BABEL:films
Alejandro González Iñárritu監督のBabelを観た。4つの物語からなる群像劇。言葉の壁の前で戸惑い、苛立ち、焦燥する人々の物語。モロッコで羊の牧畜をする一家に一丁の猟銃が届く。それは彼らの生活の糧である家畜を襲うジャッカルを撃つためのもので、彼らにとっては生きるための必需品。二人の息子は3km先も撃てるというその猟銃を試し撃ちするうちに何気なく通りかかったバスに向けて発砲する。銃を使わずともこうした行為は誰しも心当たりがあるかもしれない。しかし、この邪気のない行為によってアメリカ人女性が瀕死の重傷を負い、思わぬ結末を招いてしまう。
モロッコの観光バスに乗る二人のアメリカ人夫婦。二人の関係はぎくしゃくしている。少しだけ心が通い合った刹那、妻は何者かによって撃たれてしまう。呼んでも呼んでも来ない救援、二人を見捨てようとする他の観光客、高度医療など絶対に望めないほどの貧困地域で絶望の淵に立たされる夫。Brad Pittの演技も悪くなかったし、Kate Branchetteは今回も安定した素晴らしい演技をしていた。この映画のコアはまさしくこの二人のエピソードである。倦怠期の夫婦がモロッコに旅をするというプロットはポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』に相通じる。しかも、夫婦のどちらかが瀕死の状況に陥り、一人が言葉が通じない劣悪な状況での看病を余儀なくされるシーンもやはり似ている。観ているうちにこれはベルトリッチ監督へのオマージュなのか?と思ってしまう。しかもラストの音楽は坂本龍一で、かなり意識したことは確かだ。映画や小説はベルトリッチの作品の方がよかった。
聾唖の高校生の少女・チエコとその父の物語がこの物語で一番リアリティが希薄であった。チエコを奇行に走らせたものは何か、という問いに明確に答えるようなシーンはなく、唯一、母親の死を目撃したことが触れられる。しかし、あれだけでは痴女としか呼べないような行動が彼女が聾唖であるが故であるかのように観客には「解釈」されてしまう危険性がある。最初は17歳の少女役にどうして26の女優を起用するのか不可解で、映画を観る前はアジアの観客を甘く見ているからだと思っていた(それはまさにSAYURI!)。しかし、数多くのシーンからティーン・エイジャーの女優は絶対に演じられないことが納得できた。だが、最後のシーンはやはり不自然。コートを着るような冬の夜、高層マンションのベランダで全裸で外を見ている娘を目にしたとき、父親ならどんな反応を示すだろうか?ラストシーンのようにはならないように思う。
この映画、前半からかなりリアリスティックに描いているのだが、ラストだけは詩的な世界に入り込んでしまう。監督は救われない現実に対して、一つの光明を与えたかったのかもしれないが、やや予定調和的な印象がぬぐえない。
結構スリリングだったのはメキシコのエピソード。出る時と戻る時では全く違う表情をみせる国境。ガエル・ガルシア・ベルナウ扮する甥が検問を突破した時は心の底から「バカだなー」と思った。その後、草木も枯れているような大地で乳母と二人の兄妹が置き去りにされるあたりはガス・ヴァン・サント監督の『ジュリー』を髣髴とさせ、「これはヤバイ」と心の底から思った。きっと3人は帰って来られないと思ったが、そこはハリウッド、モロッコの罪なき少年は殺すが、アメリカ人の子供は死なせない。
申し上げておきたいのは、この映画はいわゆる娯楽映画ではありません。ブラピやガエル・ガルシア・ベルナウが出演していてシネコン系で上映しているからといってこの点を勘違いしてはいけません。前評判や解説であまりにも題名の由来を語りすぎた感があるが、実際に映画を観てみると言葉の問題を大々的に扱っている訳ではなかった。気になる点も多いが、僕はこの映画が嫌いではない。
場外で話題になっていた点滅問題。僕自身、こうした点滅に弱いという訳ではないが、このシーンが映像的に辛くて時々目を閉じてシーンを間引いた。気分が悪くなる人が出たというのも判る気がした。
