23 juin 2008 

4 luni, 3 saptamâni si 2 zile

Cristian Mungiu監督の4 luni, 3 saptamâni si 2 zileを観た。
 1987年のルーマニア。ルームメイト・ガビツァの中絶のために奔走する大学生オティリアの一日を描いた作品。
 この映画は一般に中絶の問題を扱ったものだととらえられるだろうが、中絶の是非に留まらず、出産の問題、セックスの問題、男女の問題、産むことをとりまく政策の問題、自由の問題、モラルの問題・・・多くのテーマを投げかける。
 朝にむだ毛処理をしているガビツァの姿をみて、最初は合宿でもいくのか?といったノリに見えた。その後、中絶のための無機質で痛々しい器具が登場したあたりから、一気に緊張が高まった。闇で中絶を行う男とのやりとりで、当時のルーマニアで中絶が重罪に処せられること、中絶が極めて危険なことが明らかになる。江戸時代で「間引き」が行われたのは、中絶よりも産んでから殺す方が母体にとって安全であったことを考慮すると、闇で麻酔なしで中絶することの危険性は計り知れない。
 オティリアの献身は胸を打つものがあるが、はからずもオティリアの孤独が浮き彫りになる。すべてオティリアまかせのルームメイト、セックスの後のことをしっかり考えてない彼氏、心の底でオティリアの出自をバカにしている彼氏一家・・・。「自分が妊娠したら、どうするの?」とオティリアに問いつめられてた彼氏の返答は、国籍を問わず世の一般男性の最大公約数的な答えなのだろう。
 ガビツァは普通に出会っていれば、きっと愛らしい女の子なのだろう。しかし、
彼女の嘘も、詰めの甘さも、甘え気質も現実逃避ゆえなのかも知れないが、23とは思えない未成熟ぶり。中絶に手作りのケーキは作ってくるが、大量出血に備えたビニールシートは忘れて来る。日本でも甘ったれてバカな女の子をカワイイと評価する向きもいるが、しかし、この映画では、救いようのない愚鈍にしか見えない。そして、その愚鈍さが不幸の温床になっている。
 ラストシーン、暗闇の中で、すでに人と判る胎児の死体の捨て場所を探して、奔走するオティリア。ダクトを伝って胎児が落ちていく音は耳朶に残っているだろう。しかし、絶対安静のはずのガビツァは、あろうことかレストランで肉を注文している・・・。無神経というか逞しいというか。オティリアは部屋を出る前に、気を利かせてサラダはどうか?と尋ねていたことを考えると、相当に気を遣っていたはずである。堕胎した胎児も、バスルームの床にほったらかし。ガビツァをとらえた数々のシーンで、確信をした。ガビツァは同じ事を、またする。
 この映画ではガビツァの相手が一度も出てこない。ガビツァばかりが責められるように作られているが、これは監督の意図によるものだろう。もっとも責められるべき人々が出てこない。映像で語られていることより、語られてない事柄にこの物語を読み解く鍵がある。
 気になるカットが一つ。オティリアの嘔吐は緊張によるものか、妊娠の徴候なのだろうか。もし後者なら、ルームメイトはオティリアが彼女にしてあげたような献身を、オティリアにしてくれるだろうか?次に悪夢をみるのはオティリアなのかもしれない。あるいは、あの映画を観た、あるいは観てない女の子なのかもしれない。
 日本でも、16歳から49歳の女性の6人に1人に中絶の経験があり、そのうち3割は2回以上経験しているそうだ。邦題は『4ヶ月、3週間と2日』この作品、特に中学生、高校生、大学生の男女全てに観て欲しいと思う。世の中はJUNOのような世界ではないのである。中絶に関する映画なら、『ヴェラ・ドレイク』もお薦め。

18 juin 2008 

JUNO:films

Jason Reitman監督のJUNOを観た。
高校に通う十六歳のJUNOは、好奇心からセックスした相手の子供を身籠もってしまう。最初は隠れて堕胎しようとするが、胎児にも爪があることを知ったことから気が変わり、出産してすぐに養子に出すことを決意する。
 JUNOの住まう街はアメリカのどのあたりなのだろう?NYやLAのような大都会ではないようだし、テキサスのようなカソリックの保守的な街でもなさそうである。アメリカも地域で高校生の妊娠や中絶に関しての考え方は異なるのだろうが、この映画は社会との葛藤が全くといっていいほど描かれていない。また、時代に関してもケータイが出てこないところからみると、特に現代に特定していないような感じである。
 親との葛藤もなければ、学校との対立もない。JUNOに対する言葉による批判はなく、好奇の視線を向けられるのみである。あるエッセイストの女性がどうして女性は子供を産みたがらないのかという質問に、端的に「痛いから」と答えていたが、出産に伴う身体的激痛についても最小限の表現に抑えられている。
 この映画、少女の出産をとりまくネガティヴな反応をきれいに切り捨てることで、産むことへの抵抗を減らし、出産後の育児を他人にゆだねることで、少女は出産後も何一つ失わないようなストーリーに仕立て上げている。赤ちゃんの父親も、世間の批判を浴びている風ではないし、進学を諦めて経済的な負担をしたりすることもない。男も女も出産で何も失わない。こうした点が非常に新鮮で、同じ題材を扱った作品の陰鬱さや、重さはない。ある意味で、出産を礼賛する映画とも言える。しかし、この映画にはリアリティはあるのだろうか?
 女性が出産に戸惑うのは、それが出産前の人生と後の人生ががらりと様相を一変させてしまうからである(相手の男性も同様である)。もちろん、好転することも多いかもしれない。これまでには知らなかった充実感を味わうこともあろう。しかし、職、金、時間、人間関係、ライフスタイルや将来への展望・・・何も失わないで子育てなどできない。自分をとりまく環境が長い時間と努力を積み重ねて大切に作ってきたものであるなら、なおさらそれを手放すことを躊躇する。子供の前ではそんなものは何の価値もない、と言うならそれはその人の人生をあまりにも軽視しているように感じる。人の価値観は様々である。
 映画に戻ろう。結局、JUNOは妊娠しても出産しても、何も失わない。出産後、何十年にもわたって支出するはずの莫大な養育費も一銭も支払うことはない。JUNOの両親も然り。僕がこの映画の天真爛漫さに戸惑うのは、この点である。
 個人的には、日本でも養子縁組の制度をきっちり確立して、堕胎せずともきちんと育ててくれそうな人に引き取ってもらうのがよかろうと思っている。何も実の親に育てられるのが幸せとは限らない。DNAを引き継いでいるからといって、責任感もなく、収入もなく、未成熟な親に育てられるよりもずっといいのだと思う。責任をもって育てられないなら、勇気を持って預けることも必要なのだと思う。しかし、この物語の主人公たちのように白人で、産まれる子供も白人の場合は、比較的里親を捜しやすいかも知れない。しかし、白人でなかった場合、人種差別の激しいアメリカで子供の里親はすぐに見つかるだろうか?先天的に心身に障害があった場合はどうだろうか?現実には簡単な話ではないはずである。
 高校生の妊娠となると、テーマがどうしても暗くなってしまう。そうしたある意味でお決まりのパターンを踏襲せず、軽妙なジョークで描いている新しさは評価できる。数々のジョークに笑った。だが、この物語が地域も時代も特定されてないように、所詮はリアリティの欠けたおとぎ話なのである。
Junoはリッチでも心が離れてしまっているVanessa夫婦とは対称的な家庭環境にいる。顰蹙を買うような毒舌を吐き、言いたいことは全部口にしても、真に自分を理解し、どんなときも擁護してくれる温かい友人と両親と恋人に囲まれて育つ幸せな女の子だ(彼女は周囲に温かく接してはいないが)。見方によっては、理想的な環境にある女の子の、おめでたいご都合的な物語とも言えなくもない・・・。

15 juin 2008 

三峡好人:films

賈樟柯監督の山峡好人を観た。
長江の三峡ダム建設のため、水没する運命の古都・奉節を舞台にした作品。この国家プロジェクトのために、130万人の住民が移住を余儀なくされた。130万人!この人数は沖縄県民に相当する。沖縄県以外なら山形、大分、宮崎・・・各県の人口を軽く凌駕する人間が移住をする計算だ。いくら国家プロジェクトといえ、これだけの人数全員に充分な補償をすることなど、どだい無理だろう。実際、劇中でも保証金をめぐって住民と行政が鋭く対立する光景が映し出される。
 話を映画に戻そう。この映画は、大きくは二つの物語からなる。一つは山西省で炭鉱作業員をしていた男・韓三明が妻と娘を捜す物語。もう一つはやはり音信不通になった夫を探しに山西省からやってくる女・沈紅の物語。そして、煙草、酒、茶、飴と題されたエピソードが横断的に物語を繋いでいる。男は無一文でやってきて、日雇いの労働者として働きながらいつ帰るとも知れぬ妻と娘を待ち、女は金持ちの女と懇ろになった夫を探す。どちらもいい歳をした中年の男女である。結婚はしたけれど、それぞれ相手と疎遠になってしまっている。新しいことを始めるにはやや遅すぎる年齢。特に、異性との関係においては、天真爛漫には行動できない年齢にさしかかっている。
 煙草や茶、飴、酒・・・それそのものは生きるためにどうしても必要なものではない。しかし、どれも日常のなかにあって心をホッと和ませるものだ。それにまして人に大きな安堵感をもたらすのは、人とのつながりである。この物語が人捜しを軸として描かれているのも、必然のように思える。
 この映画は淡々とした映像の中に中国の抱える様々な問題を垣間見せる。爆弾で一気に建物を破壊してしまうかと思えば、手持ちのハンマーで建物を壊す気の遠くなるような作業をしている者もいる。そして、殆ど裸で解体作業を進める作業員の隣で、全身完全防備の男が消毒薬を撒布している。低賃金の危険な作業で、みなに飴を配っていた気のいい若者が事故で命を落とす。劣悪な労働環境にいる者たちが、さらに厳しく危険な労働環境へ追い立てられる。この状況は、悪夢に等しい。韓三明は、いわゆる「買婚」で妻と結婚をした。つまり、お金を払って嫁さんをもらったのだ。顔も知らない娘も十六歳にしてすでに母親から離れて働いているという。沈紅の夫は、別れ話もしないままふっつりと連絡をとらなくなって、沈紅の元を去ってしまう。これが最近もたらした傾向か分からないが、中国においても人間関係の希薄化が進んでいるように見える。沈紅は、幾ばくかの未練が残る夫に対して、逡巡しながらも別れを切り出す。彼女は新しい男との関係をもちつつも、夫には最低限の仁義は切る。華々しい開発の裏側で、じっとり澱んだ空気の中に取り残されてしまった街がある。そして、取り残されたのは街ばかりではない。人の心も、どこかに置き去りにされてしまったかのようだ。これも、全てではないが、今の中国を構成する一つの側面である。
 劇中、少年が愛の歌を唄う。愛を知らず、愛のない場所でも、不思議と人は愛の歌をうたうことができる。滔々と流れる長江のように、淡々と人と社会を描いている作品だが、何故か彼らの表情が、心から離れない。素晴らしい演出だ。邦題は『長江哀歌』。
 三峡ダム建設で水没してしまった街について知りたければ、李一凡監督のドキュメンタリー『淹没』(邦題『水没の前に』)をご覧になることをお薦めする。中国の人々の力強さ、したたかさを感じる一本である。
 賈樟柯監督は今年度のカンヌ映画祭コンペティション部門で新作を発表している。これも是非、観てみたい。

 

Lust, caution:films

李安監督の『色、戒』を観た。
日本軍占領下の1942年の上海。大学生の王佳芝は大学の友人に誘われて演劇部に入り、抗日運動を題材に扱った作品の主演をつとめる。学生たちは最初は演技であったはずが、自らの役柄に取り込まれるように、リアルな抗日運動に入っていく。演劇学生上がりの革命家が暗殺のターゲットにしたのは、傀儡政府のスパイのトップ・易。
佳芝は貿易商の夫人になりすまして、易の妻に取り入り、ついに易の愛人となるが・・・。
 当時の上海は映像で描かれているような街だったのだろう。ワンシーン、死体が転がっているシーンもあったが、きっとそうした街だったのだろう。水面下で鋭い勢力争いが行われるなか、すぐ隣に死があるような時代。ストーリーを追えば、一種のスパイものである。しかし、この作品は決して大衆的な娯楽作品ではない。人間の表面には決して出てこない激しい感情を剥き出しにした作品である。
 物議を醸したベッドシーンだが、ベッドの上はまさに男女の戦場。「政治的」駆け引きを繰り広げる戦いの場であることを如実に示す。ここには逃避的でロマンティックな馴れ合いは存在しない。女は自らの身分を偽りながら一歩も引けず、男は警戒心を緩めず相手との間合いを激しく詰めていく。やがて二人は死と背中合わせの性愛にのめり込んでいく。空想的な甘い恋ではない。崖っぷちの現実と向き合う愛である。あの激しさは必然とさえ、思える。
 この映画、佳芝と易以外にも、駆け引きの応酬に満ちている。夫人たちの麻雀のシーン然り、佳芝とその仲間の関係も然り、香港の和風料亭で中国の歌をうたうシーンも然り・・・。日本の歌が流れる料亭で、佳芝が中国の歌を唄うシーン。易に翻意を促しているのだが、易は気づいていない。
 ラスト、暗殺の絶好の機会に、佳芝が易を故意に逃す。そして、道路封鎖で足止めされた佳芝はカプセルを飲まない。彼女は「仲間」が導く死を選ぶことより、易の自分への思いに賭けたのかも知れない。彼女は自分を利用することしか考えなかったかつての仲間より、易の方に人間的な誠実さをみたのだろう。易のラストの涙は、佳芝への感情を如実に示す。最後に残ったのは、易の孤独か。あのラストは、偽ることから始まった愛の、信じることができなかった関係の、必然の帰結なのだろうか。邦題は『ラスト、コーション』。
映画は2時間40分あったのだが、全く長く感じなかった。ここ数年で観た映画では五指に入る作品だ。上映のあとに、この映画に出演していた藤木勇人さんのトークショーがあった。李監督は台詞もない役の一人ひとりに一生分のストーリーを考えていた、という主旨のことを言っていたのが印象的。

 

ANGEL:films

François Ozon監督のANGELを観た。
19世紀から20世紀のイギリスを舞台に、しがない食料品店の娘Angelが作家として成功し、自分が求めるもの全てを手に入れるも、没落していく姿を描く。
 女性の視点による華々しくも残酷な物語を自らの空想から紡ぎだし、Angelは女性の読者を獲得して文壇の寵児となる。彼女の物語の「美しさ」は日本で言うなら少女マンガやハーレクインの物語の世界に近いのだろう。そして、彼女は昔から憧れた屋敷The Paradiseでの生活を始める。彼女の身につける衣装や家具などの調度品は、洗練とはほど遠い俗悪そのもの。しかし、彼女は愛する男性との結婚も手に入れ、幸せな毎日を送る。
 しかし、その生活は長続きしない。母親の死によって、自らの出自を美しいものにしたり、夫が自分から去り、自殺した原因も、やはり自分の都合のよい形にねじ曲げていく。その姿は滑稽とさえ言える。
 人はある程度の年齢に達すれば、そうした理想の生活や偽りの人生に別れを告げ、現実に着地していくのであるが、彼女はいつまでも虚構で塗り固めた世界にしがみつく。その姿が哀れだが、そうした彼女の弱さに共感する女性は案外多いのかも知れない。映画の映像は彼女の危うい虚構の世界のように、故意に安っぽい演出にしているようであった。特に夫がAngelを描いた肖像画、その彼女の本性を見抜いたような醜さが印象的である。夫が思いを寄せていた相手と対決するシーン、二人の衣装の対比が凄い。皮肉たっぷりな演出ぶりである。
 しかし、僕たちは彼女を嘲えない。なぜなら人はどうしても美しい虚構に魅了されてしまうものなのである。彼女の場合は、豪奢で愛に満ちた生活であったが、人によっては伝統のある美しい国だったり、全てを圧倒する権力を持った強い自分だったり、過去においても未来においても無垢な自分だったりする。過去を偽り、美しい物語にしがみつく姿は、Angelのように滑稽で、哀しい。

14 juin 2008 

大日本人:films

松本人志監督の『大日本人』を観た。
 大日本人の姿を、ルポルタージュ形式で描いた作品。期待していたよりは興味深い作品だと思った。だがお笑い映画といえば、かなり苦しい。俳優や獸のキャラクターで笑わせようという意図は感じるが、まあそれが笑いを誘ったかは劇場で観ていないので判らない。この作品はそれに値するかはともかく、やはり映画は劇場で観るべきものであると感じる。テレビで観る彼の笑いに似て、内輪受け的である。
 ここで描かれるのは、ヒーローの裏側、実情。世襲で伝わる大日本人は時代の流れとともに人気もなくなり、一部の人々から疎まれ、孤独で寂しい生活を送っている。先代では大勢いた使用人や取り巻きはいなくなり、世俗的な生活を送っている。「伝統」に則ってとりおこなわれる神事も単なる形式に堕し、神官はメディアのダメだしにも何の抵抗もなくやり直しに応じる。また、現代の大日本人はスポンサーという商業的側面を意識しなければ生きていけないようになってしまっている。日本の伝統や格式と言っても、所詮はこんなものだ、と言っているようだ。もちろん、現代の大日本人といえば・・・日本の象徴とされるあの方であろう。
 どこからやってくるのか判らない獸と戦う大日本人の姿はまさにエヴァンゲリオンのパロディ。実写になった部分はウルトラマン・シリーズのパロディ。アメリカン・ヒーローの登場ですっかり影が薄くなっている大日本人も、日本の国の置かれている状況なのか?とにかく、最後は破綻して終了した。

 

Fleurs

 4月になってから、毎週、花を選んでいる。やはり一輪だけでも花が飾ってあるというのはよいものである。また、花の名前も覚えるようになるし、季節なども感じられる。花を選ぶのはなかなか楽しい。一輪だけなら200円程度。ケータイで撮った写真だからみんなピンぼけ。構図も悪いのもご愛敬。
3月18日〜4月24日 バラ。鳩の顔の部分が花になったような感じになってしまった。花瓶はRosenthalのPollo。底面が丸くなっているため、花を挿したときにバランスが崩れる。オブジェとしてはいいが、花瓶としてはやや実用に欠ける代物。





4月24日〜5月1日 マーガレット。素朴な花。悪くない。







5月1日〜5月8日 デルフィニウム。結構、僕の花瓶にマッチした。フランスの先生が造花と勘違い。







5月8日〜5月15日 オンシジウム。一輪挿しの小さな口ではなかなか難しい。







5月15日〜5月22日 カーネーション。母の日の売れ残り。茎が太くて、僕の花瓶には合わない。生花なのに造花っぽい。胡蝶蘭も母の日に向けて売られるそうで、母の日を境に価格が暴落する。来年はこの時期を狙って買いたい。





5月22日〜5月29日 この花の名前、知らない。スーパーで買ったため。なんか刺々しくて好きになれなかった。







5月29日〜6月5日 トルコキキョウ。ふんわりとして華やか。








6月5日〜6月12日 スプレーバラ。これは面白みにも華やかさにも欠けた。花も開かず、これは失敗。普通のバラにすればよかった。






6月12日〜 芍薬。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」の芍薬。ティッシュをくしゃくしゃにしたような花で、日々、変化が見て取れるので面白い。