30 mars 2006 

THE MACHINIST:films

Brian Anderson 監督の"THE MACHINIST"を観た。工場に働くTrevorは一年にも及ぶ不眠でいつも疲弊しきっていた。体重も次第に落ちてカラダはやせ細り、頬もこけて目の隈がとれない状態。ある日、彼は彼の同僚と名乗る赤い車に乗る男と出会う。ある日、職場で彼に気をとられていた時に、機械の誤動作で同僚の腕が切断されてしまう事故が起きる。だが、その事故を彼の 責任だという同僚は彼が気をとられていた男など職場に存在しないという・・・。
 全体的にダークトーンの映像に、異常に痩せこけた主人公。不気味な音楽とともにストーリーは次第に混迷を深め、現実と妄想が交錯する。観客も主人公と同様の「一体どうなっているんだ?」という疑問を共有する。そして、ラストに全てが氷解する。サスペンスとしては非常によくできた作品。主人公はある意味「道徳的」で「正常」だったのかも知れない。監督はホラー作品の『セッション9』を撮っているがそれよりは格段に腕が上がっているように思う。

29 mars 2006 

Breve Histoire d'amour:films

 Krzysztof Kieslowski監督のKROTKI FILM O MILOSCIを観た。
 19歳の郵便局員トメクは、毎晩望遠鏡で向いのアパートに住む女流画家マグダの部屋を覗き見ていた。情事にふけるマグダの部屋にトメクは無言電話をかけたり、彼女に逢うために架空の呼び出し状を投函して郵便局に来させたり、果ては牛乳配達のバイトを始めて彼女の家に近づこうとする。しかし、覗き見ているうちに、純粋だが困難な恋におちてしまう。ある時、彼に覗かれていることに気づいたマグダは最初は気味悪がっていたが、次第にトメクに近づいていく。
 女性は性的な身体を見られることによって獲得していく、というのは本当なのだろうか?男性は見ることによって、女性は見られることによって自らのセクシュアリティを形成していく。この映画はその説をそのまま取り入れたように話は展開する。そして、ある日
マグダは「世間でいう愛の正体」をトメクに教える。この「世間でいう愛の正体」という表現は秀逸だ。覗くという観念的ともいえる行為が生々しい身体性を伴ったものになることによって、トメクは絶望する。
 覗きという行為は卑劣だ。自らは対象からの反作用を受けない安全地帯に身を置きながら、相手のプライバシーを侵害する。この映画を観ていてどうしてもちらつく作家があった。三島由紀夫である。覗く男というのは三島作品にも随分と登場しているが、Kislowskiの作品は三島作品とはやや趣を異にする。『トリコロール・赤の愛』では、他人の家の会話を盗聴する退官判事が出てくるが、Kieslowskiの作品には彼らを単純に罰するのではなく、そうしたキャラクターを温かく包む女性を登場させることにより救いの手を差し伸べる。三島作品では覗く者は最後には罰せられ、転落してしまう。『天人五衰』の本多繁邦がまさにそれだ。本多もまた、判事だったことは偶然以上の巡り合わせを感じる。邦題は『愛に関する短いフィルム』。この映画の画像を探している時に、オリジナルの映画ポスターを紹介しているページがあった。こちらである。上段左の三種類がそれである。日本で出されるポスターとは違い、随分過激で驚いた。同じ映画のポスターとは思えない。これではホラーかカルト・ムービーの趣だが、この映画の本質を見事に表している。

28 mars 2006 

La cuisine indienne:journal

友人がスリランカを旅した。曰く、カレーは日本が圧勝との由。その話を聞いて無性にカレーが食べたくなった。といっても日本のカレーではなく、本場のカレーを。そこでミラ・メータ著『はじめてのインド料理』文化出版局を購入し、とりあえずレシピに従って作ってみることに。と、いっても欲しかったスパイスが全て手に入らなかったので適当に間引いて作った。その他はジャスコで購入したフォーションのスパイスを使用した。
【材料】
・手羽先6本(本ではチキンドラム)
・トマトホール1缶
・タマネギ大1つ(本では中3個)
・赤唐辛子(鷹の爪)1本
・砂糖なしのシナモンパウダー(本ではシナモンスティック2-3cm)
・ウッチンの錠剤(本ではターメリック小さじ3/4)
・コリアンダーパウダー小さじ2
・クミンパウダー小さじ2
・摺り下ろしたしょうが・少し
・摺り下ろしたにんにく1かけ
・オリーブオイル大さじ1(本ではサラダ油大さじ3)
・チキンスープ400cc(本では水)

【作り方】
 1,タマネギ、赤唐辛子、シナモンパウダーを焦げ茶色になるまで炒める。
 2,さらにトマトホールを入れて炒め、クミン、コリアンダー、うっちんを投入し、チキンスープで煮る。
 3,煮ている間に塩こしょうした手羽先をオーブン(コンロの魚焼き)で焼き、焼き上がったらそのまま鍋に入れて20分程度弱火で煮る。
 4,塩、オリーブオイル、ガラムマサラで味を調えてできあがり!

作っている途中から部屋の中にスパイスの香ばしい香りが広がり、弥が上にも期待は高まる。いざ、食べてみると...ビックリするほど旨い!これまで本場風のインド料理はレストランに行かなければ食べられないと思っていた。しかし、初めて作ったのにこの風味、このコク、このバランス!
 今回は本場にコダワリをもって作ったため、インド人よろしく食べてみた。つまり、
由緒正しく素手で食べた。いざ、カレーに指を入れたら、熱くて、熱くて、火傷寸前。きっとインドの人はもっと冷まして食すのであろう。そもそも、ナイフやフォークを使う前はフランスでも料理は素手で食べていた。西洋料理にアツアツの料理が少ないのはその名残なのかも知れない(まあ、真偽の程は不明だが)。
 とにかく、スパイスを使った本場のカレーは美味しい。インド料理はスパイスが命であることを思い知った。本の前書きには以下のように書いてあった。「最後に、目に見えないもう一つ大事なスパイスがありました。それは心。リラックスして楽しむ心です。それは、必ず最高の味を引き出してくれます。」

 うーん、名言である。

27 mars 2006 

Dear Frankie:films

 Alex Heffes監督のDear Frankieを観た。
 一人息子Frankieと実母ともに各地を転々とするシングルマザー・Lizzie。定期的に父親からFrankieのもとに手紙が届くが、それを書いていたのは母親のLizzieだった。
 DV夫の陰に怯えて男を信じることができなくなっているシングルマザーと父の暴力で難聴になった息子、そして束の間の父親を演じる男の物語。全編を通して、DV夫の存在が喉に引っかかった棘のような緊張感を与えている一方、謎の男がDVで大きな精神的痛手を受け、氷のようになってしまった心をゆっくりと溶かしていく。また、この映画は派手ではないが、映像が美しい。グラスゴーの街並みやフラットの緑色のタイルに代表されるようにブラウンとグリーンの色使いが美しい。
錆びた茶色さえも美しく演出しているのが印象的。日常のなかにある色を生かした調和がとれた映像である。
 束の間の父親役をGerard Butlerを演じているが、なかなか渋い。『オペラ座の怪人』ではファントム役をやっていたが、顔の半分が仮面に隠れていたので最初は分からなかった。今回の役柄でこんな顔してたんだと改めて知る。プロフィールをみたら、同じ年齢!僕の2ヶ月前に生まれている。あの貫禄というか渋さというのは同じ年には全然見えない。この映画では歌うシーンはなかったが、
オペラ座の怪人ではただ一人、歌の吹き替えなしで演じていたので歌唱力は折り紙付き。さらにグラスゴー大学で法律を学び、実際に弁護士をやっていたという。なんと多才な!
 ストーリーといい、Gerard Butlerといい、この映画は世のシングルマザーのハートを鷲掴みにするであろう。やや予定調和的だが、優しさに満ちた、いい作品である。

26 mars 2006 

CORPSE BRIDE:films

 TIM BURTON監督のTIM BURTON'S CORPSE BRIDEを観た。
 家柄が欲しい一族とお金が欲しい一族。両者の希望を叶えるビクトリアとビクターの政略結婚。結婚式前夜、リハーサルで誓いの言葉がどうしても口から出てこないビクターは森の中で一人練習をする。地面から突き出た棒を新婦の指にみたてて結婚指輪をはめ、誓いの言葉を述べると、突然地面から花嫁衣装を着た白骨化した女性が現われ、死者の世界に引きずり込まれてしまう・・・。
 生者と死者の世界。二つの世界を行き来して物語は進んでいくが、この映画では死者の世界の方がより色鮮やかに描かれて、楽しそうである。普通の人間なら痛みを伴うような表現も、死者の世界の映像ではそれが笑いに転じる。金と名誉の欲にまみれた生者の世界、そうしたものから解放された死者の世界。最後に死者の世界と生者の世界が邂逅する。意外にも対立することなく、親和的になる点がユニーク。子供たちは死後の世界を未知の恐ろしいものとして考えることすらなくなるのではないかと思うほどだ。こうしたイマジネーションに溢れた映像はひょっとすると子供よりも大人の方が喜ぶのではなかろうか?最初はガリガリのキャラクターをどうして起用するのか、全然可愛くないのではないかと思ったものだが、生者の世界で死んだように生きるキャラクターとしてはまさにあの姿がうってつけのように思える。最後はキモかわいい感じに思えてくるから不思議だ。
 技術的なことも付け加えておこう。この映画は人形のトップ・モーションでできているそうだ。本編は短いが、撮影には途轍もなく長い時間と手間がかかっている。驚きなのはピアノを奏でるシーンも音楽に合わせて楽譜どおりに正確に鍵盤をたたいていること。クリエーターの情熱が人形に"生"を与えている。残念ながらCG全盛の時代にはそうした手間暇かけた映像もCGで作ったように見えてしまう。CGの発展が観客にリアルさを奪った一つの例かも知れない。

 

échalote insulaire:journal

 最近、芋焼酎にハマっている。アルコール度数が25度程度なので気軽に飲める。甘い香りもなかなかよい(最近は香りを抑えるのがトレンドらしいが)。
そこで俄然重要度が上がるのがおつまみである。一時期ハマったゼンマイの煮物(マイ)ブーム過ぎ去り、今は「島らっきょキムチ」が最高の肴になっている。本当は天ぷらが好きなのだが、自宅で作るには面倒なのでキムチor塩もみの方をお薦めする。
 【作り方】
 1,島らっきょうについた土を洗い流し、薄皮を剥ぎ、根と青い茎の部分を切る。
 2,市販のキムチの素をからめる。
 これだけである。市販のものを使うのは面倒だからである。春休みということもあり、島らっきょと芋焼酎で一杯やりたくて、夕方5時頃には飲み始めてしまう。まあ、4月になればこういう訳にはいかなくなるから、今だけのお楽しみということでご勘弁を。

25 mars 2006 

Rhythm is it:films

 Thomas Grube、Enrique Sanchez監督の"Rhythm is it!"を観た。
 ベルリン・フィルの芸術監督・Sir Simon Rattleは教育プロジェクトの一環として、子供たちがバレエを踊る企画を立てる。出身国や文化の異なる250名の子供たちが6週間に及ぶ猛練習を経て舞台で踊る姿を描いたドキュメンタリー。
 ベルリン・フィルとダンスのダの字も知らない子供たちとのコラボレーション。この企画に驚かされるが、もっと驚いたのは最初の子供たちのやる気のなさ!喋ったり、ふざけたりして最初は全くやる気を出さない。映画『エトワール』を観ていたので、その対極にある彼らに最初はもの凄く腹が立った。あのベルリン・フィルだぞ!お前たちは事の大きさが分かっているのか!と。しかも彼らが踊る音楽はStravinskyの「春の祭典」。度肝を抜かれるような複雑なリズムと不協和音と変拍子にどうやって素人の彼らが合わせていくのか?観ている方が不安になる。しかし、レッスンを積み重ねていくうちに、子供たちに徐々にだが変化が訪れる。
 やる気のない人々に一流の振付師がレッスンをする。15分で終わらせたいのに1時間以上かかってしまう。何だか振付師にシンパシーを感じてしまった。一つの舞台を作り上げることの苦労がよく分かる。ラストで少しだけ披露される本番は非常にまとまっているように見えた。さすがはプロ。個々人の技量をカバーするに十分な迫力ある舞台であった。きっと、学問にしろ、芸術にしろ、一流のものに触れると、その深い意味が分からなくても何かが伝わるのだろう。全員ではなくとも、数人に伝わればそれでいい。その数人がまた誰かに伝えられたら、それは大きな裾野となる。教育は欲をかいてはいけない。若者を信じることをあきらめてはいけない。そう戒められる思いだ。

23 mars 2006 

DEAR WENDY:films

 Thomas Vinterberg監督のDEAR WENDY を観た。
 炭坑で働くことが「男」として認められるような街。炭坑労働には馴染めず食料品店で働くDickはある日、プレゼント用におもちゃの銃を買う。その後、お店の同僚からそれが本物と知らされ、それをWendyと名付けて肌身離さず持ち歩くようになる。Wendyを持っているうち、次第に自分に自信がみなぎってくるように感じる。やがて彼は街の「負け犬」たちを集めて「銃による平和主義」を広める“Dandies”を結成する。最初は銃を人に向けることを戒めていたが、Dickが保護観察の少年の見張りをすることになってから状況が少しずつ変わってくる・・・。
 Dandiesの男性メンバーはみな
「ハマータウンの野郎ども」のような男性性から疎外されている。唯一の女性メンバーも同様で、メンバーからも性的な存在として見られていない。こうした欠落感を埋め合わせるものが銃だ。Wendyはある時はがらくたに、ある時は光り輝き、まさにDickに見いだされる存在となっている。(撮り方によって観客にはちょっと同じ銃には見えない時があり、やや混乱するが。)このWendyという名前で想起するのは、James Matthew Barrieの"Peter Pan and Wendy"である。映画のなかのDickはまるでギャングごっこをする子供そのものである。彼らに性的な臭いがないのも子供として描いていることと無関係ではないだろう。DickがまさにPeter Panのメンタリティをもつ存在として描かれていると考えるのは思い過ごしだろうか?もはや”Billy ELIOT”の面影はないものの、子役出身のJamie Bellを起用していることからもその点はうかがえるように思う。
 脚本はLars von Trier。監督は彼ではないが、多くのシーンで彼の陰がちらつく。街を俯瞰した地図やDandiesのアジトはDOGVILLEのセットを思わせる。西部劇を思わせるラストの銃撃シーンは笑いがもれるほど、滑稽。しかし、観客に向けられて発せられる銃にハッと息を飲む。こうした演出がうまい。銃を向けられることのリアリティが伝わる強力なメッセージだ。武力による平和などは幻想であると皮肉交じりながらも痛烈に批判している。小心者が自分の尊厳を獲得するために武器をもつことほど、恐ろしいものはない。銃で自分は守れない、このことを雄弁に物語る作品である。しかし、あまりに分かりやすすぎるというか、もう少し後半にひねりがあればよかったというか、先が読めるような展開だったのがやや残念。

22 mars 2006 

L'enfant: films

 Jean-Pierre Dardenne, Luc Dardenne監督のL'enfantを観た。
 20歳のBrunoと18歳のSoniaの間に息子のJimmyが生まれる。しかし、Brunoは定職につかず年下の子供と盗みをはたらく毎日。赤ちゃんを散歩に出しても赤ちゃんをダシに通行人に小銭をせびる始末。赤ちゃんに使わなければいけないお金も服や煙草に消えてしまう。ある時、養子に出すとお金が得られることを知った彼はSoniaに黙ってJimmyと引き替えに多額のお金を得る。それにショックを受けたSoniaをみてJimmyを取り戻すが、逆に養子エージェントに金を脅されて借金を負ってしまう・・・。
 邦題は「ある子供」だが、原題はL'enfantと定冠詞が使われている。最初は赤ちゃんのJimmyをいっているのかと思ったが、映画をみていくうちに父親であるBrunoのことを指していることが分かる。彼は性行為が10ヶ月後に自分の人生を一変させるなんて想像だにしておらず、父親という自覚も子供への愛情も抱けないでいる。行動もなりゆき任せ。こんな男性はBrunoだけではないだろう。また男と暮らすBrunoの母親も自分の孫に一目会いたいとさえ思っていない様子である。さりげなく世代間での不幸の連鎖を印象づけるシーンだ。ラストにBrunoはどうしようもない自分に会いに来てくれたSoniaとの再会に感極まって涙を流すが、それから彼が態度を改めると希望的な観測をするのは早計だろう。
 この映画は大人になることの困難を描く。この映画を見終わったあと、「大人になるとは?」という問いで、自分のこと、学生のこと、今話題になっている若者のこと、日本や他の国の社会のこと、様々なことを考えた。しかし、どれも漠として考えがまとまらない。自分がいつ、どのように大人になったのかさえ、よく分からない。大学で学生と接していると、学生であるうちは「子供」の特権を手放さないでおこうとする若者が一般的であるように思う。高額な授業料や低賃金のバイト、車や携帯電話、洋服や化粧品にかかるお金は経済的に親から自立することを困難にしているように見える。
 ふと思う。今の未成年にとって、法律的に成人に達することはトクなのだろうか?お酒は?煙草は?選挙権は?国民年金は?もちろん、この問いは意味をなさない。生きていれば成人する/しないの選択権はないのだから。しかし、成人に達することは避けられないが、大人になることからは逃げていられる。
 映画『エトワール』のあるダンサーは「エトワールに昇格しても自分が急に成長する訳ではないし、欠点は残されたまま。しかし、責任だけが大きくなる。それは簡単なことではない。」という旨のことを言っていた。「エトワール」に「大人」を代入しても事情に大差はない。どれだけ未熟であっても、より重い責任が求められる。昨日の自分とはなにも変わっていないのに・・・。
 僕が成人した時に「これからは悪いことをしたら新聞に顔が載るから」と言われた。成人式には多くの言葉を聞いたが、実はそれ以外のことは思い出せない。それはともかくとして、ある時期から誰にも依存せず、迷惑をかけず生きていきたいと思った。弱くて自立していない自分が他人に迷惑をかけることを恐れていた。結果的に自立は僕に自由を与えてくれた。自らの責任を引き受ける覚悟をもつことで、自分の望むように人生を選択できるようになった。誰に気兼ねすることなく自分のことを決められる自由。これは何物にも替え難い。しかし、それは結果的にそうなった、という性質のもので、自立(=非依存)と自由の関係が最初から念頭にあったものではない。
 随分と脇道にそれた。この映画はとにかく、観る者に多くのことを語りかけ、考えさせる。監督の主観を訴えるのではなく、そっと物語るように映像をつなげていく。主演が Jérémie Renierということで同監督のLa Promesseの延長上にあるような趣である。Brunoにしても徹底的に悪者として描くのではなく、彼、ひいては若者へのへのやさしいまなざしを感じる。この二人の監督の視線は厳しく、温かく、やさしさに満ちた真の大人のものだ。監督の人間的な大きさを感じさせる作品である。同監督のRosettaは自立しようと必死にもがく女の子を描いた作品で、L'enfantとはコインの裏表の関係にある素晴らしい作品だ(この作品もPalme d'Orを獲得)。併せてご覧になることをお薦めする。

21 mars 2006 

Le championnat

 今日のWBC決勝戦。日テレ系列の放映だったので沖縄では観られなかった。仕方なく、僕はネットのスポーツ新聞の速報で戦況を見守ることに。パソコンの前に一人でチェックしていたが、それはそれでかなり盛り上がった。
 しかしその後、ニュースで放映エリアの盛り上がりをみて、ガックリ。完全にノり遅れたと思った。野球も分からないと自分で言っているオバサンさえ、本当に喜んでいた。思わずオバサンに嫉妬した。ハッと気づいたらまばたきさえ忘れて画面のオバサンを睨んでいた。やはりスコアを追うだけではなく、ちゃんと試合を観なければ楽しめないのだ。
 WBCが今後も継続されることを望んでいる。今度はちゃんと大会の機構を整備してやるべきだ。開催時期や開催場所、審判の選定や選手の招集、グループリーグの順位決定やドーピングなど、問題は山積である。今回はアメリカに参加してもらうために、全てがアメリカに有利な大会になった。しかし、スポーツは不思議だ。下馬評通りに展開するとは限らない。 
 しかし、大切な試合はNHKにやってもらいたいものだ。民放に任せておくと、準決勝の韓国戦のように放映が途中で切られてしまうことになる。NHKもこういう時こそ、頑張ってほしいものだ。

19 mars 2006 

tout près des étoiles:films

Nil Tavernier監督のtout près des étoiles: Les danseurs de l'Opéra de Parisを観た。
300年以上の歴史をもつバレエの殿堂パリ・オペラ座バレエを追ったドキュメンタリー。至高の芸術の舞台裏。閉じられた世界、厳然たる階級制、のしかかる伝統、激烈な生存競争、ハードな訓練、栄光と恐ろしい挫折・・・。なんと過酷な世界か。
光が強いほど、陰も濃い。彼らはダンサーというより、アスリート・・・いや求道者である。教師たちは「才能が第一。私たちは才能の擁護者」と言い切り、ここでは七光りなどは通じない。徹底的な自己管理が求められ、努力と実力なき人間は去るのみ。ここと比べると自分のいる世界は何と大甘なことか。そんな極めて特殊な世界に生きる彼女らでも出産、家庭との両立、体力的な衰えと引退など、一般人と同じジレンマを感じている。
この映画を観た後にバレエをみたなら、きっとこれまでとは全く違った風景がみえてくるだろう。出番の可能性が低くとも黙々と代役の練習をするダンサーたちもいる。こうした層の厚さも伝統を支える力なのかもしれない。練習風景であっても、クラッシックからモダンまで幅広くこなすダンサーたちの超人的な踊りに魅了されてしまう。恐怖さえ覚える美しさ。人体芸術の極みである。
邦題は『エトワール』。お薦め。

18 mars 2006 

MIRTYLLES:journal

幸せは一種の麻薬である。幸せの記憶は人に欠乏感をもたらし、そしてなかなか消えない。手作りイチゴジャムはあっという間になくなってしまった。パンやクラッカーに塗ったり、紅茶に入れてロシアンティーにしたりとみるみるうちに一瓶が空になった。そこで冷凍庫にかなり前に買った冷凍ブルーベリーがあったので再びジャムを作ることに。あの幸せをもう一度、ということである。
 
【材料】
・冷凍ブルーベリー(300g)
・赤ワイン(適当)
・グラニュー糖(スティック4本)
・はちみつ(適当)
・レモン(半分)

【作り方】
・上記の材料を弱火で煮る。
・水分が少なくなってとろみがでたらできあがり。

焦がさないように常にかき混ぜながら煮る以外は材料も適当である。味の方は・・・やっぱり美味しい!赤ワインのコクとレモンの酸味がやや単調になりがちな味にアクセントを加えている。パンにはもちろん、ヨーグルトにも使えるし、チーズケーキやタルトのソースでもいいだろう。僕はベーグルに塗った。
ブルーベリージャムといい、イチゴジャムといい、最近は化粧水まで自分で作っているが、特にジャムなどは気をつけた方がいい。ジャムのカビは一般にパンに塗る際のパンくずが瓶に入ることによって発生する。異物が入らないような配慮が必要である。自然のものはいずれも足がはやく、日持ちがしない。幸せも、同じかもしれない。

17 mars 2006 

GLYCERINE:journal

冬は肌が乾燥する。保湿ローションがなくなりかけていたので、買わなければいけないと思っていた。しかし、多くの化粧水が売られているので何がいいのか分からない。価格もピンからキリまで。どれだけの違いと効果があるのか怪しいものだ。そこで「手作り化粧水」で検索をかけたら多くのサイトがヒットした。意外にも化粧水などは簡単にできてしまうことが分かったので自作することに。
 映画を観たあと、漢方薬局に寄る。そこでグリセリン(300円)と精製水(300円)を購入。1:5の割合で混合してできあがり。あまりに簡単すぎるのでLavenderのエッセンシャルオイルを数滴加えた。パッチテストの結果もOK!これまで随分と高い商品を買わされていたもんだと思った次第。手作りなのでもちろん無添加だ。是非、お試しあれ。
 普通の記事ならこれでおしまいだが、実はこの話には裏話がある。件の薬局でグリセリンを求めた際、女性薬剤師が僕に渡したグリセリンの箱には一見して分かる程度の大きさで「浣腸薬」と明記されていた。え?・・・とうろたえて「浣腸するんじゃなくて、化粧水の材料として使おうとおもいまして・・・」と顔と手を小刻みに横に振って弁明したら、「最近は自分で作られる方、多いですね」と理解を示してくれた。おじさんの薬剤師も「この精製水も上等よ」とやさしい笑みをたたえてフォロー(?)してくれた。
 浣腸薬を顔に塗っている奴!と思ってはいけない。グリセリンは化粧品や石鹸に多用されている。誰しも知らずに顔につけている可能性は十分、ある。浣腸薬を笑う者は浣腸薬で泣くのである。

 

Lakposhtha ham parvaz mikonand:films

Bahman Ghobadi監督の لاك پشتها هم پرواز مي كنندを観た。 アメリカ軍によるイラク侵攻前夜。イラン・イラク戦争、湾岸戦争、サダムフセインの圧政で荒廃したイラク北部のクルド人地域に再び戦争が訪れようとしていた。しかし、村人はいつ戦争が始まるのか分からない。孤児のサテライトは村の長老に頼まれてパラボナ・アンテナを買い、ニュース番組を受信して開戦の時期を知ろうとする。しかし、誰も英語が分からない。また彼は子供たちを先導して地雷を撤去し、それを売って現金収入に当てたり、武器と交換したりしていた。そんな彼が難民の少女に恋をする。彼女を追いかけるうち、両腕を失った彼女の兄に予知能力があることを知る・・・。
 絶望を表情に湛えた少女が恐怖に戦きながら断崖絶壁から飛び降りる。それだけが原色のような空色の靴を残して。そんな冒頭のカットにいきなり打ちのめされる。暴力と憎しみと絶望のなかから生まれた盲目の息子には母性の神話はあまりに無力で、難民となった少女は自殺ばかり考えている。デジタル・デバイドで置き去りにされた地域に戦争が訪れる恐怖。そこに台頭する少年デマゴーグ。この村では地雷が貨幣の代わりとして「流通」している。少女の兄に予知能力があるが、それは映画にファンタジックな要素を交えるためではない。彼は狂言回しのように現実におこった事柄を我々に伝える役割を果たしている。
 鉛色の空に響く爆音、足下には無数の地雷。この作品は戦争の絶望と恐怖と国と国との間で翻弄される子供たちを描いた映画であるが、決して「虚構」ではない。情報格差の問題が地球的な規模でかくも深刻な事態を引き起こしていることを、この映画以上に雄弁に、実感として観る者に伝える作品はないのではないだろうか。これが現代の現実であることを思うと暗澹とするが、この悲惨な現実に日本はイラク戦争を支持したことで荷担したことを私は忘れないようにしようと思う。是非、劇場に足を運ばれたい(公開は今日までだけど・・・)。邦題は「亀も空を飛ぶ」Lakposhtha ham parvaz mikonand。「亀」は少女のメタファーか。

15 mars 2006 

INA BAUER deux: journal

イナバウアーが完全に人口に膾炙してしまった。オリンピックが終わって久しいが、今年の流行語大賞は早くも決まりか?イナバウアー関連のニューストピックを集めてみた。
・反り返るえび天、イナバウアーそば人気 静岡・新居
・動物園のラブちゃん(かわうそ)は“イナバウワー”で人気上昇中
・イナバウアーする亀
・不透明経理問題が表面化したスケート連盟の事務局。所属する金メダリスト荒川も驚きのイナバウアー!?
・エミリー・ローズ、悪魔のイナバウアーCMに抗議が殺到!
・民主の平謝りは「逆イナバウアー」
・イナバウアーのやりすぎにご注意!
流行語にあやかり、耳目を引きつけたいという下心か、はたまた流行語を使いたいという無邪気さか。因みにこの記事は両方である。

14 mars 2006 

AERON FLUX:films

Karyn Kusama監督のAEON FLUXを観た。
西暦2011年、人類はウィルスにより99%の人間が死滅する。しかし、グッドチャイルドが開発したワクチンで500万人が生き残り、それ以来、汚染された外界から隔てられた都市で生活していた。しかし西暦2415年、世界を囲い込む政府に強い疑いを抱く反政府組織“モニカン”は、Aeon Fluxに君主暗殺を命じる・・・。
 上演前にAEON FLUXのチラシをみた時、ふと転げ落ちていった一人の女優がダブった。彼女の名はHalle Berry。彼女はChocolateでの演技が評価されてアカデミー主演女優賞を獲得したにもかかわらず、その後、CGに顔を貼り付けるだけでアクションができてしまう映画・Cat Womanでラズベリー賞を獲得してしまった(授賞式に参加したらしいが、アカデミー賞の受賞の瞬間のように言葉にならない驚きを示したのだろうか?)。黒装束で相撲の股割りよろしくポーズをとるCharlize TheronがCat Womanのようにならなければ・・・と一人不吉な思いに駆られながら映画の上演を待った。
 きっとこの映画の見所は、Charlize Theronの美貌と未来の衣装やデザイン、CGを使ったアクションシーンなのだろう。しかし、
この映画にみる2415年の風景はキッチュな和風・・・というのはいかがなものか。
 
まず感じたのは未来を映像にするのは我々が思う以上に難しい、ということ。人が未来予想図を描くようになって久しいため、今では未来史という分野さえ確立されている。古くさい未来図というものが既に観客のなかに存在しているため、観る者に新鮮な新しさを感じさせる未来を描くことは簡単なことではないのである。未来を描いた歴史を考えた時、この映画の意匠はどう位置づけられるのだろう?
 映画の冒頭はスタイリッシュな映像だと思ったし、目を瞠るデザインもあったが、映画全般で考えればやや統一性を欠くセットだった。Aeonが攻め込んでいった政府の中枢部も手薄で実体がなく、あまりに粗末な印象。映画自体はガッカリ系だったが、Charlize Theronをひたすら観たい向きは劇場に足を運ばれるとよいであろう。アクション映画は劇場で観てこそ、迫力が感じられるものだから。ただし、この映画は割引が適用される時間帯に。

 

une erreur d'arbitrage:journal

WBCの日本vsアメリカ戦。誤審問題が喧しい。スポーツに誤審はつきものである。サッカーでもよくある。これはなかなか避けがたい。しかし、今回の誤審がサッカーのそれとは大きく異なるのは審判の国籍である。サッカーの国際Aマッチは主審から線審に至るまで、対戦国出身の審判が選ばれることは決してない。サッカーでは主審がどこの出身で、どれだけのキャリアがあり、過去自分のチームにどういった判定をしていたか、イエローカードやレッドカードなどのファウルの許容性に至るまで調べ上げて試合の臨む。仮にドイツ・ワールドカップの決勝トーナメント・ドイツvsイングランド戦でドイツ国籍の審判が主審を務めることになったらどうなるだろう?イングランドの試合のボイコットさえあり得る事態だ(そもそもそんなことは実現しないが)。しかし、日本vsアメリカ戦の審判はアメリカ人。メジャーの審判が一流だと誰もが言うかも知れないが、これがサッカーならあり得ない問題だ。もし、審判が日本国籍で、審判のきわどい判断が試合中にあり、アメリカが負けたら、彼らは黙っているだろうか?ここでも日米は対等ではない。野球の国際化の歴史が浅いことを露呈した歴史的な誤審だ。繰り返すが、誤審は避けがたい。しかし誤審と審判の国籍の関連が取りざたされるような事態は事前に取り除く必要はあるのではないだろうか?

 

LOST IN LA MANCHA:films

Keith Fulton & Louis Pepe監督のLOST IN LA MANCHAを観た。
 世界の名作『ドン・キホーテ』をテーマにした「The Man Who Killed Don Quixote(ドン・キホーテを殺した男)」。制作費50億円。監督は『未来世紀ブラジル』のTerry Gilliam。主演はフランス映画界の重鎮・Jean Rochefort。ハリウッドの若手実力者・Johnny Deppとその妻・Vanessa Paradisの競演。空前の大作となり、世界中に配信されるはずだった。しかし、いざ、撮影がはじまると、監督の熱意を踏みにじるように突然の雷雨に襲われ、時代衣装をまとって馬に跨った役者の上空をNATOの空軍機が飛び交い、ドン・キホーテを演じるロシュフォールの体調に異変が生じ、それに付随する保険会社との間に次々と補償問題がおきる・・・。
 アクシデントが起こるたびに繰り広げられる議論とスタッフの対応に大笑いしてしまう。『ドン・キホーテ』に「喜劇で一番難しい役は愚か者の役であり、それを演ずる役者は愚か者ではない。」という一節がある。一般に喜劇は緻密な計算によって構成される。しかし、この作品は意図せざる全てのアクシデントやスタッフの不幸が結果的に作品を一級の喜劇にした珍しい例と言えよう。エディターの笑いのセンスは素晴らしい。映画製作の裏側をのぞけるのも興味深いし、監督業の労苦もしのばれる一本。作られた喜劇に飽きた向きにはお薦めだ。
 この映画を観る限り、
Terry Gilliamは「変人」だとは思わなかったが、同様に「変人」の誉れ高いLars von TrierのDOGVILLの撮影風景を描いた作品DOGVILLE CONFESSIONS(邦題「メイキング・オブ・ドッグヴィル 〜告白〜」も面白かった。映画編集については「カッティング・エッジ 映画編集のすべて」が非常に参考になる)

13 mars 2006 

MUNICH:films

 1972年のミュンヘン・オリンピックで起きたパレスチナ・ゲリラによるイスラエル選手殺害事件とその後のイスラエル暗殺部隊による黒い九月への報復を描いた作品。
  本当に悲しい物語だ。エンドロールのに流れるヴァイオリンの調べに同調するように陰鬱な気分になる。人を殺したことがなく、出産間近の妻がいるからこそ、 暗殺者として指名されてしまう男Avnerの悲運。家族を守るために引き受けた任務によって、家族が危険にされされる矛盾。暗殺者として人を次々に殺して いくうちに、心が荒廃していく。そして、人を殺すことへの敷居がどんどん低くなっていく。
 報復合戦では憎しみしか生まれない。こう言うことはキ レイゴトな のだろうか?当事者ではないからそう言えるのだろうか?愛する人を政争の具や悲惨な形で失ってもなお、自分はこう言っていられるのだろうか?では、どう やったら人を憎悪しなければならない苦しみや応報感情を乗り越えることができるのだろうか?大きな問題を突きつけられる作品だ。
 小さなことだ が、この映画は食事をするシーンが象徴的な意味をもっているように思う。料理の上手なリーダー。メンバーが集まる初めての会食では美味しい料理を食べなが ら楽しく談笑する。「平和」という漠然としたものに形が与えられるようなシーンだ。しかし、後半部では次第に目の前のごちそうにも手が伸びないほどに追い 込まれてしまう。そして、Mossadから離れることを決心したAvnerが仲介役の男を家族の食卓に誘うも、すげなく断られてしまう。このことが悲惨な 事態がこれからも続くことを暗示し、当時はまだ象徴であり得たWorld Trade Centerの遠景でラストを迎える。比較的長い映画だがイスラエルとパレスチナの歴史などにはあまり言及されていない。映画のなかの対立構造がピンんと こないならば、それは映画の手落ちではなく、観客の無知に帰せられる問題である。映画の説明不足に非があるのではなく、この映画を観る際には絶対に必要な 知識だ。現実にMossadという組織はいまなおも存在し、活動をしている。
 観ていて思ったのだが、この映画面白いことにアメリカ出身の俳優が 殆ど起用されていない。主要な配役では一人もいないかもしれない。そもそも主演のEric Banaはオーストラリア出身だし、爆弾を作っていたRobertはアメリでおなじみのMathieu Kassovitzでフランス人。女殺し屋役のMarie-Josée CrozeはDenys ArcandのLES INVASIONS BARBARESでカンヌ映画祭の女優賞を獲得しているし、Louis役のMathieu AmalricはRois et Reineで昨年のセザール賞で主演男優賞を獲得しているいずれもフランスの実力派である。ESやラン・ローラ・ランの主役であるMoritz Bleibtreuも出ていたし、Charlotte Gainsbourgの夫で監督・俳優のYvan Attalも出ていた。こうしてみれば、ヨーロッパでは既に名のある主役を張る俳優ばかりである。彼らが地味だが堅実な演技をしていたのが印象的である。 今回初めて知ったのであるが、文書偽造役のHanns Zischlerはドイツ生まれで、Jacques DERRIDAの翻訳者・批評家・学者でもあり、『カフカ・映画に行く』KAFKA GEHT INS KINOの著者でもあるという。どこかで観たと思ったら、Eythan Fox監督のWalk On Water(Tu marcheras sur l'eau)やHans Weingartner監督のDie fetten Jahre sind vorbei(ベルリン僕らの革命)に出ていた。Walk on Waterでは反対にナチスの戦争犯罪人の息子を演じていた。MUNICHでは手榴弾を部屋に投げ入れ、危うく爆風で死にそうになる激しいシーンもあったが、多彩な人もいるもんだと別の意味で 驚いた次第。映画の原作となった『標的(ターゲット)は11人 モサド暗殺チームの記録』も読んでみようと思う。

12 mars 2006 

Confiture de fraises à la maison:journal

春である。今日は日曜出勤。もちろん、喜ばしいことではない。この憂鬱な朝をどうのように迎えればいいか、ずっと前から思案していた。先日うっかり FAUCHIONのConfiture de Fraise et Framboiseを切らしていたので、スーパーで売られていたイチゴを2パック購入し、自らジャムを作ることにした。少しなりとも嫌な朝の空気を変えようという試みである。

 【材料】
・いちご2パック
・グラニュー糖(スティックシュガー3〜4本)
・蜂蜜
・ブランデー(お好みで少々)
普通よりもグラニュー糖はかなり少なめである。甘味は蜂蜜でつけることに。ブランデーを加えるとやや大人向けの味付けになるが、過ぎたるは及ばざるがごとし。香り付け程度にしておくのが可。

 【作り方】
・材料を前夜にまぶしておく。
・朝に火にかける。途中あくを取りながら弱火で煮る。
・水分がほどよくなくなったらできあがり。

この天然の赤の美しさを見よ。甘酸っぱい香りが部屋一杯に広がり、アツアツのジャムをバゲットにのせて食す。Fauchonのジャムさえ、この手作りジャムの前にはひれ伏す。完璧な朝である。仕事がなければ。

11 mars 2006 

MUNAKATA DO:journal

同僚がお薦めしていたパン屋・宗像堂に行った。嘉数に美味しいパン屋があることは1年も前に同僚の奥様から聞いていた。しかし、パリから帰ってきてからは すっかりごはん党になっていたので、足を運ぶことがなかった。パリで毎朝通ったBoulangerieはパリのクロワッサン・コンクールで優勝するほどのお店だったし(いつもcroissant ordinaireとcroissant au beurreを1つずつ頼んでいたのでComme d'habで通じていた!)、baguetteもバゲット・コンクールで何度も受賞していたお店で買っていたため、どうしても日本のふにゃふにゃのパンを食べる気になれ なかったというのもその理由だ。
 しかし、「食わず嫌い」で人生の楽しみを失うこともあることを思い知った。この宗像堂のパンは本当に旨い!材料 にりんご・人参・山芋・山田さんちの無農薬米を発酵させて作る天然酵母を使い、耐火煉瓦と沖縄の土や石を使った石釜で焼く本格派のパンはどれもドッシリと重量があり、食べ応えも十分である。パンのタイプとしてはドイツ系統か。夕飯にも十分供することができるパンだ。手間暇がかかっているだけあって、いい値段がするが、本物を味わいたいなら是非、行くべし。

宗像堂
沖縄県宜野湾市嘉数1-20-2
開店:木・金・土・日 11:00〜18:00(売切れたら早めの閉店も)
tel/fax 098-898-1529 mu-chang@nirai.ne.jp
場所は嘉数の高台の方面:Hotel山谷園を右折し、ピノキオ保育園の手前右折

10 mars 2006 

NORMAL:films

Jane Anderson監督のNORMALを観た。結婚25周年を迎え、二人の子供を育てた夫・Royは妻・Irmaに突然、男である自分の肉体にずっと違和 感をもっていたことを告白する。そして、性転換手術をして女性になることを決断する。男性的な職場にキリスト教色の強い土地柄。Royの家族や職場、知り 合いはみな戸惑いを隠さない。映画のポスターにあるように主人公は外見上はよくみる「おじさん」Tom Wilkinsonだ。さらにIrmaの更年期とも重なり、彼女は混乱は増幅する。しかし、夫の思いが真剣であることを理解した妻は次第に彼を理解してい く。
 妻は最初、若い神父に相談するが、的はずれな回答ばかり。性同一性障害について有益なサイトを見つけたと言って、Baptistのサイトの コピーを渡したりする。この映画でも教義が新しい状況にはもはや対応できず、ミスマッチをおこしている。これは前回みた作品VERDER DAN DE MAANを観ても感じたことだ。
 頭では理解できても、実際に身近にいたら自分はどんな感情を抱くのだろう。この映画は比較的軽妙に描かれていた が、現実の事態が深刻であるだけにカラット笑うことができず、むしろ重い気持ちで観た。非常にデリケートに描かれているので啓蒙的な映画としてはよくでき ていると思う。衝撃 的であることは間違いない。邦題は「新しい私」。

09 mars 2006 

VERDER DAN DE MAAN:films

Stijn Coninx監督のVerder dan de Maanを観た。保守的なカトリック教徒とプロテスタント教徒が同居する村で、9歳の少女カロは養豚場を営む両親と4人の兄弟と暮らしている。時は 1969年。人類が月に着陸することで世の中は沸き立っていた。しかし、家ではいつも酔いつぶれる父親と、離婚を考える母との間で楽しいとは言えない毎日 を過ごしていた・・・。
  アルコール依存症の父親のいる家庭と苦手な水泳を強要される学校、母親は家事で手一杯で子供に構う暇もないほど忙し い・・・アダルトチルドレンになるには最高の環境で育つ少女の日常を淡々と描く。この父親というのは以前、神学校に通った敬虔なカトリック教徒。科学技術 の進歩も宗教に根ざす人間性の逸脱だとして否定し、養豚においても人工授精を批判している。社会と自分のズレが彼をアルコールに向かわせ、なかなか依存症 から脱却できない。母親も身ごもっている子供を堕胎して離婚をしたいと考えるが、なかなか踏み切れずにいる。娘も周りの世界に自分をどう位置づけたらいい か分からない。天国はどこにあるの?空の遙か向こうにイメージしていたのに、人類はそれを突き抜けて月に行ってしまった。だから「月の向こう」と考えるしかな い・・・。こうした不器用な人々の淡々とした不幸を描くが、ラストのカロをショットは一筋の光明である。原題は「月の向こう」という意味だが、英題や邦題 は 「静かの海」。静かの海とは月の表面にある月の海の一つで、アポロ11号が着陸した場所でもある。

 

SHINE: films

Scott Hicks監督のSHINEを観た。
オー ストラリアの貧しいユダヤ人の家庭。Davidはヴァイオリニストの夢を絶たれた父の指導のもと、ピアノの英才教育を受ける。そして、国内のコンテストに優勝。アイザック・スターンから直々に アメリカの音楽院へ招待されるが、父親の反対で断念。その後ロンドンの音楽院から招聘を受けるが、今度は父親に勘当されながらもてもロンドンに渡る。ロンドンで は将来を嘱望されるも、その後精神を病んでしまう。
 
精神を病みながらも、見事復活を果たした実在のピアニストDavid Helfgottの半生を描く。明らかに彼にとって大きな存在だったのは父だが、この厳しく、歪んだ姿 をArmin Mueller-Stahlが迫力ある演技で演じていた。この親子の過酷さをみて、五嶋みどり一家の物語を思い出した。また、長じてからのDavidを演 じたGeoffrey Rushも印象的。リムスキー・コルサコフの「熊蜂の飛行」の超絶技巧は凄かった。
 この映画はなぜDavidが精神を病 み、復活し得たのかなどが分からない部分もおおかった(父親の存在が明示的に示されるがそうなのだろうか個人的には疑問)。だが逆にこの映画を見て、 Rayを観たときに感じた物足りなさが何だったのかが分かった。これは、Rayでは彼のscandalousな面ばかりを描くばかりで、Ray Charlesの音楽家としての情熱や苦悩などがあまり描かれていなかったからである。彼の音楽への情熱や彼が死ぬほど努力した様子、彼を音楽家たらしめ ていたものが何だったのかがRayでは伝わってこなかったのだ。こうして似たようなテーマの作品を比べてみるのはやはり面白い。

07 mars 2006 

RAY:films

Taylor Hackford監督のRayを観た。Ray Charlesの人生を描いた伝記映画。彼の人生が如何なるものであったのかは全く知らなかった。その分、彼が後天的に視力を失ったことや、薬物依存、愛 人の問題を抱えていたことなど、驚くことも多かった。Ray Charlesの音楽は耳にするし、ベスト版ではあるがアルバムも一枚もっている。彼の声や歌は素晴らしいと思う。しかし、映画としてはあまり心を揺すぶ られるような作品ではなかった。Jamie Foxxの演技も評価が高いし、実在のRay Charlesとも似ているのだろう。だが、彼の演技自体はなぜかそれほど上手いという感じはしなかった。それは終始サングラスをかけていているからなの かも知れない。あるいは彼のパフォーマンスが演技というより、物真似に近い感じられたからなのかも知れない。彼の演技としてはむしろ、コラテラル方がずっ と印象深かった。

06 mars 2006 

SYRIANA:films

Stephen Gaghan監督のSYRIANAを観た。
  物語は石油採掘場の作業現場で働く外国人労働者が突然解雇を言い渡されるシーンから始まる。CIA諜報部員の活動、スイスのエネルギーアナリストとその家族、 エジプト人武器商人、アメリカの石油会社の合併、その合併をまとめる弁護士、中東の石油産出国の国王とその息子たち・・・この作品はこれら中東の石油利権 から端を発する大きなうねりを描いた一種の群像劇である。
 映画を観ている途中、いや映画を見終わった直後でさえ、話の筋がすっきりとは理解でき なかった。しかし、家に帰りながらそれぞれのシーンを回想し、台詞を反芻していくと、全く別個に見えていた話の断片が少しずつ繋がっていたことに次々と気 づく。そしてその繋がりは映画の人間関係を飛び越えて、石油というエネルギーを大量に消費して生きている我々にまで及んでくるのである。石油利権を求める のは何もそこから巨万の富を得る政治家や石油会社の者だけではない。石油を渇望し、それなしでは生活を維持できない社会に生きている我々も、直接的・間接 的に 石油というものに群がっているのだ。真に民主的な社会を作ろうとした長男の王子を死に至らしめたのも(これはどこかの大国が民主国家を樹立する大義名分を 掲げながら他国に介入するが、結局は自国のためでしかないことへの強烈な批判)、失業した青年を自爆テロに駆り立てたのも(宗教が自己犠牲という尊厳をも 与えてしまうことへの皮肉)、エネルギーを大量に消費する我々とは無関係ではないのである。この映画に出てくる人々は家族や自分の生活を守るため、自分の 仕事を当たり前のようにこなしている。このことは日本で日常生活を送る人々と何ら質的な違いはない。しかし、映画のなかの彼らの行為が結果的にこうした世 界システムの一つの歯車として機能し、多くの不幸を生み出しているなどとは思ってもいない。それを象徴的に表しているのは、弁護士が普段通りに帰途に就く ところで迎えるラスト・シーンである。
 この映画は決して一般受けするような作品ではない。しかし、自分と世界とのつながりに強い想像力を持つ者 には強くアピールする力のある作品だ。この作品の演技でGeorge Clooneyがアカデミー賞の助演男優賞を獲得した。ふと疑問が浮かぶ。彼が助演だったら、この映画の主演は誰だったのか?そうだ。主演などそもそもこ の作品には存在しないのだ。

 

RUE DES PLAISIRS:films

Patrice LECONTE監督のRUE DES PLAISIRSを観た。1945年のパリ、娼館“Le Palais Oriental”を舞台に“運命の女”マリオンに身も心も捧げた男、Petit Louisの物語。
  ルコントの作品には卑屈なまでに相手に尽くすキャラクターが描かれる。MONSIEUR HIRE(『仕立屋の恋』)然り、TANDEM(『タンデム』)然り。周囲からみれば愚かで、憐れで、masochisticだが、こうした無償の愛こそ がルコントにとっての愛の形なのかも知れない(自分はああはなれないが)。報われない愛も、愛。一方的な愛も、愛。儚い愛も、愛。実際はグロテスクだったかも知れない娼館や娼婦たち が華やかに耽美的に、人情豊に描かれているが、これは悲しいPetit Louisの物語を美しいおとぎ話にするための演出なのかも知れない。見終わった後、まさしくルコントの作品だ、と思う。彼の美学がここにある。邦題は 『歓楽通り』フランスの映画サイトのコメント欄に映画の題名をもじってRue déplaisirとあったのには笑った。

 

Les effets du thé sur la santé

僕は普段紅茶を飲むことが多いのであるが、緑茶に比べて紅茶の効能を聞くことは少ないように思う。そこで紅茶の効能についてネットで調べてみたところ、日本紅茶協会と いう団体があることを知った。そのページには紅茶と健康という項目があり、そこには紅茶の効能が12項目に分けて縷々説明されていた。意外に多 いなと思い、熟読してみると何と「エイズ対策」という項目があった。紅茶でエイズ対策?と驚いてみてみると、以下のような説明が。

 6.エイズ対策  
エイズウイルスの感染は接触によるもので、感染防止に紅茶は
役立たないが、紅茶飲用によりウイルス感染者が発症に至る期間を遅らせる可能性はあるかもしれない。HIVは潜伏期間が長く、猿などを用いた動物試験も難しく疫学によるほかない。

そりゃそうだろう。紅茶がエイズ対策になるなら、この病気も恐くはない。別の項目もみてみる。

 9.有害成分の排出
紅茶ポリフェノールへの吸着とカフェインの利尿効果で紅茶飲用により残留農薬や環境ホルモンを比較的すみやかに尿として体外に排出すると考えられている。いくらかの例がテストされているが、
実際の効果は不明である。

まさにぬか喜びである。次に多くの人が興味のある効能。

 4.ダイエット効果
茶カテキンのもつ糖分分解酵素の阻害作用がダイエット効果を示す。烏龍茶では脂肪分解作用がいわれているが,これは脂肪吸収抑制作用と解すべきであろう。以上の諸作用は紅茶ポリフェノールでも同様に期待される。ただし紅茶を飲むのに砂糖やミルクを大量に加えたり、同時にケーキなどを大量に食べてはダイエットは
無理であろう。同様に糖尿病に対しても予防的に働くような効果も考えられるが、インシュリン注射を必要とする糖尿病に対しては茶の飲用は無効であろう。
 
うー ん・・・。カテキンやポリフェノールは紅茶だけに含まれているものではない。むしろ緑茶やワインの方が多いのだが、こ れらの記述姿勢はある意味で誠実である。効果がないもの、実証が困難なもの、そうした言説に対しては敢えて効果はないと言い切り、留保の態度を崩さない。 世の 中に溢れる「〜の効能」はどちらかというと曖昧な根拠に基づいた記述に終始し、実証困難なものでもあたかも効果があるように言っているものもある。そうし た有害でさえある凡百の効能に比べれば、さすがは紅茶協会、いずれも首肯できるものばかりだ。効果がないのにそういう項目を挙げること自体に何某か の狙いを感じるが、俗説を否定することには大いに意味があるだろう。その他の効能についてはこちらを参照されたい。

05 mars 2006 

THE AVIATOR:films

Martin Scorsese監督のTHE AVIATORを観た。Cate Blanchettがアカデミー賞助演女優賞を受賞した作品だが、映画自体は観賞後に時間の無駄だったとしか思えないデキであった。実在の偏執狂を描いた 作品だからかもしれないがDiCaprioの演技が過剰で、彼の演技力不足は明らか。正視に耐え難いほど痛々しい。セットもキャストも豪華だったが、ハリ ウッド的「超大作」にはもう魅力は感じない。むしろウンザリさせられる作品。

04 mars 2006 

Så som i himmelen:films

 Kay Pollak監督のSå som i himmelen を観た。
  世界的な名声を得た指揮者Danielは情熱的な指揮とハードなスケジュールから心身ともに疲れ果てて引退を余儀なくされてしまう。そして、子供の頃 に過ごした田舎町に一人静かに暮らすことに。そこで彼は地元の聖歌隊を指導するように頼まれる。閉鎖的な田舎町の人々はそれぞれに問題を抱えていたが、 Danielの指導のもとで歌ううちに、合唱団のメンバーに次第に変化が表れてくる。それはメンバーが心を開き、自立していくプロセスであったのだが、 それが教会組織や保守的な村人をしてDanielへの批判になっていく。
 一流オケさえ厳しく叱責する元指揮者と音楽を真剣にするなどとは無縁な 村人とのズレに笑いを誘われる。映画のチラシには「純粋に歌を愛する村人」とあったが、純粋なのはあくまでダニエルの方だ。映画のなかでのDanielは 村人に音楽を教えているだけである。彼らの個人的な問題に直接関わるわけではなく、むしろそれらの問題を前に狼狽するばかりなのだが、メンバーの声質を生 かしたハーモニーを追求し、自分の「声」を見つけさせる手伝いをすることが間接的に村人の心を開かせていく。自分の「声」を見つける。それは自分の願望に 素直になり、それを表現すること。言葉で直接諭すのではなく、音楽が彼らが何かを気づかせるきっかけになっている。
 小さい頃自分が合唱をやっ ていたからではないと思うが、一般に合唱がらみの映画にはグッときてしまう。この『歓びを歌にのせて』はMovie Walkerで観てよかった作品の2位になっていたので劇場に足を運んだ。サビが二つある歌のような構成で、ラストシーンを二回観 たような感じ。予定調和的なお決まりのラストではなく、最後に村人に歌わせなかったのには異論もあろう。しかし、僕はあのラストでよかったのではないかと思う。

  パリにいた頃、素人に合唱のレッスンをする風景をひたすら写しているというド キュメンタリー映画を観た。その映画はラストでいざ本番!と思いきや、本番が始まるやクレジットが流れて映画は終了。レッスンの成果を観客はついぞみるこ とができなかった。その映画の題名は忘れてしまったが、その映画を思い出すと現実は映画ほど劇的でも感動的でもないのかも知れない、と思う。映画自体は
観て損はない作品。

03 mars 2006 

LA FINESTRA DI FRONTE:films

 Ferzan Ozpetek監督のLA FINESTRA DI FRONTEを観た。
  二人の子供とやさしいが頼りない夫をかかえて工場で経理を担当するGiovanna。台所での一服と向かいの窓に若い男性の姿が見える瞬間が、わずかに彼 女を現実から引き離してく れている。ある日、夫がSimoneと名乗る記憶喪失の老人を家につれてきたことにより、彼をとりあえず部屋にとめることになる。その後、Simoneを 連 れて困り果てていたGiovannaにある男が手助けに声を掛けてくれる。それは向かいの部屋の男・Lorenzoだった。彼もまたGiovannaの姿 をみて同じような感情を抱いていたという・・・。
 物語は1940年代のパン屋の作業場での殺人事件の現場から始まる。Simoneの過去と GiovannaとLorenzoの恋愛が絶妙な重なりをもって描かれている。Lorenzoと夢見る将来と、お菓子職人への夢、そして家族との生活の間 で引き裂かれるGiovannaの葛藤が効果的な音楽とともに情緒的に描かれていた。これが単なる若い二人の恋愛話ならありふれた話となったのだが、そこ にSimoneの複雑な過去が加わることにより、物語に重層性が生まれ、より味わい深いものになったように思う。Giovannaの心を揺さぶる Simoneの 珠玉の台詞も見所の一つ。久しぶりのイタリア映画。CSのシネフィル・イマジカのシネフィル直輸入映画となっていたので日本では映画祭以外の上演はされて いないのだろう。しかし、この作品はイタリア版アカデミー賞のDavid di Donatello賞で各賞を総なめにしただけでなく、国外の映画祭でも高い評価を受けている。それも十分頷ける作品である。しかし、
こうした一般受けも十分しそうな作品が全国展開されないのは極めて遺憾である。邦題は『向かいの窓』。お薦め。

02 mars 2006 

INA BAUER:journal

同 僚が割愛されるされることになり、宅でお別れ会を開いた。その時、「イナバウアー」という語が新たな意味をもって使われていることを知った。イナバウアー はご存知のとおり、荒川静香さんが金メダルを取った演技で披露した技だ。これは現在の採点方式では得点化されないものらしく、これを演技に取り入れるかど うかで荒川さんは周囲と激しい議論をしたそうだ。点数稼ぎよりも、自ら楽しみ、楽しんでもらう演技を。この彼女のこだわりがイナバウアーを取り入れること を周囲に納得させた。
 一般に点数化されないが、こだわりをもっているもの。それが「イナバウアー」の新たな意味である。「あなたのイナバウアーは何ですか?」日々の仕事において、これに答えられるものをもっている人はきっと素敵な人なのだろう。