Brian Anderson 監督の"THE MACHINIST"を観た。工場に働くTrevorは一年にも及ぶ不眠でいつも疲弊しきっていた。体重も次第に落ちてカラダはやせ細り、頬もこけて目の隈がとれない状態。ある日、彼は彼の同僚と名乗る赤い車に乗る男と出会う。ある日、職場で彼に気をとられていた時に、機械の誤動作で同僚の腕が切断されてしまう事故が起きる。だが、その事故を彼の 責任だという同僚は彼が気をとられていた男など職場に存在しないという・・・。 全体的にダークトーンの映像に、異常に痩せこけた主人公。不気味な音楽とともにストーリーは次第に混迷を深め、現実と妄想が交錯する。観客も主人公と同様の「一体どうなっているんだ?」という疑問を共有する。そして、ラストに全てが氷解する。サスペンスとしては非常によくできた作品。主人公はある意味「道徳的」で「正常」だったのかも知れない。監督はホラー作品の『セッション9』を撮っているがそれよりは格段に腕が上がっているように思う。
Krzysztof Kieslowski監督のKROTKI FILM O MILOSCIを観た。 19歳の郵便局員トメクは、毎晩望遠鏡で向いのアパートに住む女流画家マグダの部屋を覗き見ていた。情事にふけるマグダの部屋にトメクは無言電話をかけたり、彼女に逢うために架空の呼び出し状を投函して郵便局に来させたり、果ては牛乳配達のバイトを始めて彼女の家に近づこうとする。しかし、覗き見ているうちに、純粋だが困難な恋におちてしまう。ある時、彼に覗かれていることに気づいたマグダは最初は気味悪がっていたが、次第にトメクに近づいていく。 女性は性的な身体を見られることによって獲得していく、というのは本当なのだろうか?男性は見ることによって、女性は見られることによって自らのセクシュアリティを形成していく。この映画はその説をそのまま取り入れたように話は展開する。そして、ある日マグダは「世間でいう愛の正体」をトメクに教える。この「世間でいう愛の正体」という表現は秀逸だ。覗くという観念的ともいえる行為が生々しい身体性を伴ったものになることによって、トメクは絶望する。 覗きという行為は卑劣だ。自らは対象からの反作用を受けない安全地帯に身を置きながら、相手のプライバシーを侵害する。この映画を観ていてどうしてもちらつく作家があった。三島由紀夫である。覗く男というのは三島作品にも随分と登場しているが、Kislowskiの作品は三島作品とはやや趣を異にする。『トリコロール・赤の愛』では、他人の家の会話を盗聴する退官判事が出てくるが、Kieslowskiの作品には彼らを単純に罰するのではなく、そうしたキャラクターを温かく包む女性を登場させることにより救いの手を差し伸べる。三島作品では覗く者は最後には罰せられ、転落してしまう。『天人五衰』の本多繁邦がまさにそれだ。本多もまた、判事だったことは偶然以上の巡り合わせを感じる。邦題は『愛に関する短いフィルム』。この映画の画像を探している時に、オリジナルの映画ポスターを紹介しているページがあった。こちらである。上段左の三種類がそれである。日本で出されるポスターとは違い、随分過激で驚いた。同じ映画のポスターとは思えない。これではホラーかカルト・ムービーの趣だが、この映画の本質を見事に表している。
TIM BURTON監督のTIM BURTON'S CORPSE BRIDEを観た。 家柄が欲しい一族とお金が欲しい一族。両者の希望を叶えるビクトリアとビクターの政略結婚。結婚式前夜、リハーサルで誓いの言葉がどうしても口から出てこないビクターは森の中で一人練習をする。地面から突き出た棒を新婦の指にみたてて結婚指輪をはめ、誓いの言葉を述べると、突然地面から花嫁衣装を着た白骨化した女性が現われ、死者の世界に引きずり込まれてしまう・・・。 生者と死者の世界。二つの世界を行き来して物語は進んでいくが、この映画では死者の世界の方がより色鮮やかに描かれて、楽しそうである。普通の人間なら痛みを伴うような表現も、死者の世界の映像ではそれが笑いに転じる。金と名誉の欲にまみれた生者の世界、そうしたものから解放された死者の世界。最後に死者の世界と生者の世界が邂逅する。意外にも対立することなく、親和的になる点がユニーク。子供たちは死後の世界を未知の恐ろしいものとして考えることすらなくなるのではないかと思うほどだ。こうしたイマジネーションに溢れた映像はひょっとすると子供よりも大人の方が喜ぶのではなかろうか?最初はガリガリのキャラクターをどうして起用するのか、全然可愛くないのではないかと思ったものだが、生者の世界で死んだように生きるキャラクターとしてはまさにあの姿がうってつけのように思える。最後はキモかわいい感じに思えてくるから不思議だ。 技術的なことも付け加えておこう。この映画は人形のトップ・モーションでできているそうだ。本編は短いが、撮影には途轍もなく長い時間と手間がかかっている。驚きなのはピアノを奏でるシーンも音楽に合わせて楽譜どおりに正確に鍵盤をたたいていること。クリエーターの情熱が人形に"生"を与えている。残念ながらCG全盛の時代にはそうした手間暇かけた映像もCGで作ったように見えてしまう。CGの発展が観客にリアルさを奪った一つの例かも知れない。
Thomas Grube、Enrique Sanchez監督の"Rhythm is it!"を観た。 ベルリン・フィルの芸術監督・Sir Simon Rattleは教育プロジェクトの一環として、子供たちがバレエを踊る企画を立てる。出身国や文化の異なる250名の子供たちが6週間に及ぶ猛練習を経て舞台で踊る姿を描いたドキュメンタリー。 ベルリン・フィルとダンスのダの字も知らない子供たちとのコラボレーション。この企画に驚かされるが、もっと驚いたのは最初の子供たちのやる気のなさ!喋ったり、ふざけたりして最初は全くやる気を出さない。映画『エトワール』を観ていたので、その対極にある彼らに最初はもの凄く腹が立った。あのベルリン・フィルだぞ!お前たちは事の大きさが分かっているのか!と。しかも彼らが踊る音楽はStravinskyの「春の祭典」。度肝を抜かれるような複雑なリズムと不協和音と変拍子にどうやって素人の彼らが合わせていくのか?観ている方が不安になる。しかし、レッスンを積み重ねていくうちに、子供たちに徐々にだが変化が訪れる。 やる気のない人々に一流の振付師がレッスンをする。15分で終わらせたいのに1時間以上かかってしまう。何だか振付師にシンパシーを感じてしまった。一つの舞台を作り上げることの苦労がよく分かる。ラストで少しだけ披露される本番は非常にまとまっているように見えた。さすがはプロ。個々人の技量をカバーするに十分な迫力ある舞台であった。きっと、学問にしろ、芸術にしろ、一流のものに触れると、その深い意味が分からなくても何かが伝わるのだろう。全員ではなくとも、数人に伝わればそれでいい。その数人がまた誰かに伝えられたら、それは大きな裾野となる。教育は欲をかいてはいけない。若者を信じることをあきらめてはいけない。そう戒められる思いだ。
Thomas Vinterberg監督のDEAR WENDY を観た。 炭坑で働くことが「男」として認められるような街。炭坑労働には馴染めず食料品店で働くDickはある日、プレゼント用におもちゃの銃を買う。その後、お店の同僚からそれが本物と知らされ、それをWendyと名付けて肌身離さず持ち歩くようになる。Wendyを持っているうち、次第に自分に自信がみなぎってくるように感じる。やがて彼は街の「負け犬」たちを集めて「銃による平和主義」を広める“Dandies”を結成する。最初は銃を人に向けることを戒めていたが、Dickが保護観察の少年の見張りをすることになってから状況が少しずつ変わってくる・・・。 Dandiesの男性メンバーはみな「ハマータウンの野郎ども」のような男性性から疎外されている。唯一の女性メンバーも同様で、メンバーからも性的な存在として見られていない。こうした欠落感を埋め合わせるものが銃だ。Wendyはある時はがらくたに、ある時は光り輝き、まさにDickに見いだされる存在となっている。(撮り方によって観客にはちょっと同じ銃には見えない時があり、やや混乱するが。)このWendyという名前で想起するのは、James Matthew Barrieの"Peter Pan and Wendy"である。映画のなかのDickはまるでギャングごっこをする子供そのものである。彼らに性的な臭いがないのも子供として描いていることと無関係ではないだろう。DickがまさにPeter Panのメンタリティをもつ存在として描かれていると考えるのは思い過ごしだろうか?もはや”Billy ELIOT”の面影はないものの、子役出身のJamie Bellを起用していることからもその点はうかがえるように思う。 脚本はLars von Trier。監督は彼ではないが、多くのシーンで彼の陰がちらつく。街を俯瞰した地図やDandiesのアジトはDOGVILLEのセットを思わせる。西部劇を思わせるラストの銃撃シーンは笑いがもれるほど、滑稽。しかし、観客に向けられて発せられる銃にハッと息を飲む。こうした演出がうまい。銃を向けられることのリアリティが伝わる強力なメッセージだ。武力による平和などは幻想であると皮肉交じりながらも痛烈に批判している。小心者が自分の尊厳を獲得するために武器をもつことほど、恐ろしいものはない。銃で自分は守れない、このことを雄弁に物語る作品である。しかし、あまりに分かりやすすぎるというか、もう少し後半にひねりがあればよかったというか、先が読めるような展開だったのがやや残念。
Nil Tavernier監督のtout près des étoiles: Les danseurs de l'Opéra de Parisを観た。 300年以上の歴史をもつバレエの殿堂パリ・オペラ座バレエを追ったドキュメンタリー。至高の芸術の舞台裏。閉じられた世界、厳然たる階級制、のしかかる伝統、激烈な生存競争、ハードな訓練、栄光と恐ろしい挫折・・・。なんと過酷な世界か。光が強いほど、陰も濃い。彼らはダンサーというより、アスリート・・・いや求道者である。教師たちは「才能が第一。私たちは才能の擁護者」と言い切り、ここでは七光りなどは通じない。徹底的な自己管理が求められ、努力と実力なき人間は去るのみ。ここと比べると自分のいる世界は何と大甘なことか。そんな極めて特殊な世界に生きる彼女らでも出産、家庭との両立、体力的な衰えと引退など、一般人と同じジレンマを感じている。 この映画を観た後にバレエをみたなら、きっとこれまでとは全く違った風景がみえてくるだろう。出番の可能性が低くとも黙々と代役の練習をするダンサーたちもいる。こうした層の厚さも伝統を支える力なのかもしれない。練習風景であっても、クラッシックからモダンまで幅広くこなすダンサーたちの超人的な踊りに魅了されてしまう。恐怖さえ覚える美しさ。人体芸術の極みである。邦題は『エトワール』。お薦め。
Keith Fulton & Louis Pepe監督のLOST IN LA MANCHAを観た。 世界の名作『ドン・キホーテ』をテーマにした「The Man Who Killed Don Quixote(ドン・キホーテを殺した男)」。制作費50億円。監督は『未来世紀ブラジル』のTerry Gilliam。主演はフランス映画界の重鎮・Jean Rochefort。ハリウッドの若手実力者・Johnny Deppとその妻・Vanessa Paradisの競演。空前の大作となり、世界中に配信されるはずだった。しかし、いざ、撮影がはじまると、監督の熱意を踏みにじるように突然の雷雨に襲われ、時代衣装をまとって馬に跨った役者の上空をNATOの空軍機が飛び交い、ドン・キホーテを演じるロシュフォールの体調に異変が生じ、それに付随する保険会社との間に次々と補償問題がおきる・・・。 アクシデントが起こるたびに繰り広げられる議論とスタッフの対応に大笑いしてしまう。『ドン・キホーテ』に「喜劇で一番難しい役は愚か者の役であり、それを演ずる役者は愚か者ではない。」という一節がある。一般に喜劇は緻密な計算によって構成される。しかし、この作品は意図せざる全てのアクシデントやスタッフの不幸が結果的に作品を一級の喜劇にした珍しい例と言えよう。エディターの笑いのセンスは素晴らしい。映画製作の裏側をのぞけるのも興味深いし、監督業の労苦もしのばれる一本。作られた喜劇に飽きた向きにはお薦めだ。 この映画を観る限り、Terry Gilliamは「変人」だとは思わなかったが、同様に「変人」の誉れ高いLars von TrierのDOGVILLの撮影風景を描いた作品DOGVILLE CONFESSIONS(邦題「メイキング・オブ・ドッグヴィル 〜告白〜」も面白かった。映画編集については「カッティング・エッジ 映画編集のすべて」が非常に参考になる)
春である。今日は日曜出勤。もちろん、喜ばしいことではない。この憂鬱な朝をどうのように迎えればいいか、ずっと前から思案していた。先日うっかり FAUCHIONのConfiture de Fraise et Framboiseを切らしていたので、スーパーで売られていたイチゴを2パック購入し、自らジャムを作ることにした。少しなりとも嫌な朝の空気を変えようという試みである。
Jane Anderson監督のNORMALを観た。結婚25周年を迎え、二人の子供を育てた夫・Royは妻・Irmaに突然、男である自分の肉体にずっと違和 感をもっていたことを告白する。そして、性転換手術をして女性になることを決断する。男性的な職場にキリスト教色の強い土地柄。Royの家族や職場、知り 合いはみな戸惑いを隠さない。映画のポスターにあるように主人公は外見上はよくみる「おじさん」Tom Wilkinsonだ。さらにIrmaの更年期とも重なり、彼女は混乱は増幅する。しかし、夫の思いが真剣であることを理解した妻は次第に彼を理解してい く。 妻は最初、若い神父に相談するが、的はずれな回答ばかり。性同一性障害について有益なサイトを見つけたと言って、Baptistのサイトの コピーを渡したりする。この映画でも教義が新しい状況にはもはや対応できず、ミスマッチをおこしている。これは前回みた作品VERDER DAN DE MAANを観ても感じたことだ。 頭では理解できても、実際に身近にいたら自分はどんな感情を抱くのだろう。この映画は比較的軽妙に描かれていた が、現実の事態が深刻であるだけにカラット笑うことができず、むしろ重い気持ちで観た。非常にデリケートに描かれているので啓蒙的な映画としてはよくでき ていると思う。衝撃 的であることは間違いない。邦題は「新しい私」。