26 février 2006 

ALIEN VS. PREDATOR: films

Paul W.S. Anderson監督のALIEN VS. PREDATORを観た。
 熱源が南極大陸の地下深くで発生しているという情報をもとに、環境問題専門家で女性冒険家のレックスら各分野の専門家が南極に向かう。そこで巨大ピラミッドを発見するが、そこでエイリアンとプレデターに遭遇する。
 なんだかバカっぽい映画だった。人間である調査隊は一応学術調査に行っているのであるが、誰一人として記録媒体を持っていない。鉛筆もなければ、ビデオもパソコンもなく、武器をもって調査に行くなんて一体、どういう設定?と思う。まあ、彼らは殺されるためだけに登場させられた訳だから、彼らを責めるのはかわいそうか。
  それはともかく、エイリアンは知っていたがプレデターが出る作品を観るのはこれが初めて。だからプレデターの特徴はイマイチ把握できず、面白味も半減した のかも知れない。両者の対決の間でうまく立ち回れる人間がいる時点で両者の戦いは史上最強とはほど遠い大したものではないような気がしてしまう。まあ、あ まり文句をいうのはやめよう。くだらない映画を観てしまった。ただ、それだけだ。

 

CESAR 2006 et GERARD 2006 : journal

Jacques Audiard監督の De battre, mon coeur s'est arrêtéが2006年のセザール賞作品賞・監督賞を獲得した。この作品は沖縄で上演していたにもかかわらず、見逃してしまった作品。何とかして観なけ れば。他の受賞作はセザール賞の公式サイトを参照。こちらをみると、フランスで評価の高いフランス映画がいかに日本で上演されていないかがよくわかる。ところで、セザール賞がフランス版アカデミー賞としてできたことは夙に知られているが、その対極にあるラジー賞に相当する賞もフランスには存在する。Gérard du CinémaのLes Bidets d'Orというのがそれだが、Patrick Braoudé監督のIznogoudという作品が栄誉に輝いたことを申し添えておく。

24 février 2006 

COFFEE AND CIGARETTES:films

Jim Jarmusch監督のCOFFEE AND CIGARETTESを観た。
モ ノクロ短編のオムニバス映画。テーマはコーヒーと煙草のある情景。どの作品もナンセンスこの上ないのであるが、そのボケぶりに大いに笑いを誘われる。” COUSIN”ではCate Blanchettが全く性格の違ういとこ同士を一人で演じているが、僕は途中まで一人二役でやっていることに気づかなかった。全作品中、お気に入りのエ ピソードは何と言ってもAlfred MolinaとSteve Cooganの”COUSIN?”あのオチは最高。

23 février 2006 

DE BON MATIN: journal

寝 不足である。昨日はTorinoOlympic女子フィギュアのショートプログラムの観戦に3時起床。今朝はヨーロッパ・チャンピオンズリーグ の準々決勝Barcelona vs Chelsea(Chelsea home London)観戦に4時半起床。早起きしてよかった!と思うような熱戦である。そして、明日の早朝はメダルがかかった女子フィギュアのフリー。
  誤解のないように言っておくが、録画装置がないわけではない。番組も再放送やダイジェストが予定されている。録画 を観る前に情報を入れなければ、無理して夜も暗い時間帯から起きなくてもよい。そう思われる向きもおられよう。しかし、それは全く違う。Real Timeと録画では観ているときの緊張感が、全く違うのである。しかも、録画や再放送を観る前に、何かの拍子に情報が入ってしまう。テレビをつけた瞬間、 ポータルサイトを閲覧した瞬間、メールを開いた瞬間…。情報を遮断するのは簡単ではない。
 スケートは転倒した刹那、美の調和が崩れてしまう。その危うさと背中合わせの演技が続く。そして力の拮抗したハイレベルなサッカーは一連の流れのなかから生まれる1プレイが勝敗を決する。そのため片時も目が離せない。負ければトーナメント敗退という要素もチャンピオンズリーグにはあるが、何より素晴らしいパフォーマンスの後の爆発的な歓喜は生放送でこそ味わえる醍醐味である。情報を知った後の録画放送ではガッツポーズも空しく、白々しい。現地のプレイに連動して、現地の観客とともに歓び、そして落胆する。・・・だから寝不足なのである。

22 février 2006 

DIEU EST DANS LES DETAILS: journal

今日、初めて知った。「神は細部に宿る」God is in the detail.という言葉はLudwig Mies van der Roheの言葉だということを。そのこころは「破綻無き細部こそが、人を感動させる形を作り出す。」ことらしい。つまり、細部まで気を抜いてはならないということだろう。Van der Roheは言うまでもなくBarcelona chairのデザイナーである。Barcelona chairのように、シンプルで美しく、しかもしなやかな強さをもったモノだけが時代を経て受け継がれていくのかも知れない。人生もシンプルにいきたいが、なかなか難しい。

 

SAUCE A LA CHINOIS: journal

 やや前の話だが、ある番組で平野レミの料理「一石三豚(いっせきさんとん)」というのを紹介していた。八角がなかったので少しアレンジしてつくってみたのだが、これが非常に旨かったのでここにご紹介する。
【レミ(←呼び捨て)の材料】
 砂糖(大1)
 ハチミツ(大1)
 しょうゆ(大1と1/2)
 オイスターソース(大1)
 ニンニク(スライス2枚)
 八角(1個)

【printemps75001の材料】
 蜂蜜(大2/3),
 醤油(大1),
 オイスターソース(大1),
 胡麻油(大1/3),
 刻みネギ(お好みの量),
 カリッと炒めたニンニク(お好みの量。なくても可) 以上
 
僕のたれは甘さを抑えて風味を重視した。主にゆで豚や豆腐、ビーフンに使えるが、守備範囲は広い。オイスターソースや蜂蜜はどうしても余りがちになってしまうが、このソースで一気に片づけられる。
  僕は料理には砂糖より蜂蜜を使う。同じ甘みを出すのに、蜂蜜の方が低カロリーで栄養価が高いからだ。料理の種類によって蜂蜜を使い分けられた ら、もう達人の域だ。蜂蜜をパンなどで使う時はやはり風味豊かなものを。パリに暮らしていた時、La Maison du Mielで購入したギリシャ産のアカシアの蜂蜜を使っていた。1瓶がなくなり、もう一本買いに行ったら、もう売り切れだと言う。それ以来、それを超える蜂 蜜には出会っていない。Nostalgiqueな甘みが今も忘れられない。

20 février 2006 

KUMQUAT: journal

スー パーで丸かじり金柑なる果物を売っていたので、買ってみた。苦くて酸っぱいと思いきや、皮はほのかに甘く、中の実の方は・・・これといった特徴はない。種 が多いの でそれを出しながら食べるが、手を汚さず1口で食べられるのでつい手が伸びる。皮をむくことさえ面倒な向きにはいいかもしれない。栄養価の方はどう なのだろう?と、つい無粋な疑問をもってしまう。
 それはともかく、金柑の原産は中国で、12世紀には既に文献にその名があるらしく、日本への伝 来は鎌 倉時代とも江戸時代とも言われている。説が分かれるのは何 を以て「金柑」とするのかの違いがあるのかも知れない。むろん、金柑にも様々な種類があるからだ。
 それより僕にとって興味深いのは
金柑のフランス語の発音である。フランス語はタイトルにあるようにKUMQUATで、英語も同じである。このスペルをみて、KUMに「金」 の韻尾の発音-mが反映されていることがすぐに分かるが、QUATが「柑」の字と合わない(最初は陽入対転かと思ったが「柑」字は-m韻尾なのでこれは誤 り)。「金柑」の日本 での漢名は「金橘」なので、ヨーロッパ語が基づいた漢語が「金橘」なら「橘」の声母k-と入声音-tが反映されているので、漢字と発音が対応する。 KUMQUATは中国の古い発音が反映したものか、南方方言の発音が反映されているのであろう。この辺りは主母音の詳細な考察が必要になろう。
 この小さな果物は今や世界中で栽培されているが、語形が残 したその旅の痕跡に思いを馳せるのも一興である。まあ、上記は単なる推測だが・・・。

 

Cours de Linguistique Chinois: syllabus 2006

科目番号 中語411
科目名・組 :中国語学特講 I・ 1組
受講年次: 2
単位数 : 2
開講学期 : 前期
開設学部 :法文学部
担当者 : 石崎 博志
時限・教室 前期 火曜日 4時限 法303
講義内容と方法:この授業は1コマの授業を二部に分けて行います。
 第一部は中国で中国語能力を測る際に使われる中国語検定試験の問題集を解いて行きます。受講生は予め与えられた問題を解いておき、授業ではなぜその解答が妥当かを説明して頂きます。第一部は相応の予習をしておけば対応可能です。
  第二部はリスニング力強化のため、書き取りの訓練を行います。教員が中国語の文章を読み(あるいは流し)、受講生はそれを書き取ります。作業自体は単純で すが、これには中国語の総合的な力が必要とされます。最初は平易な文章から始め、次第にレベルを上げていきます。対策としては、普段から中国語を聴き、読 み、書くことが求められます。
 授業は第一回〜第七回は日本語で行いますが、それ以降は中国語で行います。無論、第八回以降は日本語を禁止します。もちろん第二回から中国語のみを使いたいという受講生に関しては、それを妨げません。
教科書 『プリントを配布します。』
達成目標 :
 第一部:検定試験の問題形式に慣れる。現代中国語の語彙や表現、文法を学ぶ。
 第二部:リスニング力強化。
評価基準と評価方法 :学期末にテストを行います。授業と同じ形式のテストをします。
履修条件 : 基礎中国語IとIIを履修済みの者。中国語既習者。
授業計画 :
  第一回〜第七回  検定試験の問題集と書き取り。(使用言語:日本語・中国語)
 第八回〜第十四回 HSK問題集と書き取り。(使用言語:中国語)。
 第十五回 試験 
オフィスアワー: 授業と会議以外の時間(9時-17時)予めappointmentをとってください。
備 考 :2年次以上を対象としますが、基礎からもう一度やりたいと思う方も奮って履修してください。総合的な力をつけたい、留学を考えてい る、検定試験を受験するなどまじめに中国語に取り組もうと考えている人は大歓迎です。ただ、履修希望人数が多いときには、他専攻の方には履修をお断りする こともあります。最初はきついと思いますが、根気強く続けていけばいずれ実力がついとことを実感できるでしょう。

 

Séminaire Élémentaire de Linguistique chinoise: syllabus 2006

科目番号 :中語311
科目名・組 : 中国語学基礎演習 I 必修選択
受講年次: 2 単位数 : 2
開講学期 :前期
開設学部: 法文学部
担当者 : 石崎 博志
科目区分 : 専門科目
時限・教室 前期 金曜日 1時限 法303
講義内容と方法 :
中 国語学に関連するテーマを受講者が自ら設定し、その文献目録を作成する。前半は如何に文献目録を編んでいくか、そのノウハウを学ぶ。第五回から第十回ま では中国の「官話」に関して論じた論文に関して、担当者がその論文の内容についてのレジュメを作成し、発表、討論する。第十一回以降は文献目録を編む中で 最も重要であると思われる文献や論文を受講生自らが数編選び、レジュメを作成して内容を発表し、討論する。
この授業は受講生の明確なテーマがないことには始められませんので、受講生は卒論のテーマも併せて絞り込んでおくこと。
教科書: 『プリントを配布します。』
達成目標:
・文献目録を編めるようになること。
・学術論文の意図と内容を的確に把握できるようになること。
・自らのテーマを明確にすること。
・レジュメを作成し、自ら研究した内容をわかりやすく発表できるようになること。
評価基準と評価方法: 目録の出来映え、発表の的確さを以て評価する。
履修条件 : 将来中国語学の分野で卒業論文を作成予定の者。中国語の基礎力を有する者。
授業計画
第一回  オリエンテーション
第二回〜第四回  文献目録の作成
第五回  古屋昭弘「明代知識人の言語生活−万暦年間を中心に」 1998年 『神奈川大学中国語学科創設十周年記念論集:現代中国語学への視座−新シノロジー・言語篇』 東方書店
第六回  唐澤靖彦「帝政後期中国における話しことばの効用(1)−官話の社会的役割」 1996年 『中國哲學研究』10 pp.105-148
第七回  高田時雄「清代官話の資料について」 1997年5月 『東方學會創立五十周年記念東方學論集』
第八回  平田昌司「制度化される清代官話—科挙制度と中国語史第八」 2001年 高田時雄編『明清時代の音韻學』pp.31-59 京都大学人文科学研究所
第九回  「トマス・ウェイドと北京語の勝利」 高田時雄 2001年2月 『シンポジウム西洋近代と中國』 京都大學學術出版會
第十回  平田昌司「目の文学革命・耳の文学革命—1920年代中国における聴覚メディアと「国語」の実験」  1999年 『中国文学報』第58冊,pp.75-114
第十一回〜十四回 受講生が選んだ論文の発表
第十五回 予備日
オフィスアワー 授業と会議以外の時間(9時-17時) 予めappointmentをとってください。
備考 この授業は三年次向けです。将来的に中国語学の分野で卒論を作成する者は必ず履修すること。専門科目の選択必修科目です.

 

Traité de Linguistique Chinoise: syllabus 2006

科目番号:中語111
科目名:中国語学概論 I
開講学期 : 前期
開設学部 :法文学部
担当者 : 石崎 博志
時限・教室 前期 火曜日 4時限 法303
           
研 究 室:総−606 来室の際は予めappointmentをとってください。
授 業内容:中国語学を研究するために必要となる基礎的な事柄について講義します。まず、国際音声字母(IPA)のシステムを理解し、音声記号の調音方法な どについて学びます。そして、方言を含む中国語ではどのような音声が使われているかを確認し、自らも標準的とされる発音を発音できるよう、訓練します。そ ののち、普通話の音声と漢語方言、現代漢語方言と中国語史、また日本語や朝鮮語の音声組織など、「漢字(音)文化圏」と呼ばれる漢字音を軸にした東アジア 文化圏に関しても概観します。
達成目標:
方言を含む中国語ではどのような音声が使われているかを確認し、自らも標準的とされる発音を発音できるよう、訓練します。そして、中国語を中心とした東アジア言語を研究するために必要な知識を身につけ、興味や関心を育むことを目標とします。
参考文献:斎藤純男『日本語音声学入門』三省堂 1997年11月
李思敬著 慶谷壽信・佐藤進訳『音韻のはなし』光生館
惟勤著 水谷 誠編『中国古典を読むために—中国語学史講義』大修館書店
その他は講義中に適宜、紹介します。
履修条件:基礎中国語I と基礎中国語IIを履修済みの者。中国語既習者。
授業予定:
第一回  オリエンテーション
第二回  音声と音韻
第三回  国際音声字母(子音)1
第四回 国際音声字母(子音)2
第五回  国際音声字母(子音)3
第六回 国際音声字母(母音)
第七回  補助記号と声調について
第八回  普通話の音声・音韻体系
第九回  漢語方言
第十回  漢語方言と中国語史
第十一回 中古音(隋・唐音)
第十二回 日本漢字音(呉音・漢音・唐宋音)
第十三回 中古音と日本漢字音、朝鮮漢字音
第十四回 漢字音文化圏
第十五回 試験
その他:この授業は東洋文化専攻課程の必修科目です。

 

SUR DES COURS QUE JE DONNE

石崎研が提供する各科目の位置づけ
 私の提供科目はすべて、卒業論文を執筆するためのトレーニングと位置づけられる。しかしそれぞれを有機的に関連させられるかは受講生の問題意識による。
・基礎中国語をはじめとする共通教育科目(1年次):中国語を一から学び、中国語の運用能力を養成することを目的とする。
基礎演習(1年次):レジュメ、レポート、小論文など様々な形式に則した文章の書き方を学ぶ。併せて文献収集の方法など技術的なことを学ぶ。
・中国語学概論(2年次):中国語学という学問がカバーする領域を理解し、どのような研究テーマがあるかを知る。あわせて、中国語学を学ぶための基礎知識を習得する。→この時点で自らのテーマについて模索する必要あり。
・中国語学特殊講義(2・3年次):中国語の運用能力を高めつつ、中国語学のテーマについて考察する方法を学ぶ。
・中国語史(3年次):中国語の歴史について学ぶ。併せて、中国語の歴史で卒論を書くときにはどのようなテーマが考えられるかを学ぶ。
・中国語学基礎演習(3年次):文献目録の作成方法を学ぶ。あわせて、自ら設定したテーマについての文献目録を作成する。これがそのまま卒論テーマの目録になれば理想的。
・中国語学演習(4年次):自らのテーマについて、発表、討論することを通して発表方法、レポートの書き方、議論の進め方などを学ぶ。これが卒論のテーマに合致することが理想的。
・卒業論文

 

BISE: journal

友人からBise(フランス人がする頬へのキス)はどちらからするのか?という質問を受けた。そこでAgnes Jaouiの映画COMME UNE IMAGEを観て確認をした。結果は以下である。ちなみに「右」といえば互いに接触する側面で、自分の右手と同じ側面が右ということになります。
 女性同士の友人 右−左
 友達同士の男女 右−左
 母親と娘    右−左
 母親と娘の婿  右−左
 父親と娘    左−右
結果としては右頬から始めるというのが多いのですが、左からという事例もあり、厳格な決まりはない模様。

 

PROOF: Films

John Madden監督のproofを観た。
Shakespeare in Loveの監督の作品なので期待して観たのがいけなかった。ガッカリである。どうしても『博士の愛した数式』(小説)と比較してしまうのであるが、この映 画は数学の楽しさ、おもしろさ、ロマンテックな魅力などを全く伝えていない。いや、それを観客に伝えることを最初から放棄している。そればかりか、この映 画では数学という学問が登場人物の能力を示し、彼らが世間から認められる道具としてのみ、利用されている。別に数学を題材にしなくてよかったし、数学に医 学や文学や考古学を代入してもストーリーの本質には何ら影響しないし、そもそも学問でなくてもいいのではないか?とさえ、思えてくる。台詞回しも衒学的 で、批評家たちは一体あの映画の何を評価したのだろうか?

 

FLIGHTPLAN: Films

Robert Schwentke監督の Flight Planを観た。夫の遺体を引き取り、娘と二人でベルリンから故郷のニューヨークへ向かう航空機設計士カイル。搭乗後、睡眠薬で寝ている間に娘ジュリアの 姿が消えていた。機内で彼女を必死に探すが、乗客は誰もジュリアを見ていないと証言し、航空スタッフも搭乗記録がないという・・・。
 この映画は 設定に難がありすぎる。ご都合的と言った方がいいだろうか?犯人はカイルなどのことを非常に緻密に調べ上げている一方で、犯行当日にちゃんとカイルが彼女 の設計したジャンボに乗るという偶然(一本便が違えば機種も違う)や、乗客がだれもジュリアを見ないだろうというあまりにも楽観的な前提で犯行を実行して いる。飛行機に乗っていた公安の男。そもそも公安になるには非常に長い年月と努力が必要になるだろうが、この映画で繰り広げられる事件によってどれだけ彼 に利益があったのだろうか?なによりも鼻についたのは、周囲は間違っているけど、私だけは正しいと信じて疑わない主人公のあり方。こうしたパーソナリティ は『アイ・ロボット』の主人公と全く同じものだが、ハリウッド映画にありがちな人物像である。乗客や乗務員をアメリカ以外の国、主人公をアメリカというメ タファーで観ていくと、カイルはまさに国際社会でのアメリカそのもの。

 

HEAVEN: Films

Tom Tykwer監督のHEAVENを観た。イタリアで英語教師をするイギリス人フィリッパ。夫を死に至らしめ、教え子たちを不幸へと導いた麻薬密売人を逮捕 するように何度も憲兵隊に嘆願したにもかかわらず、受け入れられずついに強硬手段に出る。高層ビルにある密売人の元締めの部屋に爆弾を仕掛けて脅すためで あった。しかし、図らずもそれが4人の犠牲者を出す結果となり、彼女は逮捕される。尋問で死者が出たことに泣き崩れるフィリッパに、若き憲兵フィリッポが 恋してしまう。そして、何とか彼女と脱出をはかり、二人の逃避行が始まるが・・・。
 Kate Blanchettを観たくて、裏番組の『エイリアン VS プレデター』やLOSTを割愛した。ストーリーはやや陳腐だと思われたが、実際に日本で女性看守が女性の囚人と恋愛関係になったことがあるニュースがあっ たので、全くあり得ない話ではないのかも知れない。恋に落ちる二人の演技力に差があったため(もちろん、Kate Blanchetteが上!)、なんだかちぐはぐな印象。しかし、ラストシーンは題名を彷彿とさせて美しいし、Kate Blanchettの女優魂がみられたのはよかった・・・やや褒めすぎか。

19 février 2006 

I AM DAVID:films

Paul Feig監督のI AM DAVIDを観た。第二次世界大戦直後のブルガリア。物心ついた頃から収容所で生活するDavid。ある夜、看守の一人の指南で脱出をはかる。そして、一路デンマークを目指すのだが・・・。
  映画化は難しい小説だと思っていたが、果たしてその予想どおりのできであった。原作でのDavidは収容所で一級の知識人から多くの言語を学んだ結果、イ タリア語、フランス語、ドイツ語、英語を話し、彼のイタリア語は富 裕なイタリアの婦人をして「フィレンツェの貴族も真っ青」と言わしめるほどであった。そして、彼の言葉がある時は彼を助け、ある時は彼への疑念を強める ことになっていた。しかし、この映画では全編、英語。また、
小説ではモノローグで語られているため表情に乏しい彼であっても内面世界は極めて起伏の激しいものであったことが分かるが、映画では彼を客体としてみる視線を半ば強制されるため彼の聡明さや内面を推し量ることは難しい。何より大切なのは、多くの困難に見舞われながらも旅を通じてDavidは自然の美しさに感動する心や人を愛すること、信頼すること、そして人を自分に危害を加えた人をも許す心を獲得していく。しかし、映画ではそれを十分に表現できてはいない。唯一映画にエクスキューズを与えるなら、映画でのDavidの方がある意味では現実の存在に近いのであろうが、総じて旅の途中での彼の内面の成長を示す多くの事柄が平坦に描かれていたようである。あと、スイスでDavidがあっさり飛行機に乗ってしまうのはいかがなものだろうか。原作が随分と損なわれたようで、残念である。
 この作品はもともと児童文学として書かれているので、小説の一読をお薦めする。

 

CATEGORIE: journal

ラ イブドアからBloggerに移行したが、まだ慣れずにいる。引越をして気づいたのだが、このBloggerはカテゴリーの設定ができない。これはある意 味、致命的である。まず、サイトにずっと置いておきたい情報がどこに入っているかが分からない。それ以前にそもそも欲しい情報があるかどうかが閲覧者に分 からないのだ。多くのサイトを閲覧し、僕の技術でなんとか対応できたのは、「タイトルにキーワードを入れておき、そのキーワードのブログ内検索の結果をカ テゴリーのリンクに張る」ためのタグをテンプレートに埋め込んでおくという方法。閲覧者にとっては1クリック分、手間になる。またカテゴリーへの反映に時 間がかかる。どうかご容赦願いたい。

 

CIDADE DE DEUS: films

 Fernando Meirelles監督のCIDADE DE DEUSを観た。
 1960年代。ブラジル・リオデジャネイロの貧民街“シティ・オブ・ゴッド”を舞台に、強盗と殺人とドラッグと貧困が日常と化した少年たちを描く。
  ちょっと実話とは思えないような過激な内容であった。ポップカルチャーを織り交ぜてスタイリッシュな映像作りになってはいるが、これでは中和しきれない 過酷な現実を見せつけられる。子供でも銃がすぐに手に入る社会はかくも日常を恐怖に陥れ、社会に緊張をもたらす。こうなってしまっては子供の頃の traumaなんてことを言う前に、大人になるまでに死んでしまうだろう。この映画を観ていて常に念頭にあったのはサッカーのブラジル代表の選手たちであ る。彼らはほぼ例外なく、貧民街の出身でそこから這い上がって今の地位を築いてきた。世界でもっとも美しく、スペクタクルなサッカーを繰り広げる彼らの観 た風景を垣間見る思いであった。これを観たあとではちょっとリオのカーニバルを見に行ってみよう!なんて思えないだろうな・・・。

18 février 2006 

MES TRAVAUX

※2010年「中山傳信録の寄語と琉球語」『日本東洋文化論集』第16号(待刊)

※2009年「Francisco Diazの『漢語・スペイン語辞典』翻刻、漢語同定、スペイン語訳 -3-」『KOTONOHA』第80号 pp.1-19 

※2009年 「Francisco Diazの『漢語・スペイン語辞典』翻刻、漢語同定、スペイン語訳 -2-」『KOTONOHA』第78号 pp.1-19

※2008年 「Francisco Diazの『漢語・スペイン語辞典』翻刻、漢語同定、スペイン語訳 -1-」『KOTONOHA』第74号 pp.1-30

※2007年12月 「宣教師たちはどのような字書をみていたか」『琉大アジア研究』No.7 pp.3-19

※2006年3月 「翻刻資料バルセロナ大学蔵”Arte de la lengua chin cheu”」『日本東洋文化論集』第12号

※2005年10月 「Francisco Diazの『漢語・スペイン語辞典』について」『中国語学』第252号 pp.92-110

※2005年6月 「琉球方言における漢語語彙−直接借用を中心にー」『沖縄文化』第40巻1号(99)、pp.1-25

※2004年3月 「琉球の漢語語彙におけるオ段長音について」『日本東洋文化論 集』第10号、pp.29-55、

※2002年3月 「MVSEVM SINICVMにおける方言記述−声調を中心に」、石崎博志、『慶谷壽信退官記念中国語学論集』、好文出版、

※2002年3月 「MVSEVM SINICVMにおける方言記述−文法を中心に」、石崎博志、『日本東洋文化論集』第8号 琉球大学法文学部 pp.1-21、

※2002年3月 「琉球官話訳『人中画』と白話『人中画』風流配」、石崎博志、『平成11・12・13年度、科学研究補助金[基盤研究(B)(2)]研究成果報告書琉球・中国交流史研究』、pp. 90-154

※2001年9月 「『琉球譯』の基礎音系」、石崎博志、『沖縄文化』92号、沖縄文化研究所、pp1-24、

※2001年3月 「漢語資料による琉球語研究と琉球資料による官話研究について」、石崎博志、『日本東洋文化論集』第7号琉球大学法文学部、pp55-98

※2001年3月 「外国語による琉球語研究資料」および「琉球における官話」文献目録、石崎博志、『日本東洋文化論集』第7号琉球大学法文学部、pp99-134

※2001年1月 「テーマの探索−漢語方言学」、石崎博志、『国文学 解釈と鑑賞』おうふうpp.183-184

※2000年3月 「クラプロートの琉球語研究」、石崎博志、『日本東洋文化論集』第6号 pp115-180琉球大学法文学部、

※1999年3月 「三人称単数・三人称複数の方言地図」、石崎博志、『中国における言語地理と人 文・自然地理 (5)』「漢語方言地図集(第三稿)」、pp.35-39

※1999年3月 「なべ・なべぶたの方言地図」、石崎博志、『中国における言語地理と人 文・自然地理 (5)』「漢語方言地図集(第三稿)」、、pp.106-111

※1998年3月 「『正音切韻指掌』と『正音再華傍注』----編者・莎彝尊の正音観」『日本東洋文化論集』琉球大学法文学部、第4号、 pp.1-17

※1998年3月 「内閣文庫蔵・王文璧『中州音韻』校本・校勘記(江陽部)(共)」、『人文学報』292号 東京都立大学人文学部、pp.1-31、

※1997年10月 「『正音咀華』音韻体系の二重性」、『中国語学』日本中国語学会 二四四号 pp.171-180、

※三省堂『漢辞海』(共)、監修は戸川芳郎、編集は佐藤進、濱口富士雄。

 

Mariage Frère: journal

今回新たにMariage Frèreのお茶を買った。
EROS、 THE A L'OPERA、MARCO POLOの三種。馨しい香りの逸品である。僕はこのなかでも緑茶ベースのフルーティなTHE A L'OPERAがお気に入りである。こちらは水出し紅茶にも最適で、冬が過ぎても活躍しそうである。この他にスパイス系のESPRIT DE NOELをもっているが、こちらはロイヤルミルクティーに向いている。嗚呼、僕はつくづく不幸だと思う。もはやティーバッグのお茶を喜んで飲めないのだか ら・・・

 

MON ETUDE ET COURS

石崎研究室の概要です。

<僕 の専門>中国語の歴史と方言を含む現代語について研究しています。特に、中国の明清時代の共通語である「官話」の研究をしています。「官話」は中国国内だ けで話されただけではなく、広くヨーロッパ人宣教師や、日本、琉球、朝鮮でも学ばれていました。つまり、東アジア世界での共通言語だったわけです。私は漢 文資料や欧文資料をもとにこの「官話」がどのような言語だったのかを調べています。そして、それが現代の中国語にどのように継承されているのかを研究して います。

<僕の授業>授業では音声学を学び、現代語の標準的な発音ができるように訓練します。まずは話し、聴き、読み、書くという中国語 の基礎的な運用能力の向上 を目指します。学生の要望と習熟度に応じて、教室の中では日本語を禁止し、中国語だけで行われる授業もいたします。また、大学や実社会でのいかなる局面に おいても、自分が調べたことに関して、分かり易く、要点を押さえた発表を行う必要があります。説得力のあるレポートを書く、納得のいく説明を口頭で行うと いう技術はこの先、どのような職に就いても必要とされるものです。そうした基礎的な技術を習得するためのトレーニングも授業の中でとりいれていき、みなさ んが何かを調べ、それを発表するということにおいて自立することが目標となります。それは卒業論文を書くというプロセスにおいて実現されます。

<メッ セージ>言葉の習得は時間がかかります。習熟度はほぼかけた時間に比例します。学ぶ年齢は大いに関係しますが、個々の才能というのは殆ど関係ありま せん。授業だけで外国語を習得することが不可能であることは中高の経験を考えればお解りでしょう。ですから、授業以外の時間にどれだけ時間をかけて、外国 語に触れるかが習得のポイントになります。自立して勉強を行う意志とそのためのスキルを早い段階で身につけて欲しいと思います。そうすれば、4年間でかな りのレベルに達するものと思います。僕はそのための手助けをしたいと思っています。
僕の研究室では以下のような学生を歓迎します。
 ・自立志向の強い方。(理由:自立させやすいから)
 ・読書家。(理由:読書習慣がないと大学の勉強がツライから)
 ・日常や一見無駄とも思える事柄に人生の喜びを見いだせる方。(理由:大学での学問に向いていそうだし、幸せになる資質を持っているから)
 ・映画や漫画、サッカーが好きな学生。(理由:話が合いそうだから)

※これはあくまでも個人的な希望であり、入試の合否に関係しません(笑)

10 février 2006 

DEMENAGEMENT ET REOUVERTURE: journal

ブ ログの引っ越しをし、これを機にお気楽.BlogからOKIRAKU:Le Blogueとしてリニューアルいたしました。有象無象の日記サイトを目指すという我がポリシーは寸分の揺るぎもなく、今後とも肩の力を抜いていく所存で す。今後ともご愛顧、ご笑覧して頂ければ幸いです。

09 février 2006 

Etreinte éternelle en Italie:journal

Quelle romantique! なんてロマンティックなんだ。自分たちもあんな風に埋葬されたい。そう願う人もいるかもしれないが、こうなるには一緒に死ななければならないという、かーなり難しい状況に陥らなければならなくなる。体格からすると、右側が女性、左側が男性なのだろう。一般的に大腿骨の長さをもとに身長を割り出すようだが、ここまで残っていればその必要もないだろう。
 この写真を最初に観て思ったのは、きっと世界のどこかにこの題材を使って映画を作る人間がいるということ(映画の冒頭とラストは決まった!)。そして、この写真をパロって、例えば殴り合い、蹴り合いしている人骨の化石が見つかったという設定で画像を作る奴がいるだろうということ。