31 octobre 2008 

Un voyage à Formose:journal

 故あって、台湾の嘉義にやってきた。台湾に来るのは久方ぶり。新装の空港に驚いたぐらいだから、ひょっとしたら4、5年は来ていなかったのかも知れない。
 空港からバスで台湾新幹線(高鉄)の桃園駅に行き、高鉄に乗り換えて嘉義へ向かう。1時間の道のりで660元だから、二千円ほど。日本の新幹線より安く、空席も多いからとても快適だ。
 嘉義の中正大学は森の中にあるような閑静な場所にある。この時期でも日中は30度に達するが、夕方の散歩は極めて快適。しっとりした空気が心地よい。
 このたびの滞在で知ったことだが、台湾の手話は日本の手話の影響を強く受けているらしい。試しにボクが知っているいくつかの単語の意味を訊ねてみたら、果たして日本と全く同じであった。手話は音声言語と同様、地域によって大きな差異を有する。手話=ユニバーサル言語ではない。手話の国際会議で手話通訳がずらりと並ぶ光景をテレヴィで観たことがある。そうしたなかにあって、日台間では聾唖者がかえって健常者よりコミュニケーションがとりやすい可能性がある。文法レベルではどうなのだろう。なかなか興味深い。
 夜は南管という地方の芸能を鑑賞する。非常に洗練された、高雅な舞台であった。面白かったのは<桃花搭渡>というオペラの二人舞台。閩南語を訳した字幕を読みながら掛け合いの諧謔を楽しむ。ラストは<一紙相思>という三部構成の楽曲。一曲40分にも達する。構成の最後に小型の能面をかぶった役者が登場。しかし一貫したゆったりとしたリズムによって、最後には睡魔と格闘。ノックアウト寸前になった。
 独特だったのは南鼓(圧脚鼓)といわれる中型の太鼓の演奏法。両脚の間に配置した太鼓の上に、左足を乗せ、足の位置を微妙にずらして音色を変える。こうした手法を観たのは初めてであった。
 夜の屋台。蚵仔煎、豆腐花、カップに入ったカット・フルーツを買い食いする。台湾はフルーツ天国。安く、沢山の種類の果物が食べられる。ふらっと何気なく入ったお店でも、結構、美味しい料理を出してくれる。食べ物が美味しい街というのはこういう街のことをいう。旅行者から「沖縄は料理がイマイチ」と言われるのは、適当に入ったお店で失望を味わう確率が高いことも一因だ。このことは沖縄料理が美味しくないということを意味しない。ハズレを引く確率が高い街は、パリ、ロンドン、ロサンゼルス、上海、プラハ・・・。
 一方、食べ歩きで面白い街は、大阪。明石焼、串揚げ、餃子など少しずつ注文しながらハシゴする。立ち呑み屋のハシゴも好きだ。だが、串揚げ屋の「二度づけ禁止」の張り紙には、心持ち緊張してしまう。ルールを踏み外さぬよう意を注ぐ。そこここに「〜禁止」と書かれ、顰蹙と隣り合わせの食空間は、存外少ない。もちろん二度づけをした覚えはないが、それをしない自然な振る舞いが身に付いている気もしない。緊張の原因は所謂「ハビトゥス」にある。
 話を台湾に戻す。大学の招待所で迎えた朝は、小鳥の鳴き声で目を覚ます。網戸を開け放して眠りについたが、夜中に目を覚ますことはなかった。寝覚めも爽快。いつもはしない朝の散歩をしたくなった。一方、テレヴィ画面には色と文字が汪溢している。背景は極彩色の動画、CGがうざいほど多用され、文字が縦横に流れる。これではニュース番組で癲癇を発症する人がいるかも知れない。洗練とはほど遠い、そう思うが、これが庶民の好みなのだろう。
 翌日、台北に向かう。

27 octobre 2008 

instinct:journal

 「〜は男の本能である」といった言説で語れる事柄に、真理が含まれる可能性は殆どないと思っている。だが、先だってこれは「男の本能」なのか?と一瞬でも思わせるに十分なできごとがあった。
 不浄な話になり恐縮だが、便器には男性専用と男女兼用の二つが存在する。前者はいわゆる朝顔タイプ。後者は一般家庭に必ずあるタイプだが、後者の使用に関して、座って小用を足す男性も増えてきたという。かくいうボクも近年は自宅のトイレでは大小問わず座って用を足している。つまり「立ち派」から「座り派」に転向したのだ。ボクが転んだのは、あるテレヴィ番組を観たからだ。そこでは立って用を足した時の飛沫範囲が想像を遙かに超えて広い、という実験結果を紹介していた。その後、この番組では「立ち派」と「座り派」に別れて侃々諤々と議論していたが、そこで「立ち派」から苦し紛れに飛び出したのが「立って用を足すのは、男の本能」という言葉だった。そもそもこんな話題に「本能」という言葉の出る幕はない。それを言うなら「本能」というより「習慣」、さらには沽券に近い。
 閑話休題。最近、男性用便器の壁面にシールが貼られていることにお気づきだろうか?二重丸か三重丸だかの弓矢の的のようなものもあれば、逆三角形のシールが下方向に三つ貼られている場合もある。当然、それは設置者の意図によって貼られている。つまり、ターゲットを敢えて設定することで、最終的には飛沫範囲を最小限に食い止める効果を狙っているのだ。実際、この目論見は見事に奏功している。
 ボク自身も心当たりがある。無意識のうちにそのシールを狙い、ハッと我に返る時があるのだ。開発者の発想には心底、感服する。なぜ的を狙ってしまうのか。自らの心の内を仔細に探ってもその理由を見つけられない。そこで脳裏に浮かんだ言葉が「男の本能」だった。
 当然、その言葉は即座に打ち消されたが、無意識以上の普遍性があるように思えてならない。無意識と本能。この二つの概念がどれだけの差異を有しているのか、ボクには分からない。だが、人は論理的で、合理的で、理性的な判断がつかない自らの行動の理由を探るとき、「本能」という言葉をつい使ってしまうのではないだろうか。きっとボクが「本能」という言葉に疑念を抱くのは、思考の痕跡が感じられない安直さゆえである。

12 octobre 2008 

Plus beau que paradis

 「天国よりも野蛮なのに、時々世界は美しい」。一年中こんな天気だったらいいのに、と感じるような心地いい光と気温に包まれた絶妙な天気だった。そんな一日を、ボクは海の見える研究室で過ごした。

 

C'est un petit miracle.:journal

 下村脩さんのノーベル賞の受賞。やはりボクにはその真価を理解することができないが、彼の成果は研究活動がもつある側面を教えてくれる。
 彼自身、緑色蛍光タンパク質(GFP)を発見した時は、それが何に応用されるか全く想像しておらず、研究の動機としてはただ光る仕組みを解明したかったという旨のことを述べている。
 一般に一つの研究は他の隣接する研究分野と重なりながら、広大な網の目をなしている。言語学一つとっても、大脳生理学や社会学などと重なる領域をもつので、それ単体で存在している訳ではない。よって一つの研究分野の成果が、他の分野に応用される可能性を常に秘めている。
 例えば、公道を走ることができないF1カーの開発は、それだけをみると無意味に見えることもあろう。しかし、F1カーの車体により軽く、頑丈なものを採用しようと物質の剛性を研究していくことは、F1カーの利益のみに留まるものではない。以前のIBMのノートパソコンの筐体にF1カーと同じ強化プラスティックが使われていたが、そうした形で応用される可能性もある。
 たとえ自分の専門のことであっても、人はその研究の全ての可能性を予想できない。下村さんもそうだったのだ。すぐに応用されるかも知れないし、数十年後に応用されるかも知れない。もちろん、応用を支えるのは、基礎である。基礎を疎かにしては、応用はありえない。よく言われることだが、このことを本当に理解している人は、存外少ないのではないか。
 もちろん、研究によっては、その後に何の影響もなく消えていくものもあろう。しかし、イチローでも夢の四割には届かないように、また伝説的なストライカーも1試合に1点もとれない試合があるように、有象無象の研究者もまたその研究も、活発な研究活動に付随して当然に出てくるものなのだ。
 自分への言い訳じみた話になったが、研究には瓢箪から駒が出るという側面が数多くある。しかしそれは研究のネットワークに穴がないことではじめて可能になる。研究の詳しい内容や真価が分からなくても、他の研究分野を尊重するという姿勢は、やはり全体の底上げに繋がるのではないだろうか。今の大学でそういう姿勢があるかは疑問だが・・・。

11 octobre 2008 

Cuisine turque:journal

 オークランド大学の先生の調査にお付き合いして、トルコ料理のお店、ISTANBUL KEBAB HOUSEに行った。
 注文したのはパンの上にトマトソースをかけたドネルケバブにヨーグルトを添えたIskender Kebab(写真)。量は少し少なかったが美味しかった。ビールのつまみなら最高だろう。トルコ人が調理しているし、ボクの直感は本場の味に近いことを教えてくれた。それは、ドイツで食べたトルコ料理の味が髣髴としたからであろう。
 沖縄にはもう一軒、トルコ料理のお店がある。自宅と大学の間にあるため、ボクも一度行ったことがある。そのお店は以前、南米料理だったのだが、トルコ料理になってもあまり味が変わっていないという印象だった(どこぞの組織改革のよう(笑)。確かにトルコアイスは売っていたし、アイスを渡すときにくるっと回していたのだが・・・ドイツのトルコ料理店の風景がフラッシュバックすることはなかった。下は食後に飲んだチャイ。インドのようにミルクティではなかった。ちなみにトルコ料理は世界三大料理の一つだという。その三つはフランス料理、中華料理、トルコ料理。各々はキリスト教、仏教、イスラム教の各文化圏を代表していると、以前読んだトルコ料理の本に書いてあったような気がする。

 



09 octobre 2008 

Caramel frais

 今、話題の生キャラメルを食べた。先日、北海道物産展では売っていなかったものが、近くのスーパーの北海道コーナーに置いてあった。口に含むとスッととろけてなくなり、切なくなった。結構、旨くて、下手すると二個、三個と口に運び、気が付くと全てがなくなっている。そんな味だ。原材料は生クリーム、砂糖、バター、水飴、バニラビーンズ。キャラメルにしては10粒800円とは値段が少し高い。それほど高価な材料が使われているとは思えないから、何とか作ってみたいという思いに駆られた。ネットで調べると、生キャラメルの作り方がアップされていた。便利になったものである。

08 octobre 2008 

Prix Nobel:journal

 日本の三人の学者がノーベル物理学賞を獲得した。いつものことながらメディアはお祭り騒ぎである。30年以上前の業績が、その影響力を現在も失わないことが歴史的にも立証されたのだから、これは凄いことだ。そうした研究というのはなかなかできるものではない。
 しかし、残念ながら門外漢のボクにはこの研究の真価をはかる能力はない。おおかたも大同小異だろう。メディアを含め、多くの方は研究成果に対してではなく、ノーベル賞の「権威」や「日本の名誉」に騒いでいる。成果に対して騒ぐなら、30年以上前のことであってよかったはずである。
 何故ノーベル賞が権威となり得るのかは詳細な分析が必要なのだろうが、基本的にその分野の専門家が十何年、何十年という長い時間をかけてその研究の重要性について検討しているということが、その根拠の一つになっているに違いない。これは当該分野に疎い人間が「どこどこの雑誌に掲載されているから」とか、「年間何本論文書いているから」という理由で研究業績を判断している日本の大学の評価システムとは対極にある。研究の価値を判断することは、極めて専門性が高く、時間が必要で、門外漢にとっては絶望的に難しいことなのである。
 ノーベル賞を獲得した彼らも、「それは何の役に立つの?」とか、「もっと社会のためになる研究をしたらどうだ?」といった類のことを一度くらいは言われていたと想像する。如何なる研究も、その研究に興味をもって携わっていない、あるいは自分自身と関係づける想像力がない人には、無用の長物に映るであろう。ノーベル賞を獲得した研究さえそうなのだから、他の研究も推して知るべし。人はどうしても、自分個人との関係で、有用性を即断しがちである。自分が何も知らないということを自覚し、研究の真価を軽々に判断しないということが、謙虚な態度というものなのだろう。
 彼らの研究の真価を知るために万策を尽くしてはじめてその研究の重要性がわかるのだろうし、そうすることなくして、研究の価値や楽しさは分からないのだろうと思う。

01 octobre 2008 

Comme un cambrioleur:journal

 同僚の先生と楽しく焼肉を食べた夜。12時半頃に部屋に戻った。しかし、鞄の中やポケットを探しても、部屋の鍵が見あたらない!
 焼肉屋に電話しても、忘れ物はないという。可能性としては研究室。しかし、その可能性が潰えたときの閉塞感を考えると、タクシーに飛び乗る気にはなれない。
 そこで飛び乗ったのは、自宅マンションのベランダ。ベランダのサッシが開いていることに賭けた。ボクの部屋は一階だが、ベランダの高さは3m以上。もちろん、ベリーロールや背面跳び、棒高跳びでも飛び越すことはできない。そこで、車を踏み台にしてベランダに飛び乗ることに。
 酩酊状態でベランダを乗り越えるのは無謀であったが、ロッククライミングよろしくベランダに侵入。そして、サッシに手をかけたが・・・開いてなーい!もう一方のサッシは・・・無防備というか幸いにもロックがかかっておらず、自室に入ることができた。両方閉まっていたら、台風が近づいているにもかかわらずベランダで一晩を過ごすことになったに違いない。
 なかなか、スリリングな体験であった。ボクは案外、空き巣の才能があるのかも知れない。