28 juin 2006 

C'était trop chaude pour moi aussi!

飯坂温泉が熱すぎると苦情が出ているという記事「温泉の好みに「温度差」」をみた。この記事をみて、まざまざと過去を思い出した。実は僕も記事で指摘されている浴場ではないが、同温泉地に足を運んでいる。そして確かに、お湯は熱かった。足の指をちょっと入れては弾かれたように引っ込める。素っ裸でこの動作をリピートした。どれだけトライしても入れないので、焦りと怒りと後悔と熱さに脂汗が出た。むろん、これでは温泉気分になどなれる訳もない。この時ばかりは本当に情けない思いで帰った。他の客は主に老人だったので、一見さんの僕が適温にするまで水を加えるなんてマネはできなかった。数少ない僕の温泉体験のなかで、温泉に浸からなかったのはここだけである。温泉なんてガマンして入るものではない。リラックスして入るものである。そういう点で僕には向かない温泉だった。さきほどその温泉の泉温を確認した。51度だった。

23 juin 2006 

La faim

ワールドカップドイツ大会。
日本の敗退が決定した。
日本の勝利に何が足りなかったのか?
この写真をみて、ハングリー精神だったのかも知れないと思った。

18 juin 2006 

BEAUX-ARTS

今日の笑ってしまったニュース。
「英国の美術館で、彫刻を飾るための台座が間違って作品として展示されてしまうミスがあったそうだ。台座は石で作られており、その上には骨の形をした枝がぽつんと置かれているだけのものだが、英国王立美術館はこれを作品と間違えて展示してしまった。以下はこちら
 それにしても、日本の盗作騒動といい、美術の選考委員というのは何を観ているのだろう。しかし、これで株を下げたのはこの作品を出品した彫刻家。自分の「作品」が落選し、台座が当選してしまったのだから。こんなことがなければ落選したことも知られることはなかっただろうに・・・(笑)しかし、この台座の画像が見られないのは残念だ。

16 juin 2006 

Google earth

同僚のN氏から教えてもらったフリーソフトGoogle earthのをダウンロード&インストールしてみた。世界中の街の航空写真が住所を入れるだけで見られるが、これが凄いのだ。駐車している車まで分かる。中国の紫禁城の観光客の姿まで見られたし、パリの寓居も観ることができた。北朝鮮の衛星画像も見られる。住所の検索欄に試しにvaticanと入れてみるとよい。そうすれば鮮やかなバチカン市国の航空写真が見られる。調査でバチカン図書館を訪れた時に歩いたことを思い出した。
 以前、シリアナという映画を観たが、このなかで衛星の画像で道路に走っている車をミサイルで爆撃するというシーンがあった。その時はそこまでできるの?などと思ったが、現実にフリーのソフトで自宅から簡単に外国の風景が見られることができてしまうと、それが本当のことであったことが分かる。一度、お試しあれ。http://earth.google.com/index.html

15 juin 2006 

Coupe du monde:journal

楽しみにしていたワールドカップ。オージーに悪夢の逆転劇をみせられてから気持ちも沈みがち。沖縄の長雨も相まって何度ため息をついたことだろう。クロアチア戦、ブラジル戦と続くなかですでにワールドカップが終わったような気分になっている向きもおられよう。
 初戦の戦いはあまりにもナイーブだった。ジーコ・ジャパンには1点を守る。逃げ切るという思考と方策が欠如していた。相手陣内でボールをキープし、焦らしながら攻めることができなかった。また、折角DFが凌いでゴールキックにしたのに、川口のフィードはことごとく相手ボールになった。なぜ、毎回、毎回、あんなに大きく蹴り出す必要があったのだろうか?サイドやボランチに確実なパスを出して、ボールをキープすることもできただろうにと、川口のゴールキックがサイドラインを割るのをみるたびに地団駄を踏んだ。中盤もロングボールの出所をマークして、パワープレイに持ち込ませないようにチェックすべきだったかもしれない。ヒディンクが得点をとりに行くときは、FWとむちゃくちゃ投入するというのは前回大会の韓国での采配と同じだ。こうしたことを読み切り、選手交代に生かせなかった点も敗因の一つか。
 今日、ドイツvsポーランド戦を観て、オージーとの戦いがダブった。ポーランドは守勢に回り、ドイツは猛攻を仕掛ける。終了間際、一人少なくなったポーランドの足は止まり、ついに事切れた。守ってばかりだと集中力や体力の消耗も相当のものだろう。ドイツの気迫が上回ったような戦いだった。恐らく、ポーランドと同様、日本は守り負けたのだ。とにかく日曜日はクロアチア戦だ。とにかくここで一勝を挙げる。プレイしない僕らが過去を振り返ってもしょうがない。選手以上に、我々の気持ちの切り替えも必要だ。
 沖縄の長雨で、土砂崩れが発生してマンションで地滑りがおきた。そのマンション、よくみると去年、自分が入居しようとして内見までした物件だった。ベランダから緑が広がり、鳥と虫の音が聞こえる閑静な場所にあった。もしそこに住んでいたら、避難生活の上に「地滑り男」の有り難くない称号も戴いていたかもしれない。何よりワールドカップを楽しむどころじゃなかったかも知れない。それを思えば、僕にはまだツキが残されている。しかし、不思議だ。スポーツはどうしてここまで僕を熱くさせるのだろう。

14 juin 2006 

cuisine par des hommes

来てる?
もしかして、風が吹いてる?
メガネ・ブームに引き続き、時代がすり寄ってる?
こちらのニュースを参照

08 juin 2006 

SWING GIRLS

矢口史靖監督のスウィングガールズを観た。
割にヒットした映画で、割に評判もよさそうだったので観たが、学芸会っぽい映画だと思った。役者の演技も下手だったし、山形弁なのか訛りもヘンだったし、ストーリーも脚本もイマイチ。さして練習しているシーンもないのに最後は随分と上達しているように演出していたのは現代的なところ。
 村上龍は『日経アート』1998年7月号に「カリブ海からやってきたキューバ美術の熱い波」と題して以下のように書いている。
 「キューバ人のアーティストたちは、伝達を何とか可能にするために努力を惜しまない。音楽家やダンサーや画家は信じられないような長く厳しい訓練を自分に課し、しかもそれを楽しむ。キューバの音楽を聴くとどうして気持ちがいいのだろう、と昔坂本龍一に聞いたことがあった。それはうまいからだ、と坂本は答えた。どうしてうまいのか?それは、練習をするからだ。」
 音楽を聴いた時の感動は演奏が上手いことに裏打ちされる。全くもってその通りだと思う。この映画にある演奏が観客が総立ちでノリノリになるほどのデキだったのだろうか?

07 juin 2006 

VOCES INOCENTES:film

Luis Mandoki監督のVOCES INOCENTESを観た。
1980年、少年のチャバは11歳。その頃、中米のエルサルバドルは政府の農民への搾取を発端とする政府とゲリラの内戦下にあった。そのためチャバの住む貧しい村は銃弾が日常的に飛び交う死とまさに背中合わせの戦場になっていた。そして、兵士が足りない政府軍は、12歳になった子どもたちを強制的に徴兵していく。
 1980年代といえば、僕が10代の前半、つまりこの実話の主人公であるチャバとほぼ同じ歳にあたる。小学生が徴兵?そんなことなど思いつきもしない、銃声など聞いたことのない、道に転がる死体など見たことのない子供時代であった。自分が生きていた場所から一番遠い地球の反対側でこんな不幸が繰り広げられていたなんて・・・この事実に衝撃を受けた。12歳で殆ど人さらいのように徴兵していく政府軍も非道だが、ゲリラも子供を利用しようとする点では同じである。そして、裏から糸を引いていたアメリカも。
 少年の初恋や日常の小さな喜びも描かれ、挿入される小さなエピソードはどれも張りつめた現実を弛緩させるものであるが、またそれが突然始まる銃撃戦の衝撃を高めるものとして効果的に使われている。チャバの演技も気丈な母親の演技も非常に良かった。どこに行くにも大切に持ち歩き、生活の唯一の糧であったミシンを売り、徴兵されそうな息子を亡命させた母親の姿に心打たれるものがあった。
 幸か不幸か、公開時期が『ホテル・ルワンダ』と重なったが、この作品を『ホテル・ルワンダ』と比較して(あるいは一括りにして)論じることにあまり意味はない。別の国の異なった経験を描いた作品だからだ。どちらが「感動」したとか、そういうことではない。どちらの作品も主人公やその周辺の人々が経験した人間の残酷さや愚かさ、大切な人を失う悲しみを世界を人々に知ってもらいたいという心からの叫びであり、祈りなのである。この物語は過去のものではなく、極めて現代的である。少年兵士はアフリカを中心に数多く存在している。兵士でなくとも、自爆テロに突き進まざるを得ない少年・少女も。社会の抗争に巻き込まれて命を落とす子供たちも、世界にはたくさん、いる。これらは国の名前さえ一般に知られていないような国や地域でおこっている。この作品は『ルワンダ』に勝るとも劣らない衝撃と事実を突きつけた作品であることは、言っておかなければならない。邦題は『イノセント・ボイス 12歳の戦場』。

06 juin 2006 

NORTH COUNTRY

Niki Caro監督のNORTH COUNTRYを観た。
DV夫から逃れて実家のあるミネソタに帰ってきたJoseyは二人の子供を養うために働きに出る。そこは炭坑。これまでの給料の6倍が支払われるが、厳然たる男社会。そこでは女性への悪質極まりないハラスメントが待ち受けていた。
 Joseyは他人に依存することなく、自分で稼ぎ、子供を養うことに「生きている」という実感を得た。そうだ、働くということはこういうことなのだ。自ら立つことで、本当の自由と生きる実感を与えてくれるのが働くということなのだ。特に、財産もコネもない人間にとっては、働くということは極めて重要な意味をもつ。しかし、Joseyは職場で個人の尊厳も踏みにじられる。これは働くこと=生きることを否定されるのと同じ意味をもつ。働くことに女も男もないのである。
炭坑に働く男性従業員が何より恐れるのは自分が男性性の欠如した人間であるとの烙印を押されることである。女性を虐待することで男性性を守ろうとする行為が如何に愚かで、醜く、浅ましいものかはこの映画を観ればよく分かる。
 この映画はアメリカにおいて最初のセクシュアル・ハラスメント訴訟で勝利した実話に基づいた作品である。今日的な観点からすれば、この映画で繰り広げられる女性たちへの執拗な虐待と迫害は誰の目から見ても違法である。露骨な性的な言葉による罵倒、簡易トイレに入っている時に倒されて糞まみれにされ、さらに糞で壁一面に悪質な落書きをされ、人気のないところで暴行される・・・これだけのことがありながら、この裁判が決して簡単でなかったことをみると、当時の働く女性が置かれた環境が如何にひどかったかが分かる。この裁判が今日の法的枠組みをつくる契機となったのだから、今日における重要性が改めて認識されるであろう。しかし、日本における職場の環境はまだ、理想的なものとは到底いえない。
 Charlize Theronの演技も素晴らしかったが、脇を固めるFrances McDormandやSean Beanもよかった。邦題は『スタンド・アップ』。

05 juin 2006 

Tony Takitani:film

市川準監督の『トニー滝谷』を観た。
孤独とともに人生を歩んできたイラストレーター・トニー滝谷は、仕事の関係で知り合った女性A子に恋をする。「服を着るために生まれてきた」ような可憐な彼女と結婚し、これまで知り得なかった満ち足りた生活を送る。しかし、トニーにはただ一つ、気になることがあった。それは彼女が異常なほどブランドものの服を買うことであった。
 シンプルで透明感のある映像と淡々としたナレーション、そして坂本龍一のゆったりとしたピアノ。生活感の欠如したシンプルな空間と、美しい妻との平穏な日常、それに潜む静かな狂気が一つの寓話的世界を演出している。買い物依存症であるA子が一体、どんな欠落感をもっていたのかは最後まで分からない。彼女の死により、これは謎のまま残されてしまう。彼女が生きていても分からないのかもしれない。残されたのはトニーの孤独だけかと思いきや、最後に亡き妻が残した服と同じサイズの女性と巡り会う。浮世離れしたような浮遊感のあるイッセー尾形と、儚い美しさをもつ宮沢りえのキャスティングは絶妙である。最近みた日本映画のなかではお気に入りの一本。