30 juin 2007 

Enfin!:journal

 実はこの一ヶ月、ブログでは敢えて触れなかった話題がある。それはボウリング。以前から某N氏とボウリング・チャンプの座を争っていたのだが、ボウリング場のハウスボールでは限界があると思い、一ヶ月前、僕は初めてボウリングの球を購入した。ネットでその性能を精査し、沖縄のボウリング場で穴を開けてもらった。ボールはエボナイト社のTotal NV Pro Model。NVはエンヴィと読み、羨望の眼差しでギャラリーの注目を集めるボールだ。穴あけの時、ドリラーからは初めてボールを持つ人が使う代物じゃない、免許取り立てが外車のスポーツカーに乗るようなもの、とも評された。
 いよいよ第一投。しなやかな振りから放たれた僕のボールが、ピンの手前でグググッと曲がりポケットに食い込む。そして激しいピンアクションを伴って10本全てが粉砕される、はずだった。しかし、初球は忘れもしないG!この時から僕の迷走が始まった。
 一般にマイボールは指に合わせて穴をあけるのでかなり狭い。そして、フックボールを投げやすいように中・薬指は第一関節のみを引っかけ、親指と中・薬指の間もそれに合わせて広くなる。つまりは持ちにくいのだ。さらに以前は11ポンド程度のハウスボールを使っていたのに、マイボールは15ポンド。結構、重くて、握力が伝わらないから、すぐに手首が曲がってフックボールが投げられない。そこで、リスタイという手首が曲がらないようにするための器具をゲット。しかし、これが手に馴染まず、かえって投げにくく、改善に繋がらないばかりか、怪我でもしそうな感じに思えてくる。
 もうこうなったらボロボロである。以前はまがりなりにもコンスタントに150は出せていたが、アベ110程度と、すっかり低迷。N氏にはこの機を突かれてチャンプの座は奪われるわ、投資が失望に変わるわ、ハウスボールのプレイヤーに負けるという屈辱にさいなまれることに。辛酸を舐める、まさにピッタリの言葉だ。
 これではマズイと思い、謙虚にボウリングスクールへ。先生に投げてもらうと、僕のボールは生命を吹き込まれたようにググッと曲がった。ボールがあまり曲がらないのはボールのせいでも、穴の開け方の問題でもなかったことを知り、立ち位置、助走の歩数、ボールの持ち方、ねらい所など基礎からアドバイスをもらう。
 その後、週1回のペースでボウリング場に足を運んだが、何故かデジタル的にスコアを伸ばし、N氏からチャンプの座を奪還。その余勢を駆ってリベンジのためもう一度、スクールに行った。
 そして、今日、初めて200越えを果たした。それも245!第6フレームまでパーフェクトで、周囲が僕の開眼を目の当たりにした。それ以外のゲームは181、173と平凡なスコアだったが、トータルで599、あと一本倒せばアベレージは200に届くスコアだった。プロとアマの違いは安定感だそうだ。プロは常に200を軽く越えるスコアを出す。僕には常にハイスコアを出すだけのメンタリティと経験が求められよう。

 

portable et 1,000,000 £:journal

「3人に1人の英国人は100万ポンド、もしくはそれ以上のお金を出されても携帯電話は手放さ」ず、16〜24歳の若者のほとんどが、「携帯電話を一カ月間取り上げられるくらいなら、お酒、チョコレート、セックス、紅茶、そしてコーヒーを一カ月間あきらめる」そうだ(こちら)。
 携帯電話に依存した生活が骨の髄まで染みこんだ結果ということか。僕などはケータイを止めたので、なければないで何とかなることや、持たないことで気持ちが軽くなることを知っている。不便は感じない。職場には個室、直通電話、パソコンがあり、自宅も同様。職場と自宅以外の時間は車に乗っているか、映画を観ているか、誰かと会っているかしているので、携帯電話は使わなくてもよい。むしろ邪魔である。恵まれているから持たなくてもよい、とも言える。上記の統計は日本でも同様の結果がでるのかも知れないが、そうなら携帯電話会社は安泰である。
 同じイギリス発のニュース。テニスのロシア人プレイヤー、マラット・サフィンがウィンブルドンの物価の高さに怒っているようだ(こちら)。確かに、スパゲティ一皿25ドル(3000円)というのはスキャンダラスだ。ポンドに換算すると14-15ポンドだからあちらの感覚ではやや高めの感じだろうが、海外から来た客には暴利に映るだろう。しかもイギリスのことだろうから具がちょっぴりで茹ですぎの劇マズである可能性は極めて高い。「選手たちはロッカールームじゃあれこれを不平をこぼしているが、記者会見では、すべてが素晴らしいなんて言っている」そうである。この話、妙にリアリティがある。
 話は冒頭の話題に戻るが、100万ポンド(2億4千万円)をもらってもイギリスの若者は携帯を手放さない、というのは本当だろうか?このニュースをさらっと読んだ方、数字の感覚が麻痺してないか?

26 juin 2007 

Crème de Cassis:journal

 部屋に常備してあるWhiskeyとCalvadosが底をつきはじめたので、ネットの酒屋でお酒を補充することに。結局、購入したのはOtard X.O. Gold Cognac、Calvados Boulard X.O.、そしてPhilippe de Bourgogne Crème de Cassis。最後のカシス・リキュールはホームパーティなどに供する食前酒のキール・ロワイヤルなどを作るために買った。また、最近はやりのカクテル、カシス・オレンジなども作ってみようかとも思った。そして早速、カシオレを作ってみたのだが、すぐに色がまざってしまい、かなり毒々しい色に。何と形容したらいいのだろうか・・・濃厚な濁った泥水・・・のような色になってしまった。こんな色のカクテルを飲んでもおしゃれでも何でもない。さらにこの甘さ!このリキュールを使えば何でも甘くなる。こりゃガキの飲むものだと確信した。

19 juin 2007 

ZODIAC:films

David Fincher監督のZODIACを観た。
1969年、カップルが襲撃され、女性は死亡、男性も重症を負う事件が起こった。その後、新聞社にZODIACと名乗る男から犯行を告白する手紙と暗号文が届けられる。暗号文を新聞に掲載しないと連続殺人を行うという予告もついていた。それが報道されるや、偽情報が飛び交い、模倣犯が登場し、はたまた自分がZODIACであるという一般人が警察に多数押しかけるなどメディア・社会を巻き込んだ劇場型犯罪に発展していく。その後も多数、事件が発生するが、ちっとも事件解決の糸口は見つからない。そして、ZODIACの被害者だけでなく、メディア、警察をはじめとするこの事件に関わった人生を少しずつ狂わせる・・・。
 ハリウッド版『殺人の追憶』(ポン・ジュノ監督。韓国作品)である。現在では未解決事件になっている凶悪事件が当時はどのように捜査され、どのように人々に受け入れられていたかを、当時の世相や流行、モードなどを織り込んで回想する作品。サスペンスの部類に入るのだが、実際の事件を知っている向きには半ば結末が判ってしまっている。しかし一方で観客にしてみれば、事件の行方を追うとともに、さりげなく「あのときはこんなことがあった、あんなことがあった。懐かしいなー」といった想い出に浸るような気持ちになるのだろう。そんな時代の記号が満載である。例えば、『ダーティー・ハリー』を上映する映画館のシーンが出てくる。『ダーティー・ハリー』はZODIACをモデルにした映画であるため、警察は犯人が自分がモデルになっている作品をきっと観に来るだろうという狙いのもとに映画館で張り込んでいたというエピソードもある。それに関する説明的な台詞は一切なかったが映画館のカットはそうした時代背景を一瞬のうちに切り取っている。
 "ZODIAC"も『殺人の追憶』も実際の犯罪に取材しているが、かなり犯人を絞り込め、追いつめるがDNA鑑定という当時としては画期的な屈強の「証拠」によって逆に予想が否定されてしまう点も共通している。双方を比べれば比べるほど、ZODIACは殆ど『殺人の追憶』を下敷きにトレースしていると確信させるような作品づくりになっている。
 事件から40年も経過していないが、CSIなどの科学捜査を見慣れている向きには当時の「科学捜査」のアナログぶりには逆に驚かされる向きもあろう。当時は電話の逆探知に15分もかかり、DNA鑑定も、声紋分析もやっている形跡はなく、有効な手がかりが筆跡鑑定という。さらに、メディアも送られてくる証拠を無造作に素手で手に取ったりしている。携帯電話もなく、警察も街角のPolice Phoneで電話をし、怪しければ即逮捕で尋問にかける(911以降の)ようなことはしていない。警察モノといえば、犯人を捜し当てるまでのサスペンス・フルな展開を期待し、ラストに意外な犯人がアッと観客を驚かせてエンディングを迎えるのがセオリーである。だがこの作品は現代との対比で当時の状況を再構成するところに狙いを定めている。サスペンス的な構成をしている予告編を観た人々は、まんまと一杯食わされたような気持ちになるだろう。人によっては憤慨するのかもしれないが、それは幼稚な反応なのだろう。例外的な状況を除き、日常の現実はもっと月並みで、愚かしいのである。

17 juin 2007 

La Cérémonie:films

 Claude Chabrol監督のLa Cérémonieを観た。TV5(結局、有線で視聴)でやっていた作品。Sandrine BonnaireとIsabelle Huppertの実力派女優二人が共演する作品で、期待して観た。
 若くて美しい女性・SophieはSaint-Maloのブルジョア家庭・Lelièvre家に家政婦として雇われる。彼女は料理も上手く、仕事を完璧にこなして、家族に重宝がられる。しかし、彼女は自分が識字障害をもち、文字が読めないことを一家にはひた隠しにしている。文字が読めないことで遭遇する難局をなんとか切り抜けるが、家族から渡されるメモの対処に困った彼女は、次第に郵便局員のJeanneと親しくなっていく。ある日、一家の娘・Melindaに文字が読めないことを知られ、娘はSophieに文字を教えることを申し出る。しかし、Sophieは逆に文盲であることを誰かに知らせるなら、Melindaが妊娠をしていることを親にばらすと脅迫してしまう。そのことでSophieは家を解雇されてしまう・・・。
 Sophieの識字障害が学習環境によるものなのか、学習障害によるものなのかは判らないが、彼女がメモを「解読」しようと必死に鍵のかかった教科書と格闘しようとする姿を観ると、学習障害によるものなのかもしれない。とにかくSophieのなかでは大きなコンプレックスとなっている。現代社会において、文盲であることは極めて大きなdisadvantageである。仕事をするにも契約ひとつ交わせないし、およそ文字が関与しない職業はない。そのことの心的負担、将来への不安は計り知れない。明るい未来が開けている感じがしないであろう。
 そんな彼女が同じように過去にも現状にも満足せず、未来への希望ももたないJeanneと出会うことで、負の感情の相乗効果ともいえる暴挙に出てしまう。SophieとJeanneの性格は全く違うが、別の意味で閉塞状況に置かれている存在と言えよう。過去にLelièvre家の夫人にミスコンで敗れ、結婚も失敗し、Lelièvre家の手紙を覗き見ているとLelièvre家の主人に疑われている。
 僕自身は文盲ではないが、判読できない外国の文書の前で絶望的な気持ちになることは、よくある。これが日常的な状況で、それをひた隠しにしなければならないなら、そのストレスは極めて重いものになるだろう。文盲の女性を主人公とした小説にBernhard Schlinkの『朗読者』があるが、これも非常によくできた作品であった(この作品のテーマはナチスの戦争犯罪も大きなテーマになっている)。
 La CérémonieはちょうどGus van SantのELEPHANTの女性版といった趣である。制作年がELEPHANTの方が遅いのでELEPHANTの方が男性若者版と言えるかも知れない。SophieとJeanneが劇中では明示的ではないが、lesbian的な雰囲気を漂わせていることが、ELEPHANTの二人とシンメトリーの関係にある。だからといって、銃犯罪と識字障害、セクシュアリティを結びつけるのはあまりにも安直である。ラストは図らずもJeanneが交通事故に遭い、Sophieは自分たちが行った行為を全てJeanneに被せることができる状況になる(Sophieは契約も交わしていないし、家のパーティ客にも姿を観られていないし、自分が撃った銃の指紋もきれいに拭き取っている)。こうした状況に至るまで巧みに台詞が構成されていたことが、なかなか味わい深い。原題は「儀式」。

14 juin 2007 

The Prestige:films

Christopher Nolan監督のThe Prestigeを観た。
19世紀末のロンドンを舞台にしたマジシャンたちの邪魔の応酬を描いた作品とでもいうのだろうか。彼らはマジックの道を極めようとしているというよりは、自らの人生を擲ってまでライバルを蹴落とそうとしているようにしか見えなかったが、個人的にはなかなか楽しめた。この作品は数々のトリックの種明かしもされており、それを観ているだけでも面白い。最近の大衆向けに映画は極めて分かりやすくつくられているので、1シーンを見落としたぐらいでは、ストーリーを追うには全く問題ないものばかりである。そのためシーンに集中することはあまりなくなっていたが、この作品は話の運び方がスリリングで目を離したら重要なシーンを見落としそうになるから注意しなければならなかった。読書もそうだが、やはり高度に緊張感を要求する作品の方が刺激的であることは間違いない。
 この映画、怪しげな青い稲妻が発生する機械を生物のコピー機とするか、あれも単なる怪しげな機械だとみるかで、随分と作品の印象が違ってくるのではないだろうか?映画の中ではあの機械をコピー機であると想定しないと、理屈が成り立たない場面も確かに、ある。しかし、僕はあえてあの機械はコピー機ではないと考えたい。
 トリックを見せられた時と同じ不可思議な感覚を観客に味あわせる。これが監督の狙いではないだろうか?つまりあの機械はそのために仕掛けなのである。我々はトリックを見せられた時、本当に何かが消えたり、再び現れたりすることを一瞬、信じ込んでしまう。本当は詐術以外の何物でもないのであるが、マジシャンには特別な能力があると思いこんでしまう。論理や理性では判断できない世界を見せられた気分になるのだ。それがマジックの醍醐味でもある。この作品は映画という媒体で、マジックを観たときのような感覚を観客に与えようとしているのではないか?そのためにあえて辻褄が合わない、観客を混乱させるようなラストを用意しているように思える。つまり、この映画自体が一つのマジックの効果を演出している。
 日頃から思うのだが、マジシャンを職業とする人間は超常現象や超能力、その他の迷信などは殆ど信じていないのではないだろうか。タネのないマジックというものはないのだから、彼らはあらゆる超常的な現象の裏にあるカラクリに気付いているに違いない。
職業的占い師もそれに近いメンタリティを持っているように思う。ただ、ショーとして人々を楽しませるマジシャンと、弱みにつけこんで金をまきあげようという占い師では千里の径庭があるように思うが・・・。

13 juin 2007 

Comparaison internationale des fonctions d'enseignant:journal

 日本の先生は、授業以外に多くの業務が課せられているというデータが出されたようである(こちら)。
 以前、フランスのランブイエで短期の語学研修をしていた時、あちらの先生は授業が終わったらソッコー帰宅していた。皮肉なことに、授業が終わった宿舎は外国人留学生だけでフランス人が殆どいないという事態になった。留学生同士で折角フランスに来たのにね・・・と苦笑したものである。その時はもっと対応しろと感じたのだが、結局は自分に返ってくることに思い至った。
 フランスでは仕事内容がきちんと明示され、自分が行うべき仕事とそうでないものの違いが明確である。これは語学学校だけでなく、大学でもそうであった。基本は授業と研究だけ。大学のマネージメントは行わない。上記のデータは小学校から高等学校の調べによるものだが、大学でも変わらないかもしれない。日本では長々と続く各種会議や入試業務、大学の宣伝を教員自らが行い、修学旅行のツアコンまでつとめるが、フランスではこんなことはおろか、高校に自分の大学の宣伝に出向くなんてことはちょっと考えられない状況であった。日本の場合、業務内容が曖昧で、上から指示された仕事は何となく受けなければいけない雰囲気になっている。それは「これは私の仕事ではありません」と言えるだけの根拠に乏しいからだ。もちろん管理者もどこまでが教職員の業務に当たるかは把握していない。就業規則もあまり細かな点まで書かれていない。だから、違反駐車車両をチェックして違反シールを貼るなんて仕事も教員に回ってくる。
 記事に戻るが、なぜ日本の先生はあれほどまでに忙しくなったのだろう?この問題を人々に考えさせるのが、データをだした日教組の目的なのだろうが、日教組の役割はこれだけにとどまるのだろうか。不況が叫ばれる中、教職についているだけマシだ、もっと感謝して仕事しろと言う向きもあるかもしれない。仕事ができていることはありがたいと思っているが、業務の中には理不尽なものも多い。効率化を叫びながら、体裁を整えるためだけの仕事も最近は多くなったし・・・あまり文句は言わないでおこう。自分が一番大変だと思っている向きにはこうした「愚痴」も不快を催すであろう。

11 juin 2007 

carte de visite : journal

 法律の改正によって助教授から准教授に肩書きがかわり、名刺を新たに作らなければならなくなった。そこでパソコンで名刺を作ることに。家電店に行き、多くの台紙を物色したが、あまりにたくさんの商品を見てしまうと普通のモノでは飽き足らなくなり、結局、透明なプラスティックの台紙を購入した。
 透明で両面が使えないのでフランス語バージョン、日本語バージョンを作った。デザインもブルーを基調にしたシンプルでシックなものにしたのだが、できあがりはなんともうす〜いものに。下に手をかざさなければメルアドなどは判読不能である。しかも、3枚あった台紙のうち、2枚はプラスティックの強度が影響したためか、プリンタに巻き込んでお釈迦。30枚作れるはずが、10枚しかできなかった。
 セールスマンじゃあるまいし、あまり奇を衒った名刺にしてインパクト狙おうと思った自分がアホでした。もっと、マトモな台紙にすればよかった。

 

Mal à l'aise! :journal

 先日の会議のこと。僕が着ていた半袖シャツと全く同じものを着ている方が同席していた!ちょっとこれは・・・あまりの気まずさに、思わず腕組みをしてあたりを見回してしまった。
 きっと、その方も気付いていただろう(心なしか背中を丸くしている印象)。幸い両者の上半身の同一性を指摘なさる方はいらっしゃらなかったが、同席している全員が気付いたに違いない。僕の隣の方がさかんに発言していたので、自然と全員の視線がそちらに向く。もちろん、視野に僕が入る。「あっ!ペア・ルック」と揶揄する方はもちろん、いない(言いそうな同僚は約1名、頭をよぎるが、その場に不在)。
 その会議は利害がからむ議題だったので、泥沼の様相になりかけたが、僕の心は上の空。会議室を出る時にニアミスを避けるためにはどのようなルートを選択すべきか、退出のタイミングはどうか、ソッコー出るか、遅れて出るか、遅れて出るならどのような口実をつけようか・・・というどーでもいいことばかりを考えていた。
 服選びは難しい。特に沖縄のようなところでは。島の狭さを呪ったひとときだった。その方の名誉のために、ユニクロではなかったことは言い添えておきたい。

 

daikon no hana:journal

 学会の全国大会の開催が決まり、本格的に仕事が始まったこのごろ、沖縄のレストランを聞かれたときに紹介できるようなお店を探している。そのため最近は気になった店構えのお店があれば入るようにしているが、先日入った「だいこんの花」は観光客にお勧めするには悪くないお店だと思った。
 夕食が1,850円でバイキング形式。野菜が中心で、一通り沖縄の料理が食べられて、食事制限がある方にも対応できる。家族連れが多いので、ややせわしないが、短期間で沖縄の料理を一通り味わってみたい向きにはよいであろう。お昼は1450円のようである。詳しくはこちら

07 juin 2007 

4th media導入(失望)記:journal

 先日、難儀して設定をした4th media。あの苦労は失望の序章だった!
 今日は4th mediaの60チャンネルにも及ぶテレビ放送が視聴できることになっていた。しかし、時間になってもテレビが観られない。何故か、真っ黒の画面と対面するばかり。一瞬、映像が映り、歓喜の瞬間が到来!と思いきや、フリーズする。しばらくするとまたまたエラー!次は「サーバーとの接続が確立できませんでした。エラーコード 5000」(何でエラー・コードが4桁もあるんだ!)というもの。もちろん、TV5MONDEは観られない。
 NTT、4th media、plalaとたらい回しの挙げ句、先方の答えは「有線で接続してみてくれ」の一点張り。こちらは有線で接続できないからわざわざ高い無線アダプタを買って無線にしているのであって、有線で接続できてもしょうがないのだが、問題の所在を確認するために、テレビを移動させたり、ONUなどをめいっぱい伸ばしてLANケーブルびんびんの状態でようやく接続した。すると、すんなり接続成功。テレビを視聴することができた。やれやれと思ってメールをチェックしようとすると今度はネットが繋がらなくなってしまった。さらに現状では
LANケーブルが12畳の部屋をほぼ対角線にぴーんと張っている状態。しかもそれが床から30cmも浮き上がっているのでは日々の疲れを癒すことさえ、できない。
 今日、新たに判明したことは、ルーターは有料のオンデマンドには対応するが、テレビだと信号が異なるため対応しない場合があるということ。このことを理解するのにかなりの時間を要した。オン・デマンドの有料の番組が観られるのに、一山いくらというパックセット番組が観られない。同じチューナーを使い、同じルーターを使っているのに、である。NTTの方からはルーターのファームウェアを入手し、それをルーターに導入することを勧められたが、Buffaloに問い合わせたら、自宅のMacからはできないとの由。面倒なこと、この上ない。
 そもそも、無線できちんと接続できるルーターがあるのだろうか?と疑いたくなった。仕方なくNTTが動作確認をうたっているルーターのレンタル契約をするハメになった。NTTにこれでちゃんと観られますね?と確認したが、「一応できることになってます」という自信なさげな返事。もし、それで接続できなかった場合、こちらはそもそも不可能な無線接続のためにアダプタを買わされたことになる。しかも、そうなっても返品・返金には応じないという。これはいわゆる詐欺ではないのか?
 正直言って、技術的にも、トラブルへの対応も手探り状態のようで、金を払って実験台になっているようなものである。ある程度ネットなどに知識がある僕でもかなり苦労している。
一般ユーザーにとっては、広告で謳っているように「かんたん!便利。安心サポート。」では決してない!
 レンタルのルーターが手元に届くには恐らく、あと一週間程度かかるだろう。とすれば無線で4th mediaのテレビを観られのは、その先か・・・。

06 juin 2007 

Au plus près du paradis:films

Tonie Marshall監督のAu plus près du paradisを観た。
Fannetteはパリで美術書の編纂をする中年の独身女性。名画座が好きでよくクラシックな作品を観ている。特にレオ・マッケリー監督の『めぐり逢い』(原題はAN AFFAIR TO REMEMBER、仏題は”elle et lui”(彼女と彼)がお気に入りだ。彼女には思いを寄せる昔の同級生Philippeと一人の娘、そして一人のストーカーがいる。ある日、置き手紙が彼女に届く。そこには「恋する女になれるか?エンパイア・ステート・ビルで逢おう。Philippe」とあったが・・・
 はっきり言ってオバサン向けの映画だった。この作品だけでなく、『めぐり逢い』をモティーフにした作品は多い。Nora EphronのSleepless in Seattle(邦題『めぐり逢えたら』)はTom HanksとMeg Ryanを主役に迎えた作品であるが、これもすれ違いの恋を描く。実は僕はケイリー・グラント、デボラ・カー主演の『めぐり逢い』(1957年)を観ていない。『めぐり逢い』のオリジナルLOVE AFFAIR(邦題『邂逅』1939年!)も観たことがない。さらに、1994年にリメイクされたウォーレン・ビーティ、アネット・ベニング主演のLOVE AFFAIRも観ていない。随分前の作品なので、物心ついた頃にはクラシックになっていた。今回観た映画の原題は『めぐり逢い』でエンパイア・ステイト・ビルの屋上を「天国に一番近い場所」と読んだところから取っている。
 物語に話を戻すが、Bernardというストーカー男。なかなか取れない焦げのようにシツコイ。しかも、策を弄する。Bernardは冒頭でFannetteの頬をはたくが、Fannetteは彼になびかない。しかし、NYで出会った男・Matに突然に愛撫されてFannetteの怒りが鎮まるシーンがある。まあ、股間に手を突っ込んでくる男がWilliam Hurtなので、こういうこともあり得るのかもしれないが、俗世ではフツーの痴漢行為である。このテの映画では、怒ったり、興奮して話が止まらない女性を男がキスで黙らせるというシーンがたまにある。現実には恐らく、こうしたことはあまりないだろう。試しに誰か夫婦げんかをしているときに同じことをやってみてほしい・・・。とにかく、主人公の女性は一見すると50代後半だが、どこでもモテまくる。それも性的対象として。まあこの点がオバサン向けという所以である。
 結局、Fannetteが恋い焦がれた男がどんな奴なのかは最後まで明かされることはないが、こういうのがオバサン心をくすぐり、勝手な妄想ををかきたてるのであろう。ラストシーンの後、ParisとNYに住む男女の関係が発展的、あるいは安定的になるとは考えられないが、お約束のhappy endingでオバサンたちは心地よく劇場を出るだろう。
 「すれ違いの恋」というテーマは陳腐どころか現在でもバリバリの現役である。この作品が2002年にCatherine Deneuveを迎えることができたこと自体それが生きている証拠だし、何よりも韓流作品、特に恋愛ものといえば殆どこれがテーマだ。ストーリーとはあまり関係がないが、劇中で「眺めつづければ興味がつのる」とうFlaubertの台詞が挿入される。この文句、なかなか印象的。原題は「天国の一番近くで」。邦題は『逢いたくて』。
 この作品、4th mediaで初めて観る作品である(有料チャンネルは昨日から視聴可能だった)。画質は思っていたより安定感があり、悪くない。豪雨が降って画面が乱れるCSよりはまだいいかもしれない。明日は一般のチャンネルも観られるかな・・・。

05 juin 2007 

4th media導入(奮闘)記:journal

 TV5 MONDEを観るべく、4th mediaと契約を交わし、本日、ようやくチューナーと無線LANが届いた。早速、接続を試みたが、無線LANで繋ぐのは本当に難儀だった。NTT116、Apple computer、4th media、plalaなど殆ど全てのカスタマーセンターに連絡した挙げ句、UFO型Airmacが/11aに未対応で、これを4th mediaチューナーのルーターにはできないことが判明。そこで、4th mediaチューナーを無線接続するため、ルーターの交換を余儀なくされた(推奨されるNTTのルーターは値段が貴得不得了!)。そこでIPv6プロトコルに対応し、なおかつ802.11aに対応し、ブリッジ接続できるルーターを求めた。それがbuffalo whr-am54g54である。このルーターはPowerbookから設定するためにはインターネット・エクスプローラから設定しなければならなかったが、かなり苦戦して設定に成功!4th mediaチューナーの設定も何度もエラーを喰らいながらやっとチャンネルを選ぶ画面に到達した。(チューナーはネットワーク名にスペースがあるとエラーが出るなど、結構、うるさいことを要求する。小文字の入力も最初は判らなかったし。)
 やれやれとお目当てのTV5にチャンネルを合わせると・・・またまたエラー。「テレビサービスご利用のためのSub No.登録を行っています。登録の完了は、設定を行った2日後の午前9:00頃となります」。
 (・o・)?設定しても2日は試聴できないの?ゴルァ!

 後学の徒のために、僕の接続図を示しておく。特に4th media視聴のための対応ルーターとしてどれを選べばいいのかが最大の悩みどころであるので、キッチリと型番まで書いておきます。僕は2つも付けてしまいましたが、ネットの通信速度確保には結果的にはよかったかもしれません。

電話線
 ↓
ONU
 ↓
CTU → IPv6対応BBルーター(buffalo whr-am54g54)
 ↓                ↓
UFO型 Airmac Extream        (無線)
 ↓                ↓
(無線)        4th mediaチューナー(Picture Mate300)
 ↓         +Web Caster FT-STU-SAG(USB子機)
Powerbook G4            ↓
                 テレビ

 CTUからはさらに光電話接続のための器機
・VoIPアダプタが接続しているため、電話回線周りには弁当箱大の各種機械が5つも付けられ、さらにそれぞれにおにぎり大のアダプタが電源を要求している。これに電話機が接続されているため、配線はまさにカオス。将来的には各種器機が統合され、スッキリ配線になることを切に望む。

04 juin 2007 

TV5 Monde revient! :journal

 昨年12月から観られなくなっていたフランスのテレビTV5 Mondeが復活した。以前のように無料ではなくなったが、全ての番組が観られる。これは本当に嬉しいことだ。試聴方法をここで紹介したい。公式サイトはこちらこちら
 1,4th media経由
 2,ネット経由
1に関しては、フレッツ光などの光ブロードバンドに加入し、4th mediaのレギュラー・プランに入れば自宅のテレビで観ることができる。ただし、NTT西日本地域は4th mediaのチューナーを購入しなければならず(東日本はレンタル可能)、これをワイヤレスにした場合は30,420円も設備投資にかかってしまう。そしてplalaなどの対応プロバイダに入っていなければ、プロバイダの使用料金もかかる。

2,年間5000円の視聴料を支払い、BBbroadcastでパソコンで観る。ただし、マックには対応していないし、大学などのファイヤー・ウォールでガードされているネットワークはIP制限に引っかかってしまう。よって、自宅でwindows環境でしか観ることができない。

 僕は自宅はmacを使っているし、大学のwindowsマシンはIP制限で試聴できないので、1を選択。チューナーの3万円ははっきり言って惜しかったが、以前のような時間制限ではなく、全ての番組が観られるのでこちらにした。4th mediaの番組は現在加入しているスカパーの番組セットと殆どかぶるので、スカパーのチャンネルは解約し、新たな出費は最小限に抑えた。
 しかし、まだ接続していないので、心配も多い。その一つはチューナーを買って接続できなかった場合も、返品がきかないこと。下手をすれば無線ルーターを買い換えなければならない。もう一つは画質と映像の安定感。そして、EPGをはじめとする予約のしやすさがまだ判らない。

 

La Vie de Matsuko:journal

中島哲也監督の『嫌われ松子の一生』を観た。
中学校の教師をしていた松子が波瀾万丈、紆余曲折の人生を経て荒川の川辺で撲殺されるまでを描いた作品。山田宗樹の同名小説の映画化だが、随分とテイストは変わっている。ミュージカル映画とも言える作品。小説のストーリーをカラフルでポップな映像で一通り繋げたような作品で、日本版Dancer in the darkとも言える一本。
 松子の心象風景はミュージカル仕立ての映像になる点はLars von TrierのDancer in the darkを意識した作りになっている。Dancer in the darkのミュージカル・シーンはSelmaが精神的に追いつめられた極限状態になった時点で明るい映像とともにSelmaの心象風景として切り替わる。映画の『嫌われ松子の一生』は原作の読者からすると随分と飛躍したテイストになっているが、監督からすれば松子の一生とSelmaの一生に一つの共通点を見いだしたのだろう。何かのインタビューで歌をうたうシーンが彼女に黙って吹き替えに置き換わっていたことを中谷美紀はコメントしていたが、よほど悔しかったのだろう。松子が歌をうたうシーンは彼女が幸せの絶頂期にある時を示す重要なシーンだったので、彼女がプライドを傷つけられるのも無理はない、と思った。ビョークとの差は歴然だからだ。
 小説では松子の甥に当たる大学生が松子の人生を調べてストーリーが展開していく、いわば狂言回しの役割を果たすが、この映画では殆ど関与していない。原作では甥がもがき苦しみながら生きた松子の人生を知っていくうちに、小さな精神的成長を果たすという物語になっている。
 しかしながら、松子という女、つくづく男運が悪い。というか非道い男ばかり選んでしまう。というか、極めて自己評価が低く、自分を安売りしてしまう。自分を少しでも愛してくれる男に尽くし、依存してしまう。原作では唯一松子が幸せになる可能性があった男はソープランドの社長だったが、そのエピソードは映画では軽く扱われ、殆ど触れられない。総合的に考えれば、原作の方が映画よりも遙かによくできている。映画は恐らくスゲー、お金がかかっているんだけどね・・・。

03 juin 2007 

35 réalisateurs:journal

 先日閉幕したカンヌ映画祭では、60周年企画として世界の35人の映画監督がそれぞれ短編映画を作成して発表するという魅力的な企画があった。この35人はみな首肯できる巨匠ばかりであるが、中には僕も作品を一本も観たことがない監督が4人いた。Andrei Konchalovsky、Youssef Chahine、Michael Cimino、Elia Suleimanの四氏である。あとの31人の作品は少なくとも一本は観ている。日本であまりなじみのない監督では、Amos Guitai監督。彼の作品は人身売買でイスラエルに売られる女性を描いたTerre Promise(『約束の地』日本未公開)をパリで観ている。Atom Egoyan監督の『アララトの聖母』も素晴らしい。
 どうしてこの監督が入って、何故彼の名前がないのか?と疑問をもつ向きもおられよう。女性監督が一人もいないというのも気がかりではある。以下の35人は今回の企画で、短編の制作に同意した監督なので、そうした制約付きの35人なのだろう。このなかで挙げられていない監督でもっとも残念なのはMichael HANEKE監督。そして韓国のKim Ki-dok監督、Bruno Dumont監督、Denys Arcand監督も入っていないのが残念だ。
Theo Angelopoulos
Olivier Assayas,
Bille August,
Jane Campion,
Youssef Chahine,
陳凱歌
Michael Cimino,
Ethan et Joel Coen,
David Cronenberg,
Jean-Pierre et Luc Dardenne,
Manoel De Oliveira,
Raymond Depardon,
Atom Egoyan,
Amos Gitai,
侯孝賢
Alejandro Gonzalez Inarritu,
Aki Kaurismaki,
Abbas Kiarostami,
北野武
Andrei Konchalovsky
Claude Lelouch,
Ken Loach,
Nanni Moretti,
Roman Polanski,
Raoul Ruiz,
Walter Salles,
Elia Suleiman
蔡明亮
Gus Van Sant,
Lars Von Trier,
Wim Wenders,
王家衛
張芸謀

02 juin 2007 

C'EST QUOI LA VIE?:films

François Dupeyron監督のC'EST QUOI LA VIE?を観た。
南仏の田舎町で酪農を営む一家。その長男であるNicolasは仕事も恋愛も中途半端。一家もどことなく暗く、食事の時もけんかが絶えない。ある日、一家が飼っていた牛にBSEが発生し、全ての牛に処分命令が下される。経営にも行き詰まり借金を重ねていた父親は首つり自殺。祖父はショックで(?)痴呆状態になってしまう。一家を支えなくてはいけない立場になったNicolasは思いつきで事業を始めるが、車の保険未加入、寝坊など些細なことで挫折してしまう。父の死後、一家はバラバラ。「これが人生?」「何のために生きているのか?」といった状態が続く。行き詰まった一家は町はずれの田舎に引越をし、そこから一から人生をやりなおす。これは一人の甘ったれた農家の男が一人前になるまでの成長物語である。Nicolasは軽い都会生活への憧れを、地に足をつけた田舎での仕事の充実感に変えていく。派手なシーンもなく、淡々と描くが、大自然を背景にした再生の物語は深い感銘をもたらす。家族の戦いも見逃してはならない。

 作品では二度、仔牛の出産と朝日のシーンがあるが、観客はNicolasの成長をはっきりと実感する。一仕事おえたときに観る自然の美しさは何者にも代え難い(仕事のあとのビールもそうだが)。
大自然と農業に携わる人々への敬意が感じられる一本である。
 この映画、フランスの田舎の風景が本当に美しく撮れている。特に朝日の美しさといったら格別である。全編を覆うカーキ色がかった映像はフランスの農民画家・Milletの名画「種をまく人」や「落ち穂拾い」を思わせるようなテイストである。映画のテーマ性から、Milletの画風を映像作りに盛り込んだのかもしれない。ちなみにカメラは日本のテツオ・ナガタ、フランスで活躍するカメラマンである。
 農業をやっていくことは過酷である。脱サラして農業をする都会生活者の話を耳にするが、サラリーマンをやっていた人間が簡単にできるような甘いものではないのだろう。フランス映画といえばパリを舞台にした作品がまっさきに浮かぶが、こうした第一次産業に従事する人々を描いた作品も思いの外、多い。それはフランスが欧州最大の農業国であることを思えば納得できることかもしれない。フランスではSalon du chocolatなどの展示会もやっていたが、Salon International de l'Agriculture(国際農業見本市)などもテレビ中継していた。美食の国を支える基幹産業でもあるので当然といえば当然だが、日本ではこうしたことはあまり考えられない。フランス人は
よくバカンスに出かけるが、観光地を回るものではなく、田舎でゆったりと過ごすことが多い。自然に触れ合う機会を日本よりはずっと大切にしている印象だ。 監督は『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』の監督。この作品も素晴らしい。原題は「人生って何?」の意。邦題は『うつくしい人生』

 

Strip Search:films

Sidney LUMET監督のStrip Searchを観た。
北京とNYで、
突然ある男女がそれぞれ逮捕される。そして、異性の尋問官に取り調べを受けることになるが、一方的で執拗な尋問に被疑者は次第に追いつめられていく。
 911以降、多くの外国人がテロリストの疑いをかけられて逮捕、拘留された。このことを題材にとった限りなく真実に近いフィクションで、テロ対策の名目で人権が蹂躙されるさまが描かれる。世間に出れば、器物損壊罪、侮辱罪、強制猥褻、暴行罪になることが尋問の場は取り調べの名目でほぼ無法地帯となる。911以降、多くのアラブ系の人々が確たる疑いもないままに劇中にあるような過酷な尋問を受けたことは想像に難くない。あらゆる手段で自尊心を破壊し、ギリギリと追いつめていく。こんな悪夢に勝る強烈な取り調べを受ければ、誰もがtraumaになるであろう。これまで「拘留が1週間延長されました」というニュースを割に軽い感じで聞いていたが、これからはそんな気分にはなれないであろう。

 物語は北京とNYがそれぞれの舞台になり、途中でアメリカの「自由」を謳い上げる歴代の大統領たちの演説が挿入される。尋問でのやりとりの台詞は殆ど同じであるが、明白な非対称性もある。それは北京でもNYでも尋問官は英語を話していることだ。尋問が自国語で行われるアメリカ人と外国語で行われる「アラブ系」(どこの国か不明)の状況は天と地ほどの違いがある。同じ行為をしていても、中国で尋問を受けるアメリカ人の方がまだ「マシ」である。
 アメリカが日本の取り調べのあり方を批判する時、取り調べに弁護士を立ち会わせないことをが引き合いに出される。このドラマを見れば、アメリカ側が何故そのことを批判するのかがよく判る。アメリカ側自身がそれをやっているからだ。これはキューバの米軍グアンダナモ基地での拷問などを例に出すまでもなく、直近の歴史が物語っている。
 最後に被疑者だけでなく、尋問官も無傷ではないことを匂わせる。尋問後、二人の尋問官に漂うのは払拭しがたい虚脱感である。職務故の行為なのか、「正義感」故のものなのかは不明だが、尋問官の人間性も破壊されるであろう。
 映画の冒頭では、大学の講義風景が映し出される。テロを未然に防ぐことができれば、自分の自由が多少なりとも拘束されることを受け入れるか?という問いかけがなされる。学生は1日ぐらいだったら、1週間ぐらいだったら、1ヶ月ぐらいだったら・・・という問いに答える。ドラマの最後にも同じ質問が視聴者に投げかけられるが、このドラマを観た後は1日たりとも自分の自由を犠牲にしたくないと思うであろう。
テロではないが、今 年になってバージニア工科大学での銃乱射事件が起きたが、それによりアジア系の学生が攻撃対象になるのではないかと懸念した。その僕の懸念は一般人のア ジア系学生への嫌がらせを想像したのであるが、むしろ公権力による犯罪対策に名を借りた尋問の方がより恐ろしいのではないだろうか?
 おなじみの問いだが、日本ではこんなことは起こりえないのであろうか?昨今のテロ対策の名目で成立している法律を考えると、その答えは自然と明らかである。おー、コワっ。邦題は『強制尋問』。

01 juin 2007 

Re-Motivation:journal

 キリンカップ前の監督記者会見。オシム監督の言葉で唸らされた。

「一言で「モチベーション」と言っても、実は複雑なものだ。それにモチベーションは永久に続くものではない。消費されるもの。・・(中略)・・そこで大事なのは「リモチベーション」。「再び」という意味だ。」

 流石である。大学での勉強もmotivation(動機付け)が大きく効果に作用すると言われている。自分でも経験があるが、一つの動機付けだけで何年にも亘ってねばり強く学ぶことは難しい。学ぶ動機というのは、学ぶ現実の前にあっさり消費、消失してしまう。そこでまたやる気を再起動させなければならない。
 受験時にあれだけ学ぶ意欲をアピールしていた学生が、入学後にそれを忘れたかのようになっているのを目にすると、motivationの再起動がうまくいかなかったのだと思う。要は「初心に返れ」ということなのだろうが、「今」は常に初心の状況と異なっているのでなかなか難しい。ひょっとしたら個人の資質や才能というのは継続する意志を支えるre-motivationが土台になっているのかも知れない。
 岡ちゃん、Troussier、Zicoと続く代表監督のなかでOsimほど含蓄のある、こちらの感性を刺激する言葉を述べる監督はいただろうか?(Troussierに至っては最低だった。)結果はどうであれ、彼を監督に迎えたのはよかったと思う。
 この記者会見、これ以外にも旧ユーゴの監督をつとめたOsimならではの質問が数多く飛び出し、なかなか読ませるものとなっている。(こちら)