30 mai 2007 

Mao zhuxi ?:journal

 朝の情報番組で「ナントカ還元水」という名称が商標登録されていたニュースを紹介していた。そのニュースにも驚いたが、僕が反応したのはそのニュースを伝える新聞紙面の右下で「超劇似・毛沢東オバサン」というタイトルで写っていた写真。番組ではこのニュースはスルーされていたが、ネットでReuterを調べたら左の写真が!似てるのはいいが、本気(マジ)な顔して、一体、このオバサンは何のつもりなんだろう?ダンナがいるとしたら、夫婦生活は大丈夫なのだろうか?と老婆心ながら心配してしまった。

29 mai 2007 

LA FORÊT DE MOGARI:films

河瀬直美監督の『殯の森』を観た。
奈良のグループ・ホームで働く真千子。彼女は息子が死んだのは自分のせいだと思い詰めている。そのホームには30年も前に妻に先立たれた茂樹がいる。彼の痴呆は進んでいるが(進んでいるからこそ)、妻のことを今でも思い続けている。最初は真千子はどのように茂樹に接したらよいか分からず、硬い表情で茂樹に接している。茂樹とトラブルがあった後、「こうしなきゃならないことなんてない」という同僚からのアドバイスを受け、力が抜けた真千子は茂樹との関係を縮めていく。
 ある日、真千子と茂樹を乗せた車が脱輪し、目を離した隙に茂樹は森の中に入ってしまう。茂樹が亡き妻の墓参りに行くことを思いついたからだ。彼を真千子は追いかけるが、携帯電話も通じない樹海とも言える森で二人は迷ってしまう。
 新芽が芽吹く眩しいばかりの初夏の緑と、もはやみどりなす黒髪もなく、白髪となった老人。しかし、白髪の老人は子供のように無邪気で、体力が尽きるまで森の中を突き進む。我々は普段、躓かないように、怪我をしないように、汚れないように人生を歩もうとしている。怪我や疲れや汚れを恐れずに歩く茂樹の姿をみていると、逆に我々が不自由な人生を歩んでいるような気になってくる。
 この映画は全編、豊かな緑に溢れるシーンが続くが、特に好きなシーンがある。茶畑でおいかけっこするシーンだ。緑豊かな場所で子供のように無邪気に笑い、逃げ、走るシーンは本当に美しい。また、河瀬監督は老人を若々しく、美しく描こうなどとはしない。年老いた人々に刻まれた皺のカットも、そこに敬意を感じる。そして、どうしても手放さなかった黄色いリュックを真千子に背負わせるシーンは、二人の間に信頼関係ができたことを表す重要なシーンである。このシーンが一番、好きだ。だが、この映画の重要な点は映像の美しさではなく、やはりテーマ性である。
 老いることは、死ぬことよりもリアルで深刻である。生活や思考の隅々に至るまで我々は無意識のうちに経済的合理性に則っている。多くの世間の価値観もそれを基準にしている。社会に対して何も貢献できない存在が疎まれるような世の中にあって、消費や生産活動から離れてしまった老人がどんどん肩身の狭い思いをしなければならなくなっている。それは日本だけの状況ではないだろう。自分がどんな姿になっても、自分の存在は肯定されるのであろうか?老いさらばえ、意識が混濁し、四肢も不自由になって、人に与えるお金がなくなってもなお、自分はこの社会で受け入れられるのだろうか?社会のお荷物になったら捨てられる、そんな不安の中で我々は生きている。
 ミシェル・フーコーを持ち出すまでもなく、我々は社会にとって不都合な存在を目に見えないところに囲い込んできた。病気や狂気、そして老いも人目につかない場所に追いやられている。そうした近代の歴史に反し、河瀬監督は痴呆の老人を自然の森の中に解き放った。この意味は、ことのほか大きい。
 真千子の行動をみていると、痴呆と向き合う際に極めて重要なスタンスを示していることがわかる。それは茂樹の世界を否定することなく、茂樹の世界で遊ぼうとする姿勢である。ここに真千子の強いプロ意識をみる。だが、いくらヘルパーを仕事にしているとはいえ、真千子のような女性は現実にはいない、と思うだろう。真千子ぐらいの年齢の女性ならきっと後で探しに来ることを理由に老人を森の中に置いていくだろう。度を越しているとも思える献身的な真千子の姿をみていると、『永遠の仔』の優希を思い出す。真千子の献身の背後には彼女の息子に対する贖罪意識が強く働いていたのだろう。その姿が必死に患者に向き合う優希の姿とどうしても重なってしまう。献身と依存。これは表裏一体である。あれほど人に献身的でいられるのは、彼女が自分の存在が虚無に思えるほど深く、深く傷ついたからであろう。一見、助けているように見える真千子は実は茂樹に依存している。そして、茂樹の導きによって、人々の喧噪から離れ、真千子は失われた息子の死を心から悼み、悲しむことができる安らかな場所にたどり着くのである。
 Gus Van Sant監督のLAST DAYSも、次第に朽ち果てていく若者と光り輝く緑の森の対比が印象的な一本である。しかし『殯の森』とは全く反対のベクトルをもつ。LAST DAYSは尊敬と羨望の眼差しを一身に集めるスターが絶望的な孤独のうちに死んでいく姿を淡々と追った作品だが、『殯の森』にはこのような死臭は漂ってこないばかりか、大切な人の死を乗り越えて生きていく希望の光がみえる。老いること、生きていくこと、悲しみを乗り越えること、人を慈しむこと、自然と一体になること、「日本文化」が理解されたということではなく、こうした普遍性が高い評価を得たのだと思う。

27 mai 2007 

L'argent:films

Robert Bresson監督のL'argentを観た。
少年が偽札を作り、それを使用したことから連鎖的発生する、人々のありさまを描いた作品。少年から偽札を掴まされた写真屋は、それを「使ってしまおう」と思い、使用人に命じて配管工に掴ませる。配管工が偽札を手にしてからというもの、彼の人生は音を立てて崩れていってしまう。誰も彼の言葉を信じないが、彼は簡単に人の話を信じて犯罪を犯してしまう。映画の中盤まで一種の群像劇のような形をとるが、物語は次第に配管工の話に収斂していく。映画の中で「お金とは目に見える全能の神だ」という台詞がある。元配管工は仕事を失い、家族を失い、出所後、よるべない自分を受け入れてくれた一家を惨殺してしまう。彼はホテルでも金を奪い、金はどこだ?と言いながら一家を惨殺するが、彼が何かを買っているシーンは出てこない。ラストで一杯の酒を頼む時だけである(しかも、支払いのシーンはない)。何のために殺人を犯すのか?金という「至高の価値」が元配管工の人間性を狂わせてしまう。
 この映画は信頼に基礎を置いた社会システムが人々の信頼を逆に崩壊させる皮肉を描いているようにも見える。簡単に人は信頼しないと豪語する者も、社会システムは信頼している場合が多い。レストランに行けば誰が料理を作っているか知らずとも、それに毒が盛られているとは思わないし、タクシーに乗れば運転手が誰かを知らなくても拉致されることはないと信じている。考えてみれば不思議なことである。社会が根拠のない信頼を基礎に成り立っていることを示す最も端的な例はお金であろう。
 お金というものはそれに信用があることではじめて成り立つものである。金や銀とは違って紙幣は紙切れなので、それ自体に使用価値がない。そのため、紙幣が紙幣としてそれ相当の価値があるという信頼に基礎を置いた共通認識がなければ流通することはない。逆に言えば、信用があるからこそ、貨幣は流通することになる。現在では貨幣ではなく、通帳に書かれている残高(という数字)や、クレジットカードが貨幣に代用されているが、強固なセキュリティに対する信頼を背景に成り立っている。映画の中でも、カード犯罪をするシーンも出てくるが、これはその延長線上にあるものである。
 この作品、登場人物の感情の起伏が俳優たちの演技ではあまり表れてこない。暴力シーンも直接的な描写を避け、極めてドライに描かれている。トルストイの短編を原作とするが、こうした乾いた映像はニクラス・ルーマンの社会理論のドライさに通じている。
偽札を掴まされた配管工の末路を観ながら、すこしゾッとした。僕自身がパリで偽札を掴まされそうになったことがあるからだ。(このエピソードはこちら。)邦題は『ラルジャン』、お金の意。

26 mai 2007 

Le bengalî:journal

 今日、那覇市内某所でとある食事会があった。お隣に座られたのはバングラディッシュ出身のHさん。ターメリックの研究をなさっており、日本語が本当に達者。おかげで気軽にお話ができた。
 その会話のなかで驚いたのはバングラディッシュの結婚事情。氏は両家のご両親のすすめによるお見合いだったらしいが、結婚前は殆ど会ったことがなく、3時間ぐらいしか会っていなかったとの由。今では3人のお子様がいらっしゃり、奥様とは今もむつまじい関係とのことだ。心配はなかったかの問いに対し、「両方の親が性格とか相性を考えてくれるから大丈夫」と仰っていた。最近はこうした傾向も変わってきたとのことだが、あちらでは6,7割はお見合いとのことで、本当に驚いた。
 さらにベンガル語で名前を書いてもらった。これは「母音のi」、「これは子音のsh」と丁寧に教えてくれた。デーヴァナーガリーに似た文字で、子音が付いた字体と子音がつかない字体が異なることは同じであるようだった。学部の言語学の授業で言語調査のトレーニングをしたが、それはベンガル語の話者を「何語を話す人か判らない」という前提で、手探りで質問を重ねてその言語を記述するというものだった。その時に少しだけベンガル語に触れたが、そのことをすっかり忘れていた。だが、有声破裂音の帯気音(濁音の帯気音)の響きは今も耳朶に残っている。インド・ヨーロッパ語族に属するのだが、膠着語的な性質をもっている。氏によるとアラビア語などからの借用語も多いようだ。

24 mai 2007 

La Finale:journal

 アテネでのUEFA Champions Leagueの決勝戦。LIVERPOOL VS MILANの一戦を早起きして観た。ビッグ・タイトルの決勝戦というのは得てして凡戦になることが多いが、この試合も何とも盛り上がりに欠けるというか、歴史的な一戦という内容にはほど遠い感じであった。もちろん、この評価には僕のバイアスが強くかかっている。僕は今シーズンはLIVERPOOLを応援していたし、プレミアリーグでのLIVERPOOLの試合は全て観ていたから、2-1Milan勝利という結末には落胆している。
 試合は相手のよさを消すような内容に、偶発的と思えるフリーキックからのゴールとInzaghiらしいしぶといゴールが全てであった。世代交代に失敗しているMilanは今シーズンを最期にベテランを若手に変えたいところだろうが、この結果では逆にそれも難しくなるかもしれない。それに比べてLIVERPOOLは若い。これからである。
 嗚呼、これでヨーロッパのサッカー・シーズンは終わり、選手の移籍情報が飛び交うoff-seasonに入る。次の楽しみはユーロ予選か。それにしても、それにしても、この結果は残念だ。
 ところで、現在、駅伝の1区留学生問題というのが持ち上がっているらしい。最長区間である1区に留学生を起用する高校が増えたため、これに歯止めをかけようとのことである。正直言って、これはナンセンス。留学生を起用しているのは実力があるからであろうし、これによって日本の駅伝(駅伝というのは日本独特のようだが)のレベルが向上することは悪くはないし、留学生と競いながら、また協力しながらチームを作っていくのはいい面もあるのではないか?
 欧州のサッカー・シーンを観ていて思うのは、その国籍の多様さである。イングランドのリーグがレベルアップしたのはチームの外国籍選手の制限を撤廃したことも関係している。今回の決勝ではLIVERPOOLのイングランド選手はスタメンでは2人。MILANは少し多くて5人であった。国籍条項を今も保持しているワールドカップの試合はクラブチーム同士が行う試合レベルよりもずっと低い。他の要因もあるが、これは専門家なら誰でも認めるところである。メジャー・リーグも然り。アメリカ人だけで構成するチームなどほぼないに等しい。プロとアマでは違うという意見もあろうが、部活動で教育的たらんと思うなら、差別的なことはしない方がよろしい。

23 mai 2007 

SOLAS:films

BENITO ZAMBRANO監督のSOLASを観た。
ドメバ男であった父から離れ、都会で一人暮らしをするMaria。清掃作業員の仕事をするが、酒浸りの日々で、パーティの残り物の酒をあおったり、なじみのバーから酒をくすねたりする生活。父に殴られ続けた母・Rosaのように生きたくないと願いながら、Mariaは父と同じ匂いをもつドメバ男の子供を孕んでしまう。当然、男は中絶しろとこともなげに言う。そんなMariaの街の病院に父親が入院し、母親がMariaの部屋に寝泊まりすることになった。母親は娘の心配をしながらも彼女の生活が少しでも潤いのあるものになるように花を買ってきたり、手料理を作ったりするが・・・。
 以前に劇場で観た映画だったが、なぜか全く記憶に残っていない。恐らく眠ってしまっていたのだろう。改めて観たが、非常にいい作品であった。スペインはドメスティック・バイオレンスが多い国だと聞いている。そうした社会背景とは無関係ではない母子の関係を静かに、そしてヒューマニスティックに描いている。Mariaは理性では分かっていても、どうしても横暴な男に惹かれてしまう。好きになる相手が憎い父親と同じようなタイプ・・・父からの愛情が少なかった分、このようになるのだろうか?その昔、日本のドラマで自分を平手打ちする男こそが、自分のことを考えてくれているのだとして、殴られた途端、相手についていく女性が登場していた。さすがに今はそんなキャラクターがお茶の間に登場することはなさそうだが、小さな時の記憶では結構、あったような気がする。今にすればあれは何だったのだろう?と思う。殴った女がついてくる。ある意味、恐い。
 原題のSOLASはスペイン語で『ひとり(複数形)』という意味。この物語で出てくる登場人物はみな、孤独である。病床でもちょっとしたことで言葉の暴力を浴びせかける夫をもち、子供にも去られてしまうRosa。誰とも信頼関係を築くことが出来ずに酒浸りの孤独に陥っているMaria。そして独居老人のVecinoもまた同様である。彼らは少しずつやさしさ持ち合い、それを分かち合うことで、将来への希望を見いだしていく。ある意味で自由に生きるような時代や環境に恵まれず、私生活でもあまりいい思いをすることがなかったであろうRosaが憐れでもあるが、彼女の優しさは偉大である。彼女はある種の古風なスペイン女性なのだろう。なかなかお薦め。邦題は『ローサのぬくもり』。

22 mai 2007 

春の雪:films

行定勲監督の『春の雪』を観た。三島由紀夫『豊饒の海』四部作の最初の一作を原作にして制作された作品。
 大正時代を背景に耽美に描いている。『SAYURI』ほどではないが映像としてはどことなくキッチュな印象を受けた。調べてみるとカメラマンが台湾の李屏賓。王家衛監督の『花様年華』などを撮っている人物だ。あまりにカラフルでどことなく感じた違和感が全てカメラマンに帰するわけではないが、因果の一つではあるであろう。
 全体にやや冗長で、それほど心に残る台詞はない。
脚本があまり練られていないような印象である。人気俳優を使っているが、台詞がなんだかぎこちない。逆に蓼科をはじめとする脇役のインパクトが強すぎる。四作を通じての主人公であり、傍観者でもある本多繁邦のキャラクターやストーリーがやや脚色され、薄められている。なんだか中途半端な印象は拭えない。さらに、第三作『暁の寺』で清顕の生まれ変わりとされるタイの王女ジン・ジャンの写真を、映画の中でタイの王子たちから見せられるシーンがある。これはちょっとマズイのでは?と思ったし、そもそも『豊饒の海』のテーマである輪廻転生がこの映画では全く描かれていないのはいかがなものか。
 原作のラストは月修寺。奈良にある尼寺・円照寺がモデルとされている。確か原作では円照寺に至る参道で松枝清顕は死去することになっている。大学時代に奈良を旅行した際、この円照寺も訪れたことがあるが、三島の描写の正確さに驚きを覚えた。このお寺は四部作の完結編である『天人五衰』のラストの舞台になっている。そこで再び聡子が登場する。そして、本多に「清顕という人など存じません」と言い放つ。その後に三島が自殺することを考えると、戦慄を憶えるラストであった。
 四部作全てを映画化するのだろうか?興行的に成功しなかったからきっと無理であろう。そもそも、興行的に成功しなかったのは何故だろうか?現代でも制約はあるであろうが、「禁断の恋」という設定が現代ではリアリティを失っているからだろうか。
 最後に、果たして聡子が皇族との婚約が破談になった理由は聡子が精神疾患を患っていたことが発覚したからである、と報道される。井上章一の『狂気と王権』は主に皇室に関わる事柄と精神異常という医師の診断に密接な関係があったことを論じている。「禁断の恋」より
こちらのテーマの方が遙かにリアルである。皇室に嫁ぐ「普通の女性」が皇族との婚約を自ら破棄することはあってはならないし、あり得ない(はずである)。だからそれを逆転させ、彼女が「普通の女性」ではなく、精神疾患を患っていたからそのような「愚挙」を犯したとして処理し、「高貴なものの神聖性」を守る。大正時代なら常套手段であったということか。現代でも裁判などの場で似たようなことはあるのかもしれない。

21 mai 2007 

DAS LEBEN DER ANDEREN:films

Florian Henckel von Donnersmarck監督のDAS LEBEN DER ANDERENを観た。
冷酷なまでに任務に忠実な国家保安省Stasiの大尉・Wiesler。彼は劇作家Georg Dreymanとその恋人で女優のChrista-Maria Sielandを日夜監視し、彼らが反体制的であることの証拠を見つけようとする(きっかけはWieslerのChristaへの一目惚れ?)。Wieslerは彼らの生活の一部始終を盗聴し、最初は徒に彼らの関係を壊すことさえする。しかし、彼らの部屋からくすねたブレヒトの詩集を読み、ある夜流れてきたピアノの音色(Die Sonate vom Guten Menschen=「善き人のソナタ」。「善き人のためのソナタ」ではない。)に耳を傾けるうち、彼の凍り付いた人間性が溶かされていく。そして彼らを捕まえる証拠を見つけるはずが、逆に彼らを助ける・・・。
 絵画一つない殺風景な部屋でprostituteで孤独を紛らわせるWieslerの生活と、アートに溢れ、音楽を奏で、愛を交わす生活をするGeorgとChristaの日常はあまりにも対照的である。極めて濃いキャラクターであるWieslerに対して、ややつかみどころのないGeorgの性格や「弱き者よ、汝の名は女」的なChristaは、ややキャラクターの立ち方としてやや物足りないものがあった。特にGeorgには劇作家として本当に書きたいものがあったのかさえ、判然としない。
盗聴をする姿を観て「うぁ、何て暇な・・・社会のためと言いながらこんなことに金と人員を割いていたから崩壊しちゃったんじゃないか」と思って観ていた。
 ところでWieslerを変心させたのは芸術の力である。体制側が劇作家や舞台監督を粛正したのは、芸術が人の心を揺り動かすその力を恐れたからであろう。先日観た映画"V for Vandetta"に「政治家は嘘を語り、作家は嘘で真実を語る」とあったように、劇作が真実を人々に知らしめてしまうことを嫌ったのであろう。「芸術」がプロパガンダとして機能するともまた事実ではあるが、この作品では芸術の真の効能に力点が置かれている。
 この作品はWiesler演じるUlrich Müheの演技が光っている。Michael HANEKE作品の常連なので僕には非常になじみ深い俳優であったが、冒頭の冷徹な表情と対照的に誇らしげなラストのカットなどは出色である。
 この映画を見終わった後、ややロマンティックな感興を催すが、恐らく現実は何十倍も過酷であったであろう。映画の中のGeorgがそうであったように、現在では旧東ドイツ時代に調べ上げられた個人資料が本人に限って閲覧できるようになっている。これは好奇心溢れる人間には禁断の果実とも言ってよく、夫や妻、両親、恋人や友人が自分の密告をしていたことを不幸にも知ってしまうことになるらしい。旧東ドイツの人々は国家や社会が変わっても容易に人への不信感を拭えないのではないか?人を信じられない人生、これもまた地獄である。国家が人間関係をズタズタに引き裂くこともできる。これは決して特別なことではない。つい、20年前の、飛行機で10時間ちょいの場所で本当に起こっていたことだから。国家に対して問題意識を持つことさえ許されない社会。実際に自分があのように常に監視対象となっていたらと思うとゾッとする。技術的には当時より遙かに容易に誰かを監視することができるのが現代である。日本では決してあり得ない物語なのか?それは違うだろう。帰宅して思わず、壁のコンセントをじっと見つめてしまった。
 原題は『他人の生活』。Die Anderen(他人)はいわゆる自分以外の人間ではなく、旧東ドイツで「反体制の人々」を示す言葉である。邦題は『善き人のためのソナタ』。邦題はもちろん劇中からとっているが、「ソナタ」という言葉に敏感に反応する世代を取り込もうという意思の表れか。非常によくできた作品で時間を全く感じさせなかった。是非とも劇場に足を運ぶことをお薦めする。

20 mai 2007 

Funny Games:films

Michael HANEKE監督のFUNNY GAMESを観た。
バカンスで湖の畔の別荘に訪れたショーバー一家とその愛犬。隣人と挨拶を交わし、夫と子供はヨットを湖に浮かべに、妻は食事の支度にとりかかる。すると白い手袋をした男が隣家からタマゴを借りに来た。日本で言うなら醤油を借りるような気楽さで。妻は男にタマゴを渡すが、男は落としてしまう。妻は落ちたタマゴを拭き取るが、次に男はうっかり(?)電話をシンクに落として壊してしまいながらもさらにタマゴを求める。次第に妻は苛立ち、男を帰そうとしたら、別の男が入ってきた。その男は高級ゴルフクラブを打ってみたいと言いだす始末。彼らの図々しさに妻が腹を立てているところに夫が帰宅。夫は彼らを部屋から追い出そうとしても、難癖をつけてくる。そして、腹を立てた夫は男の一人を平手で打ったその直後、ゴルフクラブで脚の骨を折られてしまい、男たちは夫、妻、息子を監禁状態にして家に居座ってしまう・・・。
 前置きが長くなったが、タマゴを譲ることからどうしてこんなことに?という状況に一家は陥ってしまう。ラストまでみると、それが全て彼らの計算で、ショーバー一家も何番目かの被害者一家であることが判る。一家にとっては不条理極まりない状況で、押し入った男たちの横柄で冷徹な振る舞いに観ている側も嫌悪感が増幅していく。また、途中で押し入った男が観客に向かってウィンクしたり、話しかけたりする。あたかも中の男たちが観ているわれわれを意識しているように。これにより観ている者も彼らの鬼畜の所業に助ける手だてもなく立ち会わされてしまう。
 この社会ではあらゆるものが商品として流通している。人の命や暴力、性、感情までも商品となる世の中に生きている。映画やドラマ、小説、ゲームのなかで暴力は一つの娯楽として日常に浸透している。このことの是非はおくとして、これが現実である。理不尽な暴力に対して、暴力で立ち向かう勧善懲悪の物語にしても暴力はある種のカタルシスを感じさせ、人に爽快感や時に「癒し」さえもたらしている。ファニーゲームで繰り広げられる暴力は決してそうした類のものでなく、あくまでもグロテスクでおどろおどろしいものとして描かれている。残虐シーンは映像に出てこないのに、強烈な暴力性を感じる。ある意味で娯楽としての暴力表現を裏返したような作品で、観客に何らプラスの感情をもたらさないよう、巧みに演出されている。この映画は確かに嫌悪感を引きずるものであるが、逆に暴力で爽快感を感じる感性の方が、倒錯していると言えよう。写真家のジェームス・ナクトウェイは「戦争はたった一人の人にもやってはいけないことを万人にやっている」と述べた言葉を借りれば、映画は一人の人にもやっていけないことを万人にやっている、ということになる。
 押し入ったのは大学生ぐらいの年齢の若者である。若者は大人にとって予測不可能の危険に満ちた「他者」なのかもしれない。最初、若者たちが一家をいたぶるのは彼らの被った「不快」に対する代償なのかと思ったが、そんな単純なことではないのだろう。
この若者は一体、何を考えているのか?将来をどう考えているのか?これまで一体、彼らに何があったのか?こうしたことは一切、語られない。その分、恐い。この作品、ハリウッドがNaomi WattとTim Rossを迎えてリメイクするそうである。監督はもちろんHANEKE。ただではリメイクしないような気がする。邦題は『ファニーゲーム』(原題はFunny Gamesと複数形になっていることに注意)

17 mai 2007 

We don't live here any more:films

John Curran監督のWe don't live here any more.を観た。
夫婦ぐるみの付き合いをしている二組の夫婦。夫のJackとHankは大学の同僚。JackはHankの妻Edithと不倫をしている。JackとTerryの夫婦は小さな事でけんかが絶えず、スランプのHankとEdithはどことなくよそよそしい関係。大学の教員といっても二人は40歳前後か。生活は安定しているが、地方の大学で学生との授業も盛り上がりに欠け、刺激的とは言えない日常。妻の二人は専業主婦。子供は小さいが、常に子供の尻を追いかけなければならないほどではない。ただ自然だけがある地域で物語はこれといった大きな事件らしきものがなく、淡々と進んでいく。野心をもって将来を夢見るほど若くはなく、家族も子供も職業も自宅も一通り手に入れてしまい、人生の中だるみともいえる時期の中途半端さがよく表れている。こうしたテイストは好みが分かれるかもしれないが、こうしたリアルさは嫌いではない。ただ、あまりにありがちな設定で、関係も4人で閉じているので、物語の広がりに欠ける。次第にダブル不倫に陥り、何とか元のさやに収まるかと思えたが、最後にEdithは夫に別れを告げる。このラストは実に意味深である。
 この映画を観ると、結婚生活の日常は本当に重いと思う。積み重ねた時間は信頼を深めるのか、怨嗟を根付かせるのか・・・。邦題は『夫以外の選択肢』。この題名を付けた時点で論理的にはあたかもNaomi Watt演じるEdithの物語のようになるが、あくまで4人全員が、I don't live here anymoreなのである。

14 mai 2007 

Spiderman3:films

Sam Raimi監督のSpiderman 3を観た。
・キルスティン・ダンストはやっぱりブスである。
・相変わらずMJは自分本位。
・あれだけ目立っても最後はやはり場末のウェイトレス&歌手というのも哀しい。
・スタントマンを使った時のスパイダーマンとトビー・マグワイアの体型が違いすぎ。
・なんで宇宙から飛来した生物がアメリカの70年代の流行を反映するの?
・素粒子実験ごときで何であんな怪物ができるの?つーか、誰でも入れてしまうのはどうか?
・CGによるアクションシーンはイマイチ。
・恐るべき怪物とスパイダーマンが戦っている時に子供が身の危険も感じず見物しているというのは、あまりに暢気すぎ。
・「敵対から和解」のコンセプトはいいが、あまりに安直。
・ハリーは後頭部近くで爆弾が爆発しても死ななかったのに、剣で刺されてあっさり死ぬのはいかがなものか。
・執事がハリーの父の真実をハリーに伝えるのが遅すぎ。
・ラスト附近に星条旗をバックに登場するスパイダーマンのカットはいかがなものか。
・やっぱりハンニバル・ライジングを観ればよかった・・・。

13 mai 2007 

Une affaire de Goût:films

Bernard Rapp監督のUne affaire de Goûtを観た。
実業家のFrédéric はレストランで給仕をしていたNicolasに出会う。数日後、FrédéricはNicolasに高額の報酬で自分の味見係になるように誘う。Nicolasは最初この風変わりな男を利用して、金を絞り出してオサラバするつもりだったが・・・
 FrédéricはNicolasを自分と同じ感覚をもつようにするために一種の「調教」をしていく。最初は食事の味見だけであったが、次第に選ぶ女性やスキーのコースなど、あらゆる面の「味見」をさせるようになる。Nicolasは時々反発するも、次第にそうした隷属関係を内面化していく。二人がシンクロしていく度合いが高まり、Nicolasは最初に抱いていた打算抜きに彼により同化しようとする。
 この二人はそれぞれヘテロ・セクシュアルであるが、二人の間に漂う不思議な雰囲気は性愛を抜きにした同性愛のようで、しかもsadisticかつmasochisticである。これが金にも不自由しない、成功した実業家の「お遊び」であるならまだしも、
Frédéricはあくまでも本気(マジ)・モードなのである。セクシュアルな関係から離れた両者の同化への欲求は屡々観る者を混乱させる。Jean=Pierre LEO扮する判事が狂言回しのように彼らに関係した人々を尋問するシーンから二人の関係が悲劇的な形で終局を迎えたことがほのめかされる。判事はある種の世間的な常識を体現する者として登場するが、全編を通して倒錯的で、官能的で、ミステリアスな雰囲気が濃厚に漂う。
 この物語は心理劇として成立しているが、こうしたことはわれわれの日常にも存在しているような気がする。つまり、誰か(あるいは何か)に隷属すること、誰か(あるいは何か)と同一化したいという欲求がその人の感覚を崩壊させてしまうということである。組織の中で生き延びるために組織の論理に染まってしまったり、恋愛の中で自分を見失ったりすることはこの物語の主人公のありようと相似している。人が個人の考えよりも組織の論理が優先させるようになるのはこうした隷属状況から生まれてくるのではないかと思える。こうした異常な状態はNicolasだけでなく、
Frédéricに仕える人々も共有している。極端な例示であるが、この物語はある種の人間の側面を言い当てているともいえる。『薬指の標本』同様、フランス映画の面目躍如といった感じの作品。邦題は『趣味の問題』。

 

What would $456 billion buy?:journal

 以前、村上龍が『あの金で何が買えたか』という本を出した。バブル後の不良債権処理で銀行を救済するために税金が大量に投入された。そのお金で何が買えたのかを絵本で示した本である。使われたわれわれの税金で、死に行く貧困地帯の子供たちも何人も救えたし、日本に今で言うならチェルシー並のサッカー・チームが作れた。あまりにも額が大きくなるとわれわれは逆のその価値が判らなくなってしまう。
 イラク戦争のために使われたアメリカの税金4560億ドルで一体、何をすることができたのか?ということを紹介したサイトが以下である(こちら)。改めてその額の大きさに愕然とする。もちろん、日本も「協力」しているので、同様の企画があってもいいかもしれない。

11 mai 2007 

un homme ordinaire:films

Vincent Lannoo監督のORDINARY MANを観た。
Georgeはある夜、むしゃくしゃして前の車にパッシングをしたり、車間距離を縮めたり、煽るような行為をする。怒った前の車の男は、車から降りてきてGeorgeの車に詰め寄る。そして逆にGeorgeは男を殺してしまい、男に同乗していた女Christineを自分の山小屋に拉致する。その後、女が小屋から脱出を試みたため、Georgeは女の声帯を傷つけて声が出ないようにし、彼女を車のトランクに住まわせることにする・・・。
 物語はGeorgeの妻と幼なじみの警官との不倫関係がからみ、娘にChristineの存在が知られたりと、次第に抜き差しならない状況に陥っていく。そして、気の弱い「普通の男」であるGeorge自身も次第に精神を病み、幻覚をみるようになる。しかし、さらに病んでいったのはChristineの方で、最初は相手の攻撃心を刺激しないように振る舞っていたが、次第に抵抗力を失っていく。しまいにはそこが唯一生き延びる安住の地のように、自ら進んで車のトランクに入るようになる。最後にはGeorgeを救って、Georgeが犯した全ての罪を幼なじみの警官になすりつけることに成功する。
 Christineはいつ殺されるか分からないギリギリの精神状態のなかで、必死に生き延びようとしたのだろう。逃げ出せるような隙はいくらでもあっただろうに、殆ど逃げ出す意欲を失ってしまう。しまいにはGeorgeに過度に感情移入してしまう。まさに典型的なストックホルム症候群といえるだろう。一種の洗脳状況のようなもので、これを「愛」と呼ぶかは甚だ微妙である。観客のなかはこれを「愛」だと勘違いしてしまうだろう。
 さて、こうした作品は意外に多い。ヴィンセント・ギャロの『バッファロー66』、キム・キドクの『悪い男』、ジェニファー・リンチ監督の『ボクシング・ヘレナ』、『完全なる飼育』・・・枚挙にいとまがない。監督は確信犯的に描いているのか、純粋な愛として描こうとしているのか判然としない。以前にも書いたが、この映画のDVDのパッケージはLaurand Lucas監督のCalvaire(邦題『変態村』)を模した作りになっている。邦題も『変態男』となっており、Calvaireに便乗して相乗効果を狙っているが、両者の間にはなーんにも関連はございません。Calivaireについては以前、コメントを書いたので(こちら)興味のある方はどうぞ。

05 mai 2007 

saison 2006-2007:journal

今シーズンのベスト・イレブンはこれだ!
FW     Drogba  Messi
MF
 C.Ronaldo Essien Gerard Kaka
DF  A.Cole Terry  Nesta  Oddo
GK       Reina
Coach : Rafael Benitez
 まあ、こうした企画にはあまり意味はない。強烈な個性が集まれば勝てるチームができあがるとは限らないからだ。だが、こんなメンバーを集めたらどんなチームになるだろう、というファンタジーは持っている。また、去年のベスト・イレブンと戦ったらどうなるだろう?というあり得ない状況も夢想してしまう。GKはCechも捨てがたい。必ずローテーションをするBenitezがベスト・イレブンの監督というのもやや矛盾するが、個人的には一番好きな監督だ。

 

The Constant Gardner:films

Fernando Meirelles監督のThe Constant Gardnerを観た。
 一等外務書記官のJustinの妻・Tessaが無惨な死体で発見される。彼女は夫の赴任したナイロビで医療ボランティアをしながら、製薬会社が新薬の人体実験まがいのことをしているのではないかと調べていた。Tessaは夫に自分が行っていたことを相談することなく、危険を冒しながら調査をしていたことを後から知る。物語はJustinの想い出の中の彼女の姿と真相を追うストーリーが交互に映し出される。
 物語のなかのTessaはその過激な行動からは想像もつかないような優しい笑顔をJustinにみせる。それはまるで飢餓と貧困と疫病と内戦を抱える地域で働くJustinのオアシスのようである。Justinはいつもガーデニングに夢中で、礼儀正しく、お坊ちゃん然としており、時折、その育ちの良さと外交官的合理主義がTessaとの間に溝を生じさせる。しかし、Justinはその溝が次第に深くなっていることに気付かない。Tessaも唾棄すべきJustinの知り合いと「取引」をして、人体実験の証拠を掴もうとする。二人の性格や行動はあまりにも対照的で、この夫婦がなぜ愛し合ったのか首をかしげたくなるほどある。そして、Justin自身もTessaの行動が全て打算ではないかと疑いを抱きながらTessaへの旅を続けていく。
 この夫婦は世に流布しているような外交官夫妻像とは随分とかけ離れている。代々、外交官の家系であるJustinと学生運動家風のアグレッシブな性格のTessaという夫妻。二人の置かれる社会階層を考えれば現実的にはちょっと考えられない組み合わせである。外交官の妻と言えば、赴任先の日本人コミュニティではボス的存在で、高級品の買い物やグルメに余念がないようなイメージだ。同じ時期にパリにいた友人と遊びに行った時、その奥さんが会話のなかで「駐在員夫人」という言葉を幾度となく連発していたが、ある種の女性にはステータスなのだろう。妻は夫あるが故のステータスを死守しようとする。よっぽどのことがない限り夫の仕事に支障が出て、自分が「単なる主婦に転落」するようなことは避けるだろう。JustinとTessaはその点があまりリアルではない。
 しかし、この物語はアフリカの現状を圧倒的な力で見せつけられる。JustinとTessaの夫婦はある意味で先進国の二面性を体現する存在である。彼らの物語を窓口として、比較的裕福だと言われるナイロビでさえも、あらゆる死と隣り合わせの絶望的な恐怖の中にあることを知らされる。
劇中、Justin が雑草を駆除するための農薬を使うことをTessaになじられるシーンがある。Justinは自分が作り上げようとしていた「美しい 庭」は「雑草」を駆除して成り立つものであったことに後から気付く。Justinが必死に作ろうとしていた「美しい庭」は先進国、「雑草」はアフリカの 暗喩である。
 物語にあったような非人道的なことが本当に行われていたかのだろうか。原作者のJohn le Carréは実際に外務書記官であったようであるし(世間知らずの外交官をヒロイックに描くのも彼の「願望」の反映か)、多国籍企業も利潤を度外視して単なる社会貢献だけで動くような存在ではないだろう。少なくとも観客に単なるフィクションではないと確信させる状況は存在している。
 一方でやはりこの映画は夫婦愛の物語でもある。Tessaへの旅の途中、Justinは幾度となく彼女の夫への愛が疑われる状況に接する。彼女が通訳と不倫していたのではないか、知り合いと不倫していたのではないか、自分との結婚はアフリカに行く口実を作るためではなかったのか、自分自身を信頼していなかったのではないか・・・彼はそれらに一つずつ愚直ともいえる誠実さで迫っていく。彼は外交官という社会的な鎧を一枚一枚脱いでいき、最後には単なる妻を愛する一人の男になっていくが、この映画のタイトルであるconstantは夫の妻への変わらない愛情と彼の性格を示しているのであろう。
 最後に映画の音楽に言及したい。この映画にはAyub Ogada の音楽が使われていたが、彼のCDはこの映画を観る前から疲れてリラックスしたい時によく聴いていた。やさしく深みのあるボイスは稀有のものであると感じさせる。しかし、この映画ではアフリカの厳しい現状のバックに流れていたので、ちょっと複雑な気持ちにもなってしまった。邦題は『ナイロビの蜂』。

02 mai 2007 

Monsieur Bowling:journal

 ゴールデン・ウィーク。3月からあまりにも忙しかったのでなるべく予定を入れず、その日暮らしをしている。某同僚とボウリング対決をしようと思っていたのであるが、残念ながらタイミングが合わず、戦いに臨む気持ちだけが残ってしまった。
 そこで初めて一人でボウリングに行った。普段、レーンでは一人でボウリングをしている人をよくみかける。たいていの場合、マイボール、マイシューズ、グローブの三点セットで黙々とストライクとスペアを連発する。そんなイメージだ。しかし、僕は三点セットも持っていなければ、スコアも人並みである。
 以前、井上章一が新体操などのレオタードは精神的なドーピングであると言っていた。つまり、下手な演技をすれば単なる露出狂か目立ちたがりだと嘲笑される。そう思われないためにも退路を断ち、精神力を高めるセルフ・コントロールの効果がきわどいレオタードにはある、という主旨である。
 一人でボーリングをする。僕にとっては上記と同様の危うさがある。ボーリングはスコアが他の客にもバレバレだから、低いスコアだと「なんじゃありゃ、さみしー奴」という誹りを免れない。それだけ緊張感が伴うものなのだ。
 さて、そうした自意識過剰ゆえのプレッシャーを受けながらの投球はどうだったのか?2ゲーム目には180点(自己最高)というスコアが出た!しかし、その後はマシンの不調やピンの数え間違いなどのレーン・トラブルですっかりリズムを崩してしまい、140点を越えられない状況になってしまった。また、2時間投げ放題コースを1人で投げたのがいけなかった。疲れれば休めばいいし、時間内で途中でやめてもいいのだが、貧乏性と向上心が僕にストップをかけてくれず、結局、一人で13ゲームも投げてしまった。それだけ投げればさすがに人目など気にしなくなり、途中は利き手ではない左手で投げたり、穴に指を入れずに投げてみたり、右奥のピン一本だけを倒すことに執着したりと、一人のプレイヤーとしてはあるまじき行為に走ってしまった。
 帰宅後、ネットで三点セットを買おうかさんざん迷った。だが、いまだに踏ん切りがついていない。

01 mai 2007 

BABEL:films

 Alejandro González Iñárritu監督のBabelを観た。4つの物語からなる群像劇。言葉の壁の前で戸惑い、苛立ち、焦燥する人々の物語。
 モロッコで羊の牧畜をする一家に一丁の猟銃が届く。それは彼らの生活の糧である家畜を襲うジャッカルを撃つためのもので、彼らにとっては生きるための必需品。二人の息子は3km先も撃てるというその猟銃を試し撃ちするうちに何気なく通りかかったバスに向けて発砲する。銃を使わずともこうした行為は誰しも心当たりがあるかもしれない。しかし、この邪気のない行為によってアメリカ人女性が瀕死の重傷を負い、思わぬ結末を招いてしまう。
 モロッコの観光バスに乗る二人のアメリカ人夫婦。二人の関係はぎくしゃくしている。少しだけ心が通い合った刹那、妻は何者かによって撃たれてしまう。呼んでも呼んでも来ない救援、二人を見捨てようとする他の観光客、高度医療など絶対に望めないほどの貧困地域で絶望の淵に立たされる夫。Brad Pittの演技も悪くなかったし、Kate Branchetteは今回も安定した素晴らしい演技をしていた。この映画のコアはまさしくこの二人のエピソードである。倦怠期の夫婦がモロッコに旅をするというプロットはポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』に相通じる。しかも、夫婦のどちらかが瀕死の状況に陥り、一人が言葉が通じない劣悪な状況での看病を余儀なくされるシーンもやはり似ている。観ているうちにこれはベルトリッチ監督へのオマージュなのか?と思ってしまう。しかもラストの音楽は坂本龍一で、かなり意識したことは確かだ。映画や小説はベルトリッチの作品の方がよかった。
 聾唖の高校生の少女・チエコとその父の物語がこの物語で一番リアリティが希薄であった。チエコを奇行に走らせたものは何か、という問いに明確に答えるようなシーンはなく、唯一、母親の死を目撃したことが触れられる。しかし、あれだけでは痴女としか呼べないような行動が彼女が聾唖であるが故であるかのように観客には「解釈」されてしまう危険性がある。最初は17歳の少女役にどうして26の女優を起用するのか不可解で、映画を観る前はアジアの観客を甘く見ているからだと思っていた(それはまさにSAYURI!)。しかし、数多くのシーンからティーン・エイジャーの女優は絶対に演じられないことが納得できた。だが、最後のシーンはやはり不自然。コートを着るような冬の夜、高層マンションのベランダで全裸で外を見ている娘を目にしたとき、父親ならどんな反応を示すだろうか?ラストシーンのようにはならないように思う。
 この映画、前半からかなりリアリスティックに描いているのだが、ラストだけは詩的な世界に入り込んでしまう。監督は救われない現実に対して、一つの光明を与えたかったのかもしれないが、やや予定調和的な印象がぬぐえない。
 結構スリリングだったのはメキシコのエピソード。出る時と戻る時では全く違う表情をみせる国境。ガエル・ガルシア・ベルナウ扮する甥が検問を突破した時は心の底から「バカだなー」と思った。その後、草木も枯れているような大地で乳母と二人の兄妹が置き去りにされるあたりはガス・ヴァン・サント監督の『ジュリー』を髣髴とさせ、「これはヤバイ」と心の底から思った。きっと3人は帰って来られないと思ったが、そこはハリウッド、モロッコの罪なき少年は殺すが、アメリカ人の子供は死なせない。
 申し上げておきたいのは、この映画はいわゆる娯楽映画ではありません。ブラピやガエル・ガルシア・ベルナウが出演していてシネコン系で上映しているからといってこの点を勘違いしてはいけません。前評判や解説であまりにも題名の由来を語りすぎた感があるが、実際に映画を観てみると言葉の問題を大々的に扱っている訳ではなかった。気になる点も多いが、僕はこの映画が嫌いではない。
 場外で話題になっていた点滅問題。僕自身、こうした点滅に弱いという訳ではないが、このシーンが映像的に辛くて時々目を閉じてシーンを間引いた。気分が悪くなる人が出たというのも判る気がした。

 

Les professeurs:journal

「歴史に好奇心 日中二千年漢字のつきあい」という番組をやっていた。最終回だけ観たのだが、驚いた。明治の加藤徹先生が怪しげなマントを着て日本の漢字文化について説明していたのだが、ちょっとそんな恰好をしなくても・・・というイデタチであった。最後には宙に浮き上がり、別れの文句を残してフェードアウトしていった。
 思えば、前の中国語講座もそうであった。中国語の講師が長袍(男性用中国服)を着たり、古畑任三郎のマネごとをしたり、観ている方が恥ずかしくなるようなサービス過剰ぶりであった。海外で放映される日本語講座の講師が羽織袴を着ていたらそりゃオカシイし、やりすぎだろう。スペイン語講座も同様。コスプレ&パフォーマンスで講師というより道化役であった。
 一方、韓国・朝鮮語やフランス語の講座の講師はとりたてて変な恰好をしている訳ではない。そのまま外出してもドレス・コードを疑われるようなものではない。この違いは何か?
思ったのは、変な恰好をさせられているのはいずれも男性の大学教員であるということ。日本語王でも学位帽をかぶらされた退官老教授が出ていたから、年齢が若いか否かは関係がないようである。女性の大学教員でこのような奇天烈な恰好をさせられているのは管見の限り見あたらない。過度にセクシーな恰好をさせられたり、おかしなあだ名を付けられたり、踊らされたりということは見たことがない。現在の中国語講座は中国の先生がスーツを着てやっている。さすがに外国人の先生には抵抗があったということか。しかし、男性大学教員のこのいじられぶりといったら、今後エスカレートしていくだろう・・・。