Der siebente Kontinent:films
Michael Haneke監督のDer siebente Kontinentを観た。本当に久しぶりにTSUTAYAに行ったら、何と!新作コーナーにMichael Haneke監督作のタイトルがずらり!どうも監督のDVD-BOX発売に伴い、新たに貸し出されたようだ。そしてとりあえずHaneke監督のデビュー作The Seventh Continentを観た。
驚くべき傑作であった。彼のスタイルはデビューから基本的に変わっていない。最新作の『隠された記憶』に至るまで、かなり一貫している(『ピアニスト』は趣が違うが)。
この映画はオーストリアの一家が心中するまでを描く。一家は預金を全て下ろし、自宅で豪華な食事をして、残ったお金は全てトイレに流し、家財道具を一切合切破壊し尽くし、写真も思い出に残る品も全て破棄して心中してしまったというという現実に起こった事件を参考にしたそうである。
冒頭から一体どんな意味があるのか分からない断片化されたカットが写し出されては消え、現れては消えということが繰り返される。そしてそうした映像に両親への手紙がナレーションによって被せられる。しかし、変哲もない日常の風景が途中から家の全ての物を破壊する映像となり、それが最後まで続いていく。断片をかき集めて垣間見られる一家は特に不自由をしている訳でも、生活に困っていることもない。どこにでもありそうな情景である。しかし、最後にはその一家が心中してしまう。振り返ってそれぞれのシーンを反芻してみると、導入から日常的な異常状態とでもいうべきカットが続く。イランとイラクの戦争やアメリカ軍による爆撃のニュースを耳にしながら、両親は何の心の痛痒も抱かず朝の準備にとりかかる。娘も「目が見えなくても幸せ」という記事を読んで、盲人のふりをしようとしている。ここには「平和」な地域の一種麻痺をした状態が一家を包み込んでいる。唯一、娘がかろうじて世界のありようや生命に対して敏感だったと思うのだが、結局は死を選ばされてしまう。
題名の「7番目の大陸」というのはもちろん彼ら家族が漠然と想定した空想の産物である。最初はオーストラリア観光の看板広告に使われた写真であったのが、家族の中ではそれが安らかな死後の世界イメージに置き換わっていく。最初の洗車シーンも、最後のテレビの砂嵐のカットも極めて示唆的である。洗車シーンは荒れ狂う世界のただ中にありながらも安全な地帯に身を置き、しかし何もすることができず憂鬱に暮らす一家の状況を示し、テレビの砂嵐は死後の虚無の状態を表現しているように思える。
一体、なぜ一家は心中(自殺と他殺)したのか?その明確な理由は映画の中では明示されていない。そもそも、どうして自殺をするのかといった理由自体、他人にとっては想像をするしかないもので、他人が容易に関知しうるものではない。監督はそのことを十分に理解した上で、自殺の理由を安易に散りばめたような説明的な作品作りを拒否している。実際の事件においても、心中した夫婦の父方の両親はその状況から他殺の疑いが全くないにもかかわらず捜査を依頼したそうである。両親でさえ、何故自殺したかということは判らなかったのだろう。
この作品をカンヌで発表した際に最も批判されたのは「金魚が死ぬ」シーンと「お金をちぎってトイレに流している」シーンだそうである。一家が死んでしまうことよりも、それらのシーンへのクレームが多かったこと自体、経済的に豊かな国に住む我々の感覚がどこか麻痺していることを如実に示している。こうしたことは何もオーストリアに限ったことではなく、「先進国」とよばれるような国々を支配している一般的な状況である。この普遍性がこの作品をワールドクラスのレベルに押し上げている。
僕にとってもこの作品は極めて恐ろしいものだった。あの一家と自分の生活がだぶるからだ。生活を便利にするモノに囲まれ、倦んだ日常にさいなまれながら見かけは何の不自由のない生活を送っている。毎日、耳や眼から脳に届けられる紛争やテロで多くの人が亡くなるニュースにも慣れっこになってしまっている。これは一家が自殺する3年前の姿と何ら変わりがない。この映画を観た夜、疲れているはずなのに僕はなかなか寝付けなかった。邦題は『セブンス・コンチネント』。
