30 novembre 2006 

omelette:journal

僕はふわふわのオムレツを作ることができる。これは簡単なようにみえて実は難しいと思われがちだが、コツをつかめば簡単である。そのコツとは。
1,油を多めに使う
2,油を多めに使う
3,手早く作る(加熱は30秒以内)

つまりは、油を多めに使いさえすれば、素早く簡単に作ることができる。小さなフライパンは熱伝導の面積が小さいのでオムレツには好都合である。失敗する原因
 1,大きめのフライパンを使う
 2,油が少ない
 3,タマゴが少ない
 4,加熱しすぎる

 つまりは
すぐに火が全体に通ってしまうのが失敗の原因である。フライパンの余熱も考慮して手早くお皿に移すべし。
 あと、ふわふわのオムレツは上記の条件から極めてコレステロールとカロリーがリッチな食べ物であることを肝に銘じるべきである。やはりカロリーが消費される朝に向いているというのも頷ける。

29 novembre 2006 

CAPOTE:films

Bennett Miller監督のCAPOTEを観た。1959年カンザス州の田舎町で一家4人惨殺事件が発生する。この事件を知った作家カポーティは、この事件にインスパイアされ、現地へと取材に向かう・・・。
 この映画の大きなテーマは、作家による取材対象の搾取である。CAPOTEは看病したり、差入れをしたり、弁護士をつけたりして容疑者ペリー・スミスとの信頼関係を築き、多くの事を引き出しながら作品を書き上げていく。彼は自分と同じような境遇におかれて幼少期を過ごした容疑者に心情的に強く惹きつけられ、彼を失いたくない(この感情には彼を再び執筆活動へ駆り立てたことへの思いがあったのかもしれない)と思う一方、彼が死刑で死ななければ作品が成り立たないことへの焦りとの間で激しく動揺し、ついには破綻をきたしてしまう。彼は結果的に自らの名声を容疑者の感情や人権よりも優先させ、容疑者をCAPOTEの立場を危うくしてまでも守るべき相手とはみなさない。彼の恐ろしいまでの身勝手さに、一体、どちらが「冷血」なのか判らなくなってくる。
 この映画は実話に基づくものであるが、一つのサスペンスとしても非常に面白いものであった。しかもこの映画の題材は極めて現代的である。ノンフィクション・ノベルという分野がその誕生から取材対象を搾取することで生まれてきたこと、そしてそれと同様の問題が現在でもなお存在することである。取材する側、そしてされる側。極めて多くのパターンがあるが、この間には一定のモラルと信頼関係が必要になろう。昨今の報道をみていると、取材する側の論理とエゴと傲慢さがむき出しになっているような気がしてならない。
 
こ の映画を観てあれ?と思ったのは主演のPhilip Seymour Hoffmanがいやに小さく見えることである。彼の作品は数多く観ているが、彼が小柄であったという印象は全くない。むしろガタイがいい方だと思ってい た。注意して観ていたら、肩幅の狭いコートを着ていたり、朗読会の講演台が大きく、高めになっていたり、主要キャスト以外に看守その他のエキストラにまで 高身長の俳優を起用しているようだった(高身長の人独特の身のこなしというのがある)。共演のCatherine Keenerも5’9”=180cm近くとPhilip Seymour Hoffmanとほぼ同じである。Hoffmanのダイエットの効果もあるだろうが、全編を通してCAPOTEを演出している。

 

livres d'occasion:journal

ここ最近は「研究室を心地よい空間にするキャンペーン」と題して研究室のリストラを行っている。「掃除とは捨てることと見つけたり」ということで、まずは不要な本を処分することに。これまでの投資額を少しでも取り戻したいという思いからアマゾンのマーケットプレイスに本を一冊出してみたら、2日後に買い手がついた。内訳は以下である。
 売り手は1600円の本を500円で出した。
 買い手は500円+送料340円の合計840円を支払い、
 売り手は500円の儲けになるのかと思いきや、アマゾンの手数料(225円)というのが発生しており、500-225=275(円)しか口座には振り込まれないことを知った。

 300円にもならない儲けを得るために、緩衝材の入った封筒を買い、郵便局に2日以内で発送しなければならない精神的プレッシャーと手間を考えるととても割に合わない。

 そこで読書好きな学生さんに本を差し上げようと思い、研究室前に本を陳列している。なかにはバガボンドなどのマンガ(これは撒き餌のようなもの)もあり、ミステリー小説など新刊はかなり評判の高いものも置いてある。僕の目算では教科書以外では一年に一冊も本を読まない学生が半数近くいるなかで、どれだけの学生が持っていくだろうか・・・普段から思っていることだが、教科書しか読まない学生は自らを読書嫌いに追い込んでいるような気がしてならない。なぜなら教科書の多くは「読まされる」あるいは「必要に迫られて読む」ものだからだ。どんな楽しいことでもこれでは好きになるわけがない。何かを学ぶうえで「受け身」はいけないと言われるのは、何よりそれでは楽めないからである。

28 novembre 2006 

Calvaire:films

Fabrice Du Welz監督のCALVAIREを観た。
街から街へと老人ホームなどのどさ回りを続ける売れない歌手・Marc。彼は南仏でのクリスマス(!)の仕事をするために車を走らせるが、車が故障してしまう。そこでBartelという初老の男に宿を借りる。しかし、Marcは親切そうなその男によって村に閉じこめられてしまう・・・。
 この映画の題名はキリスト磔刑の地のCalbariaを語源として転じて「十字架」、「受難」などの意味がある。つまりこの映画は直接的にキリスト受難が織り込まれている。しかしこの物語ではキリストとは逆のパーソナリティを持つ人間がキリストと同じ受難に遭遇する悲劇を描いている。Marcは売れない歌手であるが、彼の魅力は周りの者を引きつけてしまう。しかしそれ故に彼は受難の憂き目に遭う。愛されるが故に、主人公は人々の孤独や欲望を一身に受け、キリストと同じように十字架に磔にされる。
 この映画では村人たちの異常さに目が向きがちであるが、注目すべきはMarcのパーソナリティ。彼はキリストのように何かをなしたのだろうか?他人から憎まれたであろうか?逆である。むしろ劇中では彼は何もしてない。歌えと言われれば一度は断るが歌うし、善意を与えられればさして疑うこともなくそれを受ける。流されているだけである。彼からはキリストに観られた信念のようなものは微塵も感じられない。ヨーロッパの観客には弥が上にもキリストとの対比が彼の身の上から浮かび上がってくるはずだ。
 この村には女性が出てこない。村人は女性がいないが故に獣姦に走ったのか、獣姦が女性を遠ざけたのか。おそらく前者であろうが、かつてこの村にも女性がいた。女性のいない村で人々は極限までに精神を病み、「歪んだ愛」がMarcに向けられる。(しかし、そもそもなぜ獣姦が罪になるのだろうか?生殖にかかわらない性交がキリスト教では禁忌にあたる論理は分かる。日本では法律で禁止されていないようだが・・・あまり書くとこのブログが「
獣姦」のキーワードばっかりでヒットするようになるため控えよう)
 この映画、邦題ではなぜか『変態村』となっている。確かに映画で繰り広げられる物語は変態的で、倒錯的ある。恐らく日本での配給を担当する会社はキリスト教の受難の物語が意識の中にはない日本で題名から設定、ストーリー展開に至るまであらゆるシーンで織り込まれる宗教的インプリケーションを観客に理解させることを放棄したのだろう。きっとこの題名でカルト的作品として売り込みたかったに違いない。それはそれで残念なことである。

25 novembre 2006 

Quelques films sur la guerre:films

 最近観た映画。桜坂劇場にかかっていたこととWOWOWにかかっていたことで、二日のうちに第二次世界大戦関連の作品を3本観た。
 池谷薫監督『蟻の兵隊』、アレクサンドル・ソクーロフ監督『太陽』、オリバー・ヒルシュピーゲル監督『ヒットラー最後の12日間』。ヒットラーはパリで観ていたが、台詞が不明な点があったため、正確には二度目である。
 まず『蟻の兵隊』と『太陽』だが、前者は兵士として中国に赴き、軍の命令で山西省に残留した兵士のドキュメンタリー、後者は昭和天皇裕仁を題材にしたフィクション。前者の奥村氏は20歳から80歳の老境に到るまでの人生の殆どといっていいほどの長いタイムスパンを射程にしているのに対し、後者の裕仁は「人間宣言」前の数日の姿のみを切り取っている。そして前者が人間としてではなく、兵士としての性格を浮き彫りにしているのに対し、後者は天皇としてではなく、彼の人間性を「表現」しようとしている。前者が血の出るような圧倒的なリアリティをもって「戦争の真実」に迫ってきたのに対し、後者の耽美な映像につつまれてつかみ所のないキャラクターが「戦争の真実」から観客の目を遠ざけようとしているようにさえなる(そもそもロシア人監督にはそんな意図をもっていないかもしれない。)。戦後60年経過した今も、戦争当時も両者の間には天と地ほどの径庭を存している。私にとっては後者の「芸術性」よりも、前者のリアリティがより人生への教訓を与えてくれたし、現代の日本を考える上でより多くの示唆をあたえてくれる作品であると感じた。当然ながら観ておくべき作品は『蟻の兵隊』である。
 『太陽』の描き方はなぜか『ヒットラー最後の12日』に非常に似ている。後者はヒットラーが地下シェルターに入り、死ぬまでの12日のできごとを描くが、いずれも両者は閉ざされた空間におり、彼らの人となりを具体的に検証することは一部の人間を除いては今となっては極めて難しいという現状であること、そして彼らがいずれも人間としては非常に優しい人物として描かれていることである。この一致は何故なのだろう?密室で、しかも時限を区切ることでしか彼らの「人間的にやさしい一面」を描くことが困難だからなのかもしれない(徹頭徹尾の悪人はいないという点でどんな悪人でもこのように描くことは可能である。パティ・ジェンキンス監督『モンスター』やベネット・ミラー監督の『カポーティ』をみよ)。『最後の12日』のラストにヒットラーの秘書・ユンゲがコメントを寄せている。彼女は最初は自分は何も知らなかった、知らなかったから仕方なかったのだと思っていたが、ユンゲと同じ年に生まれ、ユンゲがヒットラーの秘書に任命された時に処刑されたゾフィー・ショルのことを知ったときにその考えを改めたという。「若かったことは理由になりません。きちんと目を開いていればわかったはずです」と言っていたのが印象的である。戦争当時、昭和天皇への情報は極めて限定されており、日本の状況をちゃんと理解するような環境にはなかったのだ(→だから昭和天皇には罪はない)、という言説をよく耳にする。そもそもそんなことがあり得たのかは不明だが、仮にそうでもユンゲのコメントにならえば「ちゃんと目を見開いていればわかったはず」だったのではないか。この3本に加え、あわせてマルク・ローテムント監督の『ゾフィー・ショル 最後の日々』をご覧になることをお薦めする。

23 novembre 2006 

Télévision numérique terrestre:journal

同僚が新たにテレビを新調したらしく、その話をしていたらすでに沖縄で地上デジタル放送が普通に視聴できるとの由。僕のテレビでは観られなかったので圏外だとずっと思っていたら、単に配線が繋がっていなかっただけだった(笑) これまでデジタルとアナログの画質のギャップに違和感を抱いていたが、これでどのチャンネルも一定の美しさで観られる。しかし、デジタルチューナーがテレビ側しかないので、録画しながら裏番組をみるということができなくなってしまった。デジタルになったことで録画に関しては機能的にはアナログに劣る状況になったことには複雑な感情を抱いてしまう。しかし改めてチューナーやチューナー付レコーダーを買うのは躊躇われる。まだ市場価格が安定していないのと、新機能の「伸びしろ」がまだまだ見込めるからである。
 閑話休題。サッカーのヨーロッパ・チャンピオンズリーグ。中村俊輔のフリーキックでマンUに勝利した。しかし試合内容ははっきり言って凡戦だった。中村のプレイもフリーキック以外では全くもって精彩を欠いていた。だが一発で勝負を決められる強みが彼にはある。日本代表に入ったとき、彼の使い方に監督は頭を悩ますだろう。彼の起用はギャンブル的要素が付きまとうからである。個人的にはスーパーサブのような起用になるのではないかと推測する。
 CLの注目の一戦、Chelsea vs Bremen。個人的にはChelseaのモウリーニョ監督はこの試合にわざと負けるような作戦をとるのではないかと思った。その理由はBarcelonaを予選段階で蹴落とすため。Bremenが勝ち点3を獲得すればBarcelonaの決勝トーナメント進出はかなり厳しくなる。Chelseaがビッグイヤーを獲得するための最大のライバルがBarcelonaであることを考えれば、策士モウリーニョが予選での敗戦を画策してもおかしくはないと思っていた。
 今日、Chelsea vs Bremenの試合があったのだが、Chelseaは予想通り敗退した。この結果にモウリーニョの勝利への執念をみた思いであった。キタナイとか批判されそうだが、きっと真剣勝負というのはこういうことをいうのだと思う。
 最後にもう一つ。昨日、ルービック・キューブが届いた。解説をみながらであるが、6面完成させることができた。少し、嬉しかった。

19 novembre 2006 

élections préfectoralles

沖縄県知事選挙に行ってきた。いつも選挙のたびに釈然としないものを感じる。それは投票用紙を受け取るまでにID照合がないことである。僕が正当な投票人であるということを証明するのは送付されている投票案内だけである。仮に僕が全く別の人に投票に行ってもらってもその案内だけあれば投票することが可能である。これは悪用される可能性はないのだろうか?例えば、誰かがその投票案内を売り、誰かが金で買う。そしてそれを第三者が各投票所に投票しに行ったとしても「本人が投票」したことになってしまう。投票所にはID照合も顔写真照合もないので、同じ人間が投票所を変えさえすれば投票可能である(ちなみに沖縄県の投票所は300箇所程度)。チェックなどないに等しい。これが釈然としない理由である。

18 novembre 2006 

Cube de Rubik:journal


土曜日の朝。何だか久しぶりの休日なのでぼんやりとテレビをみていたら『伊東家の食卓』という番組をやっていた。そこでかつてのボーリング・ブームには秘密があったことが紹介されていた。それは昔のボーリングのレーンの殆どがトリック・レーンといってレーンに油を塗ることでボールの軌道をストライクになるように調整していたというのだ。客にとってのメリットはストライク連発で高得点で喜び、店側のメリットはストライクが出ることで客の回転がはやくなり(ストライクが出ると投球数は減る)、収入が増えるというものらしい。これには本当に驚いた。さすがに今はそのような細工はないようで、ベストスコアが200以上という人はこの恩恵に与っていると思った方がいいかもしれない。
 それともう一つ、ルービック・キューブの話題があった。僕も小さい頃、流行に乗せられて買ってもらったクチだが、結局6面を完成させることはなかった。そこでAMAZONの500円割引があったので、購入することに。今回注文したものは3×3の6面体のものだったが、同サイトをみてみると5×5の6面体のものがあった。一瞬、トライしてみようと発注をかけそうになったが、カスタマーレビューレビューを読んでやめた。その理由は以下のコメントにある。
 「色あわせパズルでしょ!?何で買ってきてケースから出した瞬間から端のほうが剥がれてて(透明なカバーシールじゃないですよ!、地の色がついているカラーシールです)、触ると手に引っかかって、そのうちメリメリ剥がれてきちゃうんですか?
 剥がれちゃったら、全部真っ黒なただのプラスティックの塊じゃないですか!どうしろって言うんですか!?」 この方には気の毒だが笑いが止まらなかった。とにかく、宿願を達成させる時が待ち遠しい。

15 novembre 2006 

D-Mat:journal

 松坂投手がRed Soxに移籍することになった。
年俸は12億ぐらいの攻防になるとのこと。
12億となると月給は1億円である。
メジャーのシーズンは7ヶ月で、仮に一ヶ月に約5試合登板するとする。
すると年間の登板回数は約35回。年俸を登板試合数で割ると、一試合は約3,400万円。
1回の登板に100球を投げるとすると、一球のお値段は34万円である。
1球34万円かぁ・・・失礼、無粋なことを考えてしまった。

14 novembre 2006 

Cepe extra, confiture d'orange sanguine et Beaujolais nouveau

 ここ最近は朝に半袖か長袖か迷うような気温である(今日は半袖)。しかし、テレビでみる風景は秋を通り越して冬の準備をしているようである。ということで僕も秋の味覚を堪能したくなったが、ここ沖縄では松茸は入手困難で、価格も高い。そこでパスタ用に買い置きしておいたポルチーニで炊き込みご飯を作ってみることに。
 もどしたポルチーニと戻し汁を入れてダシと醤油、ごま油を入れただけであったが、素晴らしく薫り高い炊き込みご飯ができあがった。さすが西洋の松茸と言われるだけある。むしろ、乾燥しているため、炊き込んだときの香りは松茸を凌駕しているかもしれない。
 昨日、スーパーにブラッド・オレンジのマーマレード・ジャムを発見した。イギリス認定のオーガニックのもので1300円とジャムとしては高めだったが、思い切って買ってみることに。今朝はそれを食べるのを楽しみにしてやや早起きしたのであるが、味としては普通のマーマレードと殆ど変わらなかった。やはりジャムは自分で作るに限る。添加物や防腐剤は入っていないので早めに消費しなくては。近いうちにラム・チョップでも作るとしよう。
 そうそう、16日にボジョレー・ヌーボーが解禁されるそうで、どこもなぜか大騒ぎ。いつになったらあんな若い酒をありがたがるのをやめるのだろう。以前に書いた文章があるので、ご参考に。

12 novembre 2006 

Logo de Chiba: journal









 上掲のロゴが千葉県の新しいロゴの候補だそうだ。あか抜けないという批判があるとのことで、逆に興味が湧いて調べてみたが、県民が怒るのも無理はない。誰がデザインしたのか調べると、以下のようにあった。
 グラフィックデザイナー 仲條(なかじょう) 正義(まさよし) 氏 
 経 歴:1933年東京都生まれ。
 実 績:資生堂企業文化誌「花椿」アートディレクション・デザイン(1970〜)
1933年生まれ=74歳の戦前生まれのグラフィック・デザイナーがいるということ自体に驚いた。73歳のIT技術なら上記のようなロゴになってしまうのも首肯できる。実績欄をみて、今、業界トップクラスの広告費を使い、最も売れているシャンプーとして注目を浴びているTSUBAKIと思いきや、1970年企業文化誌(社内報のようなもの?)のものだった(笑)
デザインについての説明がある。
 「ロゴは、多様な魅力の集約を表した県名の「ちば」の文字を「洗練」されたイメージでデザインしました。」
 活用方法も明記されていた。
「 ロゴ活用の第一弾として、「千葉ブランド水産物認定マーク」と組み合わせたものを作成しました。今後、このロゴを活用したポスターの制作などにより全国にPRしていきます。」
 
洗練されたイメージか・・・このマークを貼り付けられる商品の販売者に気の毒な気がする。
 千葉県も何故彼に依頼したのだろうか?デザイン界の重鎮らしいが、まさかTSUBAKIのデザイナーと「花椿」を取り間違えた訳ではあるまい。「重鎮」に依頼したのだから、これも安くない県民の税金が投入されている可能性が高い。県民には気の毒な気がする。こういうのもちゃんとコンペをして決めた方がいいだろうね。
 最後に言いたい。千葉県民よ!きちんとNO!の意思表示をしよう。嫌なものはイヤだと言わないと、権力はどんどん濫用されてしまう。また、県にとってもよくない。県民はこのロゴをみるたびに県民無視の県政を苦々しく思うに違いない。臥薪嘗胆ではないが、県政への不満が別の案件で爆発する可能性さえある。たかがロゴ、されどロゴなのである。

09 novembre 2006 

Mobile Number Portability:journal

 携帯電話をもっていない僕だが、番号ポータビリティに伴う変化には注目している。以下のニュースによると、AUが一人勝ちで、ドコモやソフトバンクは契約者数を減らしたそうだ。話題性としてはソフトバンクの一人勝ちだったのに、この結果は意外だった。数字とは正直なものである。
 もっと安くなって(3,000円で全基本機能使い放題とか)、もっと機能が充実(電子辞書が使えて外国語が入力できるとか)して、もっとスタイリッシュ(ゴテゴテしたデザインはイヤだけど、昔の黒電話の受話器のようなデザイン)になれば加入するんだけど・・・。

 

achat écologique:journal

 先日も新聞に出ていたのだが、2006年度新聞広告クリテーティブコンテストの最優秀賞のキャッチコピー「エコ買い」というのが新聞の全面広告で掲載されていた。左の画像にあるコピーである。これは、スーパーで古い牛乳から消費者が積極的に購入することによって、賞味期限切れで捨てられる商品を減らし、ひいてはCO2を減らそうという意図があるようだ。審査委員の講評に「棚の奥から新しい商品を取るという行為は「私もしている」と罪悪感をもった。古い順に商品を買うことがエコだという視点にハッとさせられた」とある。僕はハッとするどころか、この主張には違和感をぬぐえない。賞味期限をチェックして棚の後ろから新しい牛乳を買う。同様のことを「僕もしている」のだが、罪悪感は感じない。むしろあざとい方法で古い商品を買わせようとしている売り手に「罪悪感」を感じて欲しいとさえ、思っている。フランスではむしろ新しい商品が前の方に置かれていたので、わざわざ屈んで後ろから牛乳をとる面倒を常に感じていた。お年寄りはさぞかしつらかろうと思いながら。自分がこう思う背景には牛乳の鮮度偽装事件やスーパーのリパックをはじめとする経営重視の営業体質があるからである。そもそもスーパーで廃棄される商品を減らしたいなら消費者に鮮度の落ちた商品を買うように促すのではなく、そもそもスーパーの仕入れ量を減らせばいいのである。
 現代社会における商品の流通は極めて複雑だが、確かに総体としての「消費者」の意図が大きく反映していることは確かである。しかし個人がコントロールしているという実感は乏しい。多くの商品が並ぶ中、いつも購入するのはごく限られた商品なのだから。むしろ我々は廃棄される商品が必ず存在することを前提とした高くつり上げられた価格で商品を買わされているのである。一消費者の立場なら仕入れ量を減らして価格が下がるなら多少の在庫不足は問題にならないのではないか。また、鮮度が落ちたものが安くなっているならともかく、鮮度が違うのに同じ値段の商品を「CO2を減らすために」古い方を買いなさい、というのは痛みを消費者へ押しつける方便である。この方法なら事業者の営業成績を落とさないように在庫処理を減らすことができるかもしれない。しかし「賢い主婦」ともちあげて、負担をつけ回すようなやり方をこの広告に感じてしまうのだ。他にも色々とあるが、これが僕の違和感の源泉である。
 市内の何十カ所で、そもそも住民の数に見合わない大量の商品が山と積まれている。どこも同じものを売っている。こういうことを見なおすことが重要である。流通の改善は単純ではないが、売れ残るほど仕入れるな!と言いたい。これは一人の消費者として主張であり、ニーズである。最近は廃棄処分にしたものは家畜の餌にしたり、その他の転用をはかっているとのことである。鮮度の低い牛乳を買うことより、物流の量を抑えて、廃棄する道筋をつける方が先決ではないだろうか?

08 novembre 2006 

Boot Camp de Mac OSX Leopard:journal

 今、職場ではwindows、自宅ではMacを使っている。両方使えるというのは何かと便利な部分も多いが、面倒なこともある。それが販売されているソフトの多くがwin用、mac用と別々になっており、互換性がないからだ。そのため必要かつ高価なソフトはどちらか一方しか購入できず、引き裂かれた状況を時に味わう。マシンのデザインやインターフェイスはMacが遙かに美しいし、使って楽しいのは断然macだ。しかし、軽量化や提供ソフトの豊富さなどはwin用マシンに軍配が上がる。
 Mac OSX Tigerの次期バージョンアップ型のLeopardにはBoot Campというソフトがあり、Macのマシン上でwindowsとmacのOSを共存させることができるそうだ。これは朗報である。少なくとも1つのマシンで、win用のソフトとmac用のソフトを使うことができるため、MS OFFICEを2バージョン買う必要はなくなる。
 しかし、懸念もある。それはマシンが不安定になってしまうことと、ネットのセキュリティである。随分前のことだが、windowsが現在のようなユニコードベースになっていなかったとき、中国語のソフトを日本語windowで走らせることには困難があった。そこで中国語用のwindowsを使用するしかなかったのだが、その際一つのマシンでDual Bootという形で両言語OSを共存させるというソフトを使った。しかし、結局は動作が極めて不安定になり、何度もフリーズやHDクラッシュを起こしたという苦い経験がある。その時点では実用とはほど遠い段階だったのだ。そのためwindowsNTでユニコードが採用され、それ以降のバージョンで中国語や外国のソフトを使用する環境が大きく改善したことは当時としては福音ともいえることだったのである(今にしてみれば隔世の感があるが)。
 話をMac OSXに戻すと、Dual Bootは結構だが、これで動作が不安定になったりしないか心配である。動作が安定すること、これがパソコンの肝である。また、Macはウィルス感染の可能性が格段に低く、セキュリティソフトの購入費や手間、インストール後の動作の鈍化から解放されているが、Dual OSになるとこうした付随する問題も引き受けることになってしまう。やはりすぐに飛びつかず、しばらく様子をみるのがいいかもしれない。発売は来年らしい。

06 novembre 2006 

SCRAP HEAVEN:films

李相日監督の『スクラップ・ヘブン』を観た。警察官のシンゴ、トイレ掃除夫のテツ、薬剤師のサキが乗っていたバスが自暴自棄になった政治家の秘書の男にバスジャックされてしまう。シンゴはその場では何もすることもできず、テツは撃たれてしまう・・・。
 本当に『フラ・ガール』と同じ監督かと疑ってしまうほどテイストが違う作品だった。どちらかというとこちらの作品の方が好きだが、この作品を観て最初に思ったのは青山真治監督の『ユリイカ』にプロットが似ているということである。画面の作り方や台詞、全体のテイストは全く違うが、バスジャックに遭遇した被害者がいわば脱社会的になってしまい、転じて反社会的な行動に向かう点に同一性を感じさせるものがあった(ついでにいうと義眼が外れてしまうシーンはフランソワ・オゾンの短編にあったシーンにそっくり)。
 こうした同一性が気になってもこの作品は嫌いではない。加瀬亮の演技は、表情から心情が判りにくい現代の若者を体現しているようでなかなかいいし(個人的に彼は浅野忠信の再来だと思う)、オダギリジョーや栗山千明は存在感があるし、柄本明の哀愁漂う佇まいも素晴らしい。「世の中、人の痛みを想像できない奴が多すぎる」。こう非難する若者自身が、自らの行動の結果や人の痛みを想像できていなかったという状況に気づかされる。センス溢れるカットに隠された先が読めない展開もなかなかいい。ストーリーにリアリティは全然ないが、主人公たちの台詞に自分と同じ叫びのようなものが重なる瞬間もある。李監督の作品のなかでは、この作品が一番、監督自身が作りたかった作品だったのではないだろうか?

01 novembre 2006 

FLAGS OF OUR FATHERS:films

 Clint Eastwood監督のFLAGS OF OUR FATHERS を観た。"Flags of Our Fathers: Heroes of Iwo Jima"を原作に、後に硫黄島陥落のモニュメントとなった摺鉢山に星条旗を打ち立てた6人の兵士の戦場での体験と、生き残った3人のその後の人生を描く。
 物語は過去の記憶が蘇り、PTSDで夜中に目が覚める老人のシーンから始まる。若かりし頃に行った戦場での体験が80も越えた老境に達してもなお、生々しく迫ってくる。勘違いとなりゆきで星条旗を立てた行為によって、のちに"英雄"と祭り上げられることで苦悩を感じる主人公たち。現実に彼らが行った行為とそれにそぐわない賞賛の嵐。そして、それが戦争を継続させ、新たな戦死者を結果的に生んでしまう状況に荷担してしまう。"英雄"たちの一人は沈黙し、一人はこの状況を利用し、一人は酒に溺れて堕落していく。
 この作品は太平洋戦争を描いた作品であるが、国民輿論や兵士を戦争に駆り立てる方法は今も昔も同じパターンだということに驚いた。若者を戦争に駆り立てる裕福な層と戦地で死んでいく若い兵士たちという構図も同様。しかも、哀しいことに人々が政府の意図や策略に簡単に引っかかってしまうことも。最近では捕虜になったジェシカ・リンチとその救出劇を美談に仕立て、映画化さえした滑稽ともいえる物語の創造は、今も昔も戦争には恒例行事となっている(彼女はその後のインタビューで恐怖一発も銃を撃てなかったことを明言している)。
 辛酸をなめた経験を何度も思い出すことは極めて苦しいことだ。しかも、それによって後悔の念や自己嫌悪が再生産されてしまう。それゆえ、過酷な経験や屈辱的な体験は多くは人に沈黙をもたらす。そうして強いられた沈黙に乗じて、他人が都合のいい物語を捏造する。これは日本とて同様。それは違う!と心では叫ぶが、国を挙げて作られてしまった熱狂に冷や水をかけるマネはできない。せいぜい戦闘で死んでいった者の「意志」を借りて、謙遜してみせることしかできない。英雄譚に隠された当事者の苦悩を通して、英雄の真実の姿に迫るという点において、この題材は極めて有効である。
 写真と戦争で想起するのは戦場カメラマンのJames Nachtweyである。彼は言っている「戦争は一人にさえやってはならないことを万人に行っている」。日本の新聞に溢れているほぼ全て事件と同じレベルの犯罪をやっても何ら罪に問われることがないのが戦争だ。戦争が美談や英雄譚で語られるほど美しいものでも感動的なものでもないことを陰惨な戦闘シーンが物語っている。そういう意味で戦争の悲劇を伝える作品としては評価したいし、監督が主張したかったことや、メッセージには強く賛同する。しかし、この映画に関してはどうしても違和感が付きまとってしまう。
 この作品はアメリカ側の視点と日本側の視点という両者の視点をぶつけることで一方に偏ることのない戦争の現実に迫ろうとしている。こうした試みを共同で行うこと自体はこれまでにないものだったが、そもそも硫黄島の戦いというのはアメリカと日本という2つの視点だけに収斂されてしまうものなのだろうか?当事者の戦争の記憶は多種多様で、それぞれが違う現実を生きたはずである。戦闘なら戦士の数だけ、また近親者を含めると多くの視点というのがあり得るのだが、国というたった二つの立場だけで戦争を語れば事足れりと思っているのならそれは間違いだ。観客の方も両方から描いているから「客観的」だと思ったのならそれは違うのだとおもう。
 戦闘シーンに関しても気になる点がいくつかあった。アメリカは多くの兵器で日本の戦士に襲いかかるのであるが、殆ど日本側の死者が画面に現れない。日本兵を殺すシーンがあっても、それはカウンター的で現在のアメリカの国内法なら正当防衛と判断されそうなシーンばかりである。そして、日本兵は自決するというシーンがクローズ・アップされる。史実を文献などで確認することなく、この映画だけをみたアメリカ人は、この戦闘でアメリカ人は日本人を殆ど殺していないようなイメージさえ持ってしまうのかも知れない。そしてアメリカ側の戦死者が多数にのぼることをアピールすることで、実際の死者の数や沖縄戦の住民の死者の数などが隠蔽されてしまうような気がしてならなかった。硫黄島には当時も現在も住人がいない。硫黄島を足がかりにして、米軍は沖縄に入り、多くの非戦闘員の被害を生んだことが、どこか遠くに追いやられてしまうような危惧を抱かざるを得ない。
 また、この米軍兵士には多くのアフリカ系兵士がいたはずであるが、映画の俳優には一人もいなかったように思う。ネイティヴ・アメリカンが戦士たちの出自の多様性を代表するような存在になっているが、戦士のエスニシティの構成に関してはやや無頓着な印象を受けた。ラストに実際の写真が紹介されるが、これらの写真によって映画の映像が構成されていることをアピールし、ひいては映画の描く史実の信憑性を高める効果を演出している。この写真のなかにはアフリカ系と思しき兵士の姿もあった。それが映画になると出ていないのには意図があるのだろうか。
 戦争を映像化するのは本当に難しい。僕は人々が多く悲惨な姿で死んでしまう結果になった過去の現実に「感動」を感じるような気にはどうしてもならない。この映画はそもそも、英雄譚という捏造されたイメージで煽られた高揚感を拒否することからできあがった作品である。他人がこの映画で「感動」を催すのは勝手だが、僕は「なんだかなー」というもやもやとした感情が残ってしまう。両者の視点に立った「物語」が多くの「言い訳」に終始してしまうような結果になることを危惧するのは僕だけだろうか?
 この企画、逆にアメリカ側の状況を日本クルーが描き、日本の状況を米国クルーが映画化してみたらどうなっていただろうか?アメリカは日本の戦士を英雄仕立てにするだろうか?日本はアメリカの兵士たちの行動にエクスキューズを与えるように描くだろうか?
 反省なきところに悲劇はまた訪れる。邦題は『父親たちの星条旗』。

 

Fibre optique:journal

 僕の家に光がやってきた。キャンペーンとやらに乗せられてADSLから光ファイバー回線に乗り換えたのだ。これまでIP電話を使いながらもNTTの基本料金はキッチリとられていたので、この乗り換えによって1800円程度だった基本料金が500円程度になった(回線業者はAkkaからNTTに変更)。ネットの回線使用料自体はそれほど変わらないが、スピードが増して月々1300円+αの削減はそれなりにお得感がある。新しい回線によるネット接続は実はyahooなど普通のサイトを閲覧するだけではそれほど体感的な違いはない。しかし、Media PlayerやQuickTimeなどの動画のバッファは目に見えて速くなり、しかも途中で途切れない。これで自宅は研究室よりもネット環境が向上したことになる。
 しかし、問題もないことはない。実は光電話、光ブロードバンド、無線という形にするためにはビデオテープ程度の大きさの器機が4つも必要になる(内訳はONU(回線終端装置)+CTU(加入者網終端装置)+VoIPアダプタ+Air Mac)。しかも、コンセントのタップは電話を含め5つも必要になり、しかもアダプタはどれもおにぎり程度の大きさなので電源周りは混線の嵐。これを何とか見栄えのいいようにするために随分と悩ましい思いをした。願わくはこれらの器機をもっと小型化するか、一本化してほしいものだ。