大きな失敗と後悔を生むことになる。極めてシンプルな主張だが我々に求められていることは本当はそれほど難しいことではないということを教えてくれる。今年最初の作品がスカだったらヤだなーと思っていたが、そういう思いをしなくてよかった。邦題は『ククーシュカ ラップランドの妖精』。