27 septembre 2007 

Conversations with Other Women:journal

 Hans Canosa監督のConversations with Other Womenを観た。
 元夫婦が偶然、結婚パーティで出会って朝を迎えるまでを、彼らの過去の映像を織り交ぜながらデュアル・フレームで表現した対話劇。
 ほぼ二人の会話だけで物語が進行していく。ふたりの心の機微が二つの画面を通じて伝わってくるが、これがなかなかいい。次第にどちらかの立場に感情移入するのだろうが、僕はどちらに肩入れすることなく、男性の方がより気持ちに正直かもしれないと思いながら観ていた(これは肩入れか?)。今はお互いにパートナーがいるにもかかわらず、お互いの現在の相手に軽い嫉妬心を感じている。オンナは男の恋人の年齢に、男はオンナが結婚していることにこだわっている。考えてみれば身勝手なものだが、きっとそれが正直な気持ちなのだろう。
 この映画のキャッチ・コピーは「男はズルいロマンチスト、女は罪なリアリスト」というものだが、言い得て妙である。この元カップルの不思議というか、不自然なのは、相手の嫌な所や苦い想い出を口にしないこと。別れた夫婦なら、別れに際して相手へ言っておきたかった文句の一つや二つを隠し持っているものだと思われるが、そうした言葉を口にして泥沼になることはない。こうした野暮を避けることで、stylishな演出を心がけているように思われる。お互いの苦々しい思いは、
それぞれが噛みしめるだけで自分の中にしまっている。もう少し若ければ爆発したかも知れないが、そこが大人向けの恋愛物語と言われる所以である。だが、彼らの年齢にしては、随分と大人びたものだ、ともいえるが。
 別れた相手が自分に思いを残している。なかなかの口説き文句の連発で、オンナはかなりグラリときたはず。こうした状況は女性の自尊心を大いに満足させるであろう。そういう意味で原題こそ男性視点で付けられているようだが、内容的には女性の視点を意識しているように思える。昔の相手と会うことで、今の自分が過去の自分とは違っていることや、もう若くはないことを再認識させられてしまう。それは一つの不安要素なのだが、男からの讃辞や口説き文句でそれが解消されてしまう。男はきっとそれを熟知しているのだろう。男のズルさはここにある。
 もちろん、男の方は今の恋人であるSarahとの関係が悪化することが暗示されるし、オンナの方も「どんなに歳をとっても愛し続ける」と言った元夫と現在の夫を比べて、未練を残して苦しむかも知れない。
 このカップルの場合だが、人は懐かしさだけで、昔の恋人と寝ることがあるんだな・・・。長じてからの浮気は案外、新しい相手ではなく、昔の相手とするもんじゃないかと思ったりもした。
 この映画、観た後に恋愛談義を繰り広げるにはうってつけの一本だ。普段は顕在化しない互いの恋愛観がひょっとして顔を見せるかも知れないし、関係性における好みも思わず吐露してしまうかもしれない。恐らく、こうした恋愛談義は小難しいものにならず、楽しいものになるのであろう。パリで大ヒットしたという理由も首肯できる。
 ところでこの映画の編集はFinal Cut Proを使っているようだ。考えてみれば、恐ろしく低予算でこうした楽しめる映画が作れるということだ。しかし、重要なのはやはり脚本なのだろう。邦題は『カンバセーションズ』。

26 septembre 2007 

三年身籠もる:films

唯野未歩子監督の三年身籠るを観た。
 冬子は現在妊娠9か月。女系の親族に囲まれて出産を待つ日々。夫が浮気をしているのにも冬子は気付いているが、いずれ終わると思っている。しかし、10月10日を過ぎても出産の気配はない・・・。
 ある女性が3年身籠もるそのプロセスと彼女を取り巻く人間模様を描いた作品。この物語、最初は冗長でやや倦んだが、なかなか興味深かった。
 この物語に出てくる男性は、どこか子供っぽい。冬子の夫も、服を部屋中に脱ぎ散らかしているし、親子ほど年の離れた妹の恋人の産婦人科医師も、若い子のいいなり。メインで出てくる男性はこの二人だけだが、3年を通じて夫は父親になる自覚と、生活者としてのスキルを身につけていく。
 母親は子供がなかなか出産されない状況でも何らパニックになる訳でもなく、それをかえっていいことと考えている。
 この物語、母親の中から出てこない赤児と、母親の共犯関係ともいえる状況が、どこか今の日本の社会のありようを象徴しているのではないか。つまり、社会に出て行かない引きこもりの子供と、敢えてその状態を受け入れる母親、そして自分のことばかりにかまける父親という構図とちょうど相似の関係をなしている。社会の流れや時代がスピーディーになった一方で、人が大人になるためにかかる時間はむしろスローになっている。しからば出産に3年かかる状況や子馬のように生まれてすぐに立ち上がるまで母胎にいる状況が理にかなっているかもしれない。しかし、人間の身体はそんな社会の都合に合わせてできあがっている訳ではない。
 単純ともいえる物語のなかでこうした勝手な妄想を繰り広げられるだけの余地がこの映画にはある。だが、二回観ようとは思わないが・・・・

20 septembre 2007 

magie de maquillage:journal

 化粧を落としたら全く別人という人がいる。しかし、ここまでとは・・・出会った時が右で、朝起きたら左に「おはよう!」って言われたら驚くだろーなー。その他はこちらをどうぞ。

18 septembre 2007 

The Squid and the Whale:films

Noah Baumbach監督の”The Squid and the Whale ”を観た。
 1980年代のブルックリン。両親と息子二人の四人家族。両親は双方ともPh.Dをとっている作家。兄のWaltは大学生で弟のFrankは小学生。ある日、両親が別居することを決め、別居しながらも両親は息子たちを「共同監視」することに。
 この四人兄弟と彼らをとりまく人間関係が興味深い。特に突出した個性がぶつかるワケではない、日常の些細なできごとが誰もがもっているちっぽけな人間性を露わにしている。父親はドがつくほどの吝嗇家で、息子との卓球勝負に怒り、作家としてはスランプ。母親は執筆活動は旺盛で、作家として順調に歩み出しているのだが、スランプの夫に愛想を尽かし、浮気癖がある。「父親の日」で息子たちがいない時にも彼氏を家に入れて浮気をしている。小さな息子が間が悪いときにやってきても、はねつけてしまう。Waltは読んでもいない本をさも熟知しているように女の子に論評したり、ピンク・フロイドの曲を自作と称して披露したりしている。両親の動向にもっとも多感なFrankはsemenを学校の図書やロッカーにつけたりしている。いずれもバレて両親を困らせてしまうのだが、両親たちはそれが自分たちに遠因があるとは思っていないようだ。
 この物語は少しずつ一つの家庭が壊れていくさまを描くのだが、こうした一家崩壊ものにありがちな救いようのない泥沼をセンセーショナルに見せつけるようなどぎつさはない。遣る瀬なさや切なさのなかに、小さな笑いとかすかに残る愛情が感じられる作品だ。父親が母親と観た映画の台詞と状況を克明に憶えていることや、母親が父親を口汚く罵ったりしないことや、それは兄は父寄り、弟は母寄りでゆるやかに繋がっているからかも知れない。
 この題名はWaltが小さいときに海洋博物館に展示されているイカとクジラの格闘する展示に恐れをなして泣いてしまったことに由来している。ラストシーンはまさにこの展示の前に再び佇むWaltのシーンなのだが、彼は両者の格闘に涙することなく、しっかりと見据えるところでエンドロールに入る。両親の不仲のなかにあっても、子供は成長していることを示すラストだ。両親が不仲の家庭で育った子供たちに人は憐れみの眼差しを向けるのかもしれない。しかし、それはあまりにステレオタイプにすぎるのだろう。そうしたなかにあっても子供たちは何かをつかみ取っていくのだ。またFrankの葛藤と成長も見逃せない。邦題は「イカとクジラ」。