28 août 2008 

C'est extraordinaire!:journal

 dyson ball DC24 Motorheadが届いた。三日前に掃除機をかけたのだが、早速使ってみることに。

【性能】
 衝撃的デビューだった。性能は素晴らしい。そのバキューム力は驚異的と言って良い。ごっそりと埃が取れる。羞恥心さえ、感じた。前に使っていたコードレスの軽く倍以上は取れた。意地の悪い姑が指でなぞっても、嫌味を言われることはない。やはり掃除機は性能が肝である。もう他の機種には戻れない。

【使用感】
 「dysonは重い」と言われているが、以前に使っていた機種より若干重く感じるものの、それほどでもない。手首のスナップをきかせて方向転換するコツを掴めば、問題ない。ただ、以前使っていたのがコードレスだったためか、やはりコードの取り回しは面倒である。また、場所によっては届かない所もあった。特に棚の下など狭い場所には、コンビネーションノズルを取り替える必要があるため、その点は慣れるまで面倒か。

【デザイン】
 おしゃれだ。リビングにも置ける。そういう声も聞く。確かにフォルムは斬新だ。決して奇を衒ったものではなく、機能性をデザインに昇華させている点は評価できる。しかし、ボクの好む洗練とはほど遠い。よって人目につかないところにひっそりと置いている。ただ、シャアの携帯電話用充電器が置いてあるような部屋ならフィットするかもしれない。

25 août 2008 

Le gagnant:journal

 北京オリンピックの男子マラソンで金メダルを獲得したケニアのサムエル・ワンジル君は、15歳の時に仙台の高校にいわゆるスポーツ留学し、その後は日本の会社に就職した人だったそうだ。
 小さい頃、高校駅伝でアフリカ系の選手が走っていたのを観て喫驚したことを憶えている。国体の開催県では、海外からスポーツ留学生を何人も招き、県の順位を上げようとすることが慣例となっている。その留学生の多くは日本と大きな経済格差がある地域からやってくる。留学生の活躍で勝利した時はまだいいが、負けてしまったり、負傷で出られなかった場合、その留学生の立場はどうなってしまうのだろうと懸念せざるを得ない。また勝利したとしても、周囲からどこかフェアじゃないという印象をもたれてしまうだろう。
 もう十五年前になるが、女子バスケでスポーツ留学していた中国籍選手のインタビューをしたことがあった。日本語が殆どできない彼女たちは日本の高校の制服に戸惑っていた。露出が多くて寒いというのだ。結局、彼女たちのチームは二回戦で敗退した。
 ワンジル君は、日本で学んだことは?と尋ねられ、「我慢すること」と慣れた日本語で答えていた。これには苦笑を禁じ得なかった。日本滞在の労苦を思い遣らずにはいられない。また、好物は焼酎という。何だかこちらも嬉しくなる勝利だった。

 

Feux d'artifice encore:journal

 今日は日曜日。夕方からぼちぼち研究室に赴いて資料に向かう。昼間の研究室からみえる海は他大学の先生からすると羨むばかりなのだが、六階なのに虫の音が聞こえるほど静かな夜も、なかなか風情がある。
 9時すぎ頃ズドンと大きな音が響いたので、建物の反対側に回ってみると、またしても打ち上げ花火が上がっていた。前回もそうだったが、ボクは今夜が花火の日だとは知らなかった。今度は前回よりもずっと大きく見える。一人だけの特等席で、花火を満喫するような気分だった。こんな殺伐とした世の中にもきれいなものはあるんだな・・・と思いながらある先生のことを想った。きっと先生は自ら命を絶つ前に、世の中には美しいものがまだあるということを信じられない状況だったのかも知れない。
 話は変わって、沖縄は夜型社会といわれる。青少年の「深夜徘徊」が問題となっている。しかし、こちらで生活するとある意味でそれも合理的な振る舞いのように思える。暑い暑い昼間に行動するよりも、夕方から行動する方がずっと快適で、何をするにも能率が上がるからだ。現に自分もこの時期には「深夜徘徊」とも呼べるような振る舞いをしている。どんな暑い一日も、沖縄の夜は涼しい。大学から帰宅するまでの帰り道さえ、車をオープンにすれば爽やかなドライブ気分を満喫できる。そして帰れば、芋焼酎・一本儀(辛口)で晩酌をする。肴はジーマミーソースを絡めていない素のミミガー。独身生活、サイコーッ!

24 août 2008 

Vers le Sud:films

Laurent Cantet監督のVers le sud を観た。
 1970年代末のハイチ。アメリカ人のBrendaはバカンスで一人、この島にやってくる。彼女はかつて夫と訪れた時に関係をもった現地の男・Legbaとの再会を夢見てやってきた。そして、ほどなくLegbaに再会するも、彼はEllenという女性に呼ばれて立ち去ってしまう。そこには金やプレゼントで
ハイチの若い男を買いあさる女たちのグループができていた・・・。
 圧倒的な経済格差を背景に「先進国」の女たちが、ハイチの若い男をハーレムよろしく侍らせる。彼女たちはみな、40代、50代。自国では女として満たされない日々を送っているが、ハイチでの男遊びで空虚な心を埋め合わせている。女たちは、若くしなやかな肉体をもち従順で逆らうことのない男たちにアディクトし、生を燃え上がらせている。グループのボス的存在のEllenは、ボストンの大学でフランス文学を講じている。寝たい男と寝る、一体それの何が悪いと開き直っている。しかし、完全に遊びとは割り切れずに、自分の男が他の女に目を向ければ嫉妬もするし、内心は怒りに震える。Legbaを取り合うBrendaとEllenの駆け引きは、この作品の一つのみどころとなっている。時折、Ellenは嘲笑まじりでBrendaを謗るが、それは自分に向けられた言葉でもある。
 Ellenはハイチを「パラダイス」と言うが、軍事独裁体制がしかれていた当時、住民にとっては圧政と貧困、重犯罪がはびこる暗黒時代であった。冒頭で母親が15歳の娘をホテルの従業員Albertに引き取ってもらおうと必死に懇願するシーンや、時折映し出される地元住民が住む街の風景、簡単に人が殺されるシーンなどから、澄んだ海と眩しい太陽から連想する南の島とは全く異なったハイチの現実がリゾート地の周りに広がっていることがわかる。そうした時代がBrenda、Ellen、Legbaの関係に影を落とす。警察官が「観光客は死ぬことはない」という台詞がEllenたちとLegbaの置かれた現実を如実に示している。
 BrendaやEllenは年齢は重ねているものの見かけは美人である。だが本国では男に見向きもされず、「女の価値」としては蔑視の対象とさえなっている。Brendaは結婚経験があるにもかかわらず、Legbaとのセックスで45にして初めてオルガズムを味わったという。彼女たちのやっていることは、日本の男性が東南アジアの国々でやっていることと同様、おぞましい。映画を観ていくうちに、そのおぞましさの背後にある彼女たちの根深い問題が見え隠れする。
 ある朝、Legbaは幼なじみの女の子とともにビーチに死体となって発見される。その前夜、Ellenと口論していたことを警察は知っているにもかかわらず、警察は少しもEllenを疑わない。自分が執着していたLegbaとの関係が、第三者には九牛の一毛のごとく映っていたという事実は、Ellenにとってはこの上ない屈辱である。彼女がLegbaとの関係で得たものは虚しさだけ。逆にBrendaは新たな「植民地」を開拓するが如く、南に向かう船に乗る。
 この映画、Ellen演じるCharlotte Ramplingの演技が凄い。邦題は『南へ向かう女たち 』。原題は「南へ」の意。
 同監督の最新作、Entre mursが今年度のカンヌ映画祭でPalme d'Orを獲得した。日本公開が楽しみである。

 

Tarifs d’électricité 2:journal

 今月の「電気ご使用量のお知らせ」によると(7月22日〜8月22日使用分)221kwhで、金額は5,552円。先月の5,197円と比べると、キロワット時で13kwh、料金で355円高くなっている!
 今月は全くクーラーは使っていないのに、何故?考えられる可能性としては、扇風機とヘルシオ。特に扇風機は先月に比べてかなり稼働していた。夕方に研究室から戻ると朝つけた扇風機が回っていたということもあった。また、野菜のグリルやブルーベリー・パイなどで結構、ヘルシオも使った。夏休み突入とオリンピック、さらにはプレミアリーグ開幕によってテレビの視聴時間が長くなってしまったことも関係するか・・・と、この一ヶ月を反省する。
 まあ、よい。たかだか355円で目くじらを立てるのはエネルギーの無駄だ。

23 août 2008 

ぐるりのこと:films

橋口亮輔監督の『ぐるりのこと』を観た。
法廷画家の金男と出版社の編集者・翔子。性格の全く異なる一組の夫婦の10年を追った作品。
 
夫の金男が友人の紹介で法廷画家になったことで、この10年間におこった社会を震撼とさせた事件の法廷場面が折々に挿入される。特に連続幼女誘拐殺人事件、池田小児童殺傷事件、お受験殺人と言われた園児殺害事件など子供が犠牲になった事件も含まれている。波乱だったのはもちろん、社会だけではない。金男と翔子の夫婦も同様である。もちろん、こうした法廷シーンには、主人公夫婦が娘を失ったのと同じ悲しみに打ちひしがれた多くの被害者家族、または加害者家族の存在を想起させる。事件の数の、何倍もの数の悲しみに打ちひしがれた人々がいることを示している。
 翔子は不完全ながらも金男との小さな幸せをかみしめて人生に踏み出したのが、娘の死後、その生活は暗転する。ぼんやりとする時間が増え、仕事を継続していくのもつらくなり、ついには心のバランスを完全に失ってしまう。そして、そんな妻を夫は彼女を支える・・・というように見えるが恐らく金男の浮気癖は治らなかったのだろう。そうしたトラブルは映像や台詞からは追いやられているが、それを含意させるカットがいくつか挿入されている(翔子の映画での第一声がそれを雄弁に物語る)。しかし、金男は翔子から逃げ出したい気持をもちながらも彼女に静かに寄り添う。金男は頼りなげでダメなところも多い男なのだが、無責任な人間ではない。それには彼の父親が自殺という形で自分の前から姿を消してしまったことと関係しているのかも知れない。そしてやがて翔子も、周囲の無責任な言葉に傷つきながらも、ゆっくりと自分を取り戻していく。
 この映画は翔子を演じる木村多恵の演技が出色であった。金男演じるリリー・フランキーは台詞回しでやや興をそぐ場面もあったが、やさおとこの佇まいが絶妙の雰囲気を醸し出していた。あれが肩幅の広い人物だったら、随分と映画の雰囲気は変わっていたに違いない。脇の人物造形や何気ない台詞の一つ一つがよく練られており、完成度が
極めて高い。なかでも翔子のキャラクターと彼女を取り巻く環境が一番リアルに、繊細に描かれていた。きっと二度、三度観ても新たな発見があるのだろう。
 翔子のうつ症状が寛解してからは、観ている方も心から幸せな気分になる。彼女の再生には絵を描くことが大きく貢献していたが、それが絵の筆致に大いに表れていた。また金男との関係においても、手を携えて乗り越えた嵐のあとの夕凪のような、人生に光明が見いだせるようなそんな演出は素晴らしい。夫婦ってとてもいいものなのかもしれないと思えるような作品だ。観客の多くは女性だったが、結婚したいと思った向きも大勢いるかも知れない。しかし往々にして「映画のような人生」はないのであるが・・・。
 この作品、きっと今年の日本の映画賞を総なめにするだろう。

19 août 2008 

les paroles:journal

 ある歌手の「生きることが辛いなら」という歌の歌詞が物議を醸している。医療関係の専門学校のCMでもその一節が使われているが、自殺を後押ししているのではないかと言われている。
 問題とされているフレーズは「生きてることが辛いなら、いっそ小さく死ねばいい。恋人と親は悲しむが三日と経てば元通り」という所のようである。しかし、最後は「生きてることが辛いなら、嫌になるまで生きるがいい」のように「励まし」ととれる歌詞があるため、「彼の意図としては」、彼はあの歌で辛い人たちを励ましているのだと擁護する向きもあるようだ。
 ボクはこの歌を解釈するつもりは、ない。ただ、深刻なうつに陥っている人がこの歌を聴いたら、どうなるのだろうと強い懸念を抱いた。一般論としては、歌詞の一部だけを批判するのはフェアではない。歌詞全体をみて「歌手の意図」を理解すべきだ、という話になるのかも知れない(もちろん、現代の文学理論ではそんな「意図」など存在しない)。
投薬が必要になるような鬱でない人なら、歌詞全体を見渡してポジティブな「解釈」を引き出すのかも知れない。だが、ウツの人なら、この冒頭に引用した歌詞をダイレクトに受け取る可能性が極めて高い。日常のできごとやメッセージをどうしてもマイナスにとらえてしまう、というのがこの病気の特徴なのだから、歌詞全体としてみるととか、最後には励ましているとか(うつの人を励ますのも時には危険であるが)、そうした歌詞に対するフォローはほぼ無意味なのだろうと思う。きっと、この歌手は自分の歌を聴く人間はみな「健常者」という前提があるのだろう。また、普通は考えにくいが、彼は恋人が自殺しても「三日と経てば元通り」なんだろう(何が元通りなのかは不明だが)。この歌への不快感は、恐らく彼の無神経さに由来している。

16 août 2008 

Jeux Olympiques en 2008 à Pékin 2:journal

 名前を覚えておくことはその人にとっては屈辱に当たるのかも知れないので、名前を出すことは控えるが、レスリングで銅メダルを獲得した選手が、表彰式の後にメダルを投げ捨てたそうだ。
 オリンピックをみていると、銅メダルを獲って喜んでいる人もいれば、喜んでいない人もいる。こうしたことをみるにつけ、人の幸せというのはその本人の主観に左右される、ということを改めて感じる。
 金メダルを獲りたくて、そのために一所懸命努力して、やりたいことも我慢してやってきた人が金メダルを取れなかったなら、本人にとっては不幸なことなのかも知れない。
 これは人生についても言えることだ。自分の努力や目標が現在のポジションに見合っていない。こう感じて日々を過ごしている人は、周りがどう思おうと、本人の主観としては不幸である。きっと、周りがあなたは幸せなんだよ、と言っても、本人にはそうは思えないのだろう。その人が主観的にどれだけ努力したかは他人には分からないだろうから、他人の意見というのは無力である。
 ボクはそうした喜んでいない人を祝福する気にはなれない。この場合、祝福すことで本人は侮辱されていると感じるかもしれないからだ。
 そう考えると、幸せか否かというのは、結局は人の心次第という、あまりにも当たり前の真理に落ち着いてしまう。そんなことを思いながら授賞式をみる今日、このごろである。

11 août 2008 

Jeux Olympiques d'été de Pékin 2008:journal

 オリンピック男子サッカー代表が早々に2敗した。このチームは勝てないだろうと思っていたが、果たしてそうなった。一体、何が違うのか?
 私見では、まずは走力の違いが大きい。同じ日にアムステルダム・トーナメントのアーセナルvsアヤックスの試合を観たが、違いは歴然。アーセナルはパス&ゴーの基本を忠実に守り、パスをした後はどんどんスペースに走って次のパスをもらう動きに徹していた。パスの出し手は、常に複数の受け手がいるため、スムーズにボールが動く。しかし、日本代表の試合を観ると、パスをしてもその後に選手が同じ場所にいるため、全然前に進まない。すぐにヨコパス、バックパスで、観ていてもストレスを感じる。日本の選手もパス&ゴーができないことはないのだろうが、恐らく90分走り続ける体力がないのだろう。動きをセーブしてしまう。走力の差は体力の差と言ってもいいかもしれない。
 次はトラップ、フィードの正確さ。ボールを止め、そして正確に味方に送る。やれ戦術だ、フォーメーションだと言っても、サッカーの大部分はこの動きを基本とする。アーセナルはトップスピードに近いスピードでもパスがキッチリと足下に収まる。しかも動きに連動性がある。しかし、日本代表はトラップが大きいし、パス・スピードも遅い。意思疎通がはかられているようには見えない。
 言っておくが、アーセナルのレギュラークラスの構成年齢は、実はオリンピック世代と変わらない。クラブチームと代表では、性質が違うということもあるだろうが、上記の差は大きい。やはり日本は相手より何割も多く走って、正確なパスをつないで戦うようなチームを作るべきなのだと思う。

 日本の柔道選手が金メダルを獲得した。そのコメントで「やっと男になれました」と、言っていた。その時、「じゃあ、その前は何だったんだよ?」と聞きたくなった。

 柔ちゃんが負けた。田村で金、谷でも金、ママでも金を狙ったが、惜しくも銅。ママでも金を獲ったなら、「後期高齢者でも金」と言い出しかねないところだっただろう。彼女のコメントで気になったのは「主婦をやりたい」という言葉。さっきの男子柔道の選手が今後の予定を聞かれて「主夫をやりたい」と言ったら、きっとみんな驚いたであろう。

10 août 2008 

SKY CRAWLERS:films

押井守監督の『スカイ・クロラ』を観た。
 架空の世界で、管理された戦争に参加する死なない永遠の子供、キルドレの寓話。この世界では企業同士が戦争を請け負っている。それは、20世紀の全てを巻き込んだ総力戦とは異なり、ごく一部のキルドレが戦闘に参加している。どうもこの戦争の意味は従来行われたものとは趣が異なるようだ。彼らは大人にならない(なれない)永遠の子供。
 この物語における大人と子供の構図というのは極めて示唆的である。出てくる大人といえば、整備士や飲み屋や娼婦など消費者としてのキルドレをサポートする大人、そして彼らを管理するみえざる大人、そして、彼らの戦いをただメディアを通じて観るだけの大人。大人はいるが、「親」がいない。
 キルドレたちは死と隣り合わせの戦闘シーンでしか、息をしていない。地上での食も酒も
遊びもセックスも、戦闘に比べれば暇つぶしでしか、ない。子供のリアリティとしては永遠に続くかもしれない弛緩した日常が、死を選ばない限り本当に続いてしまうことにキルドレたちの不幸がある。
 この物語、「子供でいる限り、大人には勝てない」、「子供でいる限り、大人に使われるだけ」という子供にとっては絶望的な社会の理が描かれている。カンナミが一人ティーチャーに挑んでいくシーン。実は受動的に生きるカンナミが唯一、能動的にとった行動である。その相手は、同じキルドレではなく、文字通りの大人の男。字幕はティーチャー、英語台詞はfatherと確かに、言っていた。彼らにとって乗り越えるべきものが何かは、これで明らかであろう。
 そもそも、「反復されるだけの人生」というのは、若いとき特有のリアリティだ。長く生きれば、生きるほど、同じ一日はないことを実感する。人は生きていけば変わっていく。また、変わらずに生きていくことはできない。どんな退屈な日常でも永遠には続かない。だけど、若いときにはそれがずっと続いてしまうような絶望を味わうこともあるかも知れない。この物語は押井監督の現代の若者に対するメッセージに溢れている。「君は生きろ。何かを変えられるまで。」この台詞は秀逸である。
 この映画には原作があるようである。少し読んでみようと思う。

09 août 2008 

ma meilleure note

 授業も終わり、心が軽くなったからだろうか。ボウリングのパーソナル・ベストが出た。275/300。第1、第2フレームはスペアだったが、その後は怒濤のの9投連続ストライク。問題はいつもコンスタントに200upのスコアが出せるかどうかだ。

06 août 2008 

Armée américaine

 ジュラシック・パーク3のラストの場面だけ観た。日常に突然、大災害がふりかかる、あるいは、怪物が襲ってくる。こうしたアメリカ製の不条理映画の典型のような作品。
 この作品のラストは米軍が彼らを助けに来るのだが、不条理映画のラストで、米軍が民間人を助けに来るというパターンは案外、多いような気がする。少し思いついただけでも、『デイ・アフター・トゥモロー』や『ミスト』もそうだった。特に映画『ミスト』はキングの原作とは異なり、ラストに米軍が登場するラストに変更されている。
 アメリカ映画では、ハリウッドを通じて「超人類的な大災害でも米軍が救ってくれる」というイメージを植え付けているような気がしてならない。こうしたメッセージが意図的か否かは判らないが、物語としては安直だと言わざるを得ない。

03 août 2008 

Feux d'artifice:journal

 八月最初の日曜日。夕方から研究室に行き、資料に向かう。学内は静かで、やはり心が落ち着く。
 すると突然、花火の音。窓から街並みを見渡すと、打ち上げ花火が見えた。遠いためか花火はあまり大きくは見えなかったが、涼しい風を頬に受けて観る花火もまた、格別であった。
 これは何かのご褒美か・・・まあ、心安らかに本を読むひとときがあれば、ご褒美などはいらないのだが。とにかく居ながらにして花火が観られたのは幸運であった。