アテネでのUEFA Champions Leagueの決勝戦。LIVERPOOL VS MILANの一戦を早起きして観た。ビッグ・タイトルの決勝戦というのは得てして凡戦になることが多いが、この試合も何とも盛り上がりに欠けるというか、歴史的な一戦という内容にはほど遠い感じであった。もちろん、この評価には僕のバイアスが強くかかっている。僕は今シーズンはLIVERPOOLを応援していたし、プレミアリーグでのLIVERPOOLの試合は全て観ていたから、2-1Milan勝利という結末には落胆している。 試合は相手のよさを消すような内容に、偶発的と思えるフリーキックからのゴールとInzaghiらしいしぶといゴールが全てであった。世代交代に失敗しているMilanは今シーズンを最期にベテランを若手に変えたいところだろうが、この結果では逆にそれも難しくなるかもしれない。それに比べてLIVERPOOLは若い。これからである。 嗚呼、これでヨーロッパのサッカー・シーズンは終わり、選手の移籍情報が飛び交うoff-seasonに入る。次の楽しみはユーロ予選か。それにしても、それにしても、この結果は残念だ。 ところで、現在、駅伝の1区留学生問題というのが持ち上がっているらしい。最長区間である1区に留学生を起用する高校が増えたため、これに歯止めをかけようとのことである。正直言って、これはナンセンス。留学生を起用しているのは実力があるからであろうし、これによって日本の駅伝(駅伝というのは日本独特のようだが)のレベルが向上することは悪くはないし、留学生と競いながら、また協力しながらチームを作っていくのはいい面もあるのではないか? 欧州のサッカー・シーンを観ていて思うのは、その国籍の多様さである。イングランドのリーグがレベルアップしたのはチームの外国籍選手の制限を撤廃したことも関係している。今回の決勝ではLIVERPOOLのイングランド選手はスタメンでは2人。MILANは少し多くて5人であった。国籍条項を今も保持しているワールドカップの試合はクラブチーム同士が行う試合レベルよりもずっと低い。他の要因もあるが、これは専門家なら誰でも認めるところである。メジャー・リーグも然り。アメリカ人だけで構成するチームなどほぼないに等しい。プロとアマでは違うという意見もあろうが、部活動で教育的たらんと思うなら、差別的なことはしない方がよろしい。
Florian Henckel von Donnersmarck監督のDAS LEBEN DER ANDERENを観た。 冷酷なまでに任務に忠実な国家保安省Stasiの大尉・Wiesler。彼は劇作家Georg Dreymanとその恋人で女優のChrista-Maria Sielandを日夜監視し、彼らが反体制的であることの証拠を見つけようとする(きっかけはWieslerのChristaへの一目惚れ?)。Wieslerは彼らの生活の一部始終を盗聴し、最初は徒に彼らの関係を壊すことさえする。しかし、彼らの部屋からくすねたブレヒトの詩集を読み、ある夜流れてきたピアノの音色(Die Sonate vom Guten Menschen=「善き人のソナタ」。「善き人のためのソナタ」ではない。)に耳を傾けるうち、彼の凍り付いた人間性が溶かされていく。そして彼らを捕まえる証拠を見つけるはずが、逆に彼らを助ける・・・。 絵画一つない殺風景な部屋でprostituteで孤独を紛らわせるWieslerの生活と、アートに溢れ、音楽を奏で、愛を交わす生活をするGeorgとChristaの日常はあまりにも対照的である。極めて濃いキャラクターであるWieslerに対して、ややつかみどころのないGeorgの性格や「弱き者よ、汝の名は女」的なChristaは、ややキャラクターの立ち方としてやや物足りないものがあった。特にGeorgには劇作家として本当に書きたいものがあったのかさえ、判然としない。盗聴をする姿を観て「うぁ、何て暇な・・・社会のためと言いながらこんなことに金と人員を割いていたから崩壊しちゃったんじゃないか」と思って観ていた。 ところでWieslerを変心させたのは芸術の力である。体制側が劇作家や舞台監督を粛正したのは、芸術が人の心を揺り動かすその力を恐れたからであろう。先日観た映画"V for Vandetta"に「政治家は嘘を語り、作家は嘘で真実を語る」とあったように、劇作が真実を人々に知らしめてしまうことを嫌ったのであろう。「芸術」がプロパガンダとして機能するともまた事実ではあるが、この作品では芸術の真の効能に力点が置かれている。 この作品はWiesler演じるUlrich Müheの演技が光っている。Michael HANEKE作品の常連なので僕には非常になじみ深い俳優であったが、冒頭の冷徹な表情と対照的に誇らしげなラストのカットなどは出色である。 この映画を見終わった後、ややロマンティックな感興を催すが、恐らく現実は何十倍も過酷であったであろう。映画の中のGeorgがそうであったように、現在では旧東ドイツ時代に調べ上げられた個人資料が本人に限って閲覧できるようになっている。これは好奇心溢れる人間には禁断の果実とも言ってよく、夫や妻、両親、恋人や友人が自分の密告をしていたことを不幸にも知ってしまうことになるらしい。旧東ドイツの人々は国家や社会が変わっても容易に人への不信感を拭えないのではないか?人を信じられない人生、これもまた地獄である。国家が人間関係をズタズタに引き裂くこともできる。これは決して特別なことではない。つい、20年前の、飛行機で10時間ちょいの場所で本当に起こっていたことだから。国家に対して問題意識を持つことさえ許されない社会。実際に自分があのように常に監視対象となっていたらと思うとゾッとする。技術的には当時より遙かに容易に誰かを監視することができるのが現代である。日本では決してあり得ない物語なのか?それは違うだろう。帰宅して思わず、壁のコンセントをじっと見つめてしまった。 原題は『他人の生活』。Die Anderen(他人)はいわゆる自分以外の人間ではなく、旧東ドイツで「反体制の人々」を示す言葉である。邦題は『善き人のためのソナタ』。邦題はもちろん劇中からとっているが、「ソナタ」という言葉に敏感に反応する世代を取り込もうという意思の表れか。非常によくできた作品で時間を全く感じさせなかった。是非とも劇場に足を運ぶことをお薦めする。
John Curran監督のWe don't live here any more.を観た。 夫婦ぐるみの付き合いをしている二組の夫婦。夫のJackとHankは大学の同僚。JackはHankの妻Edithと不倫をしている。JackとTerryの夫婦は小さな事でけんかが絶えず、スランプのHankとEdithはどことなくよそよそしい関係。大学の教員といっても二人は40歳前後か。生活は安定しているが、地方の大学で学生との授業も盛り上がりに欠け、刺激的とは言えない日常。妻の二人は専業主婦。子供は小さいが、常に子供の尻を追いかけなければならないほどではない。ただ自然だけがある地域で物語はこれといった大きな事件らしきものがなく、淡々と進んでいく。野心をもって将来を夢見るほど若くはなく、家族も子供も職業も自宅も一通り手に入れてしまい、人生の中だるみともいえる時期の中途半端さがよく表れている。こうしたテイストは好みが分かれるかもしれないが、こうしたリアルさは嫌いではない。ただ、あまりにありがちな設定で、関係も4人で閉じているので、物語の広がりに欠ける。次第にダブル不倫に陥り、何とか元のさやに収まるかと思えたが、最後にEdithは夫に別れを告げる。このラストは実に意味深である。 この映画を観ると、結婚生活の日常は本当に重いと思う。積み重ねた時間は信頼を深めるのか、怨嗟を根付かせるのか・・・。邦題は『夫以外の選択肢』。この題名を付けた時点で論理的にはあたかもNaomi Watt演じるEdithの物語のようになるが、あくまで4人全員が、I don't live here anymoreなのである。