28 octobre 2006 

late show de Nagoya:journal

 学会で名古屋出張中。初めての街ではないが、あまり印象的なところではないためか、初めて来たような気がする。
 夜は退屈なので、映画を見に行くことに。名古屋の映画サイトをみると、夜8時以降のレイトショーは通常1800円が1300円とあり、これでも沖縄より200円高いが暇つぶしに見に行くことに。そして同じサイトで上映時間を確認すると、何と!夜8時以降のスケジュールは組まれておらず、7時30分とか7時40分とかレイトショーの時間帯に食い込まないようになっている。そして劇場に電話で確認すると、レイトショーの時間帯に組まれてない作品はレイトショーの金額が適用されないとの由。つまり、レイトショーで観られる作品は一本もないのだ!
 対応した職員の声のトーンからは、良心の呵責などは伝わってこない。このいけしゃーしゃーとした返事に、名古屋に何となく魅力を感じない人が多い理由の一端をみたようだった。因みにこの街にはレディース・デイはあるが、メンズ・デイはない。割引を適用させても1600円を下らない状況を考えると桜坂劇場、パレット市民劇場を擁する那覇市の映画環境は地方都市としては極めて良質であると感じた。

27 octobre 2006 

demi-pension:journal

僕の日常生活で決まったテレビ番組をみることはあまりないのであるが、先週から始まったWOWOWのドキュメンタリー「ジェイミー・オリヴァーの給食革命!」だけは観ようと思っている。イギリスの若きカリスマ・シェフが給食を通してイギリスの食育に取り組むものだが、イギリスの子どもの食生活がこれほどまでに荒廃していることに心底驚いた。アスパラガスを指してタマネギと言ったり、セロリをポテトと言ったりする状況。一流のシェフが作る料理より、マックのハンバーガーを喜んで選ぶ子どもたち。ジェイミーはブレア首相主宰の迎賓昼食会で料理を作った人物である。人気だけではない、実力を兼ね備えたシェフだが彼の作った料理はジャンクフードに浸りきった子どもたちに剣もほろろに拒絶されてしまう。こうした味覚が一生続くとは思えないが、やはり異常。子どもたちはお弁当と称して親たちにスナック菓子やケーキを持たされ、それを喜んでいる。この経験は彼にとって相当にショッキングだったようだが、彼の必死さには頭が下がる思い。
 給食といえば日本では給食費を支払わない親が相当数おり、それが市町村の財政を圧迫しているというニュースを時々みるようになった。その分は給食の品数を減らしたり、我々が支払う市町村の税金を支出して対応しているという。支払い能力があるのに給食費を支払わない親たちは義務教育だからという理由で支払いを拒否しているのだそうだ。その親世代は僕と同じ年齢層に含まれる者もいる(そうなら20歳そこそこで出産したことになる)が、説得の意欲さえ失わせるこのおかしな論理を平気で口にする相手に何を言えば支払うようになるのだろう?こういう親たちは家ではどういった食事を作り、子どもたちに与えているのだろう?日本ではグルメ番組や料理本を出す人々は多いが、こうした問題に取り組んでいくような人材は出てこないのだろうか?日本の食育も危機に瀕しているのに・・・。
 以前、西村知美というタレントが自らの食生活について語っていた。驚いたのはもう30歳にもなろう彼女の主食はスナック菓子だという。「塩の日」というのがあり、その日はポテトチップスなど塩気のあるスナックを食べ、その他の日はケーキなどを食べるという驚くべき食生活であった。ちょっと心配になったのは彼女には子どもがいるということ。ダンナの良識に子どもの将来はかかっていると人ごとながら不安になった。

26 octobre 2006 

question bizzare:journal

突飛な入試問題を課す。知名度の低い学校の名を一瞬だけでも全国にとどろかせるにはいい方法なのかもしれないと思った。長崎の某女子校では「箸の持ち方」を入試に課し、合否材料にするらしい。「試験時間は3分程度。箸で豆をつまんで移動させるなどさせ、「持ち方が適切か」「スムーズに使いこなせているか」を試験官がチェックする。」とのこと。小さい頃、町内会の新年会でこれとこれと全く同じゲームをやったことがある。受験生はさぞかし緊張することであろう。心の中で「いやー、いやー、ゲロやばーい!」と言いながら震える手つきで豆を運ぶ。その姿が目に浮かぶようである。仮に受験生が不合格になっても案外、立ち直りがはやいかもしれない。「どーでもいいことで落とされた」と思えるからである。

 

Matière obligatoire:journal

昨日報道されたニュース。必修単位を受けさせず、受験科目に必要な科目だけを集中的に受けさせていた問題が拡大する傾向である。原因は色々とあるだろうが、高校の先生たちの「善意」や「現実的対応」の結果なのだろう。また効率追求の結果とも言える。今回の例のように授業を受けないよう「配慮」しているのだから、授業をしたとしても先生・生徒双方に馴れ合いの雰囲気が醸成されることは想像に難くない。香港を指さして北京という大学生のように、世界史の知識が極端に欠如しているのもこの辺に原因の一端があるのかもしれない(もちろん、全てではない)
 しかし、大学の側にも問題がない訳ではない。5教科5科目が6教科7科目になったり、猫の目のように変わる入試制度の変更は高校現場に混乱をきたしたであろう。どこの国のマネをしているのか、大学によってこれほどまでに入試方法が異なり、しかも毎年のように変転するのは世界的に極めて異例である。フランス、ドイツなどヨーロッパ諸国、韓国や中国の制度は非常にシンプルである(中国では一度大学受験に失敗すると二度受験できないなど弊害もあるが)。
 小学校から大学まで学校の現場が人生の次のステップへの準備として位置づけられるようになって久しい。中学校は高校入試への準備、高校は大学入試への準備、大学は就職するための準備。昨今、大学評価の名の下に大学は学生の就職率アップを脅迫的に求められている。ここで目標とされるのは就職率という数字。大学は見栄えのいい数字を捻出するために「就職」の定義を拡大する。
 短期的な目標ばかりを追いかけると、手段が目的化し、大きな目的は失われてしまう。教師も生徒も性急な「成果」を獲得することに腐心するのが今の日本の「教育」である。そのなかででてきた先生と生徒の妥協点と「善意」の結果がこのニュースである。善意ほど恐いものはないという言葉を如実に示すようだが、今回の件を一方的に指弾する気にはどうしてもなれない。「善意」によって科目を間引きされた生徒さんが気の毒であるが。

24 octobre 2006 

une imprimante portable HP:journal

モバイル・プリンタを購入した。Hewlett-Packard社のHP deskjet460。電源接続不要で、Bluetoothで無線接続できて、持ち運びができ、使わない時はスッと片づけられるプリンタが以前から欲しかった。これでスッキリ、スマート、おっされーなプリンティングが実現し、夜中にプリントアウトのためだけに研究室まで車を飛ばす必要はなくなった・・・はずだった。
 確かにパソコンの横にケーブルとは一切無縁のプリンタをおいてプリントアウトできるのだが、無線接続した場合、プリントアウトが超・遅い!PDF化された論文を1ページ印刷するのに2分程度かかる。20世紀になって5年も経つのに白黒1枚に2分やぞ!30枚印刷するには1時間かかってしまう。これなら、研究室に出向いた方がはやい! orz
 有線のUSB接続をすればそれなりのスピードになる(それでもPDFは遅い!)が、正直、失望を禁じ得ない。みんなも、モバイルプリンタの購入には過大な幻想をもたないように、気をつけてねー♪

22 octobre 2006 

comme une samuraïe:journal

西洋人の日本イメージに迎合して奇を衒ったものほどグロテスクなものはない。今を時めく知花くらら君。ミスユニバースで準優勝の肩書きをひっさげて今やテレビで引っ張りだこである。彼女が栄冠に輝いたコンテストには民族衣装部門なるものがあり、ここで一位を獲得したことが大きかったようである。左に掲げるのはその時の衣装。彼女は沖縄の誇りでもあるのだが、生地が足りない野武士崩れの衣装と日本刀に沖縄の人は微妙な思いを抱くのではないだろうか・・・。

19 octobre 2006 

ULTRA BLEU:journal

 宇多田ヒカル君の最新アルバムULTRA BLUEを聴いた。旧聞に属するが、彼女が初めて作詞・作曲をしたといわれるFirst Love所収のDon't let me goには以下の一節がある。
「真実は最高の嘘で隠して、現実は極上の夢でごまかそう。
・・・どうしてこんなに不安なの?ゆるぎない愛なんて欲しくないのに。
・・・太陽に目が眩んでも、その手を離さないで。」
当時15歳。秀逸である。一方、最新のシングルKeep Tryin'には以下の一節がある。
「『将来国家公務員だ』なんて言うな 夢が無いな。
ダーリンがサラリーマンだっていいじゃん 愛があれば」

・・・この彼女の変化を何と言ったらいいのだろうか。言葉に力がなくなったというか、端的に言ってつまらなくなった。
僕はアルコール依存症ではないが、アルコール依存症の患者の間でよく言われる格言に「ラインホールド・ニーバーの祈り」というのがある。
「主よ、
変えられないものを受け入れる心の静けさと
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける英知を我に与え給え。」

どこかで耳にしたようなフレーズだとずっと気になっていた。ULTRA BLUEではないが、別のアルバムに「Wait & See 〜リスク〜」 という曲があり、その一節に似ている。「変えられないものを受け入れる力、そして受け入れられないものを変える力をちょうだい」
 この曲を最初に聴いたときは、16,7の女の子が口にする歌詞としてはずば抜けた力を持っていると思ったが、上記のフレーズをすでにできあがったリズムに乗せるために改変したとすれば、それほど驚くほどではなかったのかもしれない。あんまり文句を書くと歌詞を乗せたことで著作権料を請求されそうなので、ここまで。

17 octobre 2006 

ROIS ET REINE

Arnaud Desplechin監督のRois et reineを観た。本作はNoraの物語とIsmaelの物語、二部構成からなる。
 Noraは「あんなエレガントな女性には一生かかってもなれない」と女性から言われるほどの美貌をもつ。もちろんその美貌は男たちを魅了するが、全編を通じて彼女には女性の友達というのが全く登場しない。最大の苦況に陥った時でも、人に頼ることができない。孤独な女性である。それ故か男性を常に必要としてしまう。フランスに限らず、日本でもノラのような女性は案外に多い。三番目の夫・Jean-jaqueは結婚という形式には理想の夫であるが、彼は彼女が愛した4人の男のなかにはカウントされていない。フランスの上流階級の結婚の一つの典型であろう。Jean-jaqueがNoraに指輪を渡すシーン、そして結婚を祝う華やかなシーン、二人のシルエットはこの上なくお似合いである。世間でいうところの「釣り合い」がとれているのであるが、二人の思いはそれぞれで、お互いに本音を言えない関係でもある(映画では一つの安らかなエンディングを迎えるが、Jean-jaqueとNoraのその後の人間関係がどうなるのかは個人的には不安だ)。
 Noraを語る上で特筆すべきは父親のNoraへの複雑な愛である。Noraのエゴイスティックで傲慢な性格を憎みつつも、彼女の甘える姿やまなざしに愛おしさを感じ、殺したいほどの愛憎を抱いている。子どもが必ずしも親を愛することがないように、親もまた子どもを全人格的に愛するとは限らない。娘に「お前が俺の代わりにガンになれ」と残した言葉の意味をどのようにとらえたらいいのだろうか。ノラは父親の愛憎の言葉をどんな気持ちで燃やしてしまったのだろうか?
 もう一人の主人公であるIsmaelはヴィオラ奏者。「第三者による強制入院」(そいういう制度があるなんて知らなかった。僕の場合、映画で初めて知る海外の法律も多い)という形で精神病院に入れられてしまう。破天荒で子どもじみた性格と愛すべきキャラクターは精神病院のなかであっても人を引きつけ、彼自身も逆に気楽にな場所に変えてしまう。Noraの息子エリアスがIsmaelになついてしまうのも分かる。Ismaelの性格は地方のEpicerie(乾物を中心とする食料品)の息子で、社会的な後ろ盾がなく自力でヴィオラ奏者になったという生い立ちと関係するのであろう。NoraとIsmaelはは一時期、同棲していたが、イスマエルの生活環境の問題から別れてしまう(社会階層の違いにNoraは耐えられなかったのだろう)。全く異なった物語に生きるNoraとIsmaelとの関係はいわば腐れ縁である。
 この映画はシンメトリーで溢れている。美貌と財力、そして愛した男の分身である一粒種をもち、表面的には自由で恵まれているように見えるNora。一方借金にまみれ、その奔放さ、傲慢さゆえに同業者の悪意によって精神病院に強制入院させられてしまうIsmael。Noraは裕福な作家の娘でこれといった手に職もなく、IsmaelはEpicerieの息子でヴィオラ奏者。Noraは介護、Ismaelは入院という閉ざされた空間のなかでNoraは孤独を舐め、Ismaelは愛をみつける。Noraの家族は陰鬱な憎悪で繋がり、Ismaelの家族は開けっぴろげな親和性で結ばれている。Noraの物語は悲劇、Ismaelの物語は喜劇。もう一つ付け加えるなら、観客にとってNoraのキャラクターはある種の女性の典型を描いて現実的であるのに対し、Ismaelのそれは脱社会的で、あまりにも非現実的である。Noraに共感を寄せる観客は多いかもしれないが、Ismaelのそれに同一化する人は少ないだろう。こうした相反する二人の物語はエイリアスの養子問題で接し、映画としてお互いに補完的な関係となる。
 この映画の美しさはこのシンメトリーとその接点を結ぶ設定の妙にある。対照的でありながら補完的なストーリーは一枚の扇のように芸術的である。二人が劇的ともいえる非日常的な境遇に置かれることによって、人間としてまた一枚脱皮する。赤裸々ともいえる人生の一時期を切り取っているが、この物語には「感動」をもよさせるような仕掛けはない。そのためやや物足りない印象をもつ人も多いかも知れない。
 この映画のプロローグとエピローグではMoon Riverが流れる。Moon Riverといえば、もちろんBREAKFAST AT TIFFANY'Sで使われた音楽である。NYはParisの風景に移り、仕事帰りにショーウィンドーを眺めるだけの娼婦は、光あふれる画廊で値段も尋ねずに18世紀の絵画を買うNoraという対極の立場にある女性に置き換わる。そして、エンディング。駆け引きも打算もない真実の愛に目覚め、熱い抱擁でラストを迎えるHepburnと「理想の夫」との打算的な結婚を控え、穏やかな表情をたたえるNoraで幕を閉じる。デプレシャンの物語はこのシンメトリーが指し示すように、ロマンティックで「純粋な愛」だけでは生きられなくなった現代のBREAKFAST AT TIFFANY'Sなのかもしれない。シンメトリーで溢れていると言う所以である。原題は『王たちと王女』、邦題は『キングス&クイーン』。

14 octobre 2006 

Code : inconnu:films

Michael HANEKE監督のCode: inconnuを観た。
家業を継ぐことを嫌がって兄を頼ってパリに出てきた白人青年。彼は兄の恋人から兄が不在であることを告げられ、苛立ち紛れにゴミを物乞いの女性に投げつける。その行為をみかけた黒人青年は彼の行為を咎めて女性に謝るように求めるが、彼は拒否。逆に黒人青年におどりかかってもみ合いになってしまう。集まった警察は事情聴取と称して逆に黒人青年と物乞いの女性を連行してしまう。
 無造作に並べられたような細切れにされた場面群から、連行された黒人青年は彼をよく知る人々から愛され、人格的にも優れた青年であることがわかる。冒頭のシーンは人がいとも簡単に偏見に基づいて行動し、それがとんでもない結果に繋がっている様が描かれる。
 一方、白人青年の兄の恋人であるJuliet Binoche扮するフランス人女性。彼女は女優を生業としているが、恋に悩み、地下鉄にも乗るごく普通の生活を送っている。彼女は「普通のフランス人」の体現者である。ある夜、彼女は家でアイロンがけをしている時に隣人の叫び声を聞く。その争うような叫び声に耳をすますも、それをそのままやり過ごしてしまう。逆に地下鉄で彼女がマグレブの男性に絡まれても誰も助けてくれない状況に陥ってしまう・・・。彼女を通して、偏見に染まり、他人の不幸をやりすごしてしまう「普通の人々」の身勝手さや酷薄さを我々は「見いだす」。これはもちろん彼女だけ、あるいはフランスだけのことではない。
 また、ゴミを投げつけられた物乞いの女性は屈辱を受けたことで警察に連行され、紛争中のコソボに強制送還されてしまう。彼女は印象的なエピソードを紹介する。紳士が物乞いする彼女に20フランを差し出してくれた時、その紳士は彼女の汚れた手をみたとたん、お金を手ではなく膝に投げたという。
 この映画は最初の偶発的な出来事以外は、主要な人物が交わることはない。それぞれの人物の行動は細切れなエピソードとなって散りばめられるため、一人ひとりがどういう人物なのか、どういう生活を送り、何を感じているかといった事柄はそれぞれの断片を頭の中で再構成しなければならない。群像劇にありがちなバラバラの場面が最後に一つに繋がるということではなく、最初の場面がそれぞれの物語に派生している。そのため、最初の場面を何気なく観ていると、最後には頭上に???マークが付いてしまうことになる。何気なくみえる場面も集中を切らしてならず、観る者にフル回転の思考を要求する。
 HANEKE監督は彼自身の意図を分かりやすく提示するような手法はとらず、観客が自ら「見いだす」ように観客を誘導している。混沌の中から何らかの関連性や意味を見いだすというのは人間の脳の特徴である。彼の作品はそうした人間の特徴に訴えかける。一見して何の関連もない事柄から、我々は登場人物の行動や心の動きを「見いだす」のだ。同じ映像を観ていても、わかる人とわからない人、「見いだす者」と「見いだし得ない者」との間に大きな溝ができてしまう。ハネケはあるインタビューで言っている。
 「映画は気晴らしのための娯楽だと定義するつもりなら、私の映画は無意味です。私の映画は気晴らしも娯楽も与えませんから。もし娯楽映画として観るなら後味の悪さを残すだけです。快適で親しみやすいものなど、現代の芸術には存在しません。にもかかわらず、映画にだけは気晴らし以外の何も求めないことに慣れてしまっているのです。だからこそ、気晴らしのできない映画を観ると苛立つのです。」
 先にこのブログでHANEKE監督の最新作『隠された記憶』を紹介した。Code:inconnuはあたかもこの作品と相似の関係をなすものであるが、作品の構成としては『隠された記憶』よりも複雑になっている。サスペンス的な要素も少なく、観客を引きつける力という点では『隠された記憶』の方がより強いであろう。しかし、Code inconnuの方が何度も何度も見なおしたい、そのたびに新たな発見がある作品といえるかもしれない。
 この映画の冒頭とラストは手話、あるいは身振りで意図を伝えようとする聾唖の子どもが登場する。しかし、身振りの意図はなかなか伝わらない。この場面は「伝わる者には伝わるが、伝わらない者には伝わらない」といった達観を装った思考停止状況を言いたいのではない。冒頭の観客である少女たちは手話を使って身振りの意図は何かを少女に問いかける。必死に理解しようとすること。小さな聾唖の子どもたちは、今の時代に生きる我々に求められているものを提示しているように思う。(原題は
Code: inconnu(コード:未知)、邦題『コード:アンノウン』日本劇場未公開作品)こうした素晴らしい作品を直輸入の形で放映してくれたCinefil Imagicaに感謝したい。

13 octobre 2006 

des armes nucléaires:journal

北朝鮮が地下核実験を行った。世界的に非難が集中している。いま、如何に制裁をするかという話題で持ちきりである。風が吹けば桶屋が儲かる。日本産と偽った北朝鮮産松茸が高騰する気配である。
 ところで、世界には3万発の核弾頭がある。これらの殆どは核保有国がもっている。核保有国は基本的に非保有国へ核爆弾を落とすことは禁止されているので、これだけの核爆弾を保有する必要はどう考えても、ない。核保有を認められている国々と認められていない国々。もてる者が核兵器を捨てない限り、もてざる者が核を持つ欲望を捨てることはできないのではないか?核兵器はジェノサイドを実現するための兵器である。当然ながらジェノサイドは禁止されている。この矛盾をどのように考えればいいのだろう?
 地球規模の環境条約があるが、例えばアメリカは多くの環境条約に加入していない。それは地球規模の環境保全よりも自国の利益を優先しているからだ。北朝鮮もNPTに加盟しないことによって核保有をすすめている。北朝鮮を擁護するつもりは毛頭ないが、アメリカと大同小異である。しかも、アメリカは核兵器を世界で唯一使用した国である。北朝鮮からみれば、アメリカと同じコトをして何が悪い?と言いたい気分かもしれない(あまりに幼稚な論理だが、政治は人間が行うものである)。日本政府はアメリカ政府に核を含めた軍縮を要求しているのだろうか?一部の政治家や軍事関係者はこの機に乗じて軍事力の「整備」を訴えている。問題は北朝鮮だけにあるのではないと思う。
 核の怖さをもっと知ってもらわなければならない。僕もこれには同意する。特に若い世代にはそうだと思う。では世界の国々は核の恐怖というものを知らないのだろうか?そんなはずは決してない。もし、核の本当の恐怖を知らなければ、抑止力にはならないからだ。核の恐ろしさを十分に知っているからこそ、その恐怖が与える大きさを熟知しているからこそ、捨てられないのである。

12 octobre 2006 

Lilja 4-ever:journal

Lukas Moodysson監督のLilja 4-ever を観た。
旧ソ連のうらぶれた田舎町。15歳の少女Liljaは母とそのボーイフレンドとともにアメリカに移住することになっていたが、出発直前に「あとで呼び寄せる」と言い残して母親と彼氏は旅だってしまった。その後、何の音沙汰もなく、一人残されたLiliaは叔母に住んでいた家を追い出されてしまう・・・。
 15歳の少女にふりかかる悲惨な運命。母親に捨てられ、恋人を装った男に旧ソ連からスェーデンへ性奴隷として売られてしまう。彼女の状況は次第に過酷なものになるが、神に祈っても、天使が舞い降りても、誰も彼女を助けてくれない。逆境の中でも健気に生きたり、夢や目的のために苦しさに耐えるといった「物語」は彼女には用意されていない。彼女は普通の15歳の女の子と同様、世間知らずで無力である。彼女の周りにいるのは若い身体に群がり、アビューズする男たちだけである。唯一の友達を除いては。しかしその友達からも離れてしまう。
 人身売買で性奴隷となる女たちを描いた作品は数多いが、Amos Gitaï監督の"TERRE PROMISE"という作品もある(日本未公開)。これはイスラエルを舞台にした作品だが、暗闇の中で競り市のように、女性たちに値段が付けられていく。およそ人間的な扱いを受けない過酷な日々を描く。この作品も相当にショッキング。恐らく、世界中で同様のことが行われているのだろうと思うと、暗澹とする。しかし、忘れてはならないのは、アジアにおいては日本がこうした巨大な市場を有しているという事実である。

11 octobre 2006 

Hula Girls:journal

李相日監督の『フラガール』を観た。
石炭から石油へのエネルギー政策(本当は原子力なんだろうけどこの点は隠蔽されている?)によって次第に人員が削減されている炭坑の町・常磐。ここで町の産業の活性化のために温泉リゾート地の構想が持ち上がる。そこでフラダンスを踊るためのチームが募集され、東京から講師がやってくるが・・・。
 これは日本版Billy Elliot(邦題『リトル・ダンサー』)、あるいは日本版『ブラス!』のような趣。いずれもさびれた炭坑町を舞台にした作品で、『フラガール』でも明らかにこれらを下敷きにしたと思われる点もあった。特に寺島純子が娘の踊る姿を観て黙ってホールを去るシーンやその後の行動の変化はまさにBilly Elliotの本歌取り。また登場人物が必死に努力をしている姿を殆どストーリーに入れていないのに最後は上手な演技で盛り上げる点は『スゥイング・ガール』のようだった。
 やや不自然なカットがあった。早苗の貧乏加減は極端だろうと思った。解雇されたとはいえ、30年も働いた一家があそこまで貧窮しているのは他の家の状況と比較するとおかしい。最初は松雪の台詞が怒鳴ってばかりだったし、「フラガール!」と突然一人で叫びだす女の子が3秒以上も上を向いて三白眼にして直立していたのはいかがなものか。松雪の踊りも短いカットを多用して上手に見えるように編集されていた一方で、3ヶ月しか練習していないはずの蒼井優の踊りのほうがずっと上手であった。蒼井優はバレーの素養があり、岩井俊二の『花とアリス』では長い長いダンスを披露していたので、結末は読めてしまっていたが、蒼井は流石の踊りであった。しかし、背の高いしずちゃんが前列で踊るという配置はいかがなものか。舞台からみたバランスや遠近法を考えると、やはりおかしいと思う。
 人の生き死にを感動仕立てにする手法はあまり好きではないが、感動を誘う場面も多かった。あまりにベタな手法が多用されている感もあったが、一般向けとしては成功しているといえよう。しずちゃんの演技はよく見積もって中の下。
 一時期に比べると海外旅行が気軽に行けるようになった昨今、場違いな場所に海外の風景を模したようなテーマパークができることには大きな抵抗があるだろう(例えばカリブ海に日本村のようなテーマパークがあったらそれは不気味だろう!)。しかし、この映画の時代にはハワイというのが庶民のあこがれとして輝きを放っていたということがよく判る。海外旅行への敷居が今のように低くなかった時代のハワイ(これも沖縄同様に作られた観光地のイメージ戦略によるものだったが)への憧れが反映されていたのだろう。今でも形をかえて舞台となったリゾート地があるという。行ってみたい気にもなった。

09 octobre 2006 

Caché:films

このコメントは是非、映画をみてから読んでください。Micheal HANEKE監督のCachéを観た。
 邦題が『隠された記憶』、そして「衝撃のラスト」という「あおり」によって、封印した過去の記憶がラストになって強烈に観客に突きつけられるのだと思っていた。しかし、最後にクレジットが流れた時、僕の心の中では「あれ?まだ終わってないよね?」「クレジットの後に、来る!」という期待とも祈りともいえる願望が渦巻いた。しかし、映画が終わってしまったことを確信した刹那、「え?これで?衝撃のラストはどこだったの?」「もしかして見逃した?」という強烈な焦燥感にさいなまれたを告白しよう。僕は恥ずかしくもハリウッド的なオチを期待していた。自分ではそういうつもりではなかったが、すっかりハリウッド的文法にのっとってこの映画を観ていたことに気づいた。そして、まんまと「あおり」にやられたという悔しい思いを噛みしめてもう一度、観た。
 夫は人気キャスターGeorge、妻は編集者、そして一人息子Pierrotという幸せで裕福な一家のもとに一本のビデオテープが届けられる。そこには彼らの家の外観を長時間撮影した映像が入っていた。その後、口から血を吐く絵が届けられ、再びビデオが届けられる。次々に送られる絵とビデオ。警察は事件が起こらなければ動けないという建前でアテにならない。そしてある日、子どもが夜遅くまで帰らないことに気づく・・・。見えざる人物によって監視されているような不安が、疑心、暗鬼を生じる状況になっていく。キャスターの幼い頃の悪事が、ビデオや絵が送られてくる原因であることが次第に判ってくる。
 この映画の背景をどこから話し始めればいいのだろう?フランスの植民地政策だろうか?戦後の移民受け入れの経緯だろうか?アルジェリア戦争だろうか・・・。この映画はこれだけの射程をもっている。
 Georgeの人生に即していうなら、彼が6歳の頃はおよそアルジェリア戦争末期である。そもそも、何故裕福なフランス人であるGeorgeの家族がアルジェリア人の男の子を養子に迎えたのか?それはアルジェリア戦争末期のパリの状況と1961年に起きたアルジェリア人虐殺の悲劇が関係している。アルジェリア民族解放戦線(FLN)にフランス人警官が襲撃されたことで、アルジェリア人の夜間外出禁止令が敷かれる。それに反対したデモ隊に対し、フランス警察はパリ市内至るところでアルジェリア人に対する虐殺を行った。虐殺を免れたアルジェリア人も逃げ場を失い、次々とセーヌ川に身を投じた。また死体もセーヌ川に捨てられ、セーヌ川は血の色で染まった。翌日パリ警察からの死者の発表はわずか2人。日を追うごとにセーヌの岸辺におびただしい数の死体が打ち上げられていっても、警察はこの死者の数を訂正しなかったという。これが隠された歴史的事実である。恐らく、Majidが養子になった陰にはこの悲劇が関係していたのだろう。Georgeの母親が涙を流すシーンがあるが、このことと無関係ではない。
 そして、当時アルジェリア人の男の子を養子に迎えたことに対して幼いGeorgeは快く思っていなかったのだろう。Majidが血を吐き、家畜である鶏の首を切り落とす行為をしていることをでっち上げ(Magidが感染症か何かに罹っており、残虐な人格であることをねつ造)、それを両親に告げ口することで首尾よく彼を家から追い出すことに成功する。Majidは親を失い、裕福な一家の養子になったのも束の間、Georgeの悪意によって家から放逐されてしまう。ラスト近くのシーンにあるように当時においてもMajidは施設に送られることに抵抗しているところからみると、彼にとっては非常に苦しいできごとだったであろう。もしも、Majidがそのまま家に残り、Georgeと同様の教育を受けていたならば、彼の人生は全く違ったものになったのかもしれない。人生のある時点を堺に袂を分けた人生。それは映画のシーンにあるように万巻の書と瀟洒な家具に囲まれて暮らし、教養番組のキャスターとなっているGeorgeと狭いMagidのアパルトマンを観れば、一目瞭然である。
 その後、40年もの時間が経過して、Majidは恐らくテレビを見てすっかり有名になったGeorgeのことを自分の息子に話したのであろう。どのように話したのかは不明だが、Georgeが吐血と鶏のことを捏造したことは話したに違いない。そして、Majidの息子はGeorgeの息子と共謀してささやかないたずらを試みる(ラストシーンでGeorgeの息子・PierrotとMagidの息子が学校の前で話をしているシーンが映し出されて映画は終了する。これが一つの謎解きのヒントのようだ)。これが一連のビデオテープと絵である。
 ビデオテープが送られてきたことによって不安にさいなまれるGeorgeと妻。この不安が彼の隠れた記憶を呼び起こし、内なる差別主義を露わにさせる。息子がいなくなってしまったことで、Majidを疑うGeorgeはすぐさま警察に通報し、Majidと息子は警察に連行される(証拠不十分にもかかわらず社会的に著名なGeorgeの話を信じてしまうフランス警察の態度も問題)。結局、彼らは何の咎もなかったが、Majidやその息子に対してGeorgeは謝罪することもしない。また、目の前で幼い頃の知り合いが自殺しても救急車を呼ぶことはおろか、警察も呼ばずに立ち去ってしまう。被害者である意識から抜けられないGeorgeは他人を非難することにかけては躊躇がないが、引いて撮した画像だけみれば一体どちらが被害者なのかという疑問が湧く。時折、妻がそうしたGeorgeの態度を諫めても聞く耳を持とうとしない。彼の態度の根底にあるのは罪の意識であるが、彼はその罪と真正面から向き合おうとはしていない。このGeorgeのパーソナリティを通して、フランスの社会のあり方、フランスという国家が罪とどのように向き合っているのかが問われているように思えてならない。こう考えるのは穿ちすぎだろうか?引いた構図でひたすらに家の外観を撮影するという行為はできごとをより客観的にとらえようと考えることの一つのインプリケーションに思えてならない。
 映画cachéで隠されているものは決して一つではない。それはアルジェリアとフランスとの血なまぐさい隠蔽された歴史であり、記憶の底に隠されたGeorgeの幼い頃の悪事であり、教養番組のキャスターという皮にくるまれてGeorgeが内包する差別主義(もちろんこれは「文明国」という皮をかぶったフランスのアナロジー)であり、一家にビデオを送りつけた犯人は誰かという謎解きの「答え」であり、そしてサスペンスの形をかりて織り込ませた監督の意図である。お薦め。

08 octobre 2006 

Le temps qui reste:films

François OZON監督のLE TEMPS QUI RESTEを観た。
 売れっ子のカメラマン・Romainは撮影中に倒れ病院で診察をうける。診察の結果、肝臓と肺にガンが発見され、余命3ヶ月と告げられる・・・。
 自分の残りの人生が僅かであることを知り、自分が死に行く運命であることを告げずに家族やゲイの恋人から離れていく。彼は周囲が自分の死後に自責の念に駆られることを知りながら、孤独に人生から退場していくつもりだった。それは自分のことを理解しなかった家族への復讐だったのかも知れない。自分がRomainの立場になる可能性を露程も考えない向きにはRomainの振る舞いは身勝手にうつるかもしれない。しかし帰らぬ旅に出る人間に身勝手という批判はあまりに無力であり、残り僅かな人生の最後でも自分の思うとおりにできないのは自分がRomainの立場ならいささか窮屈でもある。もし彼が周囲に自分の死を告げたら、この物語は全く違ったものになったであろう。当然、誰も彼を放ってはくれないからだ。孤独であることが、彼を自由にし、この物語を成立させている。Romainの祖母が彼の最大の理解者である所以は、彼の選択をあくまでも尊重する姿勢を貫いたからであろう。
 祖母との邂逅の後、彼のなかで変化が訪れる。姉との和解し、恋人と再会し、不妊症の男性の代わりに子どもを授ける。子どもができないカップルが突然現れて代理の父親になることを求められるのは、ややご都合的なストーリーだ。それはあたかも子孫を何らかの形で残すことが「本能」であるかのようである。3人のセックスシーンもややとってつけたようだった。この点をどうとらえればいいか、まだ消化不良である。
 そして彼は美しく着飾ったモデルたちではなく、自分の最大の理解者である祖母やみずみずしいまでに生の輝きを放つ姉と子ども、そしてバカンスの浜辺で遊ぶ人々をファインダーに収める。誰のために?カメラで撮るという行為は彼にとっては自己の存在証明なのだろう。たとえ自分が写っていなくても。カメラマンを職業とした彼にとっては自分が撮った写真こそが、彼自身の証である。
 主人公の年齢は僕とほぼ同じである。こうした映画を観たなら、誰しも「自分ならどうするだろう」というつきなみな問いを立てるであろう。因みに僕なら・・・痛みを緩和するためにあらゆる手段を講ずる。夭折に追い込む病なら、激烈な身体的な痛みを伴わないはずはないからである。この映画でもRomainは次第にやせ細り、苦しんでいるようだが、激痛に発狂せんばかりに苦しむようなシーンはみられない。耽美な死という幻想から監督が離れることができなかったのは、主人公が監督自身の投影であるからなのかも知れない。また、観客に死という甘美な果実に対する過大な恐怖を与えることで、この映画のテーマがぼやけてしまうことを避けたかったからかもしれない。邦題は『僕を葬る』。原題は『残された時間』の意。この作品の対極にあるのはDenys ARCANDのLES INVENSION BARBARES(邦題『みなさん、さようなら』)である。併せてご覧になるといいかもしれない。

 

acide citrique:journal

 いまさらと言われそうだが、ネットの利便性を痛感した。先日、北海道物産展で購入したホッケをHEALSIOで焼いた。まあ、美味しくできたのだが、その後に庫内に魚の臭いが付着してしまった。いずれとれると思っていたが、3日たっても消えない。googleで「魚の臭い」「取る」で検索をかけたら、蜜柑の皮を30秒ほどチンをするというものがあった。梧桐(アオギリ)蜜柑があったのでそれで試してみると、呆気ないほどににおいが消えた。
 何故、蜜柑で魚の臭いが消えたのか?やはり「みかん」「クエン酸」で検索をかけたところ、蜜柑のクエン酸がアルカリ性の魚の臭いを中和するのだそうだ。
 Healsioには実は内部クエン酸洗浄機能なるものがある。魚の臭いが気になった時点でこの機能を使ってみたが、これは効果がなかった。どうもこの機能は庫内についたにおいをとるものではなく、庫内の水路の「内部」に付着する湯あか(電気ポット内部につくあれ=ミネラル)を落とすもののようだ。
 このブログの件名は検索にひっかからないようにとの配慮からフランス語にしているのだが、「クエン酸」というフランス語の単語が判らなかった。英語ではcitric acidなので、citriqueでgoogleで検索をかけたところ、果たしてacide citriqueであった。しかし、ここで判ったのはこの単語の意味だけではない。wikipediaが多言語辞書としても使えるということ。wikipediaはフリーの百科事典であるが、数十カ国のバージョンがある。項目によってはないものもあるが、単語レベルで外国語の単語を調べる時には非常に有効である。応用次第では外国語学習にも使える。

07 octobre 2006 

incompatibilité définitive

読売新聞のweb版を観て、「おとな館」なる項目を見つけた。そこには「カイケツ!!長井調査室」と銘打って「結婚できない男たち」というネット番組を放映していたので興味を持って観てみた。
 そのなかでは結婚できない男たちを、モテない系、ビビリー系、白雪姫追い求め系、3分類していた。ビビリー系とは結婚や女性に腰が引けてしまう人たちのようであり、白雪姫追い求め系というのは理想が高いために結婚できない男なのだそうだ。モテない系は言わずもがな。
 ここで紹介されていたのは、親同士の代理見合い!親同士が条件闘争の末、お見合いをセッティングする。学歴、年収、身長など赤裸々なデータをもとに値踏みする姿は凄まじい。自分たちの結婚の惨状を棚に上げてここまで躍起になるのは何故だろう?単に老後の手慰みという線も大いにあるが、想像するに結婚していない息子や娘を持っていることへの世間体の悪さ、自分に代わって息子や娘の面倒をみる人間(配偶者)ができることによる解放感、そして自らの介護への保険・・・といったところだろうか。
共通するのは結婚が子どもの幸せに直結すると疑わない脳天気さだ。
 「親がここまでするのか?」「親がこうしている間に子どもは何をやっているのか?」という批判めいたコメントも番組司会者から聞かれる。確かに当の本人は何をやっているのかと思うが、本人が親ほど結婚に積極的かは不明である。単なる親のお節介という可能性もある。
 また、モテない男のナンパ塾なるものを紹介していた。服装やデート・コース、恋愛する能力を総合的に高めるように講師が指導するようだ。2年(!)も通っている男が女性に必死に路上でナンパを実行していた。また名古屋にはNPOの花ムコ学校があるという。結婚は大きな産業である。当たり前だが、経済システムの一環であるが、ここまでくると番組の司会者は心も体も冷え切っている男=低温男、人との付き合いをおぼえろ!と次第に説教モード。
 かたや女性の方は、最近はかつての3高にかわって、「3C」や「3低」という言葉で理想の相手を表現することが紹介されていた。ほんとうに人口に膾炙しているかは甚だ疑問であるが、3Cとはcomfortable(快適な生活を送るのに十分な経済力)、comunicative(理解し合える、学歴や階層が自分より上)、cooporative(家事を協力してくれる)で、3低とは=低姿勢、低リスク、低依存との話。低リスクは安定した職業と収入、低依存とは相手が自分にあまり依存しないということらしい。3高とあまり変わらず、高身長が外れて、「低姿勢」という言葉が出てくる。これはそのままの意味だが、決して高身長を否定していない。
 番組では結婚できない男について自分たちで勝手にカテゴリーを設けておきながら、もてない系でさえも理想が高い!と、さも分不相応な理想と批判を言外ににおわせてレポートしていた。
 結局は「がんばれ、若者たちと言うしかないのかな」というこの番組の題名「カイケツ!!長井調査室。」を否定するような投げやりなコメント。そして男女の状況を「悲劇的なミスマッチ」と言っておきながら、最後はこう締める。「これからも面白いレポートを宜しくお願いします。」
 あまりにもお粗末なレポートだった。腹が立ったのはこの程度のレポートしかできない人間の視点が大気圏を突破するほどの高みから「結婚できない男」を見下ろしていること。「いずれ結婚したいですか?」と聞かれれば殆どの人間がyesと答える。ある統計で90%がそう答えるとあった。しかし、「誰でもいいから結婚したいですか?」と聞かれてyesと答える人間はいない。90%は当然ながら条件付きyesである。また、なかにはこの質問に飽き飽きしてとりあえずyesと答える人間も多いのではないだろうか。なぜならこの質問にnoと言った時点で、その理由をあれこれ挙げなければ(時には自分が納得しなければ)質問した人間は引き下がってくれないからだ(特に学生にはこの手合いが多い)。質問者を納得させることがnoと言った人間が果たすべき使命とでも思っているかのようである。yesといえば、どうしてyesなのか?などとは切り返してこない。納得するまでyesの理由を問われることは決して、ない。今の日本の社会では配偶者がいなくても快適に過ごすことは十分可能である。困ることは全くない訳ではないが、結婚してその困難が解消されても、別の困難が発生する(らしい)。単なる質の違いである。配偶者がいれば人生はまた違ったものになるだろう。しかし、シンプルに生きたいなら、結婚はあまりにも複雑である。

05 octobre 2006 

La conferance de press:journal

人は同じ話を聞いていても、同じように理解しているとは限らない。人が勝手に解釈するということはよくあることである。しかし、記者会見を記事にするときにこのような違いが出てしまうのはいかがなものか。これは昨日のサッカー・ガーナvs日本の試合後の記者会見の記事である。オシム監督は冗談や例示をしながら言葉を選んで答えているが、サンスポのような記事になってしまっては台無しではないか?
スポナビ
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/japan/kaiken/200610/at00010828.html

サンスポ
http://www.sanspo.com/soccer/top/st200610/st2006100500.html

03 octobre 2006 

FLANDRES:films

Bruno DUMONT監督のFLANDRESを観た。
ベルギーのフランドル地方の田舎町。あまり肥沃とはいえない農村風景が広がる長閑で閑散とした地域。農民であるDemesterは幼なじみのBarbeに思いを寄せ、肉体関係ももっているが、彼女はDemesterをそれほどまでに思ってはいない。Demesterは農閑期に戦地に赴くことになり、二人は離ればなれになるが・・・。
 先のカンヌ映画祭でGrand Prixを獲得した作品である。監督の作品としてはL'humanitéに続いての受賞になる。彼の作品は台詞が少なく、難解であるというある先入観があったので、この作品も「覚悟」をして観た。この映画にあるのは、「演出された美しさや醜さ」ではなく、ありのままの、あからさまなおぞましさである。映画である以上、脚色もあるし、編集作業もある。しかし、この作品はそうしたギミックを排除して、生々しいまでの「現実」を描いている。特に性描写や戦争を描くシーンは過激に流れているわけではないのに、正視に耐えがたい気持ちにさせる。それは戦争のシーンに顕著な違いをみせる。近年、特に日本で上映されている感動仕立てだったり、美談仕立てだったり、正当化だったりするような映画の対極にある。この作品のなかでおとなしい青年が軍事訓練や戦場での経験を通じてレイプや強盗や人殺しも厭わない「兵士」になっていく。戦争は結局は空腹を抱えながら糞尿にまみれ、仲間が目の前で無惨な姿で死んでいく恐怖や流血の痛みを抱えながら固い地面での野宿を強いられるものでしかないことを物語る。当たり前だが、飲まず食わずで何日もシャワーなど浴びることなどできない。こうした戦争のリアリティを感じることなくして、戦闘行為を正当化することこそ「平和ボケ」だと思える。
 大切な誰かを守るための戦争。近年の戦争を描く作品にありがちな設定であるが、一方のBarbeの方は戦地に赴いた男を待ってなどいない。ましてや貞節を守るなどという観念は及びもしない。銃後のチアガールなど皆無だ。そこにあるのは退屈で鬱屈した日常と孤独だけである。この映画でもそうだが、これといった産業がない貧しい地域から兵士が調達されるというのは世界的に共通している問題だ。職にありつくため、生活を支えるため、大学進学の費用を捻出するため、除隊後の有利な立場にありつくため・・・現実は美学や美談で覆い隠せない状況にある。日本ではどうなのだろう?
ただ言えるのは戦地に飛ばされる可能性が極めて高くなった昨今、自衛隊に社会的コネクションのある子弟や学歴エリートがこぞって入りたがるところではないだろう。
 この作品はまだ日本で公開が決まっていない。公開されてもヒットは望めないだろう。美男や美女、ヒーローやヒロインも出るわけでもなく、音楽もない。一切の虚飾を拝して淡々と描かれるシーンに陰鬱な気分になってしまうが、観ておくべき作品だ。カンヌのGrand Prix作という肩書きがなければ日本で公開されることはないだろう。この作品が受賞に値するかは別にして、そうした点で映画祭の受賞というのは意味があると思う。

01 octobre 2006 

miss universe:journal

この写真の3人をみて、誰がミス・ワールドの上位3名だと思うだろうか?見よ!中央のミス・ワールドの作り笑いを!さらに右の準ミスは笑っておらず、左は1時間でもやってられそうな笑顔を作っている。左が20歳ということで、やや年の功が笑顔にも出ているのかも知れない。きっと彼女たちは近くでみると目をそらせたくなるほど輝いてみえるのであろうが・・・。

 

DIE HOELE DES GELBEN HUNDES:films

Byambasuren Davaa監督のDIE HOELE DES GELBEN HUNDESを観た。
 モンゴルの大草原に暮らす遊牧民一家の物語。両親と小さな妹、弟と遊牧生活を送る少女・ナンサ。彼女はある日、岩の割れ目で子犬を見つけて連れて帰ってくる。しかし、犬を家で飼うことで家畜でもあり、生活の糧である羊が狼によって襲われることを懸念する父は、ナンサが犬を飼うことを認めない。父が遠出しているのをいいことにナンサは犬を飼い続けるが・・・。
 黒沢清はどう考えても「ドキュメンタリーとフィクションの境目はない」という。これはこの言葉どおりの作品である。物語はモンゴルのゆったりとした時間の流れのように進むが、圧倒的な生活感を見せつけられる。例えば、馬の糞は燃料であり、子どもたちの遊び道具でもある。子どもも「小さな大人」として家業を手伝っている。今の自分の生活とは対極にある生活にこれが同じ時代を生きている人間なのかさえ信じられないほどである。家電製品に囲まれながらも、忙しく立ち働かなくてはいけない現代社会。石油と電気がなければ一日たりとも立ちゆかなくなってしまう都会の生活。我々は彼らが生活する自然の中ではきっとどうしようもなく無力な存在なのだろう。この作品では遊牧生活と政治というテーマもさりげなく織り込まれている。街から帰ってきた父が政治なんて判らないといい、ラストに選挙への投票を呼びかける車が一家のキャラバンの横を空しく通りすぎる。彼らの生活に政治は無関係なのだろうか?いやそうではないだろう。しかし、実際の政治とはかなり遠い、影響の少ない生活を送っていることは確かであろう。これはグローバルな富の分配闘争のなかで、争わずにはいられない国々への強烈なアンチテーゼのように思えてならない。
 しかし、この映画はそんなことを考えなくても楽しめる作品なのかもしれない。ナンサをはじめとする子どもたちの喜怒哀楽が僕を十分に満たしてくれた。母親や祖母がナンサに語るささやかな格言も含蓄がある。難しいことを考えずに観るのがいいかも知れない。
 ドイツ語原題は「黄色い犬の洞窟」という意。邦題は『天空の草原のナンサ』。

 

Macchina Espresso:journal

先日、エスプレッソ・マシンを購入した。amazonで比較的売れている機種で、なかなか評価も高いようだった。そしてようやく到着。すぐに使えるように配慮してか、エスプレッソ・ポッド(エスプレッソ版ティーバッグのようなもの。しかし、こちらで作った方が素人は高いレベルで安定した味が出せる)も入っていた。個別包装のポッドの袋を開けると、待ってましたーとばかりに袋から香りが広がる!そこで早速、組み立ててマニュアル片手に装着・・・と思ったがホルダーが本体に嵌まらない!あれ?おかしい、あれ?おかしい!と脂汗が滲む。そして、マニュアルの写真を凝視するとポッドを乗せる金属フィルターのサイズが違う!これでは入るハズがない。さらに、粉用の金属フィルターも同梱されておらず、さらに本体のミルクフォームを作るためのハンドルも歪んでいる・・・。
 「期待は失望の母」とはよく言ったものである。サポートセンターに連絡をしたら交換してくれるという話だったが、メーカーへの信頼を失ってしまった僕は返品を要望。それが認められる形となった。
 実はエスプレッソメーカーが届けられる前、沖縄でエスプレッソ・ポッドを売っていないものかとパレット久茂地やサンエーの成城石井コーナーやてぃーだ・カフェなどに探しに行った。県内の電気店ではどこでもエスプレッソ・メーカーを売っているので、ポッドも当然購入できると思っていた。しかし、売っていないばかりか、店員さんもポッドがなんたるかをご存じなかった。逆にそれは何ですか?と聞かれ、説明をさせられたりした。あちらにとってはさぞかしイヤミな客だったであろう。そこで県内での購入は諦め、ネットでポッドを注文した。
 ということで、エスプレッソ・メーカーを返品したのにポッドは手元に届いてしまった。困ってしまい、再びメーカーを物色することに。そこで見つけたのはFrancisFrancis!のX3。やっぱ、デザインも大切だよねーということで、少し迷って決めた。家庭用のメーカーはプラスティックの筐体のものが多い中、これは極力金属を使い、重量は6キロ。耐久性を重視している上に、通常一年の保証期間が3年であるのもいい。クーッ。楽しみー。