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06 septembre 2009 

Dear Doctor:journal

 西川美和監督のディア・ドクターを観た。
 人口1500人の僻地に一人の研修医・相馬がやって来る。そこには村人から慕われ、頼りにされている「医師」伊野がいた。しかし、彼は突然、失踪してしまう。物語は、伊野が失踪する前の2ヶ月とその後を警察の捜査の模様を交互に描き、伊野の人となりを浮き彫りにする。
 出産から死亡宣告まで何でも屋であることを求められる過疎地域の医師は担い手がいない。しかし一人の医師の存在自体が住民に安心をもたらすこともある。「医は仁術なり。人を救ふを以て志とすべし。」というのは今や昔。現代医療は高度に専門化、複雑化、官僚主義化され、経済効率が支配する。患者はベルトコンベアの商品よろしく3分診療を受け、担当医師の名前さえ覚えていない。劇中の「病を診て、人を診ず。」という言葉が現状を端的に示している。
 そのなかで伊野は医は仁術という言葉を具現化した人間であった。昼夜を分かたず電話一本で駆けつける姿をみると、少なくとも村人からは名医、果ては神様のように映っていただろう。しかし、健康診断ならまだしも、薬の処方、出産や救急患者への対応、癌の見極めなど、藁にも縋る思いで診療所を担ぎ込まれる状況に直面して、伊野の心は揺らぐ。この作品は伊野の葛藤、逡巡を丁寧に描いている。
 彼の所業は紛う事なき犯罪行為である。だがどうしてもこの伊野という人間を憎めない。彼に一杯喰わされた村人も、心境は複雑である。それは彼が最後まで患者本位で行動していたからであろう。そして、自分の嘘が母娘の今生の別れを決定づける事態に至ったとき、彼は逃亡する。
 一方、研修医である相馬は、2ヶ月のあいだ、運転手の役割しか果たしていない。免許はあるが腕も人望もないホンモノと、経験も信頼もあるが免許がないニセモノ。形式と実質。どちらが大切かと改めて問われれば、人は後者を選ぶかも知れない。しかし、現代社会では公的な側面が強くなるほど、形式の重要性が増す。相馬と伊野は形式と実質の両方を兼ね備えていない点においては同じである。持てる者にはたかが免許かも知れないが、持たざる者にはされど免許。医師としての義務感や責任感を支えるのは、たった一枚の紙なのかも知れない。
 これは推測の域を出ないが、伊野はきっと医師であった父親に期待され、また父に憧憬を抱いていたのだろう。しかし、医師になれなかった。期待に応えられない人生を送ってきた彼にとって、村人から贈られる感謝の言葉は、麻薬の如く彼に作用したのだろうと思われる。
 伊野は自分が持てなかった全てを手にしているような相馬に、どのような感情を抱いていたのだろうか。また、相馬は伊野がニセモノだと知って、どう感じたのだろうか。
 稀に医師免許を持たぬ者が長年医療行為を行っていたというニュースを耳にする。しかし、不思議と悪い評判は聞かない。意外性を狙う報道姿勢もあるかも知れないし、そうした記憶を選択的に残していることもあろう。しかし、ひょっとして偽者であるからこそ、本物に近づく努力を怠らなかったのかも知れない。そう思うと、切なくなる。
 本物の何かになる。特に仕事の上では、これは誰にでものしかかる課題である。他人の評価も、自分の実感も兼ね備える人間はこの世にどれだけいるのだろう。
 この作品の成功には、伊野を演じた鶴瓶の功績が大きい。嘘と、事の重大さの狭間で、誰にも相談できず逡巡する男を演じさせるには、彼以外あり得ないと思わせるほど、はまっていた。脚本も担当した監督も、作品を積み重ねるごとに上手くなっていく。久しぶりにブログに記しておきたくなる作品だった。
 あと、映画の話ではないが、鶴瓶が使っている眼鏡と同じものをボクも持っている。Marius Morelというフランスの老舗のもの。彼は劇中でもテレビでもいつもこれ。何につけ、長年愛用しているものがあるというのはいいことである。