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18 avril 2006 

CRASH:film

Paul Haggis監督のCLASHを観た。
クリスマスのロサンジェルス。一つの交通事故から発する群像劇。
アメリカの日常生活において顔の色に刷り込まれた偏見が、猜疑心と緊張を高めていく。日常起こりうる些細な事柄が、人々の心を乱し、それが不幸へとつながっていく。
 印象に残ったシーンは数多いが、アフリカ系の番組プロデューサーがアフリカ系の若者の俳優の演技を変更させられる場面はステレオタイプの植え付けとメディアの関係を示唆する。メディアは真実で視聴者の偏見を打ち破るよりは、一般的な偏見を補強するような材料を安易に寄せ集めて番組を形成する傾向がある。これはドラマだけでなく、ドキュメンタリーやニュースとて同様である。今回の例はきちんとした話し方をするアフリカ系の若者が粗野な話し方をする道化的キャラクターに変えられてしまう。こうしたことは確信犯的に、あるいは無自覚にメディアのなかで日常的に行われているのだろう。映画のなかのできごとはアメリカ社会に限定されたものであると考えるのは、早計である。
 先日、自分の家の近くで検問をやっていて止められたが、幸いに拳銃を突きつけられることはなかった。これがアメリカだたったらと思うと、ゾッとしてしまう。免許の提示を指示されて、黙ってダッシュボードを開こうものなら、銃を取り出す仕草と勘違いされて警官から発砲される可能性すら生じてしまう。アメリカで生きるのはどのような皮膚の色をしていても過酷である。では日本が映画にあるような社会ではない、あるいは、そうならないと楽観できるのだろうか?何でもアメリカをマネしたがるのが「日本」という社会であることを考えると不安に感じてしまう。「日本」はみんな同じ肌の色だし、同じ「人種」だからこのお話はアメリカ特有のものだ!そんなことはないだろう。不幸の源は肌の色ではなく、人々に根ざす偏見そのものにあるからである。