mon voyage episode 4 :journal
27日。ウィーン滞在最終日。といっても、フライトは夜の7時半。
一日目にはあれほど心躍った朝食も、毎日同じではやはり飽きてくる。人の欲深さを感じる。朝食をすませてから、ノリのいいBIGINの曲を聴きながらだらだらと荷物の整理をする。チェックアウトは12時。
11時に向かいのお店に行ってネットに接続する。パキスタン人の店主は忙しいのか、ボクに店のお留守番をさせ、用事を済ませに駅まで行ってしまった。昨日はお茶をいれてくれたのに・・・「人類、みな兄弟」だから当然かも知れない。しかし、チェックアウトの時間が近づいてきており、12時15分前にたまらずお金を机の上に置いて店を出てきてしまう。
ホテルの部屋に入ろうとしたら、カードキーが認識せず、部屋に入れない。トイレもしておきたいし、荷物も完全にはパックしていなかったので焦ったが、フロントでカード情報を入力してもらって事なきを得る。
昼は街中をぶらつく。シュテファン大聖堂、その近くにあるモーツアルトの葬儀が行われた小さな礼拝堂をみる。礼拝堂は寂しいほど小さかった。大聖堂は一部改修中。off-seasonにはありがちな風景。拝観せずに立ち去る。ケルストナー通りは、やはりウィーンの中心街だけあって、人通りも多い。その殆どが観光客なのだろう。工事のせいで随分と歩きにくかったので、裏通りに入る。
中世の風情が残ると言われる旧市街の裏通りを散策する。石を投げれば銅像に当たるぐらい、ウィーンには街の至る所に銅像がある。なかでも見たかったのは、モーツアルトでもなく、ヨハン・シュトラウスでもない、グーテンベルクだ。印刷術の発達は、ヨーロッパの知のあり方を劇的に変えたが、きっかけを作った人物であると言われる。印刷技術自体は、中国の方が遙かに早く実用化されていたし、宣教師を通じて東洋から西洋へ印刷技術が伝わった可能性も十分に考えられる。さらに活版印刷がグーテンベルクが「発明」したかどうかも怪しいものがあるが、グーテンベルク像は感慨深いものがあった(教育実習の時に使った国語の教科書にもグーテンベルクの印刷術の「発明」が取り上げられていたな・・・)。そもそも、ドイツ人であるグーテンベルクの銅像が何故、ウィーンにあるのか不思議だが、この界隈に印刷業者が集まっていたことが、その理由のようである。近くには旧ウィーン大学講堂やイエズス会の教会などがあるが、そこから印刷物が発注されていたのだろうか。
その後、適当に歩いて昼飯を食べる場所を探す。煉瓦造りの地下に潜るようなお店があったので、飛び込む。いかにも地下のCurveといった趣で、雰囲気は最高。メニューは手書きのドイツ語しかなかったが、昼の定食(Menu)を頼み、血のソーセージを選ぶ。もちろん、ワインは赤。
コンソメ風のスープのあとに、ザワークラフトと衣を付けて揚げた血のソーセージが供される。味はどちらも美味しい。赤ワインともよく合う。赤ワインはグラスすれすれに注がれており、昼にしては量が多く、少し酔ってしまう。その後、その店にガイドブックを置き忘れたぐらいだから、やはり少しお酒が回っていたのだろう。
その後、Belvederに行き、クリムトの絵を見に行った。実は、宿泊していたホテルは内装にクリムトの絵の意匠をふんだんに盛り込み、朝食の時に流される映像はクリムトの絵が主体であった。クリムトの絵のモデルはみなとても美しいが、いつも気になる絵があった。誰かに似ているような絵があったのだ。それが誰に似ているのかどうしても思い出せない。
一度、部屋に戻り、それがシガニー・ウィーバーだと気づいてから、その絵がシガニー・ウィーバーが描かれているとしか見えなくなってしまった。だから、午後にBelvederにクリムトの絵を見に行く頃には、ほとんどシガニー・ウィーバーに会いに行くような気分になっていた。
目指すは「接吻」。何よりも先に接吻の前に行った。やはり本物は凄い。彼の作品のなかでも圧倒的な迫力があった。本当に美しい絵だった。また、他の展示物では、数は少ないものの、ルノワールや 世界史の教科書でみるナポレオン・ボナパルトの絵も展示されていた。午後はBelvederでのんびりと過ごす。
ホテルに戻り、荷物をピックアップ。飲み物だけは買っておき、早々に空港に向かう。飛行機は定刻の22時にボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボに到着。空港の両替所は閉まっており、KNに両替することができない!インフォメーションに訊くと、ユーロでも大丈夫との由。タクシーで値段を交渉して荷物料金も含めて15ユーロでホテルに向かう。
このタクシー運転手の運転の荒いこと、荒いこと。前の車との距離を一挙に縮めたかと思えば、前の車を煽る、煽る。そして、どんどん前の車を抜き去っていく。メーターをみると、一般道なのに時速100kmを超えていた。驚いて周りの景色をみる余裕もなかったが、銃による乱射を浴びたとおぼしき建物が目に入る。ほどなくしてホテルに到着。「さようなら」という意味のセルビア語を教えてもらった。Do viđenja、これがボクが生まれて初めて使ったセルビア・クロアチア語になった。
一日目にはあれほど心躍った朝食も、毎日同じではやはり飽きてくる。人の欲深さを感じる。朝食をすませてから、ノリのいいBIGINの曲を聴きながらだらだらと荷物の整理をする。チェックアウトは12時。
11時に向かいのお店に行ってネットに接続する。パキスタン人の店主は忙しいのか、ボクに店のお留守番をさせ、用事を済ませに駅まで行ってしまった。昨日はお茶をいれてくれたのに・・・「人類、みな兄弟」だから当然かも知れない。しかし、チェックアウトの時間が近づいてきており、12時15分前にたまらずお金を机の上に置いて店を出てきてしまう。
ホテルの部屋に入ろうとしたら、カードキーが認識せず、部屋に入れない。トイレもしておきたいし、荷物も完全にはパックしていなかったので焦ったが、フロントでカード情報を入力してもらって事なきを得る。
昼は街中をぶらつく。シュテファン大聖堂、その近くにあるモーツアルトの葬儀が行われた小さな礼拝堂をみる。礼拝堂は寂しいほど小さかった。大聖堂は一部改修中。off-seasonにはありがちな風景。拝観せずに立ち去る。ケルストナー通りは、やはりウィーンの中心街だけあって、人通りも多い。その殆どが観光客なのだろう。工事のせいで随分と歩きにくかったので、裏通りに入る。
中世の風情が残ると言われる旧市街の裏通りを散策する。石を投げれば銅像に当たるぐらい、ウィーンには街の至る所に銅像がある。なかでも見たかったのは、モーツアルトでもなく、ヨハン・シュトラウスでもない、グーテンベルクだ。印刷術の発達は、ヨーロッパの知のあり方を劇的に変えたが、きっかけを作った人物であると言われる。印刷技術自体は、中国の方が遙かに早く実用化されていたし、宣教師を通じて東洋から西洋へ印刷技術が伝わった可能性も十分に考えられる。さらに活版印刷がグーテンベルクが「発明」したかどうかも怪しいものがあるが、グーテンベルク像は感慨深いものがあった(教育実習の時に使った国語の教科書にもグーテンベルクの印刷術の「発明」が取り上げられていたな・・・)。そもそも、ドイツ人であるグーテンベルクの銅像が何故、ウィーンにあるのか不思議だが、この界隈に印刷業者が集まっていたことが、その理由のようである。近くには旧ウィーン大学講堂やイエズス会の教会などがあるが、そこから印刷物が発注されていたのだろうか。
その後、適当に歩いて昼飯を食べる場所を探す。煉瓦造りの地下に潜るようなお店があったので、飛び込む。いかにも地下のCurveといった趣で、雰囲気は最高。メニューは手書きのドイツ語しかなかったが、昼の定食(Menu)を頼み、血のソーセージを選ぶ。もちろん、ワインは赤。
コンソメ風のスープのあとに、ザワークラフトと衣を付けて揚げた血のソーセージが供される。味はどちらも美味しい。赤ワインともよく合う。赤ワインはグラスすれすれに注がれており、昼にしては量が多く、少し酔ってしまう。その後、その店にガイドブックを置き忘れたぐらいだから、やはり少しお酒が回っていたのだろう。
その後、Belvederに行き、クリムトの絵を見に行った。実は、宿泊していたホテルは内装にクリムトの絵の意匠をふんだんに盛り込み、朝食の時に流される映像はクリムトの絵が主体であった。クリムトの絵のモデルはみなとても美しいが、いつも気になる絵があった。誰かに似ているような絵があったのだ。それが誰に似ているのかどうしても思い出せない。
一度、部屋に戻り、それがシガニー・ウィーバーだと気づいてから、その絵がシガニー・ウィーバーが描かれているとしか見えなくなってしまった。だから、午後にBelvederにクリムトの絵を見に行く頃には、ほとんどシガニー・ウィーバーに会いに行くような気分になっていた。
目指すは「接吻」。何よりも先に接吻の前に行った。やはり本物は凄い。彼の作品のなかでも圧倒的な迫力があった。本当に美しい絵だった。また、他の展示物では、数は少ないものの、ルノワールや 世界史の教科書でみるナポレオン・ボナパルトの絵も展示されていた。午後はBelvederでのんびりと過ごす。
ホテルに戻り、荷物をピックアップ。飲み物だけは買っておき、早々に空港に向かう。飛行機は定刻の22時にボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボに到着。空港の両替所は閉まっており、KNに両替することができない!インフォメーションに訊くと、ユーロでも大丈夫との由。タクシーで値段を交渉して荷物料金も含めて15ユーロでホテルに向かう。
このタクシー運転手の運転の荒いこと、荒いこと。前の車との距離を一挙に縮めたかと思えば、前の車を煽る、煽る。そして、どんどん前の車を抜き去っていく。メーターをみると、一般道なのに時速100kmを超えていた。驚いて周りの景色をみる余裕もなかったが、銃による乱射を浴びたとおぼしき建物が目に入る。ほどなくしてホテルに到着。「さようなら」という意味のセルビア語を教えてもらった。Do viđenja、これがボクが生まれて初めて使ったセルビア・クロアチア語になった。