31 mai 2009 

pivoine

 今週は芍薬を玄関先に飾っている。土曜日に帰宅したら、儚く散っていた。
 話はやや飛躍するが、心のなかでは、ペットを飼いたいと思っている。だが、留守がちにするためにそれは適わない。
 花ならまだしも、飼っている猿が部屋で死んでいたら、やはりショックだろう。両肩を揺さぶってもぐったりしている姿を思い浮かべる。やはり飼ってはいけない、と思う。

 

copen avec vélo:journal

 愛車copenの泣き所は収納である。しかし、20 inchの折りたたみ自転車なら辛うじて後部トランクに収納できる。しかしその際にはハンドルも外さなくてはならない。ハンドルの脱着には六角レンチを使うが、やや面倒。これさえなければ、折りたたみは苦にならない。
 そこでハンドルを外さずに車に乗せられないかと試行錯誤した。その結果、写真のように助手席に積むことができた。走行中も比較的安定していたので、これで問題ない。

 

carnets de notes :journal

 読売新聞によると、学生の保護者に成績を通知している大学が、国立大学法人でも増えているようである。
 記事には「時代の流れ」という文言があったが、このような事態に至ったのには、大学評価が背景にある。きっと大学の中期目標や中期計画にそうしたことが書かれているのであろう。それを以て「本学では教育に力を入れている」ことをエビデンスとして提示し、大学の「評価」を高めたい、という思惑がある。もちろん「評価」は大学への交付金に反映されるから、結局は金の問題に帰結する。現在、大学の教員は教育や研究の時間を削って、大学評価のためのエビデンス作りに日夜、腐心していると言ってよい。
 親が息子や娘の成績を要望するというが、「まずは子供に訊いて下さいよ」、と思う。

30 mai 2009 

CSI scientists vs FBI profilers

 アメリカの連続テレビドラマCSI科学捜査班とクリミナル・マインド FBI行動分析課の両者は、顕著な違いを有する。前者はプロファイリングによって、後者は現場の証拠によって犯人にアプローチする。よって前者は演繹的となり、後者は帰納的な手法をとる。前者のメリットは捜査がスピーディであること、後者は動かしがたい物的証拠を掴める点にある。この二つのドラマを観ると、CSIではプロファイラーは姿さえ見せず、クリミナル・マインドではCSIの科学者たちは完全に下働き扱いとなっている。
 両者の映像表現はやや過激だが、それが普通に放映されているのは、ある種のメッセージ効果が期待されているからであろう。つまり、罪を犯せば必ず捕まってしまうという考えを植え付けるのに一役買っているといえる。霊能者が犯人逮捕の助けをするというような、噴飯モノの設定もあるが、概ね真面目に描かれている。もう一つ、両者の共通点を挙げるとすれば、主要なキャラクターの殆どが未婚か婚姻に失敗しているということ、そして過度なオタクということ。
 かたや日本の刑事モノはどうだろうか?アメリカのドラマに着想を得たものもあるが、日本独自のものとしてはケータイ刑事とか、スチュワーデス刑事とか、スケバン刑事とか、青島とか、家政婦とか、イマイチ迫力に欠ける。素人が活躍するという設定が目に付く。きっと日本のドラマでは、アメリカのドラマのようなメッセージ効果を期待していないのだろう。まあ、「平和」ということなのかも知れないが・・・などとdysonの掃除機を転がしながら考える休日であった。

27 mai 2009 

mon voyage episode 10 :journal

 4月2日。今日も雨。朝からケーブルカーの乗り場に行き、リュブリアーナのlandmarkたる、塔に向かう。雨足はどんどんひどくなり、再び靴下を通り越して足に水が浸みてきた。ケーブルカーは、GoodDesign賞を受賞したもののようで、床以外はガラス張り。そのため、ケーブルカーのなかから街が一望できるような作りになっていた。そして塔に上ろうとするが、立ち入り禁止となっていた。また、街を見下ろそうにも雨と霧のせいで、あまり見晴らしはよくなかった。内部の教会を一瞥し、戻ろうとすると20人はいそうな日本人観光客の団体が教会に入ってきた。日本人ガイドの説明をわざわざ戻って聴かせて頂き、適当に歩いて土産物店にはいると、ここにも件の団体客が。こんな季節にこんな所に・・・これまでの旅程では殆ど日本人には遭遇していなかったので、やや驚きではあった。ツアー客は主婦の団体、新婚カップル、定年退職者。日本の退職者のなかには随分と裕福な方もいらっしゃるんだなと感じた次第。自分たちが定年する頃は海外旅行などできるようなご身分になっているのだろうか・・・。









 その後、フランス革命広場の市場を少し観て回ったのち、スロベニア現代史博物館に入る。ここではスロベニアの現代史が、戦争に翻弄された時代であったことを示す数々の展示品が並べられていた。しかし、残念なことに殆どがスロベニア語で書かれ、内容を理解することはできなかった。我が身の勉強不足を痛感する。 








 その後、食事。地下街に入ったところに看板があり、そこに入っていると、意外や意外、そこは広々としたオープンスペースになっていた。そこで多くの人たちが賑やかに食事していた。そこはサラダはバイキング形式になっていて、別に料理を注文する。注文する際に「学生か?」と訊かれたので、ひょっとして学割などがあるのかも知れない。客層はちょうど大学生ぐらいが中心であった。食べたのは牛の胃袋のトマト煮。それとサラダとビール。足下はずぶ濡れなのに、やはりビールを飲みたくなってしまう。
 食事の後、国立美術館に入る。7ユーロと、結構高い値段であった。中に入ってみると、どの絵画も、どの彫刻も、全ての展示品において、その作者が誰であるのか、全く知らなかった。どうも、展示されているのは、スロベニアで初めて印象派の影響を受けた画家であるとか、スロベニアの絵画史を語る上で重要なスロベニア人の作品ばかりであるようだった。しかし、これまで一人として作者の名前を知らない美術館に入ったのは、初めてだったので、そうした意味での衝撃は大きかった。ボクは知らないことがあまりにも多すぎる。
 靴もズボンもびしょびしょ。部屋に戻るとすぐさま、靴を乾かした。最初はフロントでもらった新聞紙をもらって靴に突っ込んでいたが、埒があかず、結局ドライヤーで乾かすことに。皮がひび割れないか気をつけながら乾かし、ようやく乾いた。しかし、外に出ないということはできないため、夕食と散歩がてらホテルを出る。
 夜の街は閑散としていた。そしてさんざん迷って歩いた末に入ったのはカフェ。夜はホット・サンドイッチしかないらしく、しかたなくそれを注文し、ビールで流し込む。雨脚はたいしたことはないものの、やはり濡れてしまう。その後、ホテルの近くにあったイングリッシュ・パブに入る。ここでもやはり、食べ物はなく、再びホット・サンドイッチを食べる。パブのテレビで天気予報をみると、しばらくは雨が続くようで、少し憂鬱な気分になる。

25 mai 2009 

Palme d'Or

 Michael HANEKE監督のDas Weisse BandがPalme d'Orを獲得した。HANEKE監督作品に多数出演しているIsabelle Huppertが審査委員長だったので、かえってHANEKE作品は不利になると思っていた。きっと、そうした邪推を跳ね返すほどの作品だったのだろう。早く、観たい。

21 mai 2009 

lis dans un vase:journal

 部屋にユリを飾りたくなって花瓶を買った。LIN UTZONがデザインしたROSENDAHL社のもの。最初は少し大きいかなとも思ったが、やはり大降りの花を生けるのには安定しているものがよい。
 デザインも気に入っている。一見すると鼎形でプリミティヴだが、マットな質感と熟考を重ねた絶妙なラインは主役である花を十二分に引き立て、調和を失わない。まさにモダン・デザインの粋を感じる。
 Simple is the bestというのは一つの思想である。かつてデザインというのは王族、貴族、聖職者、権力者のためにあった。それ故にデザインは常に名声や富を誇示するものとして存在していた。それを覆すのが、モダン・デザインだ。華燭を廃し必要最小限の要素に削り込んでいくことで普遍性を求める思想である。シンプルというのは歴史的にみても複雑さのなかからしか、出てこなかった。パソコンの世界でそれを実践しているのはアップル社のみ、と言ってよい。
 引き算の美学。これは音楽にも通じる。最近聴いた、坂本龍一のout of noiseにもそれを感じた。

20 mai 2009 

Fracture numérique:journal

 今年の流行語大賞は「インフル」」に決定!といった勢いで感染と不安が広がっているようである。悪い冗談はさておき、発熱をしてしまったらどうするか?
 まずは保健所に電話して相談するのであるが、この連絡先は市民に十分に告知されているのだろうか?こうしたことは自分だけやっていれば事たれり、ではない。自己責任という小さな問題ではない。
 ボクなどはネットで即座に探し出せるが、高齢者などネットに接続していない方などはどうなさるのだろう。こういう時に、デジタル・デバイドという言葉が重みをもつ。なかには電話番号を探し出す前に、ソッコーでタクシーを拾って病院に駆け込む方もいらっしゃるかも知れない。
 昔は町内会などで回覧板を回し、それが伝達機能を果たしていたのだろうが、ボクが住む首里地域でもそうした地域の繋がりは断絶している。
 一応、連絡先を書いておく。だが、このブログを発見できる方にとっては以下の情報は不要なんだろうな・・・。

平日9:00から17:00までは保健所。
 北部保健所 TEL:0980-52-5219 FAX:0980-53-2505
 中部保健所 TEL:098-938-9701 FAX:098-938-9779
 中央保健所 TEL:098-854-1005 FAX:098-835-1014
 南部保健所 TEL:098-889-6591 FAX:098-888-1348
 宮古保健所 TEL:0980-73-5074 FAX:0980-72-8446
 八重山保健所 TEL:0980-82-3240 FAX:0980-83-0474

平日の17:00以降から翌朝9:00まで及び土日祝祭日には以下の専用回線。
 夜間・休日相談窓口 098-866-2165

 

masque :journal

 関西方面でマスクが品切れだという話を側聞した。彼の地では半ばパニック状態という。沖縄なら売っているだろうとスーパーで買い物をしたついでに薬局を覗くと、きれいに品切れだった。店員に訊けば、すでに買い占めている人間がいるのだという。
 正直、これには驚いた。恐怖というのは、ウィルスそのものではなく、それに纏わる風評によって増幅されるのだろう・・・などと
ジューシーで芯まで食べられるスナック・パインを手でもぎりながら考えるのであった。

 

Jabisen episode 6:journal

 しばらく三線関連の記事を書いていなかった。「彼は三線をやめたのではないか」といった疑念をお持ちの向きもおられよう。
 現状は、さにあらず。むしろ、これまで週2回だったお稽古が週3回に増えているのだ。お稽古が増えたのには、8月初旬のコンクールへの出場という背景がある。現在はその課題曲である伊野波節を練習している。
 実を言えば、ボクはコンクールに前向きであったとは到底、言い難い。何しろ課題曲が素人にとっては相当の難曲に属するし、何よりも自分が賞などには縁もゆかりもないからだ。しかし、お稽古のなかで、伊野波節に割かれる時間が次第に多くなり、ついには伊野波節しかしなくなることになる、さらには稽古の合間の雑談も自然とコンクールのことになると、出場しませんとは言いにくい状況が醸成されてしまった。
 肝心の腕の方は上がっているのかと問われれば、甚だ心許ない。練習で先生に合わせて弾き語りをするのも、覚束ない。ましてや一人で厳格な審査員を前にしたらと思うと、背筋が凍る。本番では袴も着るのだ。
 テレビの前でなにげなく観ているフィギュア・スケートの選手はいつもこんな状況なのだろう。一般人なら一生、着ないようなコスチュームで氷上を舞い、さらにビデオ判定までされるのだ。尻餅をついて足を広げて氷上をくるくる回った日には、人はきっと思うだろう。「あんなの衣装だけ。目立ちたいだけ。露出狂ちゃうの?(何故か関西弁)」その重圧たるや、想像するにあまりある。
 こちらも格好だけと言われないように練習しなくては・・・!

19 mai 2009 

mon voyage episode 9 :journal

 4月1日。エイプリルーフール。今日はリュブリアーナに行く日。朝はやはり街を散歩する。TAKENOKOという寿司バーを目指して適当に歩く。帰りがけにアレッシィの商品をほぼ漏れなく売っている雑貨店に入る。一番奥にはDiptyqueのキャンドルや香水が売られていた。実はZagreb初日にDiptyqueのEau de Toilette”Oyedo”を買うかどうか迷ったのだが、結局は買わなかった。しかし、今回、偶然にもその店の前を再び通り過ぎたことで、購買意欲が再び昂進してしまった。そして、Croatiaの5KNコインを転がして熊の模様が出たら買うことにする。
 路上で随分と転がった末に拾ってみると、熊が出た。そのまま覚悟を決めて、入店した。柚子とグレープフルーツにタイムを織り交ぜた香りは、暑い季節に清涼感を漂わせるには十分なのではなかろうか・・・たぶん。まあ、随分と飛びやすい香りではあった。
 その後、ホテルをチェックアウトして駅に向かう。列車は13時ちょうど。手元にあるCroatiaのお金を消費するため、駅でハムとチーズのサンドイッチを買う。この駅は香ばしい焼きたてのパンの香りに包まれている。駅には欧州の駅にあるであろうチケットに日付をパンチする機械がなかったので、係員に訊いた上でそのまま列車に乗り込む。振り返ればZagrebでの日々も雨ばかりであった。
 列車には3人の家族風の日本人旅行者が乗っていた。アドリア海沿岸を列車やレンタカーで旅行するようだ。Zagrebは午前中の半日でみるべきところがなかったので、午後の便でリュブリアーナに向かうとの由。まあ、人は畢竟、知っていることしか認識できないのであるから、そういう感想もあり得るのであろうが、聞くだに残念な感想であった。とりあえず、ボクが行ったレストランの場所を家族に紹介して別れる。
 スロベニアの首都・リュブリアーナに到着。一国の首都にしては、随分と簡素な駅である。ホームから少し離れたインフォメーションに行き、無料の地図をもらい、ホテルまでの行き先を尋ねる。ホテルはその場所からほぼ直線距離で徒歩5分程度だったので、荷物を引きずるのも問題はなかった。ホテルはとてもシンプルで、おしゃれであったが、困ったことに部屋がとても狭く、浴槽もなかった。とりあえず荷をほどいて街の中心部に向かう。しとしとと雨が降り、靴も濡れて靴下まで雨が浸透してしまう。そのホテルに決めた理由の一つに、自転車を無料で貸してくれるサービスがあったからであるが、この雨では自転車に乗れない。その代わり傘のレンタルはやっているようだ。街の中心部の広場からは三本橋が架かり、人の多い方向に歩みを進める。









 ふとウィーンで切れてしまった腕時計のバンドが気になり、ふらりと時計店に入る。時計のバンドはないかと尋ねれば、革製でも20ユーロ以下のものがたくさんあった。とりあえずのものと割り切って、茶色のクロコダイル風のバンドを買い、お店の美人に取り替えてもらう。美人は「あなたのタイプの時計はまだこちらには入荷してませんね・・・」などと言いながら、時計をしげしげと観察していた。これは電波時計で、日本国内なら精確だけど、国外ではただのクオーツなんですよ、と簡単な説明を加える。スロベニアはクロアチアと違い、通貨にユーロを採用しているため、ユーロで支払いをする。
 その後、適当に街中をぶらつく。やはり雨が降っているため、あまり長時間歩くような気分にもなれないが、街自体は素敵な街であった。特に街の中心を流れる川沿いに柳のように幹が糸を垂らしたようになっており、夏の暑い時期などはさぞかし風情があることだろうことが想像できた。ガイドブックの写真もまさに、夏のカフェテラスの情景を風景として切り取っていた。
 ほどなく行くと、国立美術館、近代美術館の建物があった。近代美術館は改装中であったが、その向かいにやや趣の異なる建物があったので入ってみた。そこはロシア正教会であった。内部はほとんど壁画によって埋め尽くされ、カソリックの教会とは随分、雰囲気を異にしていた。地図にも観光スポットとしての記述がなかったが、その内部はインパクトがあった。









 その後、日本大使館のある一角を通ってホテルに帰る。道すがら、おしゃれなショッピングセンターをみつけたので入ってみた。地下に潜ると、そこは所謂デパ地下のようになっていたので、早速、入店する。中は高級食材店のようで、チーズやパスタ、ワインなどが豊富に並べられていた。SarajevoやZagrebにはない品揃えに心が躍った。この土地の豊かさを垣間見る思いであった。
 そこに並べられた多くのお総菜をみて、夜は部屋でお総菜パーティでもしようかと思うが、部屋があめりに狭いので断念する。結果、そこではビール、ミネラル・ウォーター、ケフィアをゲットする。
 夕食は、ホテルのフロントで紹介してもらったお店ではなく、街をぶらついてよさげな店構えのレストランに入る。客層はホワイトカラーで、カップルが多いお店だった。ボクはそこで、ワインと蛸の料理を注文する。この蛸をグリルした料理が素晴らしく美味しかった。太い蛸がダイナミックに盛られていたが、味はとても繊細で、柔らかかった。









 ホテルまでの道はライトアップはされていたものの比較的暗く、一通りはさほど多くはなかった。この国は何を産業にしているんだろう・・・なんてことを考えながらホテルに帰る。

17 mai 2009 

mon voyage episode 8 :journal

 3月31日。今年度最後の日。ホテルの朝食はなかなか充実していた。火を通したものは少なかったが、味付けもそれほど濃くはなく、美味しかった。特に果物が7種類ほど食べられるのは嬉しかった。今日もZagreb Cardで市内を散策する。









 やはり外は曇り空。時折、小雨が降る天気。元AC Milanの司令塔BOBANの父親が経営していると言われるイタリアンのお店・BOBANを横目に、中心街に向かう。再びケーブルカーに乗って旧市街に向かう。復活祭が近いためか、教会の前には大きな卵形のオブジェがあり、Zagrebの街中と思しき絵柄がカラフルに描かれていた。旧市街はオフ・シーズンのためか人通りも少ない。
 昼前にナイーブ・アート美術館を訪れる。Croatiaのナイーブアートは一見すると素朴だが、実際にみてみると、とても精密に描かれていた。日本では原田泰治と親交が深いらしく、彼の日本の農村風景を描いた作品も一点だけ展示されていた。








 その後、
聖母被昇教会やマリア様をお祀りする石の門を見学する。石の門では、多くの信者が祈りを捧げ、多くの蝋燭の炎が醸し出す雰囲気もあいまって、とても清澄な空間となっていた。お昼近くの市場には野菜や果物を売る露天が並んだ。花もあちこちで売られ、色とりどりの果物とカラフルな花々で市場一帯は華やかな雰囲気に包まれていた。市場の近くのカフェでトイレを借りて、それからビールを一杯飲む。地元の老人で賑わっていた。みんな昼間からアルコールを飲んでいる。







 その後、ホテルのフロントにおすすめされていたレストランに入る。客は少なかったがとても高級なイメージ。値段もそれなりに高かったが、日本の物価に比べればたいしたことはない。ボクは白ワインとイカスミのリゾットを食べる。ここのパンが素晴らしく美味しかった。パンの生地がしっとりしているのだ。ついつい、食べ過ぎてしまう。リゾットは少し量が多かったが、全部平らげてしまう。確実に胃袋が大食に適応していた。
 その後、Zagreb Cardを使って、トラムの始発から終点まで乗って街を見て回る。一軒家ばかりがならぶ一角があると思えば、集合住宅の多い地域もある。郊外に行けばやはりそれなりに見慣れた簡素なアパートやビルが並ぶ。3ルートほど乗ったところで、疲れてきたのでホテルに戻り、一休みする。









 Zagrebの街はSarajevoに比べてずっと豊かで、人々にもどことなく余裕のようなものを感じた。まるで悲惨な歴史がなかったかのようだ。

 食事前に再びスーパーに行く。ワインを買おうかと思ったが、お昼に市場近くのカフェで老人が超小型のグラスで呑んでいたブランデーのようなものが気になり、プラムのブランデーを買うことに。当然、一日では飲み干せないため、旅行する間は持参することになった。
 夜はCihoで夕食を摂る。注文したのは、魚のスープ、魚介の唐揚げ、ミックスサラダ。またしても食い過ぎである。魚介の唐揚げにはエビが随分と入っていたが、それをよけて食べる。その他はキビナゴやキスやヒラメの小型のような魚、それに海藻があった。この海藻が海苔のような味わいであったのが印象的であった。
 部屋に戻り、ブランデーを開けてみる。最初の印象は少し渋みがある感じだが、ふんわりと甘い後味がそれに追いついてくるといった感じだ。一体、このブランデーは何年熟成させたものなのだろう?ラベルをみてもそれらしき情報は書かれていなかった。










 

Combattre contre des livres

 研究室の蔵書が飽和状態になってしまった。全くもって収拾がつかなくなってしまったので、リストラをした。以下はその方針。

 1,不要な書籍は譲渡か廃棄
 2,ビデオ・カセットのテープは廃棄
 3,図書館の書籍は返却

 不要と判断された書籍で多かったのは雑誌類、カタログ類とうっかり重複して買ってしまったもの。ミステリーなどの大衆小説は研究室前に置き、持ち去ってもらうことにする。テープ類は相当の量が使われないまま放置されていた。これを一挙に捨てる。
 これで書棚に一定の空間ができ、一部のジャンルはまとめて配置することができたが、作業は骨が折れた。書棚の奥にも、本、本、本・・・湧き出るように本が出てくる。時に懐かしくなることもあったが、殆どはげんなりする作業だった。自分が如何に多くの金と時間と労力を本に投入していたか考えると、無駄なことをしてきたような思いに駆られた。さらに困ったのはコピーの類。これは今後、ちゃんと整理しなくてはならない。
 
 掃除とは捨てることと見つけたり

名句である。研究室がすっきりしたら、Windows PCをiMacに替えたい。やはりすっきりした空間には、Macが似合う。

14 mai 2009 

mon voyage episode 7 :journal

 サラエボの朝。外はまだ暗い。起床は4時半。少しぼんやりしながら着替えと荷物の整理をする。朝食代わりに買ったイチゴを食べるが、固くて、甘くなくて、泥臭かった。5時にお願いしていたモーニングコールは5時15分に鳴った。5時半にロビーに行くと、タクシーは呼んでいないという。いつも朝に呼ぶとの由。電話をしてから1分でやってきた。
 タクシーで空港に向かう。空港の入り口でもセキュリティ・チェックをしている。カウンターでチェックインをするとクロアチア航空の係員が「ビザは?」と訊いてくる。「は?」と、ぽかんとしていると、係員はどこかに電話してボクの名前を伝えている。すると横のカウンターの係員が、「君はクロアチアに入国できない理由があるのか?」と訊いてくる。それをすぐに打ち消したが、何やら雲行きが怪しくなる。結局、何事もなくチェックインできたが、あとから振り返ると、ノービザの日本人とビザが必要な中国人と間違えたのではないだろうか。なにせ5時半である。あちらも寝ぼけていた可能性もある。
 離陸まで50分あったので、カフェでエスプレッソを飲む。ついでにパソコンで旅日記を書き、ボスニア・ヘルツェゴビナ土産の品を物色する。めぼしいモノがなかったが、ミントの石鹸を発見し、これを購入。5.7とあったので、てっきりKMかと思ったら、ユーロであった。なかなかいい値段の石鹸である。それを現地通貨を消化する意味もあり、2個購入した。
 そして搭乗前の手荷物検査。やはり長蛇の列。だが、次々に列を追い越して割り込む人がいる。きっと搭乗前ぎりぎりなのだろう。そう思って鷹揚に構えていたら、いきなりアナウンスでボクの名前が呼ばれる。チェックインカウンターでの一件もあったので、心臓が跳ね上がった。搭乗に遅れそうなのはボクだった。Sorry, I'm late!と謝ると、係員はYes, you are late.と冗談交じりで切り替えす。
 飛行機はプロペラ機。ダッチロール気味に上昇を続けたため、焦ったが、その後は順調な飛行で、ほどなくザグレブに到着した。
 ザグレブは寒かった。まだ7時半にもなっていないからなのかも知れない。だが、両替カウンターは開いていたので、早速1万円をKNに兌換する。少しは覚えたクロアチア語で両替のやりとりを完了すると、係員のお姉さんはにっこりと微笑んでくれた。もし、日本でインド人に「おはようさん、これ両替してくれへん? おおきに!」と言われたら、やはり笑ってしまうだろう。きっとあちらの人の感覚では、そんな感じなのだろう。
 たとえ意思疎通が楽にできたとしても現地の人に緊張を強いてしまう英語は、やはりいかがなものかと思う。村上龍のエッセイに、英語が上手い奴は信用しないとあった。そのココロは、いざという時には強者の側に付く可能性が高いからだそうだが、何となくそれも判る気がする。
 エアポート・バスで市内のバスターミナルに移動し(30KN=約600円弱)、トラムに乗り換える。どこにも3日有効のザグレブ・カードを売っていないので、仕方なく一回のチケットをキオスクで購入する。ホテルの目の前でトラムは停車し、そのままホテルにチェックインする。空き室があったのだろうか、9時前だというのに部屋に通してくれた。
 部屋はモダンでシックな内装で、シンプルで清潔感があった。渡されたパスワードでネットが無料で接続できることを確認し、しばらく仮眠をとる。
 もう11時。外は雨が降っている。しかし、食事に行かなくてはならないので、ホテルのフロントで地図をもらい、おすすめのレストランを紹介してもらう。トラムに一区間だけ乗車して、レストランCihoに行くが、まだ早すぎたのであたりを適当に散策する。しかし、雨脚が強く、靴もズボンもびしょ濡れ。散歩気分に水を差された。
 随分と寒さを感じたので、Cihoに入る。Cihoでは、魚のスープと蛸と豆のトマトソース煮を注文する。魚のスープは2,3人分はあろうかという分量。さらに蛸のトマトソース煮も、2、3人で分けるのがちょうどいい感じであった。あっさりして洗練された味付けと寒さも手伝い、スープは全て飲み干すが、蛸の方は食べきれず残りはお持ち帰りさせてもらった。こちらにtakeoutの習慣がどれだけあるかは判らなかったが、快く応じてくれた。その後、デザートは?と言われたので、Cream Caramelを注文する。出てきたのは、プリン。それも素朴な、日本の家庭で手作りですと言われて出てくるようなプリンとほとんど同じものが出てきて、それをほっこり食べる。









 午後は旧市街を散策する。ケーブルカーの乗り場に向かう道の角に、美味しそうなアイスクリーム&ケーキ屋があったので入ってみる。アイスクリームはミックスベリーのアイスを注文したが、ふんわりしてクリーミーで、本当に美味しかった。きっと他のアイスも美味しいのであろうと思わせるものがあった。ケーブルカーは人が多くいたが、乗客が席を譲ってくれた。ドアの両脇の座席をそれぞれ一つずつ明けてくれたので、恐縮してしまう。どちらに座るか一瞬迷って、おばさんが譲ってくれた方に座る。








 ケーブルカーを降りると、そこはやや低いながらも市内が一望できる場所であった。そこから当て所なく、旧市街を歩く。人通りもまばらで、あちこちに小さい規模の美術館や博物館があった。恐らく、夏場などは観光客でごったがえすであろう大型のカフェテラスは閑散としていた。建物は古くとも19世紀初旬ぐらいのものばかりだったような感じだった。










 夜は、駅地下のショッピング街にあるスーパーに行き、お総菜とお酒を買い、ホテルの部屋で食べることに。買ったのはCroatiaのワインとビール、パン、そして鶏の丸焼きを半羽。購入の際には、お酒を扱っているお店のおっちゃんにおすすめのワインとビールを教えてもらった。ビールはいつもそのおっちゃんが呑んでいるものだから間違いないとのお墨付きを頂いた。
 さて、夕食。部屋の机の前には大きな鏡があり、やむなく鏡を前にして夕食を摂ることに。普段、鏡の前で食事をすることはないので、がっついて食べる姿がいかに見苦しいかを確認させられているかのようであった。まあ、鶏の丸焼きを食べていたということも、ある種の浅ましさの演出に一役買っていたかも知れない。
 クロアチアの赤ワインは日本円で1400円程度であったが、なかなか悪くなかった。ビールもお昼にtakeoutした蛸のトマトソース煮にマッチして、旨かった。

13 mai 2009 

mon voyage episode 6 :journal


29日。今日はサラエボ滞在の実質的な最終日。Holiday InnからRadon Plaza Hotelへ移動しなくてはならない。Holiday Innはどうみてもお客が多いとは言えなかったのに、どうして予約がとれなかったのか判らない。Radon Hotel はサラエボ随一のホテルらしいが、明朝は6時半のZagreb行きに搭乗するため、朝食も食べられない。これは残念である。







 さて、午前中は荷物をまとめ、ホテル向かいの博物館に行く。10時の開館と同時に行ったためか、まだ電気さえついておらず、部屋も施錠されたままであった。最初は考古学の部屋であったが、殆どの遺物が全体として残っていないようだった。よくもこんな断片から全体像を想像したと感心することの方が多かった。この展示室はセルビア語の表記しかないため、正直言って、何世紀のものといったことぐらいしか判らなかった。写真も撮ってはいけないという指示があったが、ボクの後から来た団体客を率いていた先生らしき人はレーザーポインタを遺跡に直截照射して説明をしていた。まあ、そんなもんだろう。
 中庭を通って次に行ったのは、ちょうど18世紀の職人の部屋をそのまま移築したような展示だった。ちょうど昨日見た と同じような作りになっていて、やはりトルコ風な趣である。天井や柱の精密な模様から、かなり裕福な家庭の家だったようだ。部屋には当時の生活がしのばれるようにという配慮から、多くの人形が配置されていたが、かえって不気味にうつった。展示自体は素晴らしものだった。
 次の建物は、動植物の展示場。哺乳類や鳥類、昆虫や草花の展示がされていたが、昆虫が一番充実しているようであった。その前に観た女性の服を展示した部屋はあまりにしょぼかった。
 表示されている解説を殆ど読むことがなかったので、約1時間半で全体を見終わった。その後、部屋に帰りチェックアウトの準備をする。








 一度ホテルに戻り、荷物をたたんでRadon Plaza Hotelにトラムで向かう。地図では3駅目で降りればすぐみえる距離のように思えたが、実はそれは違うようで、乗り合いの別の乗客に訊くと、ずっと先だという。こちらの人は英語ができる・できないに関わらず親切に教えてくれる。本当にありがたい。
 移ったホテルは新しく立派なホテルであった。新車のディーラーも入っているビジネスセンターに隣接しており、とてもしゃれた作りになっている。部屋も1万円にしては相当、リッチな気分を味わえるような感じだ。朝5時に出発するということを考えると、かえすがえす惜しい。部屋からは、廃墟となった建物が見えた。砲弾でやられたのだろう。内戦の激しさを想像せずにはいられなかった。





 部屋で荷物を広げると、旅程やホテルの予約表を印刷したファイルが見あたらない。Holyday Innに忘れてしまったようだ。そしてそのまま、もといたホテルに戻る。帰りはその足で、ユーゴ内戦のときに掘られて物資を秘密裏に輸送したと言われるトンネルを見に行くことに。
 3番の終点で降り、昼飯にピザを一枚食べてからタクシーに乗る。最初は10KNと言われたが、値切って7KNにする。結局、7KNでも高いぐらいの距離だった。
 トンネルの建物は、砲弾で外壁が穴だらけだった。そして展示場にもなっている中に入り、20分間のビデオを観る。ナレーションはなく、ミサイルや機関銃で街が次々に破壊されている映像が流された。そして、トンネルから武器や食料(なかには羊もいた)を運んでいる様子が描かれた。画面斜め上の壁には、サラエボがユーゴスラビア連合軍により完全に包囲されている様子を描いた絵が張られていた。サラエボは盆地のようになっており、周囲は山に囲まれている。つまり、袋のネズミ状態になってしまうのだ。ここに来て、逃げ場のない恐怖がよく判った。丘陵地帯には家が建ち、独特の長閑な風景なのだが、まちの広範囲に及ぶ砲弾の痕は、街全体が戦場と化してしまった恐怖を物語る。浦沢直樹の『モンスター』のラストはこの街がモデルだったのだろうか。
 トンネルは今はとても短く、若干のトンネル体験をできる程度になっているが、なかなか迫力があった。








トンネル博物館は畑のなかにあるような所なので、タクシーなどは通りそうもない。結局、別の客にタクシーに相乗りすることに。別の客はデンマーク人で空港まで行くという。空港からはあとは交渉してくれということだったので、とりあえず空港に行く。地理感覚が掴めなかったため、ホテルまで8KNということでイタリア語とセルビア語しかできない運転手との交渉は妥結したが、もっと安くてもよかったと後悔する。運転手はイタリアにしばらく滞在していたらしいが、おそらくは内戦で国にいたたまれなくなっていたのだろうと想像する。

















 それからサラエボ冬季五輪施設の近くにある共同墓地に行く。ここはもともとグランドであったが、紛争時に犠牲者を埋葬する場所として使われたところだ。共同墓地に足を踏み入れた時、その墓標の多さに立ち竦んでしまった。目に入った墓標には1992年か93年が記されていた。こんな短い間にあんなに多くの人を埋葬しなくてはならなかった現実に、人々はどう向き合ったのだろうか。想像するだに暗澹たる心持ちになった。墓標の一つに祈りを捧げる一家を目にしたとき、彼らにカメラを向けることはボクにはどうしてもできなかった。
 ホテルに戻り、ホテル内のトルコ式風呂に行ってみる。ボクが入ろうとドアを開けようとしたら、ビキニの大柄な女性が出てきて、ややきつく睨まれた。サウナは男女混浴のようだ。それでボクはやや尻込みしてしまい、再び出直すことに。
 晩ご飯はやはりトラムで中心街に行く。ホテルが遠くなったせいか、やはり時間がかかるが、スナイパー通りなどの状況や、街の雰囲気を感じるのにはやはりいい。日曜日の夕方とあってか、人通りはぐっと少なくなっていた。昨日夕食をとったところの隣に入る。ここでは、地元の人々がたばこを吹かせ、Pivoを呑みながら、談笑している。
 まだ5時を回ったところだったが、ボクだけが早い食事を注文。昨日の昼に食べたピタに、羊の挽肉と生タマネギの刻んだものと、ビールを注文。それだけでもお腹いっぱいになったが、ここは最後の夜とばかりもう一品、注文する。注文したのはボルシチ風の煮込み料理。注文するときに、自分で食べるの?と訊かれたぐらいだから、やはり量は多めだったに違いない。
 しかし、この煮込み料理が絶品であった。長方形の耐熱容器に骨付き牛肉、ジャガイモ、にんじんが入っていた。骨などから出た出汁とローリエとハーブの香りに食はどんどん進む。ついでにビールももう一本。あまりに美味しかったので、カメラを持ってこなかったのを悔やんだ。
 帰りにイチゴのパックとケフィアを買って帰る。セルビア語で「ケフィア下さい」と言ったら、すっと棚から出してくれたが、やはりこちらでは普通の飲み物なのだろう。ちなみに密閉されていた。
 ホテルに戻り、もう一度、トルコ式サウナに行く。トルコ式といっても、雰囲気は真四角のタイル張りの空間があるだけである。誰もおらず、室内にはテレビも音楽もない。とりあえずそこで汗が噴き出すのを待つ。トルコ式は普通のサウナよりも温度が低いためかあまり汗が出てこない。どちらかというとミストサウナに近い。女性も進入してくることを予期して海水パンツを着用していたが、どこか落ち着かない。
 結局、多少の汗が出た時点で近くでシャワーを浴びる。シャワーを浴びてから体を拭いていると、かなり太った現地のお兄ちゃんが中国人?と英語で尋ねてきた。日本人だというと、この間中国に行ってきたから、中国人だと思ったとの由。そのまま日本の印象などの話になり、誘われるままにサウナに入る。彼はバスタオルを巻いたままでその下は海水パンツを穿いていないようだった。女子の人も入ってくるかもしれないのに、それでいいの?と思ったが訊かなかった。その後、彼の父の友人というオシム監督の話に及び、彼の父も脳梗塞で倒れたこと。さすがにその脂肪だらけの体だったら君も危険なのでは?とは言えなかった。
 部屋に戻り、シャワーを浴び直す。そして、モーニングコールと朝のタクシーを依頼し、眠りにつく。ベッドはキングサイズだったが、やたらに大きな枕が5つもあり、大きなベッドは枕に占拠させられているた。あまり余裕を持って寝られたとは言えない。部屋の窓には強い風が吹き付けていた。


10 mai 2009 

آواز گنجشک‌ها

Majid Majidi監督のآواز گنجشک‌هاを観た。
 一人の息子と二人の娘の父親は、ダチョウを飼育する農場に働いている。しかし、飼育するダチョウの一匹が逃走してしまう。ダチョウ一匹は200万トマン。父は自らダチョウに扮装してまで探し回るが、見つからない。さらに、娘の補聴器が汚い井戸に落ちて壊れてしまった。彼は補聴器を修理しにテヘランに向かう。その際にバイク・タクシーに間違われたことで、予想外のお金を手にすることになる。最初は運賃も言い値でそれで儲けるなど考えなかったが、次第に欲得の感情が芽生えてくる。それから彼は街で白タクをしたり、街の廃品を集めて何とかお金をかき集めようとするのだが、補聴器を買うという目的が、お金を儲けたり、廃品を集めることが目的化していく・・・。
 物語はこの一家の主であるお父さんの行動を終始追うことでストーリーが展開していく。それに子供たちの夢である金魚で一攫千金を目論むエピソードが絡む。
 劇中に「勤めても一ヶ月の給料は15万から20万しか稼げない」とあったので、逃げたダチョウは、一匹といえどもほぼ彼らの年収に相当するのだろう。補聴器を娘の試験に間に合うよう、病院以外で買った場合、35万かかるとあったので、こちらも高価である。
 何とか父親はお金を得ようとするのだが、このオヤジの行動は常に思いつきに基づく。働く内容も行き当たりばったりなので、何をやっても不慣れな父親の姿に観ている側もハラハラする。
 オヤジはダチョウの卵で作った料理を家族以外に分け与えたり、近所の人にドアをあげたりと、性格はとても博愛的なのだが、田舎と都会を行き来するうちに、そんな彼にも少しずつ変化があらわれる。一度近所の人にあげたドアを、相手の意向も訊かずに取り戻したり、金魚を買うために路上で花を売る子供たちに激しい剣幕で怒り狂う。父に比べると、子供たちの行動のほうが、より計画的で地道なように映る。井戸の汚泥やゴミをさらい、小鳥が巣作りをするほどに美しくし、井戸を再生させるのだから。
 イランの映画には、人生の教訓のようなエピソードがいくつも織り込まれ、何故かこちらは納得させられてしまう。強欲な輩には報いがあり、正直な人間には幸運が訪れる。オヤジは結局、拾ってきた廃品の山によって大怪我を負ってしまう。一方、金儲けという「不純」な動機に基づく子供たちの計画も、思わぬことで頓挫してしまう。タンクの中の金魚を救うために、その数秒前まで丁寧に扱っていた商売道具の鉢植えを、あっさり投げ出してしまうあたりは、やはり子供なのである。
 しかし、この監督は必ず最後になにがしかの「救い」を用意してくれる。彼の作品のラストは、いつも美しく、印象深い。ゴールデン・ウィークにアッバス・キアロスタミのデビュー作『友だちのうちはどこ?』を観たが、これも同様に、観客の心を和ませるさりげないラストを用意されていた。なかなか素晴らしい作品である。
 なぜこんな良質な作品が劇場でかからないのか、不思議であり、残念でもある。邦題は『すずめの唄』。劇場未公開。シネフィル・イマジカで観る。
 全くの余談だが、GWにキアロスタミ監督の『ホームワーク』という作品を観た。この作品は、宿題を題材に多くの小学生にインタビューをするという趣向の作品だが、1989年当時のイランにおいて、親のしつけは相当厳しかったようである。親が子供を叩くときは、殆どの場合、ズボンのベルトを鞭にして叩くようなのだ。この『すずめの唄』においても、同様のシーンがあり、父親はベルトを使っていた。「ああ、やっぱりね。何だかリアルだな〜」と思った次第である。

09 mai 2009 

Jours avec cochon:films

 前田哲監督の『ブタがいた教室』を観た。
 6年生を担当する星先生は、ある日、クラスの児童の前に一匹の子豚を連れてくる。先生は、その子豚を育て、最後にはその豚を食べることを児童たちに提案する。児童たちは子豚が最終的にどのような末路になるかについては深く考えず、Pちゃんと名前まで付けてペットのように飼い始めるが・・・。
 飼い始めて6ヶ月がたった頃、Pちゃんの処遇を決めるのクラス会が開催される。その子供たちが議論する場面がなかなか凄い。子供であるだけに相手を論破するに容赦がない。食べたくないという素直な感情と最初の原則に戻ろうとする意見が真っ正面に衝突する。これが凄い。実話をもとに作られた作品のようだが、なかなか興味深い。議論の場面は、演技しているようには見えなかった。
 人には情というものがある。譬え食べるつもりで飼っていたとしても、長い間、苦楽をともにすれば情愛が生まれてくる。児童たちは、時が経つにつれて、ブタをどんどん人間のように扱うようになる。名前を付けるだけでは飽きたらず、クリスマスプレゼントを持ってきたり、豚小屋に飾り付けをしたり・・・。
 ある動物が愛玩動物であるか、食肉動物であるか決めるのは、「文化」である。有り体に言えば、人間の都合というものだ。犬は駄目で、豚はOKというのは、文化によって決まる。もちろん、人間も食べられる生き物だが、それを食べないのは、文化が規定するタブーがあるからだ。日本における豚の場合、昨今では愛玩動物として飼育する人もいるが、一般の認識としてはやはり食肉である。この辺が、この作品を興味深いものにしている。生物的に鳴くことがないジャガイモや魚では、きっと児童たちは「食べない」という選択肢を選ばないだろう。豚は可愛いから、あるいは可哀想だから食べないというのは欺瞞だ。
 こういう体験を児童たちにさせることには、賛否があるだろう。しかし、ボクは大いにすべきだと思う。物事を根源的に考えるということはやはり必要だからだ。子供にとってはショッキングだろうが、自分たちの生がそうしたものから成り立っていることを直視することも必要だと思う。実際に児童たちは、貴重な経験をしたと思う。世の中は割り切れないことばかりだということを幼少期に思い知る機会は、案外に少ない。人生において葛藤がないということが、いいことだとは思わない。
 少し気になったのは、ブタを料理として出しているお店が、沖縄料理店だということ。料理人のお父さんの服装や、台所に並べられるゴーヤーがそのことを示している。本土の人々も豚肉を食べるだろうに、こうした演出はなかなか巧妙である。それはともかく、卒業式の手話の振り付けを交えた歌の歌詞もすごい・・・最近の小学生はあんな歌を歌って卒業するのか?
 作品のコンセプトは随分と違うが、Nikolaus Geyrhalter監督の『いのちのたべかた』は同様の問題を考える上でとてもいい作品である。その作品でみられる食肉のありかたは、動物を徹底的にモノとして、あるいはパーツとして扱うという姿勢だ。子供たちに見せたらさぞかしショックを受けるだろうが・・・。
『ブタがいた教室』では、あそこまでやるのだったら、最後に食べるというところまでやるべきではなかったか?少なくとも映画的にはそうすべきだったと思えてならない。その点に詰めの甘さを感じる。

 

mon voyage episode 5 :journal

 サラエボの朝。朝食はウィーンほどではなかったが、まあ問題ない。レストランにはボク以外の客はいない。雪に見舞われたウィーン、ブラチスラバに比べ、こちらでは好天に恵まれ、上着を脱いでも大丈夫なほどの陽気。とりあえず、ホテルのATMでクレジットカードで現金をおろす。見たこともない紙幣が機械から絞り出されてきた時は、不安を覚える。
 昨晩、一晩預かると言われたパスポートを取り戻す。パスポートを預けるということが、お国柄なのだろうか。部屋で無線+有線のネットがフリーで使えたのは嬉しかった。この点はさすが!紛争時でもジャーナリストの溜まり場として営業を続けたホテルだけある。しかし、一階のカフェにタクシーの客待ちと思しき客がいる以外は、ホテルの宿泊客のような人は殆どいない。
 ホテル内の売店で公共交通機関の10回券を購入する。ここには乗り放題チケットのようなものはないらしい。3番のトラムに乗って、中心街に向かう。乗車したときにトラムの中のレジスターにチケットを挿入し、乗車時刻を記録するのだが、やや混み合っているため、それがどこか見あたらない。そこでチケット片手にキョロキョロしていると、乗客の一人がレジスターの場所を文字どおり指示してくれた。
 驚いたことに、サラエボではバス停に名前がない。車内アナウンスもなく、乗っているトラムがどこに行くかは、トラムの番号のみが頼りだ。内戦前からそうなのかは判らない。文句を言っても始まらない。自分の頭で考えねば。地図と窓外の景色をつきあわせて現在位置を注意深く観察する。3番はMiljacka川沿いを通るので、比較的わかりやすかった。すると、軽く肩を叩かれ、さきほどとは別の乗客の一人がボクの手にある地図で、現在位置を教えてくれた。セルビア・クロアチア語だったが、意図は十分に伝わったと同時に、地元の人の心遣いに感動に似た心持ちになった。
 旅行に行った場所が好きになるかどうかは、現地の人が自分に都合のいい言語を使ってくれるか、街の表示に英語があるかとか、そういったことではないのだろう。こうしたさりげない心遣いが、街全体の印象を決めるようなところがある。晴れやかな天気もあってか、ボクはこの街を好きになりかけていた。








 中心街に来たところで、トラムを降りる。どこか山間の田舎町のような、しかし決定的に異なる風景があった。線路をまたいだ繁華街の方に目を向けると、そこがヨーロッパであることを打ち消すような、トルコ風の建物が軒を連ねていた。広場には鳩が群がっていた。その一方で、街の建物には砲弾や銃の痕が生々しく残り、視線を上げると街の小高い丘に無数の白い墓標が目に入る。










 しばらく旧市街を散策。赤瓦葺き屋根の木造建築が並ぶ。トルコ系の人々の職人街になっており、金物、布製品、貴金属などを扱うお店があり、賑わいを見せる。銅製のトルココーヒーセットなどもここにあり、一つ求めようかとも思ったが、こうした金物は真偽が判別できないし、買っても使わない可能性が高いので控える。そのほかにはレストランや日用雑貨のお店があった。なかには薬莢で作られた一瞬、銃弾かとどきりとするペンなども売られていた。









 ユダヤ教のシナゴーク、セルビア正教会、イスラム教のモスク、カトリック教会・・・少し歩くと異なる宗教施設に出くわす。想像以上に近いエリアにこうした施設が集中していた。








 旧市街をから少し出て、Miljacka川に向かう。すぐそこにラティンスキー橋があった。この橋は、フランツ・フェルディナント大公がサラエボを訪問した際、ボスニア・ヘルツェゴビナ占領・統治に反対する「青年ボスニア党」のセルビア人青年に暗殺された場所である。第一次世界大戦勃発の契機になったという歴史的に重要な場所であるが、実際に観てみると、驚くほど、狭く、短い。ウィーンのArsenalでみた車がこの橋を渡ったら、随分道を塞ぐだろうといった印象だった。近く国立図書館が見えたので近づく。







 国立図書館は修復中で、表側にはネットが掛けられていた。裏側に回ると戦火の激しさを思わせるような状態で、蔵書の殆どが消失してしまったことを思うと、暗澹たる気持ちになった。








 昼前には、スブルソ・ハウスに行った。やや判りにくいところにあり、セルビア・クロアチア語で場所を尋ねながら行った。この古い建物は、18世紀に建てられたオスマン帝国時代の家に起源を発するボスニア式家屋で、その構造はとてもユニークにできていた。既婚女性は夫以外の男性と顔を合わせることができないので、客人が来たときも、家族の女性に出くわすことがないような作りになっているのだ。具体的には、客人が入れるのは、手前の棟だけで、奥の棟は家族が生活を営むスペースとなっている。各部屋にはトルコ風の絨毯や調度品があり、かまども独特な感じであった。















 スブルソ・ハウスを出たのはちょうど正午だった。時間は教会の鐘の音と、コー
ランの歌声が教えてくれた。異なるものがまざりあう、独特な響きが、街を包んだ。街を見下ろす坂道の途中で立ち止まり、深い感慨に浸った。こうした雰囲気を味わいたくて、自分はここまでやって来たんだ・・・漠然と自分が求めていたものが、輪郭を描いて目の前に顕れたようだった。
 昼は地元の料理を食べる。散策している途中で、ナンのようなパンと挽肉料理を合わせて食べている人を多く見かけたので、それを食べさせてくれそうなところに入る。セルビア・クロアチア語のメニューしかなかったが、写真をみて指さし注文。最初、食べ方がよくわからず戸惑ったが、地元の人の食べ方をみて、それを真似て食べた。とても、美味しかった。








 その後、再び街を散策。週末ということもあってか、繁華街では人通りも多く、明るく活気に満ちた雰囲気。公園に人だかりができていたので、近づいていくと、チェスをしていた。碁盤の目のようになっている床のタイルをチェス場に見立て、大型の駒を使っていた。ギャラリーはあれこれ意見をいいながら和気藹々と昼下がりを過ごしている様子。ボクはチェスを解しないので、岡目八目という訳にはいかないのだが、戦況を確認しようと体をひねっているのをみて、老人がボクを輪の中に入れてくれた。ああ、チェスの一つもできれば、現地の人とコミュニケーションをとれるのになと、残念に思う。









 散歩途中、トホホな事も。道端で物乞いをする一家(?)に一度小銭を渡したら、それ以降、別の場所ですれ違うと、ボクをみるたびに笑いながら追いかけて来るようになった。ある時は袖をかなり強い力で引っ張られたりして、辟易した次第。ジプシー風の身なりだったが、どうもボクが困るのを半ば喜んでいるようだった。日本人はおろか、アジア系さえも全く見かけないからかも知れないが、異国でジプシーの子供たちに追いかけられている自分の姿に、笑いが止まらなかった。
 その後、スーパーやドラッグストアを覗いたり、モスクや教会のなかを見学したりしてゆったりとした時間を過ごす。そして、早めの晩ご飯を食べる。
 行ったのは、現地のガイドブックに載っていたレストラン。ボスニアのビールを飲み、煮込み料理を食べる。これがまた絶品であった。なかには日本で言うところのすいとんのような小麦粉を練ったものが入っていた。これまで食べ過ぎだったことを反省
し、少し分量をセーブする。








 ホテルへ
の帰りしなにパン屋とケーキ屋に寄る。こちらの代表的なスイーツである梨のコンポートを買い、ホテルの部屋で食す。どっしりと重く、やや甘い味付けであった。パンは肉などが練り込んであるもので、随分と食べ応えがあった。ああ、今日も結局、食べ過ぎてしまったと後悔しながら、ビールを飲む。








 夜中。雷雨のような車のクラクションで目を覚ました。一体何かと思い、窓の外をみると車が渋滞している。コンサート帰りの渋滞でドライバーが腹を立てているのかと思った。さらに時折、銃声と思しき音!さえ聞こえる。流れ弾が額に命中するイメージが浮かび、それからは眺めているのも恐ろしくなって首をすくめて部屋に引っ込む。ベッドに入っても寝付けないまま外の様子に耳を澄ますと、クラクションに混じってノリのいい音楽や叫び声も聞こえる。あっ!と思い、UEFAのホームページを検索してワールドカップ予選の結果を確認する。おお!ボスニア・ヘルツェゴビナがベルギーでアウェーで2−4で勝利をおさめているではないかー。この騒ぎは怒りではなく、歓喜だったのだ!
 ボスニア・ヘルツェゴビナが入るグループ5の状況をみると、ワールドカップ出場圏内の2位につけている。1位はスペイン。これは盤石だろう。現実的にボスニアは2位を狙うことになる。2位を争うのは、トルコとベルギー。この時点でベルギーを叩いて2ポイント差をつけたのは大きい。さらにトルコがスペインに敗れたため、現時点では2位を確保。ボスニア・サポーターの喜びはよくわかる。
 大音量のクラクションは針が日付の変更を示してからほどなくしてピタリと止んだ。