28 novembre 2008 

mon petit déjeuner 4:journal

 今朝は肉うどんと種なしの柿。ボクは朝の肉うどんが大好きだ。出張先のホテルの近くに「なか卯」のようなお店があると嬉しくなる。朝肉うどんが食べられるからだ。
 


 それはさておき、冷凍の讃岐うどんと関西風のつゆ。具は前日の残り物。牛肉、タマネギ、長ネギを炒めたも。それにたっぷりとわかめを加える。器はやはりパリで買った名もなきカフェオレ・ボウル。
 デザートは今朝も柿。今回は種なしを買ったつもりだったが、何故か一つだけ、種が入っていた。買ったのは
果たしてどちらだったのか・・・覚束なくなった。器はGienのカフェオレ・ボウル、Alice

27 novembre 2008 

mon petit déjeuner 3:journal

 宜野湾市に「くろしお」というお店がある。ここは生イラブーの出汁を使った沖縄そば出してくれる。ウミヘビの出汁と言えば、さぞかし個性的な味かと思いきや、あっさりと上品な味だ。
 また、ここでは生イラブーの出汁を冷凍で販売してくれる。1袋500円。イラブーの出汁をとるには丸二日、かかるという。昨今、フェアトレードが叫ばれ、貧困国・地域から搾取することによって成り立つ取引を考えなおす動きがある。ボクも大いに賛同する一人だが、この出汁は申し訳ないほどに安い。鍋に好し、雑炊に良し、鶏ガラスープのように汎用性が高い。この出汁は使える!しかも、滋養にいい。
 今日の朝食は、この生イラブー汁で作ったおじや。出汁にご飯、しめじ、白菜、長葱を入れて煮る。沸騰したら火を止めてBRICOのホーロー鍋の余熱で味が染みこむのを待つ。
その間は録画番組を観たり(サッカーかお笑い)、シャワーを浴びたり、物思いに耽ったり、人生の無常を感じたり・・・最後に醤油で味を調えるだけ。
 さて、いらぶおじやの味は、申し分ない!食べると汗ばむほどにカラダが熱る。疲れている時や、食欲のない時には「もって来い!」だ。しかも、手間いらず。
 ちなみに器はパリで買ったノーブランドのカフェオレ・ボウル。レンゲもどこの誰が作ったのかは知らない。

生イラブーそば『くろしお』
沖縄県宜野湾市愛知238-2 tel 098-892-1965

26 novembre 2008 

mon petit déjeuner 2:journal

 今日の朝ごはんは水餃子。那覇市小禄の漢謝園の手作り水餃子をテイクアウトしたもの。本場の水餃子は皮が肉厚。それだけで主食になるのが日本の餃子との違い。
 水餃子の上にはフライドオニオンをふり、黒酢、醤油、石垣島ラー油をあわせたタレで頂く。この石垣島ラー油、かつては近所の自然食を扱う商店で買えたが、今やすっかりレアな代物に。一ヶ月に一回、某所で発売され、その日のうちに50個全てが完売するという。
 今日の飲み物は水餃子にあわせ、台湾で買ってきた桂花烏龍茶。カップはシノワズリーな極楽鳥をあしらったGienのマグ。メニューとのマッチングに、ひとり悦に入る。

25 novembre 2008 

mon petit déjeuner:journal

 朝はしっかり炭水化物とヴィタミンを摂る。ウチの朝食のコンセプトだ。
今朝は生パスタのバジルソース。1分半で素早く茹で上がるほうれん草入り生パスタにアンチョビとバジルソースを絡める。具は葱とシメジのみ。
 デザートは旬の柿。しっとりと熟れるまで待ったものが美味しい。そのうえ、一日に必要なヴィタミンCを1個で摂取できる。


 忘れてならないのが飲み物。ホッとしたい時は、カフェ・ラッテ。シャキッとしたい時は、St. Pellegrinoに多めのレモンを加える。何でもないときはLavazzaのエスプレッソ。
 朝は時間の経過が速く感じる。これは朝には代謝が落ちていることと関係があるという。しっかり食べて体を目覚めさせねば。

24 novembre 2008 

病の起源:journal

 NHK『病の起源』第6集を観た。最終回は<アレルギー>。
「人はなぜ病気になるのか、人は病から逃れられないのか」。このシリーズ、問題設定がいい。
 番組では花粉症をはじめとするアレルギー疾患など、近年患者数が増えた病気の原因をこれまでの研究成果を踏まえて説明する。自然や家畜を遠ざけ、「清潔な環境」を求めたことで、感染症から死に至ることはなくなった。しかしかえってアレルギーを増やしてしまった皮肉があるという。
判りやすくて非常によくできていた。
 シリーズ第5集では糖尿病も扱っていた。食べたいものを食べたいときに食べる。そんな一部の現代人の栄養摂取のあり方が病をもたらした。アレルギーも、糖尿病も、人類がその発生から現在までどのような生活をしてきたか、それと現代人がどれほど隔絶した環境にあるかを対比し、人類史的スパンで原因を考察する。
 残念ながら、このシリーズをボクが観ることができたのは、第4集以降である。いつかまとめて再放送してほしい。このシリーズを観ながら思った。医学というのは何と興味深い研究分野なのだろう、と。

23 novembre 2008 

21:films

Robert Luketic監督の21を観た。
 実はボクはこの映画を観たかった訳ではない。blue-layレコーダーを買ったので、ブルーレイの実力を確認したくて、TSUTAYAでブルーレイ対応のタイトルのなかからこれを選んだ。その他の作品はすでに観たか、退屈そうなハリウッド作品ばかりであった。
 さて、この映画、HarvardのMedical Schoolへの合格が決まったMITの貧乏学生が、教授と同級生の誘いでラスベガスのブラックジャックで大儲けを試みるという作品。劇的な筋書きでそれなりに楽しめはしたが、どこか陳腐な印象が拭えなかったのは、
実話にハリウッド的脚色を施したからだろうか?MITの教授が元ギャンブラーで学生をスカウトしてチームを組織するとか、イカサマでもないのに大儲けしたらセキュリティに地下室でリンチされるとか・・・。実話では殆どがアジア系学生だったらしいが、忠実に作ったらどうだったのだろうか。かえって面白かったかも知れない。余談になるが、学生チームにアジア系の学生が一人いた。「チョイ」と名乗っていたが、韓国系なら「チェ」だろぅ!チェ・ジウのチェ!いくらなんでも自分の名前をローマ字読みするはずがないと・・・。
 白状するが、ボクは勝負事には滅法、弱い。囲碁も将棋も勝てないし、ましてやお金をかけたカードゲームなどやる気も起こらない。もちろんブラックジャックもだ。恐らく、思慮深く、本当に数学ができる人間なら、ギャンブルなどはしないだろう。確率から損をする可能性が大きいからだ。劇中の話も困窮と若さのなせる業だったのかも知れない。HarvardのMedical Schoolの授業料は30万ドル(3000万円!)もするのか・・・
金なき者は門前払いだ。それこそ一攫千金でもしなければ届く金額ではない。ヨーロッパのように大学の授業料がタダ同然というところもあるが、何でもかんでもアメリカに倣うと日本の大学はとんでもないことになるんじゃないかと感じた。邦題は『ラス・ヴェガスをぶっつぶせ』。これは原作のタイトルに由来している。
 それはさておき、ブルーレイ画質はどうだったか。近視と乱視のボクの両眼では、従来のDVDと径庭はない。テレビを並べて比べれば若干の違いはあるかも知れないが、そんな環境にいる人は少ない。

19 novembre 2008 

La Tourneuse de pages:films

Denis Dercourt監督のLa Tourneuse de pagesを観た。
 少女Mélanieはピアニストになるべく音楽学校を受験する。
食肉店を営む両親からは落ちてもピアノを続けることを許されるも、彼女は家庭事情を知ってか背水の陣で臨む。
 彼女の演奏途中、審査員の一人である著名なピアニストArianeがファンからのサインを書き始める。それをみて、Mélanieは心乱され、演奏は台無しになってしまう。誠に少女らしい動揺であるが、言い訳は許されない。結局、彼女は涙をのむ。 
 長じて美しい女性になったMélanieは、Arianeの夫の営む法律事務所で見習いをすることになる・・・。
 審査員のArianeにとっては些細な行為が、彼女の全ての希望を奪う復讐を招いてしまう。Mélanieの復讐計画は緻密に計算され、一分の隙も見せない。映画や舞台においても復讐劇を描いた作品は多いが、多くの復讐者が法を犯すことで復讐対象と差し違える可能性があるのに対し、Mélanieは法に触れないラインでArianeを陥れる。それはArianeの試験でのかつての行為が、無神経だが決定的な瑕疵とは認め難いのと相似している

 Mélanieが譜めくりという設定は絶妙。まさに二人の関係を象徴している。ピアニストにとって、譜めくりという存在があれほど大きなものだとは知らなかったが、たとえピアニストが演奏でミスをしても、一般にその咎は譜めくりに向かない。まさにMélanieは譜めくりが微妙にタイミングをずらして演奏を乱すが如く、Arianeの心に浸透し、人生を切り崩していく。
 人を殺したり、暴力をふるうような
犯罪に走らない。それでいて大切なものを確実に潰していく復讐劇。ハリウッドではない、フランス映画らしい作品だ。邦題は『譜めくりの女』。

12 novembre 2008 

C'est toujours la même ritournelle!

 千葉でまたもや、無差別殺人が行われた。容疑者はまたもや、「誰でもよかった」と言っているそうである。
 もはやこの科白は無差別殺人者の常套句となっている。これを聞くたび、本当にそうだったのだろうかと思う。むしろ「自分を知っている誰かではなく、自分の知らない誰か」を「選んで」行っているようにしか見えない。
 報道によると、千葉の事件は父親とのトラブルが関係しているらしい。別の事件でも、母親との諍いが引き金になった。なぜ、トラブルの直截原因となった人物に犯行が向かわないのか?
 あれほどの犯行に至る人間の心の裡を理解することは難しい。ただ想像するに、親殺しの代償行為のようなものだったのではないか。つまり親を殺すには忍びない、だけど困らせてやりたいといった気持が根底にあったのではないか。自然災害や事故のように、知っている誰かが死ぬより、知らない誰かが死ぬ方が、自分の心に及ぼす影響が少ないと思ったのかも知れない。
 親は厄介であると同時に、究極的に自らを庇護する存在にもなりうる。そうした存在を残しておきたかった。凶悪な犯行のなかにも、彼らの打算が見え隠れする。
 ・・・なんてことを朝のエスプレッソを飲みながら考える。

08 novembre 2008 

Du Levande:journal

Roy Andersson監督のDu Levandeを観た。
 スウェーデンのとある街。ロック歌手との結婚を夢見る少女は、彼に伝える言葉をいつも口ずさんでいる。夫から「クソババア」と言われた小学校教師は、児童の前で涙を流し、夫は客の前で妻をなじったことを後悔する・・・。こうした日常の哀しみや、小さな不運を嘆く人々のエピソードと、登場人物のささやかな夢からこの物語は成り立っている。作風としては、オタール・イオセリアーニに近い。
 振り返れば自分の日常も彼らとさほど変わらない。隣人に腹を立てたり、小さなことにくよくよしたり、好きな人のことが気になってしょうがない。この作品でも他人からみたらクスッと笑ってしまうエピソードが散りばめられている。
 しかし、ラスト附近に登場人物たちが空を眺める辺りから雲行きは怪しくなる。彼らの視線の先には無数の戦闘機。長閑ともいえる街をめがけて飛来しているシーンで突然、本作は終幕を迎える。
 幕が下りたときにボクらはやっと気づくのだ。「命ある者よ、逃げようとするお前の足を忘却の川が濡らすまで、暖かな寝床を楽しむがよい」という冒頭のゲーテの言葉の意味を。彼らの些細な不運も、哀しみも、戦闘状態に置かれた日常からすれば、愛おしいものなんだということを。
 思い返せば、彼らが口にする話題には、国家や隣国の脅威やテロリズムといったおどろおどろしい言葉が出てこない。全編が軽妙な音楽に彩られるような日常なのだ。
 バーテンダーがラストオーダーの時に言う決まり文句「ラストオーダー!また明日があるよ!」。劇中では三度ぐらい使われていただろうか。監督は、この言葉の真の意味を観客に噛みしめて欲しかったのだろう。
 原題は「君は生きている」の意。邦題は「愛おしき隣人」。燻銀の、含蓄ある作品だ。

05 novembre 2008 

soutiens-gorge:journal

 Triumphという会社が「裁判員制度ブラ」なる下着を発表するそうだ。カップの内側には、「有罪」「無罪」をイメージした白黒リバーシブルパッドがついているとの由。裁判員制度への関心を高めるのが目的らしいが、この会社に制度への問題意識がどれほどあるのだろうか・・・?
 ばかげているが、笑いが止まらない。

04 novembre 2008 

Histoire régionale:journal

 金沢から沖縄への帰途、小松空港の書籍コーナーを覗いたら、北國新聞社編『金沢検定予想問題集2008』時鐘舎なる本が陳列されていた。暇つぶしに購入して、実際に問題をやってみると、情けなくなるほど、解けなかった。これまでたまに帰郷しても郷土史関連の書物には目もくれなかったが、少し基本的な事柄だけでも押さえておこうという気持になった。これも同窓会で地元に根付いて頑張っている友人たちに接して触発されたからなのかも知れない。
 沖縄でもそうなのだが、学校教育のプログラムでは「日本」の歴史を勉強しても地元の歴史に触れる機会は滅多にない。教科書では「重要」なことと「瑣末」なことを篩にかける。義務教育では基本的に地域の生徒のニーズは反映されない。
 ゆとり教育が何かと批判に晒されるが、そこでできた「ゆとり」を郷土史の学習に充てる動きもあるようである。理系科目の基礎をきちんと踏まえないのはやはり問題だと思うが、地歴や国語のような分野では、「ゆとり」から得られる豊かなものもあるんじゃないかと思う。

03 novembre 2008 

association des camarades:journal

 二十数年ぶりの中学校の同窓会に参加した。これほど本格的で大規模な同窓会は初めて。これだけの年月が経過すれば、記憶も曖昧糢糊。相手の顔を観ながら、胸元の名札に視線を滑らせることも屡々。声をかけるにも、昔の渾名で呼んでよいものか躊躇する。それは向こうとて同じで、今までされたことのない呼ばれ方に面映ゆい思いをする。沖縄にいることを伝えると、みんな「沖縄はいいねぇ」と言ってくれたので、嬉しくなった。
 今回は幹事さんが同窓会をプロデュースする会社に依頼したのだが、名札を作るだけでも頼んだ甲斐があったと思う。こうした発想は同級生の仲間内からは出てきにくい。思いついても実行に移すには抵抗があろう。
 中学生のボクは小柄だった。そのことを同級生たちの反応で思い出した。女子からは手振りを交え「こんな小っちゃかったんにー」と言われた。あと、随分と女子の気に障ることも言っていたようだ。憶えがないが、きっと本当のことなのだろう。その場は平謝りするばかり。彼女たちからすればボクは本当に幼く見えたんだろうな。
 しかし、みんな元気でやっていることが分かってよかった。みんな日常生活ではそれぞれ悩みをもっているだろう。具体的なことは関知し得ないが、この年齢になれば想像がつく。でも、そんなことも忘れさせてくれるひとときだった。
 やはりわざわざご足労下さった先生方には心からお礼を言いたい。やはり中学生の時は子供だったのだろう。当時の先生の年齢など想像がつかなかった。当時親しくさせて頂いた若い先生も、今頃は60ぐらいかと思っていたら、自分とさほど変わらない年齢だったことに驚いた。しかし、大人同士の会話ができることは、やはり嬉しい。
 往時、ほのかに思いを寄せていた子はややふくよかになっていたが、とても美人だった。当時も親しく話すことはなかったが、今回も遠巻きからみるだけ。きっとそれでよかったのだろう。

 

Thé oulong mûr :journal

 パリのショコラティエでも、台湾のお茶専門店でも、店員さんとおしゃべりしながら商品を選ぶのは、ボクの旅の楽しみの一つである。
 台湾ではチェーン店として天仁銘茶が有名だが、どのお店でも同じ対応をする訳ではない。これはパリも同じ。今回、新光三越地下のお店では、ややランクの下がるお茶を試飲させてくれた以外は、その他のお茶の試飲は謝絶された。一方、鼎泰豊ちかくの支店ではかなり値の張るお茶も試飲させてくれた。もちろん、後者で購入したのは言うまでもない。このたびの赴台では以下の三種をゲットした。

一、陳年老茶
二、桂花烏龍茶
三、阿里山高山茶

 店主曰く、老茶は10年、陳年老茶は20年以上寝かせたヴィンテージもの。一のお茶は、甘い香りと濃厚な味わいの極上品。これは我がためにキープ。二の桂花烏龍茶は、キンモクセイの香り高いフレーバー・ティー。華やかでありながら嫌味のない香りは、誰にでも愛される。これは自分用とお土産用に。三は、阿里山でとれたばかりの期間限定の新茶。透き通る黄金色と、すっきりとした味わいが、正統派でありながら烏龍茶へのイメージを一変させる。これも自分用とお土産用に。
 実を言うとヴィンテージ・ティーを買うのは今回が初めて。もちろんただ寝かせておけばヴィンテージものになる訳ではない。時間が経てば黴も生えるし、腐乱もする。それが一般だ。人生も、ヴィンテージの味わいを醸し出せるように、歳を重ねていきたいものだ。

 

Pouvoir judiciaire:journal

 久しぶりに実家に帰った。町内には選挙を控えてか、議員のポスターが随所に掲示されていた。特に目についたのはH議員。母曰く、H議員は法曹人口の増加に歯止めをかけて法曹界のレベル低下を防ぐための法律作りに尽力しているという。母はそれを肯定的にみているようだった。それについて、ボクはそれはいかがなものかと思っている。やや旧聞に属するが、共同通信の配信で以下のような記事があった。

 法科大学院修了者を対象とした新司法試験の合格者中心となった最近の司法修習生について、教官らが「実力にばらつきがあり、下位層が増加している」「(司法修習の修了試験で)最低限の能力を修得しているとは認めがたい答案があった」などとみていることが5日、最高裁作成の報告書で分かった。

 新しい制度になって合格者を増やしたのだから、「下位層が増加している」のは、自然なことだ。これ以外の結果になれば、それは極めて不自然だろう。日弁連はこのことを問題視し、法曹人口の増加に反対をしている。しかし、数を増やすことでレベルが低下するということが、ボクにはそれほどの問題だとは思えない。むしろ、これまでのように法曹人口が抑えられていることこそが、問題だとみている。
 判事にしろ、検事にしろ、弁護士にしろ、修習生時代の成績がその後の全てを決める訳ではない。医師も教員もその点では変わらない。どんな職業も実務経験を積み重ねることで、仕事を習得していく。一部の修習生の質の低下が、将来にわたる弁護士の質の低下になるかは分からない。まだ合格者が仕事もしていない段階で方針の正否を判断するのは、早計というものだ。記事では「大多数は期待した成果を上げている」と述べているのだから、これでよしとすべきである。
 現在の法曹界の問題は、法曹人口が大都市に偏在していることにある。これは基本的に医師の問題と同様。旧司法試験でも、新司法試験でも、新しく弁護士になる者は大都市での就職を希望する。地方の弁護士が足りないことを解消することも、司法改革の目的であったはずだ。
 もう一つ、弁護士を雇う我々にとっては現状の弁護士の数では大きな問題がある。それは弁護士報酬があまりに高額なことだ。弁護士の人数が多くなり、それが弁護費用の低下に繋がるなら、それは大歓迎である。何らかの形で報酬の低下がなければ、裁判を受ける権利が損なわれるのではないか。
 先の記事では「疑わしきは被告の利益に」という基本原則さえ理解していなかったケースもあるという。これは基本的に裁判官の基本原則で、きっとこういう人物は裁判官にはなれないだろう。しかし、現実の裁判では、検事は法廷戦略上、被告にとって有利な情報もどんどん否定するし、考慮さえしないこともある。「疑わしきは・・・」どころか、とにかく罰する方向で議論を進めるのが基本だ。
 ボクは今回の新司法試験で合格した人の一人を知っているが、彼はもしかしたら従来の司法試験では合格できなかった人かも知れない。しかし、ボクからみれば氏はとても優秀で好感の持てる人物であった。レベルの低下が社会問題として心から憂慮されるような人間には到底、見えない。現大阪府知事も先の裁判では有罪判決を受けているし(現在控訴中)、判事が児童買春やストーカーをしていた例もある。旧司法試験による法曹関係者も、過去に有罪になっている例は多い。
 当然、現在弁護士業を営んでいる方々にとっては商売敵が増える訳だから、様々な理由をつけて増加に反対するだろう。既得権保護の観点からは当然のことだ。しかし、議員なら大局的な視点で、そもそも何故、司法改革が必要になったのかということに立ち戻って、制度改革の是非を考えるべきではないか、と思う。
 病気でたとえるなら、風邪もあれば難病もある。全てが難病を治せる医師である必要はない。裁判も同様だと思う。

01 novembre 2008 

CANDY:films

Neil Armfield監督のCANDYを観た。
詩人志望のDanと画家志望のCandy。二人は恋人同士だが、薬物中毒のDanの影響でCandyも麻薬を始めるようになる。金のない彼らは、最初は知り合いの大学教授Casperから金をせびったりしてドラッグを買うが、金策に困ったDanはCandyに娼婦をさせて生計を立てるようになる・・・。
 劇中の台詞でもあったが、「やめられるときはやめたくない、やめたいときはやめられない」というのは真実なのだろう。ドラッグをやる人間は、ドラッグが至上の欲望の対象となる。薬の恐ろしさは、
神の如きドラッグに全てを捧げ、人を変貌させてしまうところにある。
 やがて二人は結婚をする。サブプライム・ローンにアメリカ人を駆り立てたような甘言で、彼らの知人は身の丈に合わない借金をもちかけて家を購入させる。もちろんローンを返済できず、自滅。生活は次第に荒んでいく。やがて赤ちゃんも授かり、ドラッグをやめようと決心するが、これが最後といいつつCandyはヘロインを打つ。その後は地獄の如き禁断症状にのたうち回る。あれでは胎教どろこではない。果たして赤ちゃんは死産。二人の関係は終末に向かっていく。いや、彼らが出会った時点ですでに坂道を転がり始めていたと言ってよい。
 Danは自称詩人。確信犯ではないジゴロ。生活力もなく、Candyに売春までさせる。だが、Candyは彼から離れようとしない。まさにDan自体が、その関係自体がドラッグの如きである。
 DanとCandyは一体、何が不満で溺れていったのだろう。映画を観ながらそんな疑問がよぎったが、ひょっとするとこの問いの立て方は、筋違いなのかもしれない。客観的にみて不幸になるばかりの二人の関係でも、二人にとっては唯一無二のものだったのだろう。二人のドラッグは、ヘロインではなく、「愛」そのものだったのではないか、とさえ感じる。Candyの両親は割合にまともそうだったが、Candyの主観では満たされないものを感じていたのかも知れない。劇中、Danの両親は一度も姿を現さないし、Candyの女友達は一人も登場しない。二人は周囲との関係を構築するのが不得手な人間だったのかも知れないし、芸術家的気質もそれに手伝ってたかも知れない。
 破滅的なストーリーの最後は、客観的に観れば一つの落ち着きをみせる。だが、彼らの主観としてはどうだったのだろうか・・・このラストは、嫌いではない。