29 avril 2009 

mon voyage episode 4 :journal

 27日。ウィーン滞在最終日。といっても、フライトは夜の7時半。
 一日目にはあれほど心躍った朝食も、毎日同じではやはり飽きてくる。人の欲深さを感じる。朝食をすませてから、ノリのいいBIGINの曲を聴きながらだらだらと荷物の整理をする。チェックアウトは12時。
 11時に向かいのお店に行ってネットに接続する。パキスタン人の店主は忙しいのか、ボクに店のお留守番をさせ、用事を済ませに駅まで行ってしまった。昨日はお茶をいれてくれたのに・・・「人類、みな兄弟」だから当然かも知れない。しかし、チェックアウトの時間が近づいてきており、12時15分前にたまらずお金を机の上に置いて店を出てきてしまう。
 ホテルの部屋に入ろうとしたら、カードキーが認識せず、部屋に入れない。トイレもしておきたいし、荷物も完全にはパックしていなかったので焦ったが、フロントでカード情報を入力してもらって事なきを得る。
 昼は街中をぶらつく。シュテファン大聖堂、その近くにあるモーツアルトの葬儀が行われた小さな礼拝堂をみる。礼拝堂は寂しいほど小さかった。大聖堂は一部改修中。off-seasonにはありがちな風景。拝観せずに立ち去る。ケルストナー通りは、やはりウィーンの中心街だけあって、人通りも多い。その殆どが観光客なのだろう。工事のせいで随分と歩きにくかったので、裏通りに入る。
 中世の風情が残ると言われる旧市街の裏通りを散策する。石を投げれば銅像に当たるぐらい、ウィーンには街の至る所に銅像がある。なかでも見たかったのは、モーツアルトでもなく、ヨハン・シュトラウスでもない、グーテンベルクだ。印刷術の発達は、ヨーロッパの知のあり方を劇的に変えたが、きっかけを作った人物であると言われる。印刷技術自体は、中国の方が遙かに早く実用化されていたし、宣教師を通じて東洋から西洋へ印刷技術が伝わった可能性も十分に考えられる。さらに活版印刷がグーテンベルクが「発明」したかどうかも怪しいものがあるが、グーテンベルク像は感慨深いものがあった(教育実習の時に使った国語の教科書にもグーテンベルクの印刷術の「発明」が取り上げられていたな・・・)。そもそも、ドイツ人であるグーテンベルクの銅像が何故、ウィーンにあるのか不思議だが、この界隈に印刷業者が集まっていたことが、その理由のようである。近くには旧ウィーン大学講堂やイエズス会の教会などがあるが、そこから印刷物が発注されていたのだろうか。
 その後、適当に歩いて昼飯を食べる場所を探す。煉瓦造りの地下に潜るようなお店があったので、飛び込む。いかにも地下のCurveといった趣で、雰囲気は最高。メニューは手書きのドイツ語しかなかったが、昼の定食(Menu)を頼み、血のソーセージを選ぶ。もちろん、ワインは赤。
 コンソメ風のスープのあとに、ザワークラフトと衣を付けて揚げた血のソーセージが供される。味はどちらも美味しい。赤ワインともよく合う。赤ワインはグラスすれすれに注がれており、昼にしては量が多く、少し酔ってしまう。その後、その店にガイドブックを置き忘れたぐらいだから、やはり少しお酒が回っていたのだろう。







 その後、Belvederに行き、クリムトの絵を見に行った。実は、宿泊していたホテルは内装にクリムトの絵の意匠をふんだんに盛り込み、朝食の時に流される映像はクリムトの絵が主体であった。クリムトの絵のモデルはみなとても美しいが、いつも気になる絵があった。誰かに似ているような絵があったのだ。それが誰に似ているのかどうしても思い出せない。
 一度、部屋に戻り、それがシガニー・ウィーバーだと気づいてから、その絵がシガニー・ウィーバーが描かれているとしか見えなくなってしまった。だから、午後にBelvederにクリムトの絵を見に行く頃には、ほとんどシガニー・ウィーバーに会いに行くような気分になっていた。
 目指すは「接吻」。何よりも先に接吻の前に行った。やはり本物は凄い。彼の作品のなかでも圧倒的な迫力があった。本当に美しい絵だった。また、他の展示物では、数は少ないものの、ルノワールや 世界史の教科書でみるナポレオン・ボナパルトの絵も展示されていた。午後はB
elvederでのんびりと過ごす。






 ホテルに戻り、荷物をピックアップ。飲み物だけは買っておき、早々に空港に向かう。飛行機は定刻の22時にボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボに到着。空港の両替所は閉まっており、KNに両替することができない!インフォメーションに訊くと、ユーロでも大丈夫との由。タクシーで値段を交渉して荷物料金も含めて15ユーロでホテルに向かう。
 このタクシー運転手の運転の荒いこと、荒いこと。前の車との距離を一挙に縮めたかと思えば、前の車を煽る、煽る。そして、どんどん前の車を抜き去っていく。メーターをみると、一般道なのに時速100kmを超えていた。驚いて周りの景色をみる余裕もなかったが、銃による乱射を浴びたとおぼしき建物が目に入る。ほどなくしてホテルに到着。「さようなら」という意味のセルビア語を教えてもらった。Do viđenja、これがボクが生まれて初めて使ったセルビア・クロアチア語になった。

28 avril 2009 

mon voyage episode 3 :journal

 26日。再び朝食を鱈腹食ってスロバキアのブラチスラバに向かう。ホテルのスタッフに「君ならどのような交通手段を取るか」と尋ねたところ、鉄道かバスとの答え。ボクはドナウ川をボートで下る予定だった。だがガイドブックの体験談でも、ボートは上がれるデッキもなく、のんびり景色を楽しむような感じではないとあり、外の寒さもあるので、結局、鉄道で行くことに。結果的にこれで正解だった。往復で14ユーロ。
 国境を越える地点でパスポート・コントロールがあると聞いていたが、結局、往路も復路もなかった。チケットのチェックに、オーストリア側の職員とスロバキア側の職員がやってきただけであった。車窓から広がる景色は殆どが農地。農閑期のためか何も植えられてはいなかった。放牧されている牛や羊もみかけず、やや退屈な景色。時折、ウサギのような小動物が全速力で畑を疾走しているのが見えた。
 ブラチスラバに到着する頃は、雪がしんしんと降っていた。雪質は水分を多く含み、金沢の雪に似ている。帽子を持参しなかったことを後悔する。しかし、North Faceのダウンジャケットはここでも威力を発揮する。しっかり水分を弾いて体をあたためてくれる。しかも、暖かい室内に入っても蒸れることはなく、不快感はない。ダウンの下はシャツと下着だけだが、1,2℃なら十分に耐えられるし、何より軽い。重さも300g程度しかないので肩が凝らない。
 ブラチスラバに戻ろう。スロバキアはちょうど2009年から通貨にユーロを導入したようである。駅のツーリスト・インフォメーションのオバチャンに、もうユーロしか使えない旨を教えてもらう。さらに市内地図をもらい、旧市街までの交通手段を訊く。ついでに近くのたばこ屋で15分有効のバスチケットを2枚ゲット。合計1ユーロ。こちらのバスチケットは乗車時間の長さによって値段が違う。一般の観光客なら15分のチケットを数枚買っておくだけで十分である。
 バスを待っている間も雪の勢いはますます強くなり、バスを降りて旧市街を歩くときは、散策というより苦行に近い状態だった。off-seasonの午前中とあって、旧市街は閑散としている。レストランも開店前で閉まっているし、土産物を買うこともないので、街を当て所なく散歩する。まちのあちこちに人をかたどったオブジェがある。マンホールから顔を出しているのやら、パパラッチよろしく物陰から写真を撮っているものなど、ユーモラスなものが多い。旧市街の建物は美しく、石畳を歩くのは風情があったが、どうやらそれもこの一角だけのようで、一歩出ると普通の集合住宅が並ぶ。


 市内「散策」を終えた頃には雪もあがったので、高台にあるブラチスラバ城に向かう。随分と坂道を上らされたが、お城は現在改修中。城内を覗くことも叶わなかった。単に工事現場を見に来ただけだった。地元の人々が感じる親しみなど感じる由もない。ただ、城の周辺からは市内が一望でき、ドナウ川も眺めることができた。





 

 旧市街に下りて、昼食を摂る。メニューに選んだのはカエルのグリルに、スズキを焼いたもの。そしてスロバキアの白ワイン。カエルの足はアスリートのように筋骨隆々であったが、肉質はやわらかく味も癖がない。スズキは黒こげであったが、中はほどよく火が通って、バターにハーブを練り込んだものを溶かしながら食べた。オーストリアのワインもスロバキアのワインも、グラスワインで注文するぶんには白が無難な選択だと思われる。


 



 
 比較的味もよかったので満足だったが、お勘定で小さなトラブル。おつりが1ユーロ少なかったのだ。もともとチップを払うつもりだったが、最初から少なく渡されて腹が立った。そこで、Not enough!と主張。相手はばつが悪そうに足りない1ユーロを支払う。ボクはその1ユーロをBesten Dank!と言ってチップとして突き返した。フランスでも時々あった。少なくおつりを渡すというあまりにもせこいやり方だ。ボクの知人は、毎朝、新聞を買いに行くたばこ屋でそれをやられていたようで、3,4回おつりをちょろまかされた(させた)後に、ババアに言ったそうだ「あなたは毎回、おつりを少なく渡しますね。警察に言っておきましたから。」と言い放って店を後にしたそうだ。
 その後、路面電車で駅に戻る。ショッピング街のような目抜き通りを通ったが、道沿いには面白い建物が見えた。逆三角形のような建物である。上層階に行くほど、フロアの床面積が広くなっているようだった。戻って再度確認したかったが、切符を買い直すのが面倒だったので、駅に到着後、走ってウィーン行きの列車に飛び乗る。皮肉なことに、電車に乗ったとたん、あたたかい日差しがボクを照らした。
 ウィーンのホテルに戻り、一休み。それから軍事博物館に向かう。時間がなかったため、クリムトの接吻があるBelvederへは明日、向かうことにする。この軍事博物館、Arsenalという一角にある。Arsenalと言えば、ボクの大好きなイングランドのサッカークラブである。クラブの愛称はGunners。エンブレムに大砲の絵があしらってある。Arsenalはもともと砲兵工廠のチームとして出発したが、軍事博物館はそれに関係しているのだろう。豪華な建物は死の商人として稼いだ遺産なのだろうか。
 軍事博物館は軍服や大砲、鉄砲、剣などが展示されている。なかでも最も有名なのは、第一次世界大戦の引き金になったフェルディナンド大公のサラエボでの暗殺事件に関する展示だろう。暗殺によって血まみれになった軍服があった。想像していたよりも血しぶきは狭い範囲に留まっていたようで、実は最初はそれが暗殺時に着ていた服だとは思わず、素通りしてしまった。三十年戦争や二度の大戦、ナチスドイツなどオーストリアに関連する多くの軍事的な遺物がきれいに並べられてあったが、この博物館は、あまり感心できなかった。展示物は当然のことながらどれも大量に人を殺すための道具であり、剣や銃口の先には死屍累々たる悲惨な光景が広がっていたことを想像せずにはいられない。展示のコンセプトはそうした人類の愚かさへの反省とうものが微塵も感じられなかった。軍事オタクならまだしも、正直言って、この博物館には嫌悪感さえ覚えた。この嫌悪感は人の死を媒介として巨万の富を得ることに由来するのだろう。唯一の救いは、この博物館の客がボクを除くと一人だけだったこと。

 閉館時間になったため、ホテルに戻る。ホテルの向かいのパキスタン人が営んでいる怪しげなお店で、1時間1ユーロでブロードバンドの回線を借りる。店主は「我々はアダムとイブから始まる兄弟だからね」と、ハーブの入ったお茶まで煎れてくれた。初対面なので彼の信仰は訊かなかったが、この文句を彼は誰にでも使っているのかも知れない。しかし、気さくに接してくれたのは喜ばしいことだ。あと、ネットも安いし。
 たまったメールをチェックして、紀香と陣内の続報を読む。スポーツ誌の報道ではあるが、陣内の最低ぶりが明らかに。浮気の詮索で逆ギレ→DV。・・・結婚とは恐ろしい。紀香も三行半を突きつけて正解であったと思う。芸人仲間のご祝儀返せと言いたい気持ちも判らぬではない。あの記事をみて、紀香よ、俺の所に来い!と思った独身諸氏も多かったのだろうと想像する。
 夜は路面電車に乗って、昨日と同じお店に行く。お店の代表的なメニューである手羽先の唐揚げを注文。小さいサイズにしてくれと頼んだが、木製トレイの上には山盛りの手羽先。数えたら10個もあった。隣の人が注文したものをみるとボクのよりもさらに多い手羽先がてんこ盛りになっていた。そしてポテトに、サラダ。一人分でこの分量なのである。手羽先はスパイシーで、ビールとの相性は抜群。まさにビールとスパイスのマリアージュ。さらに少し濁った色のビールを注文する。しかし、手羽先1つ、残してしまう。七つの大罪の一つを犯している後ろめたさがあったからなのだろうか・・・。こんなところに1年もいたら体を壊してしまうだろうと、不安になるような夕食であった。
 帰りがけに駅のなかにあるスーパーでケフィア(やづやではなく、本物)とティラミス(←おい!)を買ってホテルで食べる。ボクの中で、何かが壊れていた。

27 avril 2009 

mon voyage episode 2 :journal

 Wienの朝。25日。窓からみえる樹木の葉にはうっすらと雪が積もっている。ビルの谷間から青空と、ビルを照らす日差しが見える。
 時差のせいか、疲れているはずなのに何度か目を覚ました。便意を催して用を足したが、それはまさに日本の朝の時間帯であった。ボクの体内時計はまだ日本時間である。
 早起きして朝食。素晴らしい朝食だった。ソーセージとハムで10数種類、チーズ6、7種類、パンもゆうに6,7種類はあった。クロワッサンはイマイチだったが、ライ麦か何かの黒パンは重厚でしっとりして美味しかった。アルプスの少女ハイジやそのおばあちゃんは白パンにこだわりを見せていたが、やはり黒パンがうまい。
 なかでも美味しかったのは、イワシかマスか何かのマリネ。こちらも6種類ぐらいあったであろうか。こちらは全部、平らげた。あとはサラダ、ベーコンや炒り卵、ミートパイなど火を通したもの、フルーツ、シリアル、ドライフルーツ、ソフトドリンク・・・少しずつ食べたが、満腹という感覚を久々に味わった。朝食なのにワインもあったが、さすがにこれは遠慮した。いくら宿泊費に含まれているとはいえ、節度がないとお思いの向きもあるかもしれない。隣に日本人らしき人がいたが、彼女も明らかに食い過ぎていた。
 ゆっくり朝風呂に入った後、散歩に出かける。財布とパスポートとカメラのみ携えて、町をぶらつく。しばらく歩くと、凍みるような冷たさを感じる。凍てつくように、寒い。研修でパリに行った当時を思い出す。適当に歩くと、長くて広いショッピング街に出た。若者向けの商品やインテリア関係のお店が並ぶ。人通りはやはり少ない。Wien KarteというWienの公共交通機関が72時間乗り放題になり、美術館なども割引になるチケットを買おうと思うが、駅はどこも無人。後で知ったが、Wien Karteはたばこ屋やホテルでもどこでも買えるようだ。空港で買っておいて、使うのは翌日からということでもよかったらしい。とにかく、Wien Karteのみゲットして地下鉄でホテルに戻り、仕切り直しをする。
 部屋に戻る頃にはもう10時。入室時にもらった週間天気予報によれば、今日の最低気温は−1℃、最高は6℃。寒いわけである。とりあえず旧市街の環状に通っている路面電車に乗って、街をひとまわりすることにする。窓の外に見える風景は、まるで建物の美術館だ。これを2、3周楽しんでから外に出ようと思っていると、あれあれー?環状線をぐるぐる回るはずの電車が路線を外れていく。何故かドナウを渡り、明らかに中心街とは離れていく。トラムを降りて地図をみる。持参した古い地図では1番、2番がぐるぐるリンクを回るはずだが、ホテルでもらった新しい地図では環状線の途中からフェードアウトするようになっている。路線が変わっていたのだ。そういえば、地下鉄の路線も、延伸されて行き先を示す最終地点の表示が違っていたので、その時点で気づけばよかった。やはり地図やガイドブックは新しいものに限る。それからはホテルでもらった地図を使う。
 随分歩いたあと、ようやく環状線に戻る。美しい建物が並ぶ中心部は賑やかで、人通りも多い。だが、寒さに耐えきれず、12時前にはレストランに入る。オーストリアワインの赤と豚肉のローストを注文。ソースはカレーソースであった。19ユーロ。少し贅沢をした。
 その後、再び街を散策。Wien大学が見えたので、入ってみる。さすがにヨーロッパで三番目に古い大学。校舎は重厚な作りである。中庭の周りに廊下があり、廊下にはWien大学関連の著名な(たぶん)学者の彫刻が並べられていた。確かフロイトがいるはずであるが、尊敬している訳ではないので探さなかった。説明書きに名前と数式だけが書かれていた像があった。きっとその数式を証明した数学者なのだろう。こうしたシンプルな紹介はいかにも数学者らしい。
  











 その後、再び街をぶらぶら。ワインショップに入る。海外も含め産地ごとに陳列されていたが、やはり地元のワインが多い。見ているだけでわくわくしたが、一本も買わずに出る。





















 店を出てから道に迷ったので、国立美術史博物館を目指してバスと電車に乗る。ほどなく到着したが、美術史博物館の真向かいにある双子のように対になっている建物に入ってしまう。そこは自然史博物館であった。入館直後は8ユーロ払ったことを後悔したが、後に入った美術史美術館より、むしろこの自然史博物館の方が衝撃的であった。
 この博物館は展示物が実に多彩で、よくできていた。岩石、隕石、宝石にそれぞれ一室が設けられ、整然と並べられている。この数と種類が尋常じゃなかった。最初はどれも所詮は石だと軽くみていたが、一つ一つみていくとその多様性に興味が湧いてきた。宝石の展示物は自然の神秘を感じさせた。
 動物、昆虫、植物、その多様性に驚くばかりだ。特に植物の化石の部屋では、かつて地球を今とは全く違う植物が彩っていたことを示す展示が並べられていた。ここが一番、想像力をかき立てられた。
 次は向かいの美術史美術館に行く。この美術館の目玉は、BrueghelとVermeer。しかし、Vermeerの「絵画芸術」は貸し出されていた。どこに?ひょっとして日本? しかし、Brueghelのバベルの塔を見られたのは嬉しかった。この絵は、ウンベルト・エーコの『完全言語の探求』という本の表紙になっているため、見てみたかった一枚だ。もう一枚、Brueghelの『農家の婚礼』に描き出されている人々の表情を、一人、一人じっくりとみる。野菜や果物や木を緻密に構成して描かれたアルチンボルドによる肖像画は、実際にみてみると少し気持ち悪かった。














 夕食は、ホテルのフロントの女性に紹介してもらった大衆的なレストランに行く。ホテルから徒歩10分程度。値段も安く、美味しかったが、その量が多いこと、多いこと。隣で肉を食べている人の皿の上には、1kgもあろうかというグリルしたスペアリブが載っている。さらにフライドポテトとジョッキのビール。もちろん、注文の主は立派な太鼓腹であった。
 ボクは軽く夕食を済ませるつもりが、豚肉のグリルと大根とキャベツの温サラダを注文し、さらにビールとワインも飲んでしまった。
 部屋に戻って塩気の強い肉やポテトをミネラル・ウォーターで流しながら、後悔をする。毎食、毎食、暴飲暴食を繰り返すなど、真っ当な人間の所業ではない。それにしても、こちらの空気の乾燥には辟易する。手の爪の先が割れてしまい、ささくれができてしまう。ポケットに手を突っ込む時に、ポケットの内側に引っかかるので、小さなストレスを感じる。
 歩き疲れて、9時には寝てしまう。

26 avril 2009 

mon voyage episode 1 :journal

 3月24日。関空のルフトハンザ航空のカウンターは割合に混み合っていた。2時間50分も前なのに長蛇の列。セキュリティなどに時間がかかるからだろうが、テロだ、テロだと本当にうざい。時間が余ったので両替をする。昨晩、両替をしようとレートをみたら、1ユーロ130円であったが、今朝は135円。わずか一晩で5円も急騰している。舌打ちしながら、2万円だけ両替した。
 今日は関空を出発してFrankfurtで乗り換え、Wienに行く。11時間+1時間弱のフライトである。待ち時間を合わせれば、Door to doorで18時間。苦痛である。
 食事は事前にベジタリアンのメニューを注文。ベジタリアンのメニューには、小麦アレルギー用、魚介類、アジア系と三つ用意されており、ボクはアジア系を頼む。蓋を開けてみれば、インド料理だった。これもなかなか悪くない。
 機内放送で、WBCで日本が連覇したニュースが入る。ルフトハンザも粋な計らいをしてくれるものだ。あちこちで拍手があがる。搭乗直前に読んだ朝鮮日報のサイトでは、韓国との対戦は日本からすれば三食キムチが出るようなもの、との由。試合を観戦できなかったのは残念である。
 ここ数ヶ月の節制はどこへやら、機内ではシャンパン、白ワイン、赤ワイン、ビールに加えて、間食で出たサンドイッチやおにぎりまで平らげた。どんだベジタリアンぶりである。まあ、旅行の間は、ダイエットせず、現地のものを思い切り堪能することに決める。
 機内では映画を二本、観た。一本はWoody Allenのバルセロナを舞台にした恋愛劇。もう一本はアフリカ系アメリカンに公民権が付与された直後のアメリカを舞台にした作品。前者は相変わらずの台詞回しで笑わせてもらった。後者は少し長じたダコタ・ファニングの達者な演技が印象に残った。改めてアメリカにおけるアフリカ系住民が辿った苦難の歴史を思い知った。選挙権を取りに行ったら白人に殺害された事件がさりげなく描かれ、肌の色で露骨に差別されるシーンも織り込まれていた。
 ようやくFrankfurtに到着。パスポート・コントロールを済ませて、再びビールをあおる。空港を歩く人々は、みな見上げるほど大柄だ。待合所のビジネスマンはみなノートのディスプレイを覗いている。
 一時間と少しのフライトを終え、Wienに到着。荷物が紛失していないか心配だったが、ちゃんと出てきた。やはり外は寒く、慌ててダウンを羽織る。バスでホテルへ。Westbahnhof駅の終点まで行けば、すぐそばにホテルが見える、はずである。日がすっかり落ちた後の車窓からの眺めは、心細くなるほど殺風景だった。まだ7時なのに、真夜中のように暗い。人通りも殆どなく、まるで休日のようだ。
 ホテルはすぐに見つかった。駅とは目と鼻の先。疲れている体にはこれほどありがたいことはない。Mercure系列。設備も内装も一人旅には申し分ないが、ネットが有料。1時間で8ユーロ(1.100円)なり。いっそネットはやめようかとも思ったが、紀香と陣内の顛末が気になっていたので、館内の無料端末でチェック。関係の絶頂期は、離婚なぞ想像もしていなかっただろう。一寸先は闇、か。

25 avril 2009 

des livres empruntés

 公共図書館で借りた本を返さない、返したとしても破損、汚損の状態で返却するという被害が後を絶たないらしい。こうしたことはモラルが低下した若年層の所業であるかのような印象をもってしまうが、必ずしもそうではないようである。
 先日、旅行で海外に行った時、ある日本の老人が図書館のラベルが貼られたガイドブックを持参してた。これには驚きを禁じ得なかった。期限内に返却すればいいと思っていらっしゃるのかも知れないが、一般に海外に持って行ったガイドブックはボロボロになる。海外旅行をするぐらいだから金がない訳ではないだろう。それを思うと、複雑な心境になった。
 きっと、次に借りる方はそのような状態になった本を快く借りることはないであろう。