28 février 2007 

Le film sur jouor japonais:films

 中村雅俊監督のプロパガンダ映画『裁判員制度−もしもあなたが選ばれたら−』を観た。
 この作品、俳優の中村雅俊が監督・出演している。彼の監督作は初めて観たのだが、いまどき珍しいご都合的な映画だという印象。脚本も「おいおい」とツッコミを入れたくなるような台詞が満載。特に気になったのは、裁判員になることに躊躇する人に対して「逃げるのか?」とか「カッコ悪い」とかやや感情に訴えるような言葉が浴びせかけられること。そして全編を通じて流れる「性善説」とも言うべき、人間への信頼感というか、えらく理想主義的楽観ムード。「誠意は被害者にも伝わる」といった台詞が飛び出すのには驚いた。
 この映画を観て違和感を感じた部分も随分多いのだが、裁判官が西村演じる裁判員と結構長い時間話をしているということ。実際の裁判官はそんな時間はないのではないか?と思えてならなかった。またこの映画では裁判員が判決を下す事件が一種の再現映像で示されていた。しかし、普通の裁判ではこれらは全て音声や文章で説明される。僕は映画のこの場面だけは目を閉じて、音声だけをたよりに状況を頭の中で再構成したのだが、これが結構、難しかった。全ての裁判員が同じような場面を想定するのは、時間もかかるし、決して容易ではないのではないかと思った。
あと制度導入によって量刑が重くなるという印象をもちにくくするためだろうか、劇中での量刑は軽くなっていた。
 やぱり心配なのは「お礼参り」。映画では「絶対ない」と断言していたが、その論拠に「処罰される決まりがあるから」というのがあった。オイオイ、処罰があるから事件が起こらないのであれば、殆どの事件は起こるはずがないではないか?ヤクザなどの案件は避けるということだが、この辺は「絶対」を信じることのほうが恐ろしい。無防備になる可能性もあるからだ。法廷で思わず吹き出したり、居眠りや欠伸などしたら、きっと反感を買うであろう。一般に自分を裁く人間に好感情など抱きはしない。一体、どこで逆恨みを買うかは分からない。
 最後にふと思った。中村雅俊ではなく、別の監督がこの映画を撮っていたら随分と違ったのではないか?例えば『日本以外全部沈没』の河崎実や『妖怪大戦争』の三池崇、海外ではリュック・ベッソンやジョージ・ルーカスなどアクション系、さらにマイケル・ムーアなどが撮れば、もっと面白かったかも知れない。配役も判事が中村雅俊じゃなく、安岡力也とか六平直政とか竹内力とか哀川翔とか浅野忠信(無表情)・・・・まあ、教育的にはならないかもしれないが(笑)

 

The Departed:films

Martin Scorsese監督のThe Departedを観た。香港映画インファナル・アフェアのリメイク。内容や場面設定などはほぼ同じ。ああ、ここで人が空から降ってくるなーというのも予想できたし、場面場面を先読みしてそれがことごとく当たってしまうので、物語自体の新鮮さは微塵も感じることができなかった。リメイクがオリジナルを越えるのは難しい。マイナーチェンジもあまり成功しているとは言えない。特にマット・デイモンの役所。オリジナルより心理描写が薄い。最後の方でかつてのボスを殺害するが、彼をその行動にかりたてる動機が異なっている。オリジナルはやくざな生活から抜け出し、キャリアを積み上げて「正しい人間」になりたかったというものであったが、ハリウッド版はFBIに自分が売られそうになったことへの報復の意味合いが強調されていた。ハリウッド版はやや説明的で、オリジナルの方が人間性への共感が感じられる。逆にディカプリオの葛藤はオリジナルよりも強調されていた。しかし、警察のボスと潜入捜査官との関係については、オリジナルの方が情感豊かに、親和的に描いている。
 ハリウッド版が優れている点を挙げれば配役だろう。特にジャック・ニコルソン演じるヤクザの親分は貫禄が全然違っていた。
 この作品は2007年のアカデミー賞の作品賞と監督賞を受賞した。これで一番喜んでいるのはオリジナルの制作陣だろう。何せアメリカ最高の栄誉のオリジナル版だし、デキとしてはオリジナルの方がよくできていると自負しているだろうから。不思議なのはアカデミー賞で作品賞を獲るような作品のオリジナルが外国映画賞にノミネートさえされていないこと。恐らくアカデミー賞の審査員たちはオリジナルを観ていなかったのではないか?もし観ていたら、この作品は選ばれなかったであろう。

27 février 2007 

赤ちゃんポスト:journal

 赤ちゃんポスト。色々と問題もあるのかもしれないが(ネーミングは変えた方がいい)、僕は基本的に賛成。「軽はずみに妊娠・出産をして捨ててしまう人が増える」という反対意見に対しては、こう言いたい。そもそも軽はずみに子供を捨てるような親に育てられる子供は幸せだろうか?児童虐待で死に至る事件が後を絶たないが、そんな親の元にいても子供にとってロクなことがない可能性が高い。愛情を持って育てたいという親によって育てられる方が、子供にとっては幸せだと思うが、どうか?首相は「抵抗を感じる」というが、人道的措置ということを一体どう考えているんだろうか?人命がかかっているのだから、「感覚」でコメントしてもらっては困る。個人的に心配なのは戸籍の問題。子供はパスポートの取得などの際に育ての親が実の親ではないことを図らずも知ってしまう可能性がある。この点をどうケアするか。戸籍制度を再考する必要はあるであろう。この点で行政の判断は重要である。

25 février 2007 

The Amazing Race:journal

 日曜夜9時はCSのAXNというチャンネルの番組・アメージング・レースを観ている。2人1組のチームがいわば国を跨いだ障害物レースをしているようなものである。結構、バカバカしいが、楽しい。最初は参加チームが多すぎて個々のキャラクターが分かりにくかったが、最近はだいぶつかめてきた。日本でも同じような企画をすれば参加する人も多いのではないか?だが、彼らは何の仕事をしているんだろう?あれだけ長い間、このゲームに参加しているなんて。毎週1組ずつ脱落していくのだが、僕は何故かこの脱落系の番組にはまってしまう。
 現時点で残っているのはサーファー・チーム、ゲイ夫婦、仲良しピエロ、処女と童貞カップル、婚約中カップルだ。太った普通っぽいカップルは第一回目で早々に脱落した。僕が応援するのはアルとジョンの仲良しピエロ。とても人柄がよく、周りのチームとの摩擦がほとんどない。僕も出たいと思うが、誰と組むかが問題だろう。いがみ合いなどもバッチリカメラに収められるので、微妙なところだ。

 

Les César Académie des Arts et Techniques du Cinema et Festival du Films Français

 2007年のセザール賞のノミネート作が発表されている(こちら)。
このなかで観たことがあるのは、Philippe Lioret監督の"Je vais bien ne t'en fais pas"だけであり、日本にいるとしょうがない部分もあるが一抹の寂しさを感じる。DVDを取り寄せるしかないのか・・・。
 一方で、東京・大阪では今年もフランス映画祭が開催される(こちら)。今年はかなりの秀作揃いという印象。このなかでは『フランドル』(Flandres−これはベルギーだが)、『心配しないで』(Je vais bien ne t'en fais pas)、『石の微笑』(La Demoiselle d'honneur)を観たことがある。オリベイラ監督(ポルトガルの監督だが)の『ベル・トゥジュール』(Belle toujours)は絶対に落としたくない一本である。こうしてみると「フランス語映画祭」の様相である。
 どれか1日、2本みるのであれば、3月16日(金)の六本木ヒルズ上映のラインナップ『心配しないで』と『フランドル』がいい。両方とも非常に評価の高い作品で、確かに素晴らしかった。これは必見。さらにこの映画祭、今年は何とCatherine Deneuveが団長で来る!この映画祭はこれまでビッグネームの女優が団長をつとめるが、これは凄いことだ。彼女は確か真珠のMIKIMOTOのイメージキャラクターもしていたからそういった方面でも姿を現すかも知れない。以前、銀座の山野楽器で待ち合わせをしたことがあるが、その時、通りに彼女の巨大な写真が掲げられていた。当時すでに還暦を超えていたと思うが、化け物のような美しさというのは彼女のことをいうのだろうと思いながら見惚れていた。

 

Fragmente einer Chronologie des Zufalls:films

MIchael Haneke監督の71 Fragmente einer Chronologie des Zufallsを観た。
1993年にウィーンで19歳の学生による拳銃乱射事件が起こる。その事件に何らかの関係のある人々のその事件に到るまでの日常を断片的なシーンを繋げて全体を構成している。ここでも拳銃を乱射して自殺した少年の「動機」というのは曖昧なままである。監督はこの作品でも安直な動機を観客に提示することで、観客を安心させ、思考を停止させることを拒否している。サラエボの惨状とパズルゲームや賭けに興じる学生たちの日常が対比的に挿入されるが、無害に見える学生の日常がちょっとしたことで暴発して最後には惨事にいたる。ちなみにサラエボとウィーンの距離は約500km。日本で言うなら東京から兵庫ぐらいの距離である。
 一方でBucharestから無一文でやってきた少年は小さな盗みを働きながらその日暮らしで糊口を凌いでいる。養子をもらいたいと思っている夫婦も登場する。彼ら自体はおとなしく善良そうな印象なのであるが、子供を救いたいという動機から養子を望んでいるのではなく、自分たちの慰みのために子供を迎えたいと思っているようである。最初に養子にもらおうとしていた少女はきっと傷ついたであろう。
 子供が生まれたばかりの銀行員は妻の不安定な状況に当惑しながら、何とか関係を築こうとしている。この二人のエピソードで印象的なのは、妻が出かける前の夫に向かって挨拶をし、夫が少し遅れて挨拶を返す場面。妻は夫の挨拶に安心したように口元を緩める。このカットのタイミングが絶妙。
 それぞれのエピソードは特に終局に向かってストーリーとしての必然性で組み立てられたものではない。彼らはラストのシーンで何らかの形で関わっているだけである。まさに題名にあるように「偶然の断片」なのである。しかし、監督のメッセージはしっかりと主張されている。
 この映画ではMichael Jacksonの実際の報道が二度も使われている。Michael Jacksonの少年虐待疑惑については大々的に報道するが、紛争を逃れて他国に逃げてきた少年・少女たが紛争地帯に再び強制送還されていることについては大きくは扱われない。このメディアの状況に大きな問題を投げかけている。
 「我々は断片からしか社会を理解することができない」。例えば戦争を描く時、鳥瞰的な神の視点ということがあり得ない。全てを把握し、全てを理解するのはハリウッド映画ぐらいである。現実には我々は少しだけ観ることができる断片からしか、世界や社会を理解できない。それは時に経験ではなく、メディアによって切り取られた情報だったりする。こうした考えてみれば当たり前のことを映像の方法論にとらわれずに示すことができる監督は極めて少ない。そうした意味でHaneke監督は極めて稀有な才能の持ち主であるといえる。邦題は『71 フラグメンツ』。

24 février 2007 

anniversaire de naissance et âge:journal

 知らなかった。法律的には誕生日の前日の午後12時に1歳、年齢が加算されるようだ。4月1日生まれの人が4月2日生まれ以降の人の学年に入るのではなく、その前の学年に入ってしまうこともこれで氷解した。
 出生届に記載する出生日は生まれた日を正確に書く必要はないから、こうしたことを考慮して提出する人もいるという。4月1日で前の学年になってしまうのはお受験などに不利にはたらくということだろう。
子供の成長の幅を考えるとこの一年の違いは確かに大きい。さらにこのことが影響する事柄として、年金の支払いや受給、そして選挙権が挙がっていたが、特に年金に関しては世代の公平性が随分ちがうので、このこと自体はさほど重要ではないかもしれない。ニュースはこちら

 

Bombe à sous-munitions:journal

 クラスター爆弾禁止に向けた条約に日本などの国が宣言に加わらないというニュースに接した。これには強い憤りを感じる。
 このクラスター爆弾は何故非人道的だと
いわれるのか?まず一つに無差別的であること。小爆弾が不発弾(これは意図的だとも言われている)として残り、戦争後も殺傷し続ける可能性があること。小爆弾が地雷の場合もあること。さらにこの爆弾が子供の犠牲者を増やしていること、ヒューズが地雷よりも敏感で処理が難しいこと・・・など枚挙にいとまがない。この爆弾は色々な種類があるようだが、なかには非常にカラフルで、一見、玩具か何かに見まごうように意図的に作られているものもある。そのため子供が興味をそそられてこのカラフルでなモノを手に取った途端、爆発する。
 実は専守防衛をうたう自衛隊もこの爆弾をコンスタントに購入し、2003年の時点で累積で148億もの税金を投入している。現在も税金を投入して購入し続けている。一体、この爆弾をどこで使おうというのだろうか?
 またこの兵器は日本でも造られている。地元石川県の企業・小松製作所だ。ここはYankeesの松井の父親が働いていたところである。Yankeesのスタジアムのライト側にKOMATSUという広告がある。何でアメリカにあの会社が多大な広告料を支払ってまで広告を出しているのか?建設機械製作の大手だからだとあまり深く考えなかったが、爆弾を作っていることを考えれば、何だか勘ぐりたくなる気分である。
 それはともかく、核廃絶を主張する日本が非人道的な兵器を保有し、さらにこの兵器の禁止にNOと言っているのは理解しがたいし、あってはならないことだ。こんなことではどんな交渉も説得力を欠くであろう。こんなものを持っているから、こういうものを使われる可能性も生じるのだ。自分たちに返ってくるである。即刻、禁止条約制定への宣言に加わるべきだ。そして、この会議に参加していないクラスター爆弾を大量に保有するアメリカ・ロシア・中国も参加すべきである。

23 février 2007 

BENNY'S VIDEO:films

Michael Haneke監督のBENNY'S VIDEOを観た。DVDのパッケージには「感情の氷河化」三部作の二作目と書かれてあった。第一作は先に紹介したセブンス・コンチネント。
 家畜の豚を屠殺する映像に魅せられた少年・ベニー。彼はなじみのビデオ店でよくみかける見知らぬ少女を家に誘う。豚を屠殺するビデオを彼女に見せ、その銃を彼女に見せているうちに、なりゆきで彼女を殺してしまうことになる。彼は図らずもその一部始終をビデオに撮影していたのだが、ある晩、そのビデオを部屋で観ている時に両親も殺害の事実を知るとところとなる・・・。
 一家は家の内装や両親の職業から、裕福な階層であることがわかる。両親が息子の殺人を知ったとき、彼らの頭には少女や少女の両親への罪悪感はなく、いかに自分たちがそれを切り抜けるかという冷徹な思考ばかりである。少女をどのように「処理」するのか、残酷さと冷静さが夫婦を支配してしまう。こうした両親を傍目にみながら、母親とエジプトに逃避の旅行に出かける。
 死体を「処理」した父親がBennyに「どうしてあんなことをしたんだ」と聞く。それに対して「どんなものかと思って」という答えをする。このやりとりを新聞記事で読んだことがこの映画の着想になっているようである。ちょうどこれと同じような台詞を日本でも言った少年がいた。Bennyは一貫して自分の感情や自分の考えを言語化することができないでいる。これは自分と世界との関係のリアリティが欠如しているということなのだろうか?
 Bennyはどうして少女を殺してしまったのか。これは本人さえも分からないし、この映画でも安易な答えは用意されず、その問いは我々観る者に突きつけられている。自分もよく、判らない。ただBennyが少女を殺害したのは確かに衝動的で、はずみのようなものであるが、彼に引き金を引かせたのは彼に植え付けられている男性性だったのではないだろうか。少年が少女を殺害する時、女の子に男の子が「弱虫」となじられ、男の子は「弱虫」であることを否定するが如く引き金を引いてしまう。この直前には女の子のが「弱虫」となじられたにもかかわらず、引き金を引かなかったことは、個人差ではなく、一般的に男の子の方がより自らのプライドに固執していることが遠因となっているように思えてならない。統計的に男性の方が自殺の確率が高いこともある種の屈辱からの立ち直りにくさや屈辱を受けたときのダメージの大きさが遠因としてあることと通底しているのではないだろうか。
 全編を通してBGMのようにボスニアの内戦のニュースが流れる。メイン・ストーリーのなかの一つの不幸と、背後に流れる現の不幸。たった一人にさえやってはいけないことを、その何倍、何十倍、何百倍、何千倍という単位で行っているのが戦争である。Bennyが行った殺人と同様、ボスニアの殺戮にもそれぞれ物語があったはずである。我々はBennyがなぜ少女を殺したのかという問いかけと同様の重さで、その他の殺戮を考えているだろうか?Haneke監督は多くのことを、我々に問いかけている。そして、我々は自分自身を試されている。

 

champions league et U-22 :journal

 チャンピオンズリーグとU−22日本代表の試合をここ数日続けてみている。チャンピオンズリーグは現代サッカーの最高峰のチームの対戦ばかりなので観ていて面白いし、激しさと必死さを感じる。ベスト8進出をかけた試合はLiverpoolがBarcelonaのホームで逆転勝利をしたり、ArsenalがPSVに負けたり、Real Madridが勝ったりとやや番狂わせの様相を呈している。こうした緊張感のある、激しい戦いを観た後にU-22日本代表の試合を観たときには随分と落胆した。チャンピオンズリーグ進出するトップレベルのクラブチームと寄せ集めの年代別のチームを比べるのは酷ではあるのだが、U-22に対する率直な感想を述べたい。
・選手相互のコミュニケーションが全くとれていない。選手が声を出し合ってコーチングする、チームメイトを叱咤激励する、味方に指示することもなければ、アイコンタクトも画面上ではみられない。個々の選手が低い位置でドリブルでつっかけてはボールを奪われる場面が目立った。
・技術が低い。チャンピオンズリーグの試合をみていると1プレイのタイミングが早い。判断がはやく、2タッチしても球離れが早いのに対して、U-22は周囲がパスをもらいにいかず、ボールが来るのを待っているからどうしてもパサーの判断が遅くなってしまう。素早い判断を実現化するのは技術である。
・個人技ばっかりである。チームとしての連動性が感じられない。はっきり言って、日本のプレイヤーが個人技で海外のチームと渡り合うのは不可能である。テレビの解説はやたらに日本屈指のドリブラーなどと持ち上げるが、日本以上のレベルの相手には絶対に通用しない。そもそも、世界屈指のドリブラーでも、ドリブルで相手を突破できるのはせいぜい1試合に数回である。それ以外の数十回の試みは失敗に終わる。平山ぐらいの上背の選手などゴロゴロいるから、彼が制空権を取れるのは確実にアジアの下位チームだけであろう。
 日本代表の将来は甚だ暗いとしか言いようがない。先日、蹴球源流のインタビューで岡野元会長が言っていたのは、Jリーグでの練習量が圧倒的に足りないということ。韓国から来た選手は一様に日本のチームは練習内容の薄さや時間の少なさに、日本の練習は楽だと述べているらしい。まあ、ひょっとしたら日本代表のことだけでなく、多くの大学でも学生に課せられる課題が圧倒的に少なく、薄くなっていることと軌を一にしているので、サッカーのクラブだけの話ではないと思うが・・・。

22 février 2007 

Der siebente Kontinent:films

Michael Haneke監督のDer siebente Kontinentを観た。
本当に久しぶりにTSUTAYAに行ったら、何と!新作コーナーにMichael Haneke監督作のタイトルがずらり!どうも監督のDVD-BOX発売に伴い、新たに貸し出されたようだ。そしてとりあえずHaneke監督のデビュー作The Seventh Continentを観た。
 驚くべき傑作であった。彼のスタイルはデビューから基本的に変わっていない。最新作の『隠された記憶』に至るまで、かなり一貫している(『ピアニスト』は趣が違うが)。
 この映画はオーストリアの一家が心中するまでを描く。一家は預金を全て下ろし、自宅で豪華な食事をして、残ったお金は全てトイレに流し、家財道具を一切合切破壊し尽くし、写真も思い出に残る品も全て破棄して心中してしまったというという現実に起こった事件を参考にしたそうである。
 冒頭から一体どんな意味があるのか分からない断片化されたカットが写し出されては消え、現れては消えということが繰り返される。そしてそうした映像に両親への手紙がナレーションによって被せられる。しかし、変哲もない日常の風景が途中から家の全ての物を破壊する映像となり、それが最後まで続いていく。断片をかき集めて垣間見られる一家は特に不自由をしている訳でも、生活に困っていることもない。どこにでもありそうな情景である。しかし、最後にはその一家が心中してしまう。振り返ってそれぞれのシーンを反芻してみると、導入から日常的な異常状態とでもいうべきカットが続く。イランとイラクの戦争やアメリカ軍による爆撃のニュースを耳にしながら、両親は何の心の痛痒も抱かず朝の準備にとりかかる。娘も「目が見えなくても幸せ」という記事を読んで、盲人のふりをしようとしている。ここには「平和」な地域の一種麻痺をした状態が一家を包み込んでいる。唯一、娘がかろうじて世界のありようや生命に対して敏感だったと思うのだが、結局は死を選ばされてしまう。
 題名の「7番目の大陸」というのはもちろん彼ら家族が漠然と想定した空想の産物である。最初はオーストラリア観光の看板広告に使われた写真であったのが、家族の中ではそれが安らかな死後の世界イメージに置き換わっていく。最初の洗車シーンも、最後のテレビの砂嵐のカットも極めて示唆的である。洗車シーンは荒れ狂う世界のただ中にありながらも安全な地帯に身を置き、しかし何もすることができず憂鬱に暮らす一家の状況を示し、テレビの砂嵐は死後の虚無の状態を表現しているように思える。
 一体、なぜ一家は心中(自殺と他殺)したのか?その明確な理由は映画の中では明示されていない。そもそも、どうして自殺をするのかといった理由自体、他人にとっては想像をするしかないもので、他人が容易に関知しうるものではない。
監督はそのことを十分に理解した上で、自殺の理由を安易に散りばめたような説明的な作品作りを拒否している。実際の事件においても、心中した夫婦の父方の両親はその状況から他殺の疑いが全くないにもかかわらず捜査を依頼したそうである。両親でさえ、何故自殺したかということは判らなかったのだろう。
 この作品をカンヌで発表した際に最も批判されたのは「金魚が死ぬ」シーンと「お金をちぎってトイレに流している」シーンだそうである。一家が死んでしまうことよりも、それらのシーンへのクレームが多かったこと自体、経済的に豊かな国に住む我々の感覚がどこか麻痺していることを如実に示している。こうしたことは何もオーストリアに限ったことではなく、「先進国」とよばれるような国々を支配している一般的な状況である。この普遍性がこの作品をワールドクラスのレベルに押し上げている。
 僕にとってもこの作品は極めて恐ろしいものだった。あの一家と自分の生活がだぶるからだ。生活を便利にするモノに囲まれ、倦んだ日常にさいなまれながら見かけは何の不自由のない生活を送っている。毎日、耳や眼から脳に届けられる紛争やテロで多くの人が亡くなるニュースにも慣れっこになってしまっている。これは一家が自殺する3年前の姿と何ら変わりがない。この映画を観た夜、疲れているはずなのに僕はなかなか寝付けなかった。邦題は『セブンス・コンチネント』。

20 février 2007 

privation:journal

 スペインでミスコン優勝者が3歳の子持ちだったが発覚したことでタイトルを剥奪された、というニュースに接した。
 そもそもミスコンの是非はおくとして、なかなか微妙な問題である。コンテストの規定がどうなっているのか不明だし、この記事だけで全ては判らないが、少なくとも夫がいたとは書いていない。子供がいたとしても未婚であるなら、ミス・コンテストという看板にたがうことはないはずだ。たかがコンテストと言うなかれ。当の本人にとっては職探しで大いに役に立つだろうし、人生を左右されるかもしれない。子供がいるならなおさらである。
 僕が引っかかったのは、この女性がブスティーリョという名前であること。名前の頭に「ブス」がついている。

18 février 2007 

Superbe! iPod:journal

 今日、食事の後に電池を買いに電気店に寄った。うちのガスコンロはタイマーなどの機能がついているので、電池を必要とする。しかも単1という昨今はあまり使わない電池だったので買い置きがなかった。
 店内に入るとなぜかiPodを車で使えないかと思い立ち、引き寄せられるようにiPodのコーナーへ。それで色々とみてみると、iPodをテレビやアンプに繋ぐツールを発見。iPodに入れた動画つきのpodcastを大きな画面で観られないかと思い、買ってみた。値段も1300円程度というのもあったし、ネットで買った曲をまともなスピーカーで聴きたいという気持ちもあった。
 やや接続には難儀をしたが、結果的には1300円以上の収穫であった。iPodでしか聴いていなかった曲はアンプとスピーカーを通すことで低音がグッと生きてきた(もちろん音質は光ケーブルを通したCDからの音の方がずっと上)。そして写真はスライド写真を流すように画面に表示された。画質は想像よりも悪くなく、大きな画面で昔みた景色が生き返るようだった。そして、iPodの機能によりiPodのなかから好きな音楽も付けられ、ちょっとした旅行の回想をするのにはピッタリだと思った。
 そして、何と言ってもpodcastに入れた動画付の映像が大画面で観られることを確認できたのは嬉しかった。特に僕はフランス映画の予告編をよくpodcastで観るので、これが大画面になと印象は随分と違う。iPod、なかなかのスグレモノである。
 あとで気が付いたのだが、肝心の電池を買うのをすっかり忘れてしまっていた。おかげでガスコンロは今も使えない。

 

Hoshino, l'entraîneur de l'equipe du Japon:journal

星野仙一日本代表監督を観た。
今日、同僚のtotorombe氏と北谷に中日ドラゴンズのキャンプを見に行った。星野日本代表監督が18日に本土に帰る予定なので、午前中に北谷に現れることを見越してのことだが、その予想はズバリ的中した。
 北谷に到着して間もなく、星野監督が登場。欽ちゃん走りで監督の前に先回りして、監督を観た。第一印象はデカイ。しかもオーラ出まくり。その後、ブルペンで投手陣をチェック。川上、山本、岩瀬などを観た。山本、岩瀬は袖が振れるほど目の前を通っていった。ブルペンでは星野監督は落合監督、田淵コーチなどとしばし談笑。その後、我々がブルペンを離れるのを追いかけるように星野監督が出てきた。
 やはり指先を伸ばして小走りに星野監督の前に回り込み、満面の笑みで軽く待ち伏せをしていると星野監督と目が合った!テレビで観た通りの笑顔が、そこにあった。(photo par Totorombe)

16 février 2007 

Rising or Sinking:journal

 今日初めて知ったのであるが、『レッド・ドラゴン』『羊たちの沈黙』『ハンニバル』に先立つハンニバル・レクター博士の物語『Hannibal Rising』が今年日本でも公開されるそうである。若き日のレクター博士を演じるのはフランス人俳優Gaspard Ulliel。アントニー・ホプキンス演じるレクター博士からすれば、あまりにも線が細く、ほど遠いキャスティングだと言わざるを得ない。しかし、物語自体はとても興味深いと思いつつ、amazon.jpをチェックするとまだ翻訳は発売されていないようである。そこで原書を探しあてたが、レビューをみると、凄まじいまでの酷評。Hannibal RisingをもじってHannibal Sinking(沈没)と評する者もいた。少し様子を見るとするか・・・。

 

petit chien:journal

 僕の住むアパートはペット禁止なのだが、Yahoo!の特集でペット特集2007・人気子犬・子猫図鑑と題して、ペットの写真と解説が書いてあったので読んでみた。解説をみてみると、犬の種類特有の持病のようなものもあり、あのつぶらな瞳のチワワには眼疾患にかかりやすいとあった。さらに「選ぶポイント」欄を読むと、最近は乱繁殖の結果か「かなり大型化するチワワ」もいるという。
 大型化したチワワ・・・あのつぶらな瞳はギョロ目になり、気管も太くなるだろうから鳴き声も低くなるだろう。エサが欲しくて媚びるような瞳を向けると思いきや、「オイ!コラ!エサ!」とばかりに低音を発してギョロリと睨まれる(しかもその両目は眼疾患)ことを想像してしまった。
 僕は動物を飼いたいといつも思っているが、僕のライフスタイルがそれを許さない。そのためか実は今でも動物はあまり得意な方ではない。子供の頃、眉毛を描かれた妙に人間っぽい犬にあぜ道で追いかけられた経験が影響しているものと思う。僕が飼いたいと思う犬はitalian greyhound。優雅に歩く姿に気品を感じる。寒さに弱いので沖縄で飼うのに適しているが、あまり観たことがないなぁ。

15 février 2007 

groupe sanguin:journal

 僕にはこれがでるとゲンナリするという話題がある。それは血液型。この話題は退屈で、人生の無駄だとさえ思う。血液型を聞かれるといつも、何型に見えるかを逆に問い返し、その答えによって他人から自分がどう見られているかを判断している。わが世代での血液型性格類型の典型は以下であろう。

 A型=神経質→几帳面
 B型=変わり者→個性的
 O型=おおざっぱ→おおらか
 AB型=二重人格→ ?

 毀誉褒貶。褒め言葉とけなし言葉は表裏一体である。どちらにも解釈可能である。しかし唯一、AB型だけはプラスに転じさせることが困難である。二重人格と言われ、しかも「当たっている」と思わない人はあまりいないのではないか?病理学で判断されるレベルではなく、心からそう思っている訳ではないのに相手を褒めたり、お世辞を言ったりするぐらいのことは誰だってやっている。むしろそれは社会関係を円滑にしているし、相手を傷つけないマナーともなっている。そのことで「当たっている」と思う人もいるかも知れない。気になるのは、AB型が血液型の分類では圧倒的なマイノリティに属することだ。また、血液型は生まれつきのものなので、論理的には性格は生まれつきであることになってしまう。誰でもそんな欺瞞に気付いているはずなのに、どうして飽きもせずこの話題に興じるのだろう?一方で、案外人々はこんなばかげたことを本気で信じているのかもしれないとも思う。
 以前「あるある大辞典」でも血液型と性格の関係をさも科学的に証明されている事実のように放映していた。のちに血液型が偏見に結びついてしまうというクレームが付いた。そんな大げさなと思うかもしれないが、知らない間に採用や昇任人事に関連づけられる可能性はないとはいえない。しかし、番組が中止に追い込まれることはなかった。
 最近は納豆ダイエットの捏造問題ばかりが問題にされるが、「信じていたのに・・・」などと今更、何をナイーブなことを言っているのか?メディアの情報は科学的根拠が乏しいものばかりであることは今に始まったことではない。前世を語るカウンセラー、「お前は地獄に堕ちる」と脅しつける占い師が最も高い視聴率が期待される時間帯にメインで登場する。彼らの語ることは捏造ではないのだろうか?納豆はダイエット効果はないかもしれないが、高タンパク・低カロリーで健康にはいいことは科学的にも証明されている。それに発酵食品なので、便通を促す効果が期待できるし、結果的に体重も減少するかもしれない。なぜ、正しい情報を伝えることで捏造された事柄を否定せず、「捏造の事実」ばかりをことさらに取り上げるのだろう?いい加減にこうしたメディアのバッシング体質は改めた方がいい。
 確かに世の中で立証されていないことは多いが、現在の科学レベルである程度判っていることはかなり多い。およそ大学でしっかりと勉強している学生は大学で論文のテーマを選ぶとき、全くの未開拓の分野がほとんどないことに気付くだろう。

12 février 2007 

conditions:cheveux blonds, yeux bleus ou verts:journal

 甲府市の英会話学校が、幼稚園に派遣する外国人教師の条件を「金髪、眼は青か緑色」と限定したポスターを作製、山梨県国際交流センターが半年間、館内に掲示していたようである。「子供を”ガイジン”に慣れさせたい」という意図があったようだが、苦笑せざるを得なかった。
 では、アジア系やアフリカ系教師が金髪に染め、カラーコンタクトを入れると上記の"条件"をクリアしたことになるのだろうか?ちなみにいつも風呂上がりのようなデーヴ・スペクターの髪は金髪であるが、彼は髪を金色に染めていることを公言している。その方が日本人に好まれるからという理由も隠してはいない。Real MadridのDavid Beckhamも地毛は金髪ではない。となると「デーブもベッカムもお断り」となるであろう。髪に関していうなら、英語ネイティヴのなかで全てが金髪という人は意外に少なく、多くの「ハリウッド・セレブ」は金髪に染めている。
 このポスターは幼稚園側の希望を反映したものらしい(それをそのまま掲載して批判を躱そうという態度がお役所的)が、園児がそのようなオファーを出すわけではないから、この希望を出したのは園長や保育士たちだろう。きっと、彼らの嗜好がこのポスターに露骨に反映したに違いない。”ガイジン”に慣れたいと思ったのはほかでもない、彼(女)たちだろう。
 こうした意識の低い人間こそが、人を差別する。「自分には差別する意識が全くなかった」という人間こそ、もっとも差別的な人間であることにそろそろ気付くべきである。こうした人間は僕にとっては全くの異文化に属する。言葉の壁も職場の中でも感じることができるし、この世の中は異文化の集合体であることを日々感じる。国際センターも「古い、差別的な考えだと思った」なら、ちゃんと対話をしてそれを改めさせるべきであったと思う。対話は異文化理解の基本なんだから。
自分は誰かを差別してしまうかもしれないと危機感を抱いている人こそ、差別に敏感になれるのだと、思う。

10 février 2007 

super-nez-célébrité?:journal

 現在「ネピア鼻セレブ」を使っているが、「ネピア鼻セレブ」の存在は知らなかった。こちらのニュースによると、ネット限定で発売したところアクセスが殺到してすぐに完売したという。俺も知っていれば・・・と後悔頻りである。風邪をひいて、洟をかむときに、鼻を赤くしたくないというコンセプトのようだが、風邪がひきやすいこの季節限定登板と思えば、1箱に1500円を費やす人々の気持ちも分かる。まあ、ティッシュにすれば高いが、たったの1500円ともいえる。おしゃれなナプキンが20枚で1000円ぐらいすることを考えると、それほどでもないのかもしれない。絵柄に何があしらってあるのか判然としないが、上の方に王冠らしき絵があしらってある。大げさすぎるネーミングに遊び心を感じる。

09 février 2007 

Etreinte éternelle en Italie:journal

Quelle romantique! なんてロマンティックなんだ。自分たちもあんな風に埋葬されたい。そう願う人もいるかもしれないが、こうなるには一緒に死ななければならないという、かーなり難しい状況に陥らなければならなくなる。体格からすると、右側が女性、左側が男性なのだろう。一般的に大腿骨の長さをもとに身長を割り出すようだが、ここまで残っていればその必要もないだろう。しかし、5000年ぶりに日の目を見た二人を引き離す任は誰も引き受けたがらないかも知れない。
 この写真を最初に観て思ったのは、きっと世界のどこかにこの題材を使って映画を作る人間がいるということ(映画の冒頭とラストは決まった!)。そして、この写真をパロって、例えば殴り合い、蹴り合いしている人骨の化石が見つかったという設定で画像を作る奴がいるだろうということ。

 

boucher:journal

 株式や金融のことは殆ど興味がないのであるが、先日、証券保管振替機構という組織が「ほふり」というのを愛称として使用していることを知った。この愛称、僕には奇異に思える。
 なぜなら僕の語感では「ほふり」は「屠る」という動詞が名詞化したような印象を抱くからだ。ちなみに「屠る」とは「鳥や獣の体を切りさく。」「皆殺しにする。」という意味である。「屠殺」の「屠」なので、殺すと同義である。まあ、「殺す→殺し」と「屠る→屠り」というのと同じ。この機構は株券を電子化するところのようだが、一脈通じるといえば通じる。
「ほふり」。なんだかほんわかしたような、ふわふわしたような、抵抗感を低減させるような、柔らかなイメージを狙ったのだろうが、広告で女の子が「ほふり」にどうぞ!と言っているのを聞くと、「私たちが売るケーキの愛称は「コロシ」ですっ!」と明るく言われているような気がする。この記事の件名はもちろん、冗談である。

 

Okinawa Town in Suginami:journal

 初めて知ったのであるが、東京都杉並区の和泉明店街というところが「沖縄タウン化計画」を実施しているようである。沖縄の住人の一人として驚きを禁じ得ない。HPはこちらである。この街の会長さんは語る。

「特に空き店舗を一軒でも多く「沖縄の店」としてオープン出来るよう努力していくつもりです。これまでの二年間はただ無我夢中で走り続けましたが、これからは沖縄タウンの中味を一層濃いものにしたいと考えています。」

 どこの商店街も寂れて、「シャッター街」化していると聞く。これもあの手この手で街の特徴を出したいといういわば苦肉の策なのかもしれない。ひょっとすると、沖縄の人がこの街に引越をして「中華街」のような様相を呈するかもしれない。年末には「歳末福引大売出し」という企画があり、福引当選者には「箱根温泉」のプレゼントがあったようである。何故、沖縄旅行ではないのか?と一瞬思ったが、その街が「沖縄」であるなら、沖縄旅行はそぐわないという判断なのかもしれない(それにチケットも安くないしね)。ついでに杉並にも米軍基地は如何でしょうか?もっとリアルでより「濃い」ものになることうけあいである。米軍がらみの事件・事故、耳をつんざく爆音と街が活性化すると思いきや体力を徐々に奪っていく補助金がセットである・・・というのはもちろん、冗談である。この商店街にはエールを送りたい。

06 février 2007 

僕が商品を選ぶ基準:journal

 『サライ』という雑誌がある。この雑誌は通信販売のお店ももっている。ここで買い物をしたことはないのだが、「当店では扱いかねるもの」として四つを挙げている。それは,

 一、華美に走るもの
 一、一時しのぎのもの
 一、魂なきもの
 一、遊び心に欠けるもの

 この四つは僕の買い物基準でも厳に戒めるべきものとなっている。逆に言えば、シンプルなデザインの一生モノで、デザイナーや職人の気概が感じられて、遊び心のある商品には目がない。このショップのなかには「サライ特選防災バッグ」とか、「サライ特選詰め込み常備食品セット」など「一時しのぎのもの」というコンセプトに外れる商品もあるが、こういう蘊蓄がたまらなく好きだ。

05 février 2007 

教師いじめの偏向報道2:journal

 交通事故の処分者の職業に関する記事で、琉球新報にも沖縄タイムスと同じような記事が載っていた。文面もほぼ一緒。なんじゃこりゃ?職業は自己申告なので、公務員の中には「教師」がもっといるはずだという記事。自己申告で信憑性が低いのなら、このデータ自体がアヤシイではないか。http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-21032-storytopic-1.html
これは警察から垂れ流されたターゲットを明確にした情報をそのまま載っけているという最低の記事だね。新聞社がこんなことをしている限り、新聞の公正さなどは存在しないね。

03 février 2007 

教師いじめの偏向報道:journal

 今日の沖縄タイムスの記事(参照)。なくせ飲酒運転の特集記事。記事を書いたのは新垣晃視さん。一面左上に大きな字で「免停・取り消し公務員70人」とタイトルが打ってあった。さらに「実数さらに上か」と言い添えられている。
 この記事をグラフと一緒に読むと、あれ?と違和感・・・いや、怒りを覚えた。因みに僕は公務員ではないが、この記事は公務員にあまりにフェアではない。何故か。
 同じ記事の2006年の飲酒運転で免許取り消し・長期停止処分を受けた人の職業(2006年)を見ると、公務員の70人というのは全体の1.2%である。先ほどの大きなタイトルを「公務員は1.2%」と打ったら、随分と印象が違うものになるだろう。もちろん、「70人」と謳った方が「1.2%」と言うより、「公務員なのにひどい」という印象を読者に与えられるだろう。これを狙ったことは明らかである。
 では、統計のグラフに戻ると職業別のグラフでは公務員は処分された人数でいえば最も少ないカテゴリーである。最も多いのは「会社員の1724人(29.3%)」。これは実に公務員の24倍である。あと何故か「会社員」とは別に「建設業」、「サービス業」、「自営業」、「運転手」が別に設けられている。これらも12%、13%代で、それぞれ公務員の10倍である。さらに学生は206人(3.5%)。学生というカテゴリーは世代的には5年程度の幅しかない。18歳から65歳まで47年の幅のある「公務員」の幅から考えると9分の1とずっと小さいが、処分された人数は公務員の3倍近くに達している。データをもとに虚心にタイトルを打つなら、こうなるだろう。
「免停・取り消し職業は会社員が最大!運転手も202人!公務員はたったの1.2%」
 そして記事の詳細は「憂慮すべきは学生の多さ」と小見出しを付けて世代年齢に対する検挙率を挙げたらどうか?改めて言うが、この記事を書いた新垣晃視さん、公務員にどんな恨みがあるのか知らないけど、偏向報道ととられかねない記事はいかがなものか。因みに公務員のなかにはこの情報ソースの「警察官」もいるんですよ。こういうことに一切触れずに「教師」だけを狙い打つのは、いじめというものですよ。オシム監督も言っています。「新聞は戦争を起こすこともできる」。君はジャーナリスト失格ですね。もちろん、こんな記事をフツーに掲載している新聞も。

 

juror japonais:journal

 裁判員制度。僕は実はこの制度が導入される意味がよく分からない。最近の新聞では何故これが導入されなければならないのか、という議論をすっ飛ばして「もし選ばれたらやりたいか」とかそういった統計ばかりが目を惹く。さらにタウンミーティングのように「裁判員制度全国フォーラム」で謝礼を払って参加者を「動員」していた問題も浮上している。一体、ここまでするのはどうしてなのだろう?少しだけ調べてみたが、どうもスッキリしない。以下のサイトで「導入の経緯」というのがあったので、閲覧して驚いたのは、何月何日に委員会が開かれましたという「実績」だけ。そこで法律に当たってみた。

  (趣旨)

  第一条 この法律は、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ、裁判員の参加する刑事裁判に関し、裁判所法(昭和二十二年法律第五十九号)及び刑事訴訟法(昭和二十三年法律第百三十一号)の特則その他の必要な事項を定めるものとする。

これを読むと、何だか国民の教化のためにこの制度が導入されるような印象を受ける。
もう一つ、Q&Aの答えには以下のように説明されていた。

   裁判員制度の導入により,法律の専門家ではない国民の皆さんが裁判に参加し,国民の皆さんの感覚が裁判の内容に反映されるようになります。そして,それによって,国民の皆さんの司法に対する理解と支持が深まることが期待されているのです。平成11年からの司法制度改革の中で,有識者を加えた審議会による議論に始まり,長い議論を経て,今年,導入されることが決まりました。
 また,同時に,裁判員制度では,職業や家庭を持つ国民の方々に裁判に参加していただくことができるようにする必要がありますから,裁判が今よりもずっと迅速に行われるようになることも期待されています。
 また,裁判の手続や判決の内容を裁判員の方々にとって分かりやすいものとする必要がありますから,国民にとって分かりやすい裁判が実現されることにもなります。

上記を読んで以下のような感想をもった。
・裁判に反映されるのは国民の「感覚」ではなく、国民の「感情」になってしまうのではないか。
・「司法に対する理解と支持」というのが目的なら、学校教育や何かで教えればいいのではないか?いきなり生の人間を処罰して「理解と支持」をしてもらおうというのは飛躍していないか?これが「判決に対する理解と支持」なら職責回避ではないのか?
・長期間議論されたことは判るが、議論の内容が知らされていない。議論の時間が問題ではないのでは?
・裁判員制度で国民を入れないと、
裁判の迅速化ができないのか?また裁判の長期化にはそれなりの理由があるのでは?
・一般に非常に難しいこと判りやすく教えるためには、深い理解が必要である。こうした芸当ができるのは本当にそのことをよく理解した人だけである。また、難しいことを判りやすく説明することで、どうしても削り落とされる情報や、飛躍がでてくるが、こうしたことは一般国民の「感覚」に委ねていいのか?
 なんだかどれもこれも問題とその解決法が対応していないように思える。最近、交通事故で亡くなった遺族が被告人の量刑を重くするために署名を集め、検察に提出したというニュースがあった。子供を失い、応報感情を事故の加害者に向けたくなるご遺族の気持ちも感情的には理解できる。しかし、もし今後、司法の論理ではなく「国民感情」によって判決が決まってしまうなら、それはそれで恐ろしいことだと戦慄を憶えずにはいられない。裁判員制度は国民が裁く制度である一方、「感情に流された国民によって自分が裁かれる」制度にもなりうる。犯してしまった罪と量刑が釣り合わない事例も出てくるだろう。
 もしこうした制度を導入するなら、刑事裁判だけでなく、民事裁判にも適用して欲しいものである。嘉手納爆音訴訟などで国民の「感覚」が反映されるなら、この国のあり方や政府の方針も変わってくるだろう。裁判所がその役割を回避し、判決を出さない、あるいは門前払いをするという状態も変わるかも知れない。
 僕自身、裁判員に選ばれるのはイヤである。できれば断りたい。人の上に立ったり、人を裁いたりするのは決して気持ちいいものではない。出世も案外、人が思うほど羨むことではないのではないかと思っている。人を裁くような嫌なことはそれを職業として選んだあなた達がやってください、と言いたい。それがイヤなら辞めればいい。
 最初の問いに戻るが、この制度を導入したい本当の理由はなんだろうか?上記とは全くかけ離れたところにあるのではないかという印象を受ける。今度、法曹関係の人にきいてみたいものである。

01 février 2007 

Elle est venue!:journal

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
アニータ・アルバラード!
映像に映る彼女を観ていると、千田受刑者が彼女にハマったのも、ギリギリ理解できます。

 

soins du bain:journal

 先頃、入浴剤がなくなったので新たなものを物色した。前回はツムラのきき湯を使っていた。効能に関しては可もなく不可もなしという感じだが、これは粒を浴槽に入れる時に粉が鼻を突いて不快感を抱くので今回は別のものを買うことに。そこで忙しいのにドラッグストアでさんざん商品を比較した結果、選び疲れて結局買ったのは610ハップ。パッケージが昭和風で、昔からあるし、温泉偽装でこれを使っていたという話だったので、定評があるのだろうと、軽い気持ちで買った。
 初めての入浴剤を試す日はだいたいウキウキするのだが、今回ばかりは正直、ツラかった。硫黄の香り、いや臭いが。慌ててアロマオイルをじゃぶじゃぶ振ったが、そんな繊細な香りはあっという間にかき消され、硫黄の臭いだけが鼻を突いた。「天然温泉」をうたった場末のビジネスホテルの情景や白髪を振り乱したババアが棲む恐山のテレビの映像、硫黄島の戦いで死んでいった人たちの映画の映像が記憶の底から引っ張りだされた。ゆっくり、のんびり、まったりバスタイムは悶えんばかりの臭いと、悪夢のような記憶との格闘になった。「イオー、キッツー!」と何度連呼したことだろう。
 思えば市販の入浴剤では以前メンソレータムの薬用入浴剤(米ぬかエキス・無香料無着色)が好きだった。最近は僕が好きだった無香料、無着色だけが販売中止となっている。僕は最近主流の乳白色になるタイプや色がついているタイプがイヤなのである。こうしたタイプを除外すると、殆ど選択肢がなくなってしまう。ああ、悩ましい。
 ところで、以前ご紹介したコラージュ・フルフル・シャンプーだが、実はこのシャンプーはあまり気に入っていない。というのはリンスかっ!と思うほど泡立ちが悪いのだ。泡自体は気分的なものだろうが、なんだか物足りない気がする。バス用品選びは本当に難しい。