24 mars 2007 

shut down day:journal

 本日3月24日はパソコンに一日中電源を入れないShut down dayだとのこと。そのことをパソコンのニュースで知ってしまった。今日でなくとも、こういう日があってもいいのではないかと思う。
 今日から羽田経由で韓国に行く。語学研修がメインだが、あちらで研究発表することになってしまった。これが最初は心の負担であったのだが、この一年間、研究の時間をなかなかさけなかったので、新たに研究をする意欲というか喜びというか、そうしたことを新たに感じる契機となった。このことは僕の内面ではことのほか大きい。
 久々の韓国は楽しみである。まだ二回目だし、言葉も拙い。まだあちらは寒いだろうし、発表もどれだけ受け入れられるか心配でもある。しかし、今回は単なる旅行では得られないものがありそうな気がする。

23 mars 2007 

l'harangue au coin de la rue:journal

 今朝は都知事選のニュースが多い。注目候補と数人の明らかな泡沫候補の該当演説の様子を放映していた。なかでもドクター・中松は出色。北朝鮮から来たミサイルを、そのまま自分たちに戻るように誘導する技術を開発する!と公約(?)していた。思わずカフェ・ラッテを吹き出してしまった。
 ジャンプ連載のマンガ、テニスの王子様の実写版の映画を観た。まじめなテイストなのか、ギャグ映画なのか真意が不明。ここ最近観た映画のなかでは最低ランクの作品だった。韓国行きを前に時間の無駄であった。

14 mars 2007 

contribution et fond d'étude

 インフルエンザ治療薬「タミフル」と異常行動死の因果関係を調べている厚生労働省研究班主任研究者の国・公立大教授の講座が、タミフルの輸入販売元「中外製薬」から寄付金を受けていたことが「問題」になっている(こちら)。
 このニュースに接したとき、一般の人はこの教員をなんて奴なんだ、と思うかも知れないと思った。そして実際にそうした論調でテレビや新聞、ブログでコメントされている。しかし、僕はやや違った印象をもっている。
 これは「産学連携」の名の下に大学が企業から研究資金を集めることの大きな弊害である。その昔、大学が産学連携を否定していたのは、連携することで研究の独立性が損なわれることの懸念があったからである(実際に戦時中は大学の研究が植民地支配や戦争に大きく「貢献」した)。しかし、独立法人化後の現在では大学は外部資金を獲得しなければ研究ができなくなるほどになっているので、大学は研究資金や寄付金を企業などから獲得するよう教員の尻を激しく鞭打っている。そして、外部資金を獲得した「いい教員」には査定でも高く評価されるようなシステムになっている。逆に科研費という外部資金の申請をしていない教員には研究費を減額するということも実際に行われ、私など文系学部の年間研究費は25万円足らずといった状況である。
 一般の感覚からすると年間25万を多いとみるか少ないとみるかは議論が分かれるかもしれない。考えてほしい。月2万円である。子供の学習塾の費用にも満たない額である。しかも、25万円には沖縄から本土への出張費(飛行機代+宿泊費+日当)も含まれる。一回、学会に出張したらその3分の1はなくなるのである。外部資金がとれなければ研究は自腹。これが国立大学法人の研究費の実態である。
 さて、先の寄付金のニュースに戻ろう。文系・理系を問わず、日本のほぼ全ての国立大学法人は教員に外部から研究資金を獲得するよう「脅迫に近い行為」を行っている。昔から医学の世界は製薬会社との癒着が懸念されているので、こうした疑いが生じても仕方がない。だが、研究の成果を企業に不利にならないようにしていると疑われるような、ともすると痛くもない腹を探られるように追い込んでいるのは現在の国や大学のあり方の「成果」でもある。そうした状況があるなかでの、このニュースなのである。「そりゃないよー」と思った研究者も多いのではないか。もちろん、外部資金を取っているなら関連の委員会は辞退するというのが筋であろう。問題があるとすればこの点である。しかし、専門性が高く、狭い医学の分野で、すぐに取り替え可能な教員がいたのだろうか?
 これと類似した例を挙げよう。スポンサーからの広告費で成り立っている民放テレビ局と国の税金と国民(とそれ以外の人)からの受信料で成り立っているNHK。これが独立法人化は全てが民放になってしまったようなものである。NHKがなくなることの問題点はNHKを通じてご存知であろう。
 しかし、NHKにも問題がある。なぜなら、NHKの予算は国会の承認を得て成立するものなので、国会議員の批判はNHKは極力避けるし、「慰安婦関連の番組の内容を改変せよ」という報道の中立性を損なう申し出も受け入れなければ、予算が国会を通らないかもしれないとNHK首脳は判断するだろう。NHKも中立ではない。この点、イギリスBBCとは異なる。

11 mars 2007 

Dylan et Katherine:journal

「海外吹き替えドラマの「話し方」、その特徴は?」という記事に接した。
この記事で知ったのだが、これをパロティにしたコントがあるようである。そこで、YouTubeでそのコントを観てみたが、ディランとキャサリンは最高。海外ドラマの台詞は一種、独特の世界を作り出しているが、こうしてパロディになると相当、笑える。キャサリンの台詞の前に息を吸い込む小技が効いている。そもそも、なぜこのような台詞回しが定着したのか?これは学問的な研究テーマになりうる。非常に興味深いテーマだ。

09 mars 2007 

l'umpulsion:journal

 マイケル・ジャクソンが来日しているようだ。以前からマイケルの映像や写真をみると、あの鼻をつまんでみたい、という衝動に駆られる。ついでに、つまんだ後、スナップをきかせて手首をくるっと返したくもなる。僕の中では今一番やってみたいことのトップにランクインするだろう。マイケルの変遷に関してはこちら
 それはともかく、今回の映像で驚いたのは、マイケルが老眼鏡をかけていたこと。年齢から考えればおかしくないが、鼻梁が変わったり、脱色したりした時以上に、意外だった。

08 mars 2007 

Real the Movie:films

これは一種のプロパガンダ映画。Real Madridのドキュメンタリーと陳腐な内容のフィクションを織り交ぜた、くだらない作品。世界各地でReal Madridに関心を持たなかった人々が彼らにはまっていくストーリーだ。この映画の公開から1年ほどしか経過していないが、当時の「銀河系スター軍団」は現在、数人しかPITCHに立ってない。こうした映画が製作された背景を考えると現在のReal Madridの凋落が必然であったと感じる。やはりサッカー・チームである以上、美しく、強いサッカーをしなければファンは離れていくだろう。

07 mars 2007 

Das Schloss:films

 Michael Haneke監督のDas Schlossを観た。Franz Kafkaの未完の小説『城』を映画化したもの。原作に忠実に映像化されたそうだが、残念ながら原作を読んでいなかった。そのため終始この物語は何?と、疑問だらけで次々に繰り広げられる状況をみることになった。そして、Kの埒があかない状況がいつまで続くのか不安が高まってきた時、突然、物語は暴力的に終了する。原作のカフカの物語はそこで終わっていたからだ。
 Kは測量技師で、「城」から仕事を受けてやってきたのだが、なかなか「城」にはたどり着けず、その土地では仕事をさせてもらえない。帰ろうと思っても既に帰るべき場所はなく、自分を受け入れるべき場所からは常に疎外されている。僕が映画をみて念頭に置いたのは余所者と現地の人々との間に繰り広げられるある意味で非常に普遍的な、田舎的状況である。こうした感じはLars von TrierのDog Villeに通じる。コミュニティ特有のルールが共有されているなかに、余所者がやってくる。その余所者に対して、コミュニティの人々は警戒心を抱き、なかなか受け入れようとしない。そして、余所者は土地のルールに戸惑い、困惑し、孤独と理不尽な感情を抱く。そうしたことが繰り返し、繰り返し、繰り広げられる。「城」が何かの象徴であることは確かであるが、この象徴は恐らくそれぞれの心のなかで漠然と描かれるのだろう。途中でKと村人とのあまりのミスマッチに苦笑さえしてしまうが、これはやはり悲劇ととらえるべきなのだろう。
 こうした状況に置かれた実際の人を想像してみる。例えば、奴隷としてヨーロッパやアメリカに強制的に連れてこられたアフリカの人々、紛争や差別、迫害で住む場所を奪われたユダヤ人・・・世に難民と呼ばれた人々や亡命した人々はみな多かれ少なかれKと同じ苦しみと孤独を味わったことであろう。未完であるにもかかわらずこの物語がかくも世界で読まれるのはこの普遍性ゆえである。また、未完であってもなおもこの物語が許容されるのは、こうした「ヨソモノ感」とも呼ぶべき状況は帰るべき場所を失った者にとっては死ぬまで続くからかもしれない。原作や他の作品も読んでみようと思う。邦題は『カフカの「城」』。

05 mars 2007 

Everybody's Gotta Learn Sometime:journal

映画『エターナル・サンシャイン』はテレビでやっているとどうしても観てしまう。この映画、音楽もいい。特にラストに流れるBeckのEverybody's Gotta Learn Sometimesはお気に入り。この曲だけを買いたいと思ったが、日本のiTuneにはない。だがYouTubeに入っていた(Eternal Sunshine of the Spotless Mind Music Videoで検索するとヒットする)。何だか切ない曲だけど、いい感じだから聴いてみて。

04 mars 2007 

déclin de DVD Recorder:journal

 毎日新聞の記事「<DVDレコーダー>普及進まず 操作の難しさなどで敬遠か」に接した。普及しないことに関してはさもありなんだが、コピーガード制御機能の行き過ぎた強化とHDの大容量化の要因は大きい。操作が煩雑になった理由はコピーガード制御機能のせいでもある。
 現在、僕の部屋には3 on 1(ビデオ、HDレコーダー、DVDレコーダー)とリージョン・フリーのDVDデッキがある。後者のDVDデッキではレンタルしたDVDや音楽を、前者は殆どHDレコーダーの機能(録画と再生)しか使っていない。なぜ、そうなったのかは必然である。

 1,HDの容量が大きくなり、DVDに落とす必要がなくなった。
 2,録画するDVD-R(RW)の媒体がコピーガード対応しか使えないため、機種購入当初の1年前は価格が高く、選ぶのが面倒だった。
 3,著作権保護のためコピーガードの制限が厳しくなり、DVDレコーダーを使ってDVDに番組を落としても、それをコピーガードに対応しているデッキでしか観られない。そのためそれを誰かに貸したり、大学で教材として使うこともできない。(観られるのはほぼ最新機種に限られるため、いちいち相手の器機を確認したり、コピーガードの説明をさせられるのは面倒だ。)

 録画した番組は自分のデッキでしか観られないため、
結果的にDVDに落とす必要性が極端に減った。3に関しては大学の機材が対応していないし、PCでも観られないのでお手上げ。テレビのデジタル化もコピーガード機能強化に一役買ったことは言うまでもない。
 もし、今、機器を買い換えるなら、HDレコーダーに特化した機種を買うだろう。実際に使用してみて、さして使えないことが経験的に分かったからだ。もっと言えば、高機能のリージョン・フリー対応のDVD再生機能付きHDレコーダーが1台ですめば理想的である。テレビ周りがこれでスッキリする。今はリージョン・フリーのDVD再生専用デッキは安いものなら6千円ほどで買えてしまう。
 このコピーガード制御は性悪説に立った機能だ。一部のフトドキな者の行為によって、全体が大きな負担と迷惑を被ってしまったいい例である。これが結果的には業界の低迷を招くというのは皮肉な話だ。

03 mars 2007 

Le divorce:journal

 先日、夜中に目が覚めてテレビをつけると「さんま御殿」をやっていた。そのお題「私だけじゃないんだと思ったこと」に対し、ある女性が「離婚届を役所に出しに行ったら、沢山の人が並んでいた」とあった。思わず笑ってそのまま全部観てしまった。
 それはともかく、宇多田ヒカル君が離婚を発表したそうだ。彼女が上記の女性のように思ったかは定かではないが、他人が関知できない事も二人にはあったのだろう。こういうことを詮索するのは野暮というものである。昔、ブラッド・ピットがジョージ・クルーニーと来日した折に、マスコミは映画の質問そっちのけでこぞって離婚の理由を問いただした。それに対してクルーニーは「恥を知れ!」と叱責したという。離婚は結婚よりも100倍大変だという。恋の終わり以上に、きっと誰も無傷ではいられない。
 マスコミももっと大人の対応ができないものなのだろうか?芸能人も社会的に放置される権利はあるのだから。こうした話題を詮索するのは「知る権利」とは思わない。

 

su-ki-da:films

石川寛監督の『好きだ、』を観た。
最初はその設定からセカチュー系の純愛モノだと思っていたが、いい意味で裏切られた。物語はゆっくりと、ゆっくりと、淡々と流れていく。17歳の頃のユウとヨウスケと34歳の二人を別々の俳優が演じているが、殆ど違和感を感じないのが不思議だ。西島の面影に瑛太が、永作の表情に宮崎がよぎる瞬間がある。全編を通して生活感が排され、登場人物の静かな思いだけが浮遊する、一編の詩のような作品。

 

Le Temps du Loup:films

Michael Haneke監督のLe Temps du Loupを観た。
舞台はヨーロッパ。疫病が発生し、生活が危機的状況に陥る中、GeorgeとAnnaは二人の子供とわずかな貯えを持ち、田舎の別荘へ向かう。しかし、そこには他人が侵入しており、Georgeは射殺されてしまう。Annaは二人の子供とともに路頭に迷ってしまう・・・。
 この物語自体はSF風の設定をしているが、これは起こりえない恐怖を描いたものだろうか?それは違う。実際に紛争や災害によって住居を追われ、共同生活を余儀なくされた人も世界には大勢いるし、情報もなく、金も紙切れ同然になり、希望もなく、流言飛語によって混乱させられ、それを信じ込んでしまう精神状態になることは十分にあり得る(混乱状態でなくても信じる人間は多いが)。水道水が故意か過失か何らかの理由で汚染され、疫病が発生する可能性は現実世界でも否定できないし、実際にこれまで起こったことである。また、混乱状態のなかで外国人などの被差別者が犯罪の嫌疑をかけられたり、不条理な怒りのはけ口になることも、実際に起こったことである(関東大震災の時、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という噂から端を発し、朝鮮人の虐殺が行われたことや、新聞がデマを検証なしに取り上げて不安を増幅させたのはその証拠である。) この物語はフィクションであるが、過去に現実に起こったことを考えると極めてリアルで、決して未来の、外国の、自分とは全く関係ない不幸ではない。そんな思いを抱きながら画面を凝視してしまった。
恐怖を与えることを狙った凡百のホラーよりも、ずっと恐ろしい作品である。
 しかし、この映画には一縷の救いのようなものもあった。火の中に飛び込もうとする少年Bennyを制止しながら、少年を宥めるシーン。少年に語りかけられる台詞は不器用だが、心を打つ力と優しさを感じる。そして、ラストの車窓からみえるフランスの田園風景。他の映画で同じようなカットを何度も観たことがあるが、このカットほど希望や期待を抱きながら観たことはなかった。このラスト、僕の中では紛争から逃れて亡命する人々の視線と重なった。
 この映画、カンヌを席巻した『ピアニスト』の前に製作されたようだが、監督やIsabelle Hupperの営業努力にもかかわらず上映できなかったそうである。しかし『ピアニスト』の成功により、ようやく日の目を見たそうである。あれだけの実績がある監督の作品でさえも上映が難しいことに、市場原理の不幸を感じる。邦題『タイム・オブ・ザ・ウルフ』。

02 mars 2007 

une grenade dans des pommes de terre

このニュース、シャレにならない。先日、クラスター爆弾について書いたが、これと同じことが起こりうる。今でも沖縄では不発弾処理のため時々道路が封鎖される。そんなこと、東京では考えられないでしょ?ついでに言えば中国でも旧日本軍が残した爆弾が残っているけど。