28 septembre 2009 

Riz avec Okonomiyaki, ça te plaît pas?

 ネットでお好み焼きやたこ焼きは、主食かおかずかという議論がなされているそうである。お好み焼き+ご飯も、ラーメン+ライスと同じ、という意見もある。
 まあ、どちらでも宜しい。というのがボクの意見。畢竟、個人の嗜好を訴えるだけの水掛け論である。
 ただ、ボクはお好み焼きを白米で頂くことはいたしません。ラーメンですら、そうです。カロリー過多になることが主因だが、「どことなく侘びしい」という感情からの要請は否定できません。
 だが、カレーパンにライスを一緒にした定食が存在するというのは寡聞にして知らない。カレーパンでは小腹が空くからご飯も食べたということはあり得よう。だが、これが如上の議論を惹起することはない。これを「おかず度」という我が造語で説明すると、下にいくほど「おかず度」が下がり、境界線以下は一般におかずと認識されない。

 白米+おかず
 白米+ラーメンなど汁の多い麺類
 白米+お好み焼き、たこ焼きなど粉もの

おかず度境界線

 白米+炊き込みご飯、チャーハン
 白米+パン類
 白米+おかゆ

 お気づきかと思うが、パスタやパンという西洋の食べ物との組み合わせは巧みに避けられている。パスタの具はすでにパスタと「結婚」している。そこでの白米は残ったソースを貪るしか生き残りの道はない。
 しかし、我々は白米だけのおにぎりには抵抗がない。悪い組み合わせ、あるいはお零れに与るよりも、そもそもない方がマシということもあるかも知れない。あれ?この話、人間関係にも言えないか?

27 septembre 2009 

Je suis pour le projet.

 来年の通常国会で選択的夫婦別姓制度導入に関連する法案について審議されるそうだ。内容としては、
〈1〉結婚時に夫婦が同姓か別姓かを選択できる
〈2〉結婚できる年齢を男女とも18歳にそろえる
というものらしい。ボクは大いに賛成である。
 読売新聞には何故か「夫婦別姓導入へ」というタイトルが打たれている。タイトルは簡にして要を得るのがふさわしいが、なぜ「選択的」という重要な言葉を入れないのだろうか。読者の早とちりを故意に誘うようなタイトルは、誠に不愉快である。
 この法案は常に、当事者が同姓か別姓かを選択できるというものであった。現在の法律が同姓を強制するように、別姓を強制するものではないのだ。だが、現実には夫婦が別姓になることを義務づける制度だと思い込む人間が後を絶たない。その一因は、こうしたメディアの拙劣とも言える説明にある。
 子供の姓に関してであるが、複数の子供がいた場合で法務省と民主党で意見が分かれているそうである。ボクは子の出生ごとに決めるのが選択の幅があっていいのではないかと思う。
 それはともかく、この頃は沖縄の夜も随分と涼しくなっている。網戸から入るそよ風が、この上なく心地いい。やっぱり春や秋はいい季節だ。

14 septembre 2009 

Jabisen episode 11:journal

 今日も三線の練習。今日は兄弟子と一緒だったが、その方が琉歌を一首、持って来られていた。それは兄弟子のご友人が93歳になる母上に詠んだもので、これをかぎやで風節に乗せて歌うという。
 誕生日に琉歌を詠み、メロディに乗せて祝う。師範に訊くと、沖縄ではよくあることらしい。何とも風流なことである。

13 septembre 2009 

Violation du droit d'auteur

 日本ビジュアル著作権協会は、入試の過去問を発行している「声の教育社」に対して、著作権侵害訴訟を起こす予定とのこと。
 入試問題で著作権者に許可無く作品を使ってもいいのは、問題漏洩を防ぐ必要があるからだろう(事後的には著作権者に使用した旨を伝えているようである)。しかし、営利目的の過去問題集に関しては、販売に際して得られる利益から排除されるので、著作権者への許諾や使用料が発生するのだろう。
 以前、塾で使用するテキストに自分の作品が無断で使われていたことを理由に損害賠償を求めたケースがあり、そのなかに「作品の一部を削ったり、表現を変えたりしたとして、著作者としての人格権も侵害された」という主張もあった。ボクが気になるのは、こちらの方である。
 実際の入試問題では作品の一部を抜き出したり、削除するようである。これにより「作家の意図」に反する答えが「正解」となる場合もある。自分の作品が掲載された入試問題をやってみたら不正解だったという冗談を聞いたことがあるが、場合によっては作家が精神的苦痛を感じて損害賠償を求めることもあり得よう。その場合、「誤読もまた創造的解釈」と法律は判断するのだろうか。

12 septembre 2009 

Gyudon Hamburger






 



 ウンケーとウークイの間、つまり沖縄の旧盆期間は閉店しているところが多い。ランチ難民と化したボクは、吉野屋に入った。しかし、レジの前に立つも、食指が動かず、注文が決まらない。そこで「沖縄限定」と銘打った牛丼バーガーなるものを注文した。
 一言で言うと、食べにくい代物だった。牛丼のつゆを含んだ飯は柔らかく、摑んで口に運ぶことさえ困難だった。そして食べた先から崩壊が始まり、生レタスが混沌を助長した。
 そもそも、何故、バーガーのスタイルを装うのか。遺伝子操作をしたコーンを詰め込まれて効率よく脂肪を蓄えたアメリカ牛に執着する吉野屋が、アメリカの大衆食に憧れを抱いた末路、だろうか。奇を衒っていびつになったものほど、醜いものはない。
 地域限定の商品というのは、メーカーにとっては実験の意味合いをもつ。マンネリでは飽きられる。新商品を打ち出さねば。だが全国展開はリスクがある。「限定商品」という付加価値の幻想を客に抱かせ、ヒットしたら他でも販売してみよう。きっとそんなところだろう。また、話題作り、宣伝の一環か。
 しかし、ボクは確信した。牛丼バーガーは、沖縄限定であり続けるであろう。そして、いつか幻のバーガーと化すに違いない。
 しかし、こうして感想を書くこと自体、メーカーの戦略の一部となる。ボクもまんまとはめられた、ということだろうか。

11 septembre 2009 

Lunettes sans branches:journal

 テンプルのない眼鏡を買った。眼鏡のテンプルとは「腕」や「ツル」とも言うが、要は耳に引っかけるための側面の棒状のものである。このテンプル自体がなく、ノーズ・パットだけで眼鏡全体を支える構造になっている。あるのはレンズ、ブリッジ、ノーズ・パッドのみ。レンズを囲むリムもない。
 この眼鏡はノーズ・パッドにミソがあり、粘着力で肌に張り付くようになっている。ヌーブラから着想を得たものだという。だが、これでは十分ではないため、装着時にブリッジを若干反らせて鼻梁を軽くつまむことで安定性を確保している。
 これを購入する時、店の方から随分と念を押された。「室内用ですよ。」「外れるかもしれないから自転車やバイクや車もダメですよ。」「話題作りだと割り切って下さい。」「パッドを毎日洗うのは面倒ですよ。」「これをメインで使うことはお奨めできません。」あまり期待しないで下さい、とまで言われた。店としては、絶対の自信を持っておすすめする商品ではない。これを機に別の眼鏡を買ってもらうためのものだとも言っていた。別の眼鏡は買わなかったが、ボクは全てを受け入れた。沖縄でボクが二人目だとの由。
 昨日、終日この眼鏡を着けてみたが、想像以上に安定している。用を足すのに俯いた時、眼鏡が落下する映像が脳裏によぎった。しかし、何の問題もなかった(トイレに落ちたものを抵抗なくかけるには、きっと大いなる何かを乗り越えなければならないだろう)。落下しないよう小さくデザインされたレンズは軽いし、懸念された形相の変化もない。
 実は、最初に試着した時、鼻梁をつまみすぎて、内側の目頭が中央に引っ張られた。目と目の間を抓んで、鏡を見てみるとよい。眼鏡は顔の雰囲気を変えるが、そんな次元ではなかったのである。
 しかし、これも適切に装着すれば問題ない。むしろ、素顔により近くなる。だからだろうか、誰もこの眼鏡に凝らされた遊びに気付かない。ツルなし眼鏡の何よりのメリットは、寝転んで本やテレビを観るときにテンプルが邪魔にならないこと。問題はパッドの劣化。エタノールを含んだウェットティッシュで拭き取れば粘着力が回復するという。800円で交換も可能との由。

09 septembre 2009 

Jabisen episode 13:journal

 三線コンクールのシーズンが終わった。沖縄の芸能界は一息ついているであろう。ボクのお稽古も、一時の緊張から解放され、比較的のんびりとやっている。基本は一対一だが、兄弟子と共にお稽古することもある。さすがに兄弟子はずっと難しい曲を弾いている。
 ボクは伊野波節も舞踊の地方の部分で歌われる歌詞で演奏する。また、一回につき一曲のペースで新しい曲に入るため、復習が大変である。かぎやで風節、恩納節、辺野喜節、中城はんた前節、ごえん節を教わった。恩納節、中城はんた前節の低音の節回しが把握しづらく、難しく感じる。これらの曲はお稽古の冒頭で連続してするため、練習の時は二度しかしない。きっとお稽古ごとに繰り返すことで身についてくるのであろう。次はこてい節、踊りこはでさ節に入る。それが終われば、優秀賞の課題曲・作田節に移るのであろう。二揚の曲はまだ先だが、いつか弾けるようになればと憧れを抱いている。
 ボクが琉球古典音楽に感じている魅力の一つは、時代への媚びがないということだろうか。これは古典芸能全般に言えることだが、時代が変わっても、聴く側の好みが変わっても、伝統を継承することを大原則としている。そこに畏敬の念を感じるのだ。教え方一つとっても、伝統は守られる。どんなに年若くとも、ボクのようないい大人でも同じ。先日、17歳のアメリカの少年に、正座をさせて阿波節を教えていたのには、瞠目した。
 昨今の音楽の多くは消費者のニーズに徹底的に迎合する。もちろん心地よさを感じることもあるが、たとえ新曲でも新鮮さを感じることはない。これは何も音楽だけに限らない。あらゆる事柄で現実に迎合することを求められるなかで、「こうするのが正しい」というポリシーを貫けることは、今の社会では稀有なことだ。

06 septembre 2009 

Dear Doctor:journal

 西川美和監督のディア・ドクターを観た。
 人口1500人の僻地に一人の研修医・相馬がやって来る。そこには村人から慕われ、頼りにされている「医師」伊野がいた。しかし、彼は突然、失踪してしまう。物語は、伊野が失踪する前の2ヶ月とその後を警察の捜査の模様を交互に描き、伊野の人となりを浮き彫りにする。
 出産から死亡宣告まで何でも屋であることを求められる過疎地域の医師は担い手がいない。しかし一人の医師の存在自体が住民に安心をもたらすこともある。「医は仁術なり。人を救ふを以て志とすべし。」というのは今や昔。現代医療は高度に専門化、複雑化、官僚主義化され、経済効率が支配する。患者はベルトコンベアの商品よろしく3分診療を受け、担当医師の名前さえ覚えていない。劇中の「病を診て、人を診ず。」という言葉が現状を端的に示している。
 そのなかで伊野は医は仁術という言葉を具現化した人間であった。昼夜を分かたず電話一本で駆けつける姿をみると、少なくとも村人からは名医、果ては神様のように映っていただろう。しかし、健康診断ならまだしも、薬の処方、出産や救急患者への対応、癌の見極めなど、藁にも縋る思いで診療所を担ぎ込まれる状況に直面して、伊野の心は揺らぐ。この作品は伊野の葛藤、逡巡を丁寧に描いている。
 彼の所業は紛う事なき犯罪行為である。だがどうしてもこの伊野という人間を憎めない。彼に一杯喰わされた村人も、心境は複雑である。それは彼が最後まで患者本位で行動していたからであろう。そして、自分の嘘が母娘の今生の別れを決定づける事態に至ったとき、彼は逃亡する。
 一方、研修医である相馬は、2ヶ月のあいだ、運転手の役割しか果たしていない。免許はあるが腕も人望もないホンモノと、経験も信頼もあるが免許がないニセモノ。形式と実質。どちらが大切かと改めて問われれば、人は後者を選ぶかも知れない。しかし、現代社会では公的な側面が強くなるほど、形式の重要性が増す。相馬と伊野は形式と実質の両方を兼ね備えていない点においては同じである。持てる者にはたかが免許かも知れないが、持たざる者にはされど免許。医師としての義務感や責任感を支えるのは、たった一枚の紙なのかも知れない。
 これは推測の域を出ないが、伊野はきっと医師であった父親に期待され、また父に憧憬を抱いていたのだろう。しかし、医師になれなかった。期待に応えられない人生を送ってきた彼にとって、村人から贈られる感謝の言葉は、麻薬の如く彼に作用したのだろうと思われる。
 伊野は自分が持てなかった全てを手にしているような相馬に、どのような感情を抱いていたのだろうか。また、相馬は伊野がニセモノだと知って、どう感じたのだろうか。
 稀に医師免許を持たぬ者が長年医療行為を行っていたというニュースを耳にする。しかし、不思議と悪い評判は聞かない。意外性を狙う報道姿勢もあるかも知れないし、そうした記憶を選択的に残していることもあろう。しかし、ひょっとして偽者であるからこそ、本物に近づく努力を怠らなかったのかも知れない。そう思うと、切なくなる。
 本物の何かになる。特に仕事の上では、これは誰にでものしかかる課題である。他人の評価も、自分の実感も兼ね備える人間はこの世にどれだけいるのだろう。
 この作品の成功には、伊野を演じた鶴瓶の功績が大きい。嘘と、事の重大さの狭間で、誰にも相談できず逡巡する男を演じさせるには、彼以外あり得ないと思わせるほど、はまっていた。脚本も担当した監督も、作品を積み重ねるごとに上手くなっていく。久しぶりにブログに記しておきたくなる作品だった。
 あと、映画の話ではないが、鶴瓶が使っている眼鏡と同じものをボクも持っている。Marius Morelというフランスの老舗のもの。彼は劇中でもテレビでもいつもこれ。何につけ、長年愛用しているものがあるというのはいいことである。

02 septembre 2009 

un esprit de tolérance:journal

 先の衆議院選挙で、職員が21歳の女性を未成年と勘違いして用紙を渡さず、それに激怒した女性が投票の一部を放棄して帰る「事件」があったという。
 どういう状況だったのか記事は詳らかにしてないが、21歳となればもう大人。児戯に類する振る舞いで権利を行使しないのはいかがなものか。勘違いされた方を責める訳ではないが、そう思ってしまう。
 それにしても、何故、投票に際してID照合をしないのだろうか?いつも疑問を禁じ得ない。投票葉書さえあれば誰にでもなりすますことができる。投票葉書を売却して利益を得る人間もいるかも知れない。そうした不正を利用するために敢えて制度を修正しないのかも、と邪推さえしてしまう。
 話を戻して、やや飛躍する。この社会では寛容さが失われつつある気がしてならない。所謂クレーマーやモンスター何某という小さな利益を餌にする魑魅や魍魎が跋扈しているが、彼らに足りないものは寛容な姿勢である。不当な扱いを受けたくない、損をしたくない。それも理解できないでもないが、他人の非への攻撃には倦くことを知らぬ態度には呆れる。
 実はSnow Leopardの折り返しの電話が48時間を遙かに超えた今も、まだかかってこない。ここで怒りを露わにしても利益を得られる訳ではない。Appleは苦情処理に憂き身をやつしているのだろう。これに対しても寛容に接するつもりである。