30 avril 2006 

DEEP BLUE:film

Alastair Fothergill・Andy Byatt監督のDEEP BLUEを観た。
BBC制作の海洋ドキュメンタリー。既にレンタルビデオやDVDでも観られる作品だが、敢えて劇場に足を運んだ。やはり大画面と迫力のある音響でみてこその作品だ。自分が大海原に放り込まれたような臨場感を味わうことができた。
 映像はすべて貴重なものばかりで、どのカットも見逃せない。基本的に映像を繋いでいくだけで、ナレーションも必要最小限に抑えられているが、興味を失うことなく最後まで引きつけられた。こうした自然もののドキュメンタリーで観客の耳目をとらえ続けることは本当に難しい。力のある映像でなければなかなかうまくいかないだろう。

29 avril 2006 

Conte D'hiver:film

Eric Rohmer監督の"Conte Des Quatre Saisons: Conte D'hiver"を観た。
若くて美しい女性Felicieはバカンス先のブルターニュでCharleという男性と恋に落ちる。しかし、その後、彼に間違った住所を教えてしまい、アメリカに旅立ってしまった彼とは音信不通になってしまう。それから5年後、彼への思いを断ちきれないままFelicieは二人の恋人に二股をかける。一人は美容院の男、もう一人は図書館員であった。
 見終わった後、その結末、なんだかなーって気持ちになる。二人の男はFelicieにさんざん振り回される。どちらの男も優しい男で、彼女のことを心から愛しているが、彼女は心の底では彼らを愛してはいないから、時々の気分で気ままに振る舞う。愛する者は常に惨めで、愛されるものは常に残酷・・・そこまではいかないが、二人の男性は惚れた弱みで気の毒である。結局、彼女はとうとうCharleとバスの中で偶然再会し、彼女の思い描いたとおりの幸せなラストで終了する。彼女のワガママ加減が原因でCharleと破綻するところまで描いて欲しかったと、内心腹立たしくなったが、そうはならないのがRohmer作品が受けるところなのだろう。延々と台詞が続くのでフランス語の勉強にはいいかも。

28 avril 2006 

L'Humanité :film

Bruno DUMONT監督のL'Humanité を観た。
フランス北部の田舎町で少女強姦殺人事件がおきる。妻と赤ちゃんを事故で亡くした過去のある警官のファラオンはその捜査に当たるのだが・・・。
 難解な映画だ。観たのは2度目だが、意味の分からないカットがいくつもある。上記のストーリーだけみると警察モノのようだが、想像するようなアクションもなければ、鋭い捜査官が出てくる訳でもなく、もちろんヒーローもいない。映画の捜査は遅々として進まず、ファラオンをとりまく人間模様もドラマ性に乏しいようにうつる。最後に容疑者が判明するが、なぜ警察が容疑者にたどり着いたのかも、犯行の動機も不明なままだ。ファラオンのドミノに対する感情も、傍目には曖昧なままである。音楽もなく、印象に残るような気の利いた台詞などもなく、美男も美女も出てこない・・・映画のマーケットや映像に関する全ての文法を拒否したような作品で、1つのカット、1つのシーン、また作品全体をどのように考えたらいいのか、考えがまとまらない。ひょっとするとこの不可解さは、ファラオンにとっての猟奇殺人の不可解さと同一のものなのかもしれない。この作品はファラオンの感じた不可解さを、安易な答えを用意したり、落としどころを観客に提示してやったりすることなく、ファラオンのリアリティに沿って追っていった作品ではないだろうか?感じやすすぎるファラオンが言葉にならないもやもやした感情を大声を出すことによって爆発するシーンが印象的。

27 avril 2006 

April Snow:film

Hur Jin-ho監督の외출を観た。
コンサートの照明監督をするインスのもとに電話が入る。妻と見知らぬ男が交通事故で病院に運ばれたからだ。病院にはすでに男の妻・ソヨンがいた。意識が戻らない二人の所持品を確認するうち、二人が不倫関係にあることを知る。
 フランスの映画サイトで観客の評価が非常に高かったので観てみた。韓流恋愛作品は「初恋」「ハードルの高い恋」「不治の病」「記憶喪失」がキーワードになっている作品が多い。そうしたパターン化したストーリーに飽きていた(『連理の枝』!)ので、最初はそれほど期待していなかったためか、できとしては思ったより悪くないと思った。これといって印象に残る台詞もなければ、感動を演出する場面もないが、これもある種のリアリズムなのだろう。物語は静かに、静かにほぼペースを変えずに進んでいく。「そこは普通、狼狽える場面だろう!」とツッコミたくなるような不自然な場面もなきにしもあらずだが、監督としては全体のトーンを保ちたかったのだろう。平板すぎる印象は好き嫌いが分かれるところ。やっぱりソン・イェジンは可愛いなー。多少の不満はこれで許す!原題は『外出』、邦題は『四月の雪』。

26 avril 2006 

TEBASAKI:journal

朝、はなまるマーケットをやっていた。特集は節約手羽先料理。そのなかで、料理の達人主婦が「手羽先のじっくりオイスター煮込み」というのを紹介していた。カリスマ主婦のお手並を拝見とばかりに、レシピをみた瞬間、驚愕に震えた。これはレミだれ、いや僕のタレの完全なる応用ではないか!そのタレはこちらを参照。さて、この手羽先料理、自分の作ったタレを使って実際に作ってみた。
 【材料】
 ・手羽先
 ・干し椎茸
 ・タマネギ(ネギがベスト)
 ・僕の特製たれ→こちら
 ・胡麻油
 ・片栗粉
 ・おろし生姜少々

 【作り方】
 1,タマネギを大まかに切る。
 2,干し椎茸をもどし、戻し汁はキープしておく。
 3,タマネギは表面が焦げない程度、手羽先を皮がカリッとなるように焼く。
 4,3に戻し汁を加え、鶏ガラスープと僕の特製タレを投入。
 5,30分程度煮る。
 6,具を取り出し、残った汁に胡麻油を少々加え、片栗粉をまぜてややとろっとしたソースにする。

激、旨かった。手羽先から出たコラーゲンと旨みを利したソースが決め手だ。保存もきくし、味がしみた「どんこ」は申し分ない。僕もこれでまたカリスマ・シングルに近づいた気がする。

25 avril 2006 

SAINT RALPH:film

Michael McGowan監督の"SAINT RALPH"を観た。
1953年カナダ。カソリック系の学校に通う14歳のRalphは学校ではちょっとした問題児で、校長に目を付けられている。彼の父は戦死し、母も病床にある。
 ある日、母の病状が悪化して看護婦から「奇跡でも起こらない限り目を覚まさない」と言われた時から「奇跡」という言葉にとりつかれる。そして「ボストンマラソンに優勝するのは奇跡だ」と言われてから、自分が奇跡をおこせば、母にも奇跡がおこると思い、ボストンマラソンで優勝するために懸命に練習を始めるが・・・。
 少年ジャンプのコンセプトではないが、「努力」「友情」「勝利」という要素に加え、「逆境」と「必死さ」など感動を誘う要素が満載で、そうした作為がかなり気になったが・・・泣けてしまった。Jeff Buckleyのhallelujahが流れてきて、主演のAdam Butcherがスタートラインで十字を切るシーンから涙腺が刺激されてしまった。ひ弱で儚げで薄幸な少年の演技が素晴らしかったことも感涙に一役買ったといえる。しかし、ボストンマラソンのシーンが短くやや呆気ない感じがしたので、彼をもっと走らせてもよかったのではないかと思った。ところで、これがマラソンではなく、別の競技だったらこうした感動を演出できたであろうか?
 マラソンというのは実際にみるよりも、映像で観た方がずっと面白く、スリリングなスポーツだ。ルールが誰にでも理解できて、走る姿や表情をアップにすることによって観る者が感情移入しやすくなる。ランナーの苦しむ表情や他の走者との駆け引きは、走者個人とレース全体を見渡すことができる映像の方がはるかに分かりやすい。マラソンを沿道で観ていても、各ランナーはあっという間に過ぎ去ってしまうため、生で競技をみても競技そのものを楽しむことができない。パリでTour de Franceを実際に観たときがそうだった。2時間以上も炎天下で待って、アームストロングは一瞬のうちに彼方に行ってしまった。あとでテレビでみると、勝負所の駆け引きやデッドヒートが観られたので、むしろ全体像を把握することができた。映像向けのスポーツといえば野球などもその範疇に入るだろう。球場では分からない投手とバッターの表情や駆け引きがカメラを通すとよく分かる。これがサッカーとなると難しい。表情ばかりを写すとフォーメーションが分からないし、全景ばかりを撮っていると選手へ感情移入しにくい。ワールドカップのチケットが外れてしまったが、むしろテレビで観る方がいいのではないか・・・とチケットが外れてしまった失望を思い出すたび、サッカーはテレビ向けと言い聞かせている。
 制作者の作為にまんまとはめられて悔しいが、「泣ける」一本である。子供が走る姿が印象的な作品にマジッド・マジディ監督の『運動靴と赤い金魚』というイラン映画がある。こちらもあわせてご覧になることをおすすめする。邦題は『リトル・ランナー』。

24 avril 2006 

琉球大学の学生のための中国・台湾留学情報

琉球大学の学生のための中国・台湾留学情報
1,県費派遣国外留学生
財団法人沖縄県国際交流・人材育成財団は、21世紀の沖縄県の振興を担う人材の育成を図るため、自然科学及び人文・社会科学等の分野において、国外の大学、大学院又は研究機関等への留学を希望する者を募集しています。
募集人員 修士課程(2年)7人程度 1,1年課程10人程度  2,6か月課程6人程度対象分野、応募資格、募集期間、選考試験などについては、以下に問い合わせてください。  
財団法人沖縄県国際交流・人材育成財団  留学課  留学係
  〒900−0034那覇市東町1番1号、沖縄県那覇東町会館7階
  TEL(098)941−6771
  FAX(098)941ー6811
  ホームページ:http://www.oihf.or.jp/

2,国費沖縄県海外留学生
財団法人沖縄県国際交流・人材育成財団では、高度な専門性と国際性をもった人材を育成するため、海外の大学へ留学を希望する者を募集しています。
募集人員1,修士課程3人程度 2,博士課程1人程度  
対象分野、応募資格、募集期間、選考試験などについては、以下に問い合わせてください。  
財団法人沖縄県国際交流・人材育成財団  留学課  留学係
  〒900−0034那覇市東町1番1号、沖縄県那覇東町会館7階
  TEL(098)941−6771
  FAX(098)941ー6811
  ホームページ:http://www.oihf.or.jp/

3,小渕アジア・太平洋リーダーシッププログラム奨学生
財団法人沖縄県国際交流・人材育成財団では、米国の国際的教育研究機関である東西センター(ハワイ州)へ派遣する小渕東西センター奨学金の一環として、21世紀における地域社会の様々な変化や要請に対応しうる地域専門家の育成と、個々のリーダーシップ能力の強化を目的に、小渕アジア・太平洋リーダーシッププログラム奨学生を募集しています。
募集人員 2人程度(1,5ヶ月コース 2,9ヶ月コース)
対象分野、応募資格、募集期間、選考試験などについては、以下に問い合わせてください。  
財団法人沖縄県国際交流・人材育成財団  留学課  留学係
  〒900−0034那覇市東町1番1号、沖縄県那覇東町会館7階
  TEL(098)941−6771
  FAX(098)941ー6811
  ホームページ:http://www.oihf.or.jp/

4,フルブライト奨学金留学生
日米教育委員会では学士号取得以上の者(大学院生、社会人)を対象とし、米国の大学院に正規の学生として在籍し、コースワーク・単位取得を通して研究を行フルブライト奨学金留学生を募集しています。

募集人員 大学院留学プログラム約20名 。奨学金給付期間は原則として12ヶ月。(2年目に対して15,000ドルまでの更新の可能性あり。)
対象分野、応募資格、募集期間、選考試験などについては、以下に問い合わせてください。
日米教育委員会「フルブライト交流プログラム」
〒100−0014東京都千代田区永田町2−14−2 山王グランドビル207
TEL (03)3580−3233
ホームページ:http://www.hulbright.jp/

5,大学間・部局間交流協定校派遣留学生
琉球大学では大学間・部局間交流協定校への留学生派遣を実施しています。留学中の琉球大学の授業料は支払わなければなりませんが、留学受入校の授業料は免除されます。単位互換制度に基づき履修単位の琉球大学における該当科目の単位互換も可能です。
募集人員 各協定校原則的に5人以内(1学期<最低3ヶ月>以上1年以内)
対象分野、応募資格、募集期間、面接試験などについては、以下に問い合わせてください。 琉球大学学術国際部留学生課 TEL(098)895ー8096
大学間・部局間交流協定校派遣留学については日本学生支援機構又は琉球大学後援財団から月額8万円の奨学金が提供される公費留学(日本学生支援機構奨学金1〜2人、  琉球大学後援財団奨学金1人)と私費留学の2種類に分かれています。詳しい情報は  「海外留学ハンドブック」を参照してください。ハンドブックは琉球大学学術国際部  留学生課で配布しています。

6,中国政府奨学金留学生
日本学生支援機構では中国政府奨学金留学生を募集しています。
募集人員110人1,学部生 2,学部研究生 3,修士課程 4,博士課程 5,博士課程研究生
対象分野、応募資格、募集期間、選考試験などについては、以下に問い合わせてください。
在日本中華人民共和国大使館教育処
〒135−0023東京都江東区平野2−2—9 
TEL (03)3643ー0305
FAX (03)3643−0296
出願書類に関する問い合わせは
独立行政法人日本学生支援機構留学情報センターへ
   〒135ー8630 東京都江東区青海2−79
   TEL(音声・FAXサービス番号):(03)5520ー6131(職員への転送番   号9060)
ホームページ:http://www.jasso.go.jp/

7,中華民国台湾奨学金留学生
沖縄県観光商工部交流推進課では中華民国台湾奨学金留学生を募集しています。
募集人員2人
対象分野、応募資格、募集期間、選考試験などについては、以下に問い合わせてください
  沖縄県観光商工部交流推進課
  〒900−8570那覇市泉崎1−2−2  
  TEL(098)866−2479
  FAX(098)869ー9073

以上が主な奨学金留学生の情報です。その他にも多くの奨学金留学生制度があります。詳しくは琉球大学学術国際部留学生課へ。なお日本学生支援機構留学情報センターも多くの留学情報を提供しています。ホームページhttp://www.jasso.go.jp/へアクセスして調べてください。

23 avril 2006 

HOLLANDS LICHT:film

Pieter-Rim de Kroon監督のHOLLANDS LICHTを観た。
17世紀はオランダ絵画の黄金時代である。フェルメールやレンブラントの絵画の着想の源泉にオランダ独特の自然光が大きく作用していると言われている。そもそも「オランダの光」は存在するのか、その実体とは何かを芸術家や学者のインタビューなどで多角的に検証する。
 エイセル湖で一年以上定点観測をし、様々な表情をみせる空と湖と緑。芸術を扱ったドキュメンタリーだけあり、映像作りは極めて巧みである。以前、オランダに行ったときは曇っていたのでそれほど美しさを感じなかったが、映画で選ばれている景色の美しさに感嘆の声をあげたくなった。もう一度、今度は新緑を輝かせる季節に行ってみたいと思った。しかし、20世紀後半から、オランダの光が演出する美しさは次第に失われているという。これは世界のどこにもいえることである。沖縄も例外ではない。海岸や海の埋め立て、基地の建設は確実に海本来の美しさを奪っていった。そして、これからも奪いつづけていくだろう。自然の美しさを理解しない者たちによって。邦題は『オランダの光』。

22 avril 2006 

KIKA:film

Pedro Almodovar監督のKIKAを観た。
メイクアップ・アーティストのKikaをめぐる人間模様を描いた作品。実は妻を実際に殺している作家、彼の義理の息子で変わった性癖をもつカメラマンのRamon、Ramonの家のメイドでキュービズムのような顔をしたレズのメイド、その弟で刑務所から脱走中のポルノ・スター、Ramonの元・カウンセラーで現在は「今日の最悪ニュース」というテレビ番組の女性司会者・・・どのキャラクターも笑ってしまうほど個性的だ。
 後半はサスペンスの色調が強くなり、レイプや殺人や裏切りのオンパレードなのだが、カラフルな映像やスタイリッシュな部屋の内装、Jean Paul Gaultierの吹き出してしまうほどの奇抜な衣装や登場人物のちょっと変わった所作でずいぶんと観る側の心理的圧迫は軽くなっている。Gaultierの衣装を身に纏った女性司会者のキャラクターはインパクト十分である。
 とかくこの作品はストーリーよりも衣装や登場人物のキャラクターが注目を集めてしまうが、なかなか唸らせる台詞も多い。一つあげるならば、「無責任なのが若さの秘訣さ」。

21 avril 2006 

THE BELLY OF AN ARCHITECT:film

Peter Greenaway監督のTHE BELLY OF AN ARCHITECTを観た。アメリカ人建築家ストーリー・クラックライトは妻とともにローマに入る。彼の敬愛する建築家Etienne-Luis Bouléeの回顧展をプロジェクトするためである。式典のあと、ホテルで妻とベッドに入った時、突然腹痛に襲われる。それからというもの、彼は「腹」に対して異常ともいえるほど執着していく。
 最初にこの映画を観たとき、対称に配置されるカメラの構図とクラックライトの腹を蝕む病魔と死へとりつかれて精神をも病んでいく姿と、妻の腹のなかで成長していく子供がちょうど対照的に描かれている作品と「理解」し、そこに構成の妙を感じつつも、印象としてはそこまでしか感じ取れていなかった。しかし、ある批評を読んで、自分がこの作品のほんの一部しか理解していなかったことを思い知らせれた。
 その批評とは鵜沢隆さんの「ふたつの世紀末」という文章である。以下にその一部を引用する。

 「死という個人的な時間の停止への意識から呼び醒まされる、「不滅なるもの」あるいは「歴史」への意識がひとつの伏線となって、この映画の中で同時に進行するふたつの対比的な時間。ひとつは、ひたすら建築家クラックライトの死へと収斂してゆく時間であり、もうひとつは妻ルイーザの妊娠から出産へと至る、新たな「生」が懐胎される時間である(映画のなかの時間は9ヵ月という妊娠期間と符合する)。ここに死と生あるいは「生殖」がひとつの円環をつくりだす。建築家の腹に秘められた死への予感と、妻ルイーザの腹に宿る新たなる生。  建築家クラックライトとその妻を迎えて、パンテオン前の広場で催される晩餐会(『コックと泥棒、その妻と愛人』のような、カメラと対峙する一列形式の配置)のテーブルの中央に置かれた、ブレーの「ニュートン記念堂」を模した砂糖菓子のデコレーション。その配置はグリーナウェイが得意とするシンメトリーの構図に従っているが、その軸線上に並んだニュートン記念堂、建築家、そしてパンテオンの配列は、ブレーの空間的イマジネーションの源泉が古代ローマの建築にあったという暗示以上に、はるかに直接的な比喩である。ニュートン記念堂が、巨大な球体を戴いた壮大な幾何学によるプロジェクトであることと、パンテオンの内部空間に内接する球体の幾何学とは相似関係にある。そして、そのプロジェクトがニュートンのためのメガロマニアックな墓碑として設計されたことと、墓所としてのパンテオン(画家ラファエッロやヴィットリオ・エマヌエーレ2世などの墳墓が納められている)とが重なり合う。この時すでに建築家はふたつの墓所に挟まれていた。 ブレーのニュートン記念堂のドローイングの特異さは、その圧倒的なスケール感にあるばかりでなく、石で積み上げられた巨大な量塊の上に整然と配置された、円環状に球体を取り囲む3段の糸杉である。たとえば、象徴主義の画家A.ベックリンの代表作「死の島」で描かれた闇のなかに浮かぶ孤島には糸杉だけが屹立していたように、糸杉とは死の象徴である。砂糖菓子で作られたニュートン記念堂のデコレーションには糸杉の代わりに火の点けられた蝋燭が並べられているが、これもやはり消えゆく存在への暗喩である。 ところで、生と死の連関についてはすでに触れたが、この映画の中にはニュートン、ブレー、クラックライトを介した時間の連鎖が隠されている(数の連鎖ゲームは次の作品『数に溺れて』でより一層明瞭になる)。「理性(リーズン)の時代」の申し子となる建築家ブレーの誕生は、ちょうどニュートンの死の翌年の1728年であった。偉大な天体・物理学者の死と建築家(ヴィジョネール)の生との連鎖。さらには、もうひとつの時間の連鎖が周到に仕掛けられている。ブレーがニュートンに捧げたオマージュとしてのこの墳墓のプロジェクトを描いたのが1784年。そして映画のなかでクラックライトが監修するブレー展の会場として選択された「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」(ジュゼッペ・サッコーニ設計、新古典主義を経由した折衷主義の建築)は、ちょうどその100年後に計画された建築である。さらにはグリーナウェイのこの映画の構想は、そのさらに100年後にあたる。この映画のなかの空間は、それぞれの時代の世紀末を精緻なまでに貫通している。ちなみに、ニュートン記念堂から逆に100年遡ってステップした17世紀末は、グリーナウェイが撮った長編映画第一作である『英国式庭園殺人事件(画家の契約)』(1982年)の世界である。その映画は画家の技(アート)である透視図法という幾何学と「死」がクロスする筋立てであった。」・・・引用終了  
 冒頭の私の感想とこの引用を比較すれば、私が監督が込めた意味を全く理解していなかったことをおわかり頂けたとおもう。建築史への理解なくして、この作品を語ることが極めて難しいことを痛感した次第である。この批評を読んだあと、この作品をもう一度じっくり見てみてみた。改めて、感嘆の声を上げた次第である。邦題は『建築家の腹』。

20 avril 2006 

ETERNAL SUNSHINE:film

Michel Gondry監督のETERNAL SUNSHINE OF THE SPOTLESS MINDを観た。
 ある日、ジョエルは不思議な手紙を受けとる。“クレメンタインはジョエルの記憶を全て消し去りました。”。クレメンタインは最近別れたジョエルの彼女で、ジョエルの記憶を特別な手術で消し去ってしまったのだ。落ち込んでしまったジョエルは彼女との記憶を消すことを決意し、ラクーナ医院を訪れる。記憶を消す施術を受けている間、クレメンタインとの楽しかった思い出が蘇ってくる・・・。
 ファンタジックな設定の映画であるが、ここ数年で観た恋愛をテーマにした作品では一番よかった。すぐに忘れたいような嫌な記憶と、いつまでも宝物のように残しておきたい記憶。恋愛の深い傷手は、すぐにでも忘れてしまいたい。ニーチェの言う、「忘却はよりよき前進を生む」のである。しかし、一度は愛した人との記憶ならば、どちらも捨て去ってしまうのはあまりに悲しい。
 ”幸せは無垢な心に宿る。忘却は許すこと。太陽の光に導かれ、限りなき祈りは運命を動かす”というアレクサンダー・ホープの言葉にこの映画のエッセンスが凝縮されている。また、この映画のラストの二人のやりとりが、いい。美しいだけではない恋愛が愛に変わる瞬間を見事に表現している。
 Kate Winsletの演技はよかった。彼女があんなに魅力的に見えたのはこの作品が初めてである。音楽も、スタイリッシュな映像もよかった。だが、ポスターはイマイチ。

19 avril 2006 

FARGO:film

Joel & Eathan Coen 監督のFARGOを観た。
アメリカの田舎町。金のために偽装誘拐をするつもりが連続殺人事件に発展してしまう実話に基づいた作品。
 悪いことをしようとして、さらに悪い方向にストーリーは展開していく。事件自体は実際に起こったことだが、個々のキャラクターや台詞に関しては創作されている。そのためかコーエン兄弟の息のかかったキャラクターたちはみな、少しずつ奇妙で、独特で、なにげないカットの一つ一つにもシニカルな笑いが込められている。どこを見渡しても雪に覆われた白い世界を舞台に繰り広げられる惨劇。「白のFilm Noir」と評されるのも頷ける。観客としてみていると、どうして人はなりゆきでバカなことをやってしまうのか不思議で不思議でならなくなる。

18 avril 2006 

CRASH:film

Paul Haggis監督のCLASHを観た。
クリスマスのロサンジェルス。一つの交通事故から発する群像劇。
アメリカの日常生活において顔の色に刷り込まれた偏見が、猜疑心と緊張を高めていく。日常起こりうる些細な事柄が、人々の心を乱し、それが不幸へとつながっていく。
 印象に残ったシーンは数多いが、アフリカ系の番組プロデューサーがアフリカ系の若者の俳優の演技を変更させられる場面はステレオタイプの植え付けとメディアの関係を示唆する。メディアは真実で視聴者の偏見を打ち破るよりは、一般的な偏見を補強するような材料を安易に寄せ集めて番組を形成する傾向がある。これはドラマだけでなく、ドキュメンタリーやニュースとて同様である。今回の例はきちんとした話し方をするアフリカ系の若者が粗野な話し方をする道化的キャラクターに変えられてしまう。こうしたことは確信犯的に、あるいは無自覚にメディアのなかで日常的に行われているのだろう。映画のなかのできごとはアメリカ社会に限定されたものであると考えるのは、早計である。
 先日、自分の家の近くで検問をやっていて止められたが、幸いに拳銃を突きつけられることはなかった。これがアメリカだたったらと思うと、ゾッとしてしまう。免許の提示を指示されて、黙ってダッシュボードを開こうものなら、銃を取り出す仕草と勘違いされて警官から発砲される可能性すら生じてしまう。アメリカで生きるのはどのような皮膚の色をしていても過酷である。では日本が映画にあるような社会ではない、あるいは、そうならないと楽観できるのだろうか?何でもアメリカをマネしたがるのが「日本」という社会であることを考えると不安に感じてしまう。「日本」はみんな同じ肌の色だし、同じ「人種」だからこのお話はアメリカ特有のものだ!そんなことはないだろう。不幸の源は肌の色ではなく、人々に根ざす偏見そのものにあるからである。

17 avril 2006 

Apprendre la langue étrangère avec iTune+iPod:journal

思えば、外国語の勉強にどれだけの投資をしただろうか?特にリスニング教材は種類が少ない上に、なかなかいいものがなかった。そもそも、CDになっているような教材は予め聴くことが難しいので自分のレベルに合うものなのか実際にやってみないと分からない。
 しかし、昨今はインターネットの普及でこうした教材を買う必要性はぐんと低くなったように思う。語学教材会社にとっては好ましからざる状況であるが、これにとどめを刺すような事態になった。
 それはポッドキャスティングである。センター試験のリスニングテストが導入された今、語学教材探しにもこれはうってつけである。インターネットに接続されているパソコンがあれば、無料で教材がダウンロードできるのだから、嬉しいことこの上
ない。
 1,パソコンをネットに接続する。
 2,iTunesをダウンロードする。サイトはこちら
 3,好きな番組を選んで登録する。英語以外の外国語はこちら

もちろん、これらの番組をiPodにダウンロードして、好きなときに聴くことも可能である。語学教材以外にも言語を切り替えて海外のサイトにアクセスすれば、海外のニュース番組もそのまま登録することができる。現段階でも多くのレベルに対応した番組があるが、今後も番組数が増えていくのは間違いない。さらに海外の映画の予告編などもビデオで観られる。是非、やるべし。

16 avril 2006 

BOURNE'S SWAN LAKE:journal

Matthew BOURNE'S SWAN LAKEを観た。男性ダンサーによるTchaikovskyの白鳥の湖。古典作品が全く違った作品として生まれ変わったので、女性による従来の作品を想像していた向きには驚きであったであろう。僕もその一人である。古典作品というより、モダンかコンテンポラリーの作品のようだった。これをTchaikovskyが観たらどう思うだろう?案外喜んだかも知れない。
 今回はDVDで観たが、編集された画面ではこの作品のよさが半減したように思う。振付家は舞台全体を見渡すことを前提にダンサーの配置を考える。このDVDではダンサーの顔のアップやメインとなるダンサーたちの踊りを画面に切り取ってしまうので、振付家の意図が観ている側には伝わらずしばしば隔靴掻痒の感を抱いた。ダンサーの表情を切り取るために群舞が見えなくなってしまうのでは意味がない。やはりバレーは舞台を直接観るに限ることを痛感した。

15 avril 2006 

Ensemble Clément Janequin:journal

朝に聴く音楽と夜の音楽。僕の場合、朝はアップテンポな、夜は静かな音楽という割合に典型的なパターン。やはり朝は少しなりとも気持ちとカラダを動かしてくれるような音楽がいい。昨年の朝はDeep forestばかりをかけていたが、今年はEnsemble Clément Janequinのアルバム”Le Chant des Oyseaulx”をかけている。Clément Janequinというのは16世紀フランス・シャンソンの作曲家。Ensemble Clément JanequinはDominique Visseを音楽監督・カウンター・テナーとする男声アンサンブルで、ルネサンスの教会音楽と世俗音楽を中心に演奏活動を行っている。少人数のハーモニーは洗練されていて、特にテンポのゆったりとした曲が好きだ。アップテンポの曲は時々、カウンター・テナーが出張りすぎに感じる時もある(これは好みが分かれるところだろう)。夜にしっとりとしたハーモニーを聴きたい向きには、教会音楽のAntoine Brumelの"Missa Et ecce terrae motus"がおすすめ。

14 avril 2006 

Even a Monkey Can Draw Manga:journal

相原 コージ・竹熊 健太郎著『サルまん 新装版—サルでも描けるまんが教室 (1)(2)』BIG SPIRITS COMICS SPECIALを同僚から借りた(っていうより先方が選定したものを渡された。本当は『プライド』を借りる予定だったが)。
 随分前のマンガだったが、これが爆笑である。普段はサスペンス系や社会派のマンガを読むことが多いので、おもしろさを感じることはあっても、爆笑することはなかったが、久々に笑えた。また、マンガ業界のことも細かく書かれているのでこうした点でも興味深い。これはお薦め。

13 avril 2006 

Le site de TV5:journal

TV5のサイトは面白い。テレビ番組の情報だけでなく、フランス語のクロスワードパズルや様々な文字遊び系ゲームが用意されている。これは楽しみながらフランス語を勉強するにはうってつけのものである。
 さらにもう一つ楽しみがある。、http://dictionnaire.tv5.org/にはフランス語の聞き取りの練習ができるサイトが用意されている。しかも、Bernard Pivot の音声でディクテができる!やさしい語り口で何度も繰り返し読んでくれる。音声の聞き取り、つまりディクテは実際にフランスの初等教育ではよく取り上げられている方法である。こうした方法はどの言語を学ぶにも有効である。もちろん、日本語でも同様であるが、日本ではこうした方法はなぜやらないのだろう?

12 avril 2006 

reunions: journal

新学期が始まった。今日はほぼ一日中、会議。しかも、今年度は会議漬けの一年になることが、この会議で判明した。
 今日という日はのちに「失われた一年」と称される、その最初の一日になる。食後の抹茶アイスを食べて雑誌レオンを虚ろにめくりながら、ため息が出た。

 

TEMPURA:journal

家で島らっきょうの天ぷらを食べたくてAMAZONで電気フライヤーを買った。価格が一番安い上に、沖縄までの送料が無料ということで、非常にいい買い物であった。
 実は天ぷらを作るのは初めてである。天ぷらや揚げ物は油で部屋が汚れるし、万が一ひっくり返した時の恐怖が先に立ってこれまでやったことがなかった。そこで油ハネがないタイプを購入した。
 さすがに揚げ物ばかりが食卓に並ぶのはツライので、一つはキビナゴの南蛮漬けを作って保存用、もう一つは島らっきょうの天ぷらを作ることに。
 キビナゴの南蛮漬けは普通にうまくいった。酢醤油とラー油で中華風に仕上げた。どのタイミングで具を上げるのか迷ったが、揚げている音が変化したの時点であげた。タレに漬け込むだけなのでこれは無難なできあがり。肴にピッタリだ。
 しかし、問題は島らっきょうである。卵や小麦粉を混ぜなくてはならない。フリットのようにボテッとなるのを避けるため、衣は少なめでやってみた。そして、いざ、揚げるたものをみると衣がついてない!しかも、らっきょうは中身がスカスカ。生のように腹にガツンとくる刺激がなくなってマイルドにはなっているが、誰がみても失敗である。僕はこの失敗に学ばなければならない。失敗の原因。
1,衣の配合を間違っている。(テキトーにやった)
2,らっきょう表面がツルッとしているので衣がつきにくかった?(粉を表面につけてから衣をくぐらせばよかった?)
3,油の温度が高すぎた/低すぎた?(機械に温度調整を機械任せにした)

一瞬、単純にみえる和食こそ、難しい。この日は油こそ飛ばなかったが、天ぷら粉の飛散で台所が汚れてしまったし、失敗のショックで他の料理を作る気力を失った。あと、揚げ具合を確認するフライヤーの覗き窓が曇って無意味であることが判明。意外に残った油の臭いもショックに追い打ちをかけた。この日は、何故だ、何故だと自問を繰り返しながらふりかけご飯を黙々と口に運んだ。

11 avril 2006 

GONE WITH THE WIND:film

Victor Fleming監督のGONE WITH THE WIND−ニューマスター版−を観た。
 実はこの作品を観るのは初めて。「感動の大作」、「不朽の名作」ということで期待したが、恐らく二度と観ることはないだろう。前半は奴隷制度の下、贅沢きわまりない生活を送っていた我が儘な美貌の南部娘の半生を描く。「壮大なラブ・ストーリー」の傑作というが、スカーレットに3度の結婚をさせた理由は、フラれた腹いせ、税金調達、豪華な生活である。結婚や相手の気持ちなどは彼女の失恋や金銭の欠落を埋め合わせる道具でしかない。スカーレットは「純粋」と評されるが、それは自分の自尊心保持や欲望に対して純粋なのである。スカーレットというキャラクターに一秒たりとも共感しないまま長い、長いフィルムは終了した。この作品は広告にあるように、ラブ・ストーリーだったのだろうか?レッド・バトラーにしたところで、じゃじゃ馬娘を乗りこなす自分の度量の大きさをナルシスティックに感じたかっただけではないかと思ったりもする。
 スカーレット人気とは一体何なのか?時に女性が言いたいことをズケズケ言っていると、それだけで人気を博すことがある(男性もそうかも。上祐に上祐ギャルが付いた例もあるし)。発言内容を吟味すると、首をかしげざるを得ないことも多く、疑問を抱かざるを得ない時もある。もしかすると発言内容ではなく、発言スタイルが人気の源泉なのではないかと思う。誰しも言いたいことを言って、生きていきたいものである。スカーレットのように我が儘と欲望で周囲をねじ伏せ、周囲の反応に気づかない鈍感さ(=強さ?)を得ることができればどれだけ幸せだろう。日本で言うなら、田中まきこ氏などが彷彿とするが、スカーレットは彼女のキャラクターに酷似しているように思うのは僕だけだろうか?
 この映画は南部の特権階級の視点で描かれている。映画で起こる戦争の大儀など、一顧だにされない。北部の者は攻め込んでくるYankeeでしかないし、奴隷はあくまで奴隷である。そういう時代なのだろう、スカーレットはそうした社会システムには疑問さえ抱かない。むしろ、奴隷貿易や制度があって、豊かでいい時代だったね〜とばかりに憧憬さえ抱き、それを取り戻すため躍起になって人身売買まがいのことさえやってのける。GONE WITH THE WINDで去っていたものというのは、そうしたスカーレットに代表される白人富裕層の「いい時代の南部」である。これは映画の最初で明確に謳われている。
 この映画が製作され、公開された時代。この映画は圧倒的なスケールと映像表現で熱狂的に受け入れられたことは想像に難くない。太平洋戦争をしていた時にこんな映画を作ることができたことを考えると、日本とアメリカの圧倒的な差を感じる作品なのだろう。
また、戦争で丸裸になったスカーレットが何をしてでものし上がってやると決意をする前半のラストシーンは、敗戦後の日本を彷彿とさせるのかもしれない。そうした意味でこの映画は世代的に見方が変わるのかも知れない。今日的な観点でこの作品を批判するのはフェアではないが、作品としては普遍性をもたないように思う。興行成績や時代を経てなお人々に観てもらえる作品という外的な要因を考えると驚くべき作品なのかもしれないが、個人的な好みとしていうと、所詮ハリウッドの娯楽大作である。

10 avril 2006 

Sous-Titre Français:journal

言葉の勉強に映像教材が有効か否かは学問的に議論が分かれるところである。どういった学習法がいいのかは学習者の嗜好と目的によることが大きいので、一概に言えない。しかし、個人的経験ではフランス語音声・フランス語字幕の映画を繰り返し観ることは効果が高いという印象をもっている。少なくとも自分の性に合っていると感じる。視覚的に字幕を追い、ネイティブの音声を聴く。意味の分からない音声を繰り返し聴いたりするよりはいいように思う。
 最近はCSで無料放送しているTV5のテレビ映画をよく録画する。フランス映画を観たいという欲求を満たすばかりでなく、言葉の勉強になるからである。TV5は同じ映画を二度放映する。1回はフランス語音声・英語字幕。2回目はフランス語音声・フランス語字幕である。英語字幕とフランス語字幕の二つをみれば、片方の言語で意味が分からなくてももう一方の言語で分かることもある。こうした映画を何度も、何度も観ることによって、表現の方法を学んだり、語彙を増やしていく。お気に入りの役者が出ている映画ならなおいい。何度みても見飽きないからである。TV5で上演される映画は古い映画ばかりでなく、上演から1年しか経ってないものも多い。日本で多くのフランス映画が放映されないことを思えばこれでも十分である。
 言葉の勉強は質より量だと思う。もちろん授業では質が要求されるが、学習者が習得できるかどうかは授業以外でどれだけの量をこなすかにかかっている。言語形成期を過ぎた学習者が授業だけ出ていれば習得できると思うのは幻想である。

09 avril 2006 

CINDERELLA MAN:film

Ron Howard監督のCINDERELLA MANを観た。
大恐慌時代。実在のボクサー、ジム・ブラドックの半生を描く。赤貧洗うがごとくの生活をしていたボクサーが愛する家族を守るため命を懸けてリングに上がる。
 ハリウッドはとかく古典的な構図で善と悪を作り出し、感動の押しつける。そこが鼻につくわけだが、この映画はそうした策略を超えた感動がある。最後の長いファイトシーンは中学校の頃にロッキーを観たときのハラハラした感情を呼び起こすものであった。主要なキャストの三人Russell Crowe、Renee Zellweger、Paul Giamattiの演技がいずれも素晴らしかった。

08 avril 2006 

Ladies in Lavender:film

Charles Dance監督のLadies in Lavenderを観た。
 イギリスの海岸沿いの町で二人の姉妹がひっそりと余生を送っていた。そこにある日、海岸に打ち上げられた若い男を発見する。ポーランド人である彼Andreaを二人は看病し、やがて元気になる。ある日、ヴァイオリンを手にした彼はすばらしい音色を奏でるが・・・。
 老いらくの恋、と言ってはいけない。昨今の老人ホームでのトラブルの多くに痴情がからんでいることや、生殖能力が失われても恋愛感情や性欲はかなり高齢(ほぼ死ぬまで)なくならない(らしい)ことを思えば、Ursulaの恋は思われているほど不自然な話ではない。しかし、この話はUrsulaにとってあまりにも残酷だ。輝くばかりの若さと美貌をもち、しかもAndreaが敬愛するヴァイオリニストの妹=Natascha McElhone=写真右がライバルでは、どうあがいてもUrsula=Judi Dench=写真左に勝ち目はない。先日、老人版バトル・ロワイヤルの筒井康隆著『銀齢の果て』新潮社を読んだが、世間のイメージと老人の個性の多様さのギャップを改めて感じた次第。
 話を映画に戻そう。しかし、時の巨匠に見込まれるほどの逸材であるなら、もう少しヴァイオリンを弾くAndreaの姿がサマになっていなければならなかったのではないか?時代によって楽器を弾くというスタイルは異なるのかも知れないが、演奏シーンにはやや失望した。Les Choristes(邦題:コーラス)でもやはり指揮をする姿には難があった。演奏シーンというのはやはり経験者でなければ非常に難しい。邦題は『ラヴェンダーの咲く庭で』。

07 avril 2006 

SHEEK KEBAB:journal

シークカバブを作った。正式な名前は分からない。シークカバブなのかシークケバブなのか、シークカバーブなのか・・・とにかく簡単にできてしまう。「レシピをアップしてくれ!」という熱い要望があった訳ではないが、ここに紹介する。

【材料】
・牛挽肉(250g)、ラム挽肉がないときはこれで代用。
・ピーマン1個(ししとうでも可)
・タマネギ1/4個
・トマト半個
・クミン
・ターメリック
・パプリカ
・カルダモン
・シナモン
・塩こしょう
・にんにくのすりおろし
・生姜のすりおろし

【作り方】
 1,ピーマン、タマネギ、トマトはみじん切りにして、牛挽肉と上記のスパイスを適当にまぜる。
 2,よくこねて味をなじませてから、棒状にする。
 3,フライパンで転がすように炒めてから、魚焼きグリルで5分焼く。

火を通すと膨らむので棒状にするときはやや細めにするのがコツ。フライパンで焼くだけでもいいが、魚焼きグリルにすると油がよく落ちるのでカロリーオフになる。
 しかし、日本のインド料理店で食べるようなスパイシーなシークカバブがこんなに簡単にできるなんて驚きだ。スパイスはインド料理ではかなり共通しているので一度買うとかなり使い回しが可能だ。うーん、どんどんレパートリーを増やしてインド料理パーティというのもいいかも。

06 avril 2006 

NIKITA:journal

30代から50代の高所得者層(1000万以上)向け(と銘打って実はフツーの大衆向け)雑誌LEON(定価780円)をご存知だろうか?ジローラモが表紙を飾るアレである。これの姉妹雑誌で女性向けのNIKITAという雑誌が同じ「主婦と生活社」から出ていることを知った(こちらは30代の800万以上)。ちなみにネットで雑誌の目次をみてその秀逸な見出しに唸った。
・「コムスメ」「地味女(ジミーナ)」だけじゃなく今やなみいる「艶女(アデージョ)」もゴボウヌキ。モテる艶女(アデージョ)の作り方!
・「本気ライダース」で甘々オンナをまとめて出し抜き!
・好きならば合わせてあげるも芸のうち。「スナイパーアクセ」で「艶男(アデオス)」の心をズッキューン。
・ン十年のツケ、今こそ払います。肌の”オバ濁り”一発解消美白。

女性の並々ならぬ意欲を感じる。しかも、この造語能力、素晴らしい。ここはさすがに『週刊女性』を出している出版社。『週刊女性』から複数のコピーライターがこれらの雑誌に流れているに違いない。ちなみにLEONの方は
 ・モテるちょい「ロクデナシ」オヤジの作り方。
 ・ちょい「ロク」グルマはハズしてナンボ。

なかなか煽ってくれますが、くれぐれもこれらの雑誌に乗せられてハズさぬよう、気をつけるべし。モテるためにこうした雑誌を参考にするメンタリティがパッとしない原因であることを自覚した方がいいだろう。ギャグマンガを読むノリでどうぞ。

 

Brokeback Mountain:film

Ang LEE監督のBrokeback Mountainを観た。
 純愛映画である。大自然を背景に物語は静かに進んでいく。演出も巧みで、素晴らしい作品であったと思う。しかし、大小様々な不満もあった。なかでも大きかったのは、ストーリーの上でJackを殺してしまったこと。事故死ということになっているが、彼は物語を構成する上で殺されてしまう(Ennis
の頭にもそれがよぎる)。ストーリーにケチをつけるのは筋違いかもしれない。しかし、死んでしまうのがマイノリティであるというのはなんともやりきれない。何だか彼が罰せられたような気分になった。マイノリティとして生きていくことは架空の話においても簡単ではない。主要キャストの死で物語を安易に終わらせ、感動を演出する。ある意味、古典的な方法である。そうした不満もあるが、この物語は普遍性をもつ作品だ。
 秘密をもちながら生きていく。それはツライことかも知れない。しかし、誰しも秘密があることを思えば、質や程度の差こそあれ誰にでも同じ痛みがあるのだろう。人を好きになったり、愛したりすることは人間にとって自然な行いである。しかし、どの社会でも全ての愛が「自然」とは限らない。愛することが許されないのであれば、いっそのこと愛さない方が苦しまずにすむのかも知れない。しかし、人は愛さずにはいられない。だからこそ、人は苦しむのである。

05 avril 2006 

petit déjeuner:journal

ある日の朝食(撮影:俺)。
・鹿児島産いちご
・宮平低温殺菌牛乳
・ニッポンハム石釜工房ナーン+手作りシークカバブ+手作りキーマカレー
・明治ブルガリアヨーグルト・ドマッシュノ+手作りカシス・ジャム(撮影してない)
春らしい天気になったが、新学期が始まってしまったのでため息が出てしまう。憂鬱な気分を払拭したい、そんな思いから朝食には力を入れた(といっても前日の残りだが)。
 人はよく、一人で食べるより誰かと食べた方が美味しいと言う。私見によればそれは正確ではない。マズイものを誰かと食べて紛れるということあるだろうが、一人で食べても美味しい料理は美味しいのである。逆に一緒に食べる相手や話題によって味が分からなくなったり、まずくなるという経験は誰しもあるだろう。家計のため酒量を減らすことを主張する妻に燃え尽きるほど睨まれながら飲む酒は美味しいだろうか?以下は僕の場合である。

 美味しい料理+一人の食事→美味しい!
 美味しい料理+嫌な雰囲気→まずい
 不味い料理 +一人の食事→まずい
 不味い料理 +いい雰囲気→やっぱりまずい
 不味い料理 +嫌な雰囲気→最低
 美味しい料理+いい雰囲気→超美味しい!

 以前受講した教育心理学の先生が言っていた。子供の食べ物の好き嫌いは、食べる対象に原因があるのではなく、食べるときの雰囲気に遠因があることが多いのである、と。つまり、食べろ、食べろと強要されるイヤな記憶が、その食べ物に結びついて嫌いになるのであるということらしい。人が何かを嫌いになるのはそれぞれの体験に基づくので一概に言えないが、食事を楽しく食べる雰囲気作りは味覚に影響を及ぼすため重要である。だが自分だけでなく、相手の気分という不安定要素が加わるため、食事の雰囲気作りは思う以上に、難しい。

04 avril 2006 

Glace chocolat:journal

チョコレートアイスクリームを作った。
【材料】
・Lindtの70%cocoaのダークチョコレート 60g
・生クリーム 200cc
・蜂蜜  適当
・カルダモン袋3粒(袋から黒い粒を取り出す)
・卵黄1個

【作り方】
1,チョコレートをなるべく小さく砕き、レンジに50秒かけて溶かす(焦げる時があるので注意)。
2,溶けたチョコレートと他の材料を加え、泡立て器でよくかき混ぜる。
3,アイスクリーム・メーカーに投入する。

これでできあがりである。カルダモンの粒が一瞬の清涼感を与えてくれる。これは大成功。材料だけみるとアイスクリームのカロリーは激高である。これでも材料はかなり減らしている。チョコレートをカカオ分が高いものにしてさらに100gを60gに減らし、卵黄も2個を1個にし、砂糖を使わず蜂蜜にすることで大幅なカロリーダウンをはかった。しかし、これを1人で1日で食べてしまってはどうにもならない。デロンギのアイスクリーム・メーカーを買ったとき、学生からせいぜい最初の3ヶ月しか作りませんよ、と言われた。果たしてその通りになったのだが、それはレシピ通りに作ってはじめてアイスクリームのカロリーの高さに驚いたからだ。やっぱり、自分で作ると濃厚でコクがあって美味しい。アイスクリームのコクは生クリームにあり、である。比較的カロリーを抑えられるのはやはり抹茶や紅茶、バニラビーンズを使ったバニラアイスだ。レシピは往々にして砂糖が多めに書かれているので、半分の量で蜂蜜を使うべし。生クリームはカロリーを抑えた植物性でも味自体はそれほど落ちないが、味を追求するならやはり動物性である。

03 avril 2006 

CACHE-CACHE:films

John Polson監督の"HIDE AND SEEK"を観た。
デビッドの妻アリソンが浴室で自殺をした。9歳の一人娘エミリーは、母親の死を目の当たりにして、心を閉ざしてしまう。デビッドはNYの喧噪を離れて娘と自然豊かな郊外の一軒家に引っ越すが、依然として娘は心を開かない。そればかりか娘はいつしかチャーリーという架空の友達をつくるようになるが・・・
 二度は観ない作品。ああ、そうだったんだーという驚きもあったが、登場人物が少ないため、それほどでもない。ハリウッド映画は子供を殺さない傾向が強い。そういう意味で少女がピンチに陥っても比較的安心して観ていられる(これではサスペンスの意味がないが)。そういう意味で子役のDakota Fanningは不死身である(『マイ・ボディーガード』でも死なない。←これを上演前に言ったら興ざめ必至だが。)。
映画を観ながら、あれこれハリウッド映画のことについて考えた。
 先日、テレビでハリウッドスターと喫煙というテーマの短いルポを観た。映画でスターが煙草を吸うシーンがあることによって、喫煙率が上昇することを憂慮するという内容で、映画で喫煙シーンを忌避する傾向があるとのことだった。なかには煙草を吸うシーンには出ないと明言する俳優もいた。
 そこで、ふと思った。ではピストルで人を殺すシーンはどうなのだろう?正確な統計はしらないが、喫煙シーンに比べて拳銃発射のシーンはハリウッド作品には随分多い。このHide and Seekでも一民間人である女性心理カウンセラーが発砲し、襲ってくる相手を殺していた。
 喫煙シーンで喫煙率が上がるなら、拳銃発砲シーンで発砲率が上がるのではないだろうか?スターの煙草がカッコイイものなら、スターの発砲もまた格好いいはずである。これは同じ論理である。しかも、喫煙より、発砲の方がよっぽど事が重大である。「拳銃を安易に撃つようになるから、発砲シーンはやめましょう。私は発砲する役はもう受けない。」こうしたキャンペーンがあってもおかしくはない。ハリウッド映画では正当防衛なら相手を殺しても許される、というメッセージを繰り返し流している、喫煙からここまで敷衍していく可能性もなくはない。
 私自身は煙草は吸わないが、映画に喫煙シーンがあってもいいではないかと思う。観客には受動喫煙の弊害もないからである。監督は意図をもって俳優に喫煙させている。それをやめろというのは無粋というものである。それより、根拠の乏しい言説で自分や他人の権利が侵害されるのはごめん被りたい。
 随分と横道にそれた。色んな意味でこの映画はありがちなハリウッドの作品である。確かSECRET WINDOWも似たような感じだったな・・・。

02 avril 2006 

L'equipe du Japon:films

岩井俊二監督の『六月の勝利の歌を忘れない 日本代表、真実の三十日間ドキュメント Vol.1』『同 Vol.2』を観た。2002年ワールドカップ日本代表の練習・合宿・ハーフタイムの様子などを撮影したドキュメンタリー。岩井俊二が編集している。ナレーションはなく、選手の肉声を繋げている。時々、意味不明な発言もあるが、試合の裏側を観ているようで興味深い。2002年から4年も経っているのに、先月のように思い出す。あのときの歓声が蘇ってくるようであった。ALEXの惜しいフリーキックも、その後、彼を外した不可解な采配も。しかし、全編を通じて驚いたのはTroussierの通訳のダバディ。Troussierが言っていないことまで「訳している!」。あれじゃあ、トルシエ・ジャパンではなく、ダバディ・ジャパンのような趣。何度もそりゃねーだろー!って突っ込みを入れてしまった。Troussierのコメントの分量が1だったら、通訳が3という時もある。いくらなんでも選手も気づいていただろう。通訳が勝手に話し手の内容に注釈を付けたり、言ってないことまで言うのはマナー違反だ。Troussierの指示は結構、精神論のようなものが多いことが意外であった。彼が極めて個性的だったというのは今ならよく分かる。
 会話の形は常に一方的。Troussierから、選手へ。選手はいつも黙っている。熱く語るトルシエと選手とのディスコミニケーションが何となく浮かび上がるような感じだった。
 ハーフタイムでの中田選手の指示などを観ていて、確信した。彼はいい監督になる。彼の戦術眼はきっと、日本の宝になる。彼はまだまだ現役だが、いつかは監督としてチームを指揮して欲しいと思った。サッカーを題材にしたどんな映画よりもずっとドラマティックで面白かった。ジーコ・ジャパンの方はどうなのだろう?恐らく、記録用の撮影クルーがいるのであろうが、いずれ明らかになる日が来るのかも知れない。その日が楽しみだ。

01 avril 2006 

Un petit voyage a Kudaka- un:journal

ここ数日、素晴らしい天気が続いていたので久高島へ小旅行に行った。
 久高島での移動は自転車が便利とのことで、研究室に置いてあったPEUGEOTのMTBを再出動させ、行くことに。そして、同僚のKSHさんに手伝ってもらい、ようやくMTBを車に積むことがた。
 安座間港から船で久高島まで15分足らず。船は小型船よりやや大きい程度だが自転車は往復400円で積んでくれる。空は快晴、海は凪いでいる。おかげで船も揺れず、心配された船酔いはしなかった。船の中には「テロ対策警戒中」という張り紙があった。信号もない島への定期便をテロってもあんまり効果がないだろうなと苦笑する。実際、警戒している風情はなかった。

 

Un petit voyage a Kudaka- deux:journal

島に到着。海は本島を出たときよりも澄んでいるように見えた。早速、MTBで繰り出す。沖縄風の石垣の平屋が続く。村は静寂につつまれて、時折、子供たちの笑い合う声が聞こえる。そして、道行く村人や観光客もみんな「おはよう」と挨拶をしてくれる。見知らぬ人との挨拶を不自然に感じさせない雰囲気がある。沖縄本島の喧噪が嘘のようである。

 

Un petit voyage a Kudaka- trois:journal

東側の砂利道を通って最北端・カベールへ向かう。島には日陰がないと言われていたが、砂利道は木々がひさしになって涼しかった。道の左側は畑、右側は鬱蒼とした草木。キャベツ畑にはお約束の紋白蝶。また、観たこともない植物もあり、楽しい。時折、停まって葉の形などをじっくりと観る。途中にビーチに寄る。人影はなく、僕だけ。白い砂にゴツゴツした岩、そしてブルーの海に波光がきらめいている。

 

Un petit voyage a Kudaka- quatre:journal

だらだらとMTBをこいで最北端に到着する。うぁーと思わず声に出して言ってしまうほどの美しさ。一面のまぶしい緑に透明感のあるブルーの海。聞こえるのは波しぶきと静かな風の音だけ。別天地のような岬に佇むのは、僕一人。この空気を吸うだけで、もう何もいらない・・・と一瞬だけ思った。

 

Un petit voyage a Kudaka- cinq:journal

帰りは別のルートをとる。舗装されている道路はやはり楽だが、木陰がないので日差しの強さを感じる。次は東の方のビーチに行く。写真ではこの美しさは表現できない。いつまでもいつまでも観ていたいが、日差しが強い。運動場の屋根のあるベンチで一休み。聞こえるのは海の音だけ。本に視線を落とすのがもったいないほどの海の青さを遠景に望みながら、暫し読書。

 

Un petit voyage a Kudaka- six:journal

最後に街の「レストラン」で海ぶどう丼を食す。注文してから採りに行っているんじゃないかと思うほど待たされた。このセットで 1000円というのは観光地料金か。しかし、本島とは物流事情が違うので仕方ない。テレビで放映していた万引きGメンによる万引き摘発のルポに店内のお客の目は釘付けであった。

 

Un petit voyage a Kudaka- sept:journal

短い滞在だったが随分と充実した旅であった。久高島のことで調べて驚いたのは、土地に関する取り決めである。久高島土地憲章前文には以下のように定められている。
「久高島の土地は、国有地などの一部を除いて、従来字久高の総有に属し、字民はこれら父祖伝来の土地について使用収益の権利を享有して現在に至っている。字はこの慣行を基本的に維持しつつ、良好な自然環境や集落景観の保持と、土地の公正かつ適切な利用、管理との両立を目指すものである。」景観の美しさはこうして保たれたのか、と感慨深いものがあった。日本で土地を総有制にしたら、きっと政府や官僚に濫用されてしまうだろう。信頼が失われた時代には困難な制度だが、逆に言えばそうしたものが今もなお、この島には存在しているということなのかもしれない。写真は木陰で休んでいた時に話しかけてきた地元の子供。この子が大きくなる頃、島は今と変わらずあり続けるのだろうか?