31 décembre 2007 

iklimler:films

Nuri Bilge Ceylan監督のiklimlerを観た。
IsaとBaharは休暇で海辺の街を訪れているが、IsaはBaharに構わず遺跡の撮影に余念がない。Baharは彼の態度が気に入らず、友人宅に呼ばれてもムッツリしている。次の日、Isaは突然、Baharに別れを切り出す。「これからは友達でいられる」「君も楽になれる」「他の男は放っておかない」などと都合のいいことを言いながら。結局、Baharは彼の元を離れるが・・・。
 大学で教鞭を執るIsaの身勝手な行動を淡々と描いた作品。彼の心情は台詞で表現されるのではなく、全ては彼の表情や行動で表わされるのであるが、彼のダメさに加減には心底、呆れた。IsaがBaharにかける言葉は一見、気遣いのようにみえるが、命令に近く、相手の意志や気持ちを殆ど汲み取っていない。結局は自分のやりたいようにしかやらないのだが、自分なりの論理で自分を納得させているのであろうか、自分の身勝手さを反省しているようには見えない。この男は人と対話する能力に著しい欠陥があるようにみえる。Baharと別れた後に、彼氏がいる別の女のアパートで待ち伏せをし、相手が嫌がるのも構わずレイプをする・・・。
 IsaはBaharがロケで訪れているカザフスタンまで追いかけていく。突然押しかけられたBaharは困惑するが、彼の言葉によってほだされ、一夜を共にする。しかし、翌朝、全く変わらぬ態度と、昨日かけた言葉とは裏腹な事を言っている男をみて、腹の底から怒りが沸騰する。この表情が凄い!しかし、男は女の怒りに気づかない。
 そして、時代物を撮影している上空に、飛行機の音が撮影を邪魔する。最後の最後まで邪魔するのかー!と女が哀しい涙を見せるが、僕は思わず、笑ってしまった。
 なんだか心当たりがあるようなやけにリアルな人物造形だった。しかし、気をつけなければ。こんな男になってはいけない。女性もこんな男と親しくなるのは絶対にやめた方がいい。原題は「Climates」の意だが、どう訳せばいいのだろう。恐らく天気のように変わってしまう男の気分を表象しているのだろう。邦題は「Climates/うつろいの季節(とき)」

28 décembre 2007 

椿三十郎:films

黒澤明監督の『椿三十郎』を観た。
大目付菊井の汚職にからみ、若侍たちは命を狙われるハメになった。それとは知らず若侍たちは謀議をしていたが、その話を偶然聴いてしまった椿三十郎は彼らを助けることに・・・。
 この作品の魅力は椿三十郎のカリスマに尽きる。一見、豪放磊落だが、相手の作戦を見抜く戦術眼をもち、急場も機転を利かせて切り抜ける。なにものにも囚われない自由奔放な性格だが、人に対して懐が深いそのカリスマ性に若侍たちが惚れ込んでしまう。今なら、上司にしたい男・NO.1になれるだろう。人生の岐路に立ったときや、悩みがあるときに必ず意見を聞いておきたいような人物だ。
 この映画がリメイクされているようだが、僕はこの作品だけで十分、堪能した。
 あれ?と思ったのは、ラストに豪快な血しぶきが出る以外は、刀で切っても血が出る演出がないこと。もちろん、返り血もないから、切られた相手が死んでしまったのか判然としない。あと、田中邦衛の演技には笑った。別に笑わせている訳ではない。物心ついてから観た彼の演技はいつも吃音のため、田中が滑舌よく台詞を言うたびに違和感が漂うのだ。
 先のエントリーでも触れたが、やはり椿三十郎も独身のようだ。黒澤作品における格好いい男=独身という、僕の説はかなり、確度が高い。

27 décembre 2007 

QUALLE AMORE:films

Maurizio Sciarra監督のQUALE AMOREを観た。
裕福な家庭に育ち、母がオーナーをつとめる銀行に働いていたAndrea。彼は妻Antoniaを殺害し、釈放されて息子たちのいるアメリカに向かおうとしている。しかし、彼が乗る予定だった飛行機が遅延してしまう。待っている間、飛行機に同乗した老人に、問わず語りに彼の来し方を話し始める。
 Andreaは田舎町のコンサートでピアノを弾くAntoniaに一目惚れをし、二人は一週間もしないうちに結婚の約束をする。二人は愛し合っていたのだが、AndreaはAntoniaに僅かばかりのお金をもらって演奏することを禁じる。芸術家としての矜持をもつAntoniaは彼の考えに反発するが、三人の子供も生まれ、表面的には裕福な理想的な一家として日々を過ごす。その後、妻は演奏活動を再開し、四人目の子供が流産したのを期に、その活動を一層、活発化させる。Antoniaは夫とは分かち合えないハーモニーを演奏仲間と奏でることに大きな充実感を得るようになるが、夫はそんな妻に激しい嫉妬の炎を燃やすようになる。
 妻と妻の演奏仲間への嫉妬に身を焦がした夫が、疑いと妄想によって妻を殺害してしまう話である。物語としてはありがちなストーリーだが、ただこの作品の場合、Beethovenのソナタという目には見えないものが動機の大きな要因となっている。
 精神的に結びつけない妻が、自分以外の男と音楽を介して分かり合う。恐らく、夫は財力で妻の心を惹こうとするが、妻の心は夫からは離れていってしまう。物語がAndreaの語りによって構成されるため、妻が浮気をしたか、という点はやや曖昧になっている。少なくとも、劇中ではその事実はみとめられない。だが、両者の溝は埋めがたいまでに深まっていく。
 嫉妬というのはどこから来るのか?相手の態度もあるのかもしれないが、人を信じることができないという性癖もその強弱に大きく影響するのだろう。人を信じられず、嫉妬心に支配される人間は、常に不幸だ。心が荒み、妄想に近い思いこみに振り回される。そうした精神状態になってしまったら、自分に向けられた親しげな笑顔でさえも「浮気の兆候」になってしまうのであろう。そもそも自分以外の人間を所有することなど、できない。
 原題は『愛とは何?』邦題は『クロイツェル・ソナタ 愛と官能の二重奏』。なんだか豪華な雰囲気なんだけど、細部に甘さの残る二時間ドラマ風な作品でした。

25 décembre 2007 

赤ひげ:films

黒澤明監督の『赤ひげ』を観た。
長崎でオランダ医学を学んだ保本は、「赤ひげ先生」と呼ばれる医師の療養所でインターンをすることになった。しかし、エリートの彼は無骨な「赤ひげ」の方針に馴染めない。しかし、「赤ひげ」を医師として、人間として尊敬し始めたことで彼のなかに変化が兆してくる・・・。
 不当に利益を得ているものからはふんだくり、貧しい市井の者からは金はとらない医師・赤ひげ。そのストイックな態度と患者の人生に寄り添う姿勢に懐の大きさを感じる。3分診療で流れ作業のように診察する現代と比較してしまい、フィクションであることを忘れてこの作品に医療の理想を夢みてしまう。無知と貧困、この二つが病気の敵であることは、今も変わらない。だが、教師に全人格的な奉仕を求めるのが困難であるのと同様、医師の理想として赤ひげを持ち上げるのは、現代ではやはり無理があるだろう。残念なことなのだが。
 ここ最近、『生きる』『七人の侍』『酔いどれ天使』『赤ひげ』とみてきたが、黒澤は、格好いい男を描くのが絶妙にうまい。主人公は渋い!渋すぎる!思わず、「男」の理想をそこにみてしまう。
 しかし、ふと不思議に思うこともある。黒澤作品に出てくる「男」には何故か奥さんがいない。みーんな独身だ。『七人の侍』の勘兵衛たち然り、『赤ひげ』然り、『酔いどれ天使』の真田然り、『生きる』の渡辺も!(これは死別)。これが現代だったら、「あんな立派な人なのに、何でなんだろ〜ねぇ〜?」と不思議がられるであろう。これまで観た作品のなかでは女性との付き合いを感じさせるキャラクターは『素晴らしき日曜日』の彼氏など、いずれも「若い」キャラクターのみ。一体、これは何なのだろうか。
 それはともかく、trivialな話を一つ。Quentin Tarantino監督のKILL BILL 2にパイ・メイというカンフーの達人が出てくる。彼は長い髭をなでるのが癖なのだが、この仕草は赤ひげへのオマージュだったことがこの映画で判明した。

 

L'escroquerie spirituelle?:journal

 最近、霊感商法被害のニュースが頻繁に流れている。某国立大学法人の准教授も被害に遭ったとの報道もある。この准教授に何かを教わる学生はお気の毒だ。霊感商法被害は随分前にもあったと記憶している。昔から鰯の頭も信心からというが、こうしたものはなかなかなくならない。
 被害届が出されている会社、占いやヒーリングで誘い、「切迫した危機がある」などと恐怖心をあおり、高額の祈祷やお祓いを勧めるのが手口らしい。あれ?この手口、テレビでよくみかけないか?もっとも視聴率が期待される時間帯に「あの世」のことを真顔で語るカウンセラーや「地獄に堕ちるよ!」と脅しつける占い師がよく出ているではないか。あれらも同類、いや、むしろ根源であるとも言える。
 これ以外にも、五月雨のように流れる健康食品の広告も相当に、アヤシイ。ヒアルロン酸だの、コエンザイムQ10だのといった物質の効能を医師でもない人間が声高に叫ぶ。こうした傾向も、霊感商法の延長線上にあり、被害者(およびその予備軍)のメンタリティ醸成に一役買っている。
 今回の場合は「癒されたい」「救われたい」という欲望につけ込まれたものだが、まあ、精神の安定も金で買えると思っているから、被害者も救いようがない。個人的には詐欺の被害者というのは自業自得であると思っている。その多く人より楽して利益を得たいという強欲につけ込まれているのだから、同情の余地はない。

24 décembre 2007 

誰がために:films

日向寺太郎監督の『誰がために』を観た。
 戦争カメラマンとして世界を渡り歩いていた民郎は、父親の死をきっかけに実家の写真館を継いだ。ある日、美しい女性・亜弥子と知り合い、結婚をする。妊娠をし、幸せな日々を送っていた亜弥子はある日突然、何の関係もない少年によって殺害されてしまう。民郎は少年法によって裁かれた犯人が、ほどなく社会復帰したことを知る・・・。
 テーマは非常にいいのだが、いいテーマであるだけに、もっと丁寧に、考え抜かれた作品にしてほしかった。脚本も演出も素人臭さが出て、何だか甘い。全てにおいて中途半端で、物足りない作品。
効果音のピアノのボリュームが大きすぎて、雰囲気をぶち壊している。浅野忠信、香川照之と実力派を起用している割には、彼らの演技に他の作品ではみられる凄みや切れ味がない。突然、愛する者を奪われた男の喪失感や、応報感情を乗り越えようと葛藤する姿があまり出ていなかった。この監督は少年法理念や被害者救済についてどれだけの考えを持っているのだろうか?この映画で描かれているような単純な話ではないはずである。 

 

素晴らしき日曜日:films

 黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』を観た。1947年、黒澤明37歳の作。戦後間もなくの東京を舞台に、金がない若い(?)カップルが過ごす日曜日を描いた作品。男も女も金が殆どなく、どこでも惨めな思いばかりしてしまう、なんだかトホホな話で、観ていてこちらが恥ずかしくなった。
 設定に不明な点が色々とあった。まず一体、このカップルは何歳なんだろう?特に男は若くはみえない。それと二人の服装。男はスーツ、ネクタイ、帽子にコート。女はバッチリ・メイクに髪にはパーマ。何より、文字通りの一文無しでどうやって家賃を払い、食べていくのだろう?男は戦争帰りであることがほのめかされるが、何をして生活しているのか判らない。女性もやはり不明。女性の明るく、前向きな性格は好感が持てるが、ウザさも感じる。『七人の侍』の作り込み具合と比較すると、随分と粗雑に見えるが、やはり貧しい時代だったのだろう。
 ラスト附近のシーン。突然に主人公が映画館のリアルな観客に向かって訴えかけるシーンがある。正直、これには戸惑いを覚えた。しかし、部屋で一人だったけど(笑)、付き合いで拍手してしまった。最後に男が未完成交響曲の指揮をするシーンはやや気恥ずかしさが残った。貧しくても、惨めでも、情けなくても、夢と愛があっていいね〜、勝手にやってくれやー。

 

七人の侍:films

黒澤明監督の『七人の侍』を観た。
映画史に残る傑作と誉れ高い作品だが、今回、初めて観た。僕は「時代物」と「バトルもの」は好みではないので、黒澤の作品は割合に避けてきた。同僚にビデオを借りたのだが、言葉遣いのせいか、音源の問題か随所に聞き取りづらい箇所があり、英語字幕を目で追いながら観た。特に「この飯、疎かには食わんぞ。」という漢文訓読調の台詞。つまりは「ごちそうしてもらったご飯は無駄にせず、ちゃんと報いるぞ」という意だが、巻き戻して英語字幕でそのココロを確認した。
 この作品、長いなーと思っていたら3時間を超える尺があった。構成は大きく分けて、侍集め→戦いの準備→最後の戦いという構成をなしているが、侍たちのキャラクターがそれぞれ際だっているため、彼らがどのように戦いに臨み、どのように活躍するのかの楽しみが高まった。こうした展開は後生のドラマや映画、小説に多く取り入れられたのであろう。自分の中では小さいときから馴染みのある展開となっていることに気付いた。好きなキャラクターは林田平八。剣の腕は一流ではないが、場を和ませるムードメーカーとしての役割を期待された人物である。一流の腕をもつ久蔵に先んじてピック・アップされることからも、彼の重要性が知れるが、こうした演出も巧いと思う(呆気なく死んでしまったのは残念)。現代はこうした人間の存在を評価するようなシステムが次第になくなっているのだろう。一緒に仕事をするなら、久蔵タイプではなく、やはり平八タイプだ。あと、志村喬演じる勘兵衛は存在感は抜群。『生きる』の演技との対比で観ると、『七人の侍』が『生きる』の後に撮られたとは到底、思えない。彼の演技力がなせる技なのだろう。勘兵衛の落ち着いた物腰や笑顔、リーダーとして仲間を失って漂わせる哀愁は、人を惹きつけてやまない。こうしたリーダーも最近はあまり、いない。コアなファンをもつ所以もよく理解できる。志村喬は名優だ!と感心した。
 また、侍と農民の距離感とでもいうのだろうか。侍のキャラクターがそれぞれ際だっているのに対して、農民はやや一枚岩に見えたが、農民を無垢な存在とは描かず、随所に彼らの本性を垣間見せ、したたかに生きる農民の姿が印象に残った。農民をただ守られるだけの弱い存在として描かなかったのは、黒澤の戦争体験もあるのだろうか・・・。
 それはともかく、サムライたちは確かに格好良かった。ダンディズムを感じさせたし、プロフェッショナルとしての矜持もよかった。しかし、この作品を観ながら漠然と思ったのは、暴力が「娯楽」として人々の間に浸透したのはいつ頃なのだろう?ということ。多くの海外の監督に影響を与えたのも首肯できる。SAMURAIが格好いい存在としてあれほど世界に流通していることに、この映画は一役買っているのだろう。しかし、戦うことへの根源的な問いかけがあの映画にあったかは、わからない。いろんな意味で『七人の侍』は典型的な娯楽映画だと思う。

20 décembre 2007 

生きる:films

黒澤明監督の『生きる』を観た。
役所の市民課で「お役所仕事」で日々の仕事をやり過ごすことに慣れきった渡辺は、ある日、自分が胃ガンで余命幾ばくもないことを知る。深い絶望と不安に駆られた渡辺は、大金をもって失踪するが、何をしたらいいか分からない。ある晩、酒場で出会った自称作家に連れられ、夜の街で遊びまくるのだが・・・。
 渡辺という無為に過ごす一役人が、死期を目前にして生きる意味を模索していく作品。渡辺が体現するこの作品の「生きる意味」とは何だったのか?それは自発的に生を充実させること、人に尽くすこと、そして生産すること、ではないだろうか。渡辺は貯金を蕩尽して、一時期ひたすら遊興に走るのだが、結局それで残ったのは空しさだけであった。それは彼の遊び下手という側面もあったであろうが、消費していく行為では彼は生きる実感を得ることができなかった。そして、公園を作るという生産行為に身を投じて初めて、彼の生は燃え上がるのである。
 我々は日常を振り返り、反省するばかりなのだが、そもそも日々の生活で「生きる」ことを実感することは、簡単なことではない。数日間、日記を付けてみればよい。その平凡な日常に堪えらずに、ほどなく筆を擱いてしまうだろう。「ローマは一日にしてならず」「学成りがたし」の言葉のように、日々何かを生産していると実感することは日常生活では難しいのである。
 しかしこの作品、我々の人生を、生活を、社会を考えさせるに十分な説得力をもつ。何より感心したのは渡辺の死を情緒的で安易な落としどころで話をまとめるのではなく、リアルな状況に強烈に引き戻す点と、それを効果的に演出する脚本の妙である。渡辺の役所の同僚たちは自らの仕事ぶりに一瞬は猛省するのだが、渡辺のように生きるという誓いは日常生活の前ではあっさり放棄されてしまう。「あの人の死をきっかけにみんなが頑張るようになりました」という現代でもありがちな安易で迎合的なオチを否定して、徹底的にリアルに描こうとする姿勢は今も、新鮮である。翻ると官僚機構を変革することはこの映画から半世紀を経った今でも困難であることを思い知らされる。昨今も形は違えど官僚機構は問題だらけ。『県庁の星』のようなお役所を皮肉った映画が好評を博す時代である。
 この映画は、現代との比較で実に時代の流れを感じさせる作品だ。癌の告知、末期医療、女性の描き方・・・。渡辺は生きる証として公園を作るのだが、官僚によって無用なハコモノがどんどん作られてしまう現代が舞台であったら、人々の渡辺の行動に疑問符を付けるであろう。また、公園を作ってくれた地域住民があれほどまでに感謝の涙を流すのも現代では考えにくく、名場面と誉れの高い渡辺がブランコに乗って歌うシーンも、僕にはやや過剰な印象。しかし、戦後間もない時期を考えれば、遊興施設を作ることの難しさはかなりあったであろうし、死を悟った人間の境地は僕にはまだ、分からないから何とも言えない。
 日々の人生をちゃんと生きているのか?という問いに、僕は恥じ入るばかりなのだが、開き直って言えば、やはり人生は生産だでけはないと思う。鳥の囀りや波の音、木々を揺らす風の音に耳を傾け、友人との対話や読書に思考を巡らし、社会の理不尽に憤慨することも、「生きる」ことである。渡辺の人生は、通夜のシーンで多くの人に評価されるが、人の評価はどうでもいいから、楽しく、愉快に生きたいと思う。いや、人の評価はどうでもいい、は言い過ぎだ。少しは気になります。

19 décembre 2007 

Jardins en automne:films

 Otar IOSSELIANI監督のJardins en automneを観た。
 相変わらずの作風である。テイストも前作と似たようなものだ。だがまたしても、人生を感じさせる作品だ。
 Vincentはフランスの農業大臣。職務中にトランプに興じ、執務室にはフィットネスクラブよろしくトレーニング用品を並べ、愛人を公邸に囲って、さも仕事をしているように取り繕っているが、とうとう失策により職を追われてしまう。その途端、本妻には愛想を尽かされ、公邸を追われてしまう。帰るべきアパルトマンは15人はいるのではないかというアフリカ系移民によって占拠され、自分のベッドには病的に痩せこけた老人が咳をしながら現れる。そこに住まうなどとは想像だにできない状況。愛人は別の男を捕まえて頼りにならず、とうとう行き場もなくなってしまう。
 しかし、彼には彼の失職記事を「おめでとう!」と歓迎する友人や、金の無心に気安く応える母親、甘えさせてくれる女性たちがいた。酒を飲み、歌をうたい、友人と遊び、新たな女友達ができ・・・彼は気ままで行き当たりばったりのその日暮らしを送る。ダメ大臣の転落譚と思いきや、Vincentはなかなかの人物であるように思えてくる。失脚した政治家は数多いが、昨今ではアベシンゾーが記憶に新しい。彼は決してこの映画の男のように人生を楽しむことはないだろう。
 人は誰しも、生きていれば仕事の第一線から退いていく。その退任の理由は様々だろうが、肩書きを失い、看板を下ろした時に、人は鼎の軽重が問われるのかも知れない。以前、日本で『鉄道員』という作品が流行ったが、実直に働いた主人公は定年と同時に死んでしまう。作中で殺してしまっては、面白くない。これも日本的な美学なのかも知れないが、非現実的なご都合主義に不満が残った。老後、日本では特に「センセイ」と呼ばれた人の多くは、センセイ時代の感覚が抜けきらず、周囲から浮いて嫌われる例が多いという。僕は如何に社会人として勤め上げたかではなく、老後どのように生きるのかということの方がより切実で難しいことなのだと思う。
 映画のキャッチ・コピーに「大切なのはお金や物、肩書きじゃない」とあるが、確かにその通りだ。しかし、それらがないと生きてはいけない。特に、成人をしてから年金生活に入る間は、ある程度は必要である。何よりも現代では時間が何よりも貴重なものになっている。お金で手間暇を省くのも、お金で時間を買っているのと同じだ。きっと、時間は苦労して働いた人へのご褒美なのだろう。これが若者を主人公にしたら、全く違ったイメージなってしまう。そういう意味で、これは大人のための映画と言える。
 イオセリアーニとベルイマン。まさに対照的な二人だ。ベルイマンは16世紀まで遡れるほどの名家に生まれ、鬼のような真剣さで人間の業を描くのに対し、グルジア生まれのイオセリアーニの作品は軽妙洒脱。人生の豊かさを感じさせつつも、社会に対する批判的なスタンスは失わない。人間の内面を突き詰めるあまり社会への視線が感じられないベルイマンとは対極にあるようだ。イオセリアーニはMichel Picoliに女装させてロー・アングルからのカットを入れたり、小さな笑いを誘うシーンに拘りをみせたり、自分も端役で登場して落書きやピアノで遊び心を発揮する。奇しくも下のポスターも真逆の構図である。
 冒頭には棺桶工場で棺桶を物色する老人たちが、一つの棺桶をとりあって口論になるというカットが挿入される。当然、どのような老後を送るかという問いの先には、どのようにこの世から去るかという最後の課題が待っている。
 原題は『秋の庭』、邦題は『ここに幸あり』。

18 décembre 2007 

SARABAND:films

Ingmar Bergman監督のSARABANDを観た。
同監督による『ある結婚の風景』の続編。離婚後、数十年経ち、マリアンは人里離れた山荘で隠居しているヨハンを訪ねる。ヨハンは莫大な遺産を相続してから大学の職を辞し、孤独な生活を送っていた。近くには息子のヘンリックがその娘カーリンにチェロのレッスンをつけるためにに住んでいたが、ヨハンとは絶縁状態だった・・・。
 物語はヨハンとマリアン、マリアンとカーリン、ヨハンとヘンリックなど、常に二人の対話で進行していく。
 どのエピソードも互いの恐らく人間の尤も醜い暗部を顕在化させるが、特に凄まじいのはヨハンとヘンリックの親子の確執。その対話のなかで垣間見られるヨハンという人物像、極めて興味深い。40年前に息子に言われた言葉を根にもち、今なおも息子を苛む言葉の選択に躊躇はみられない。言葉の端々に息子の妻アンナへの思慕やそれに連なる嫉妬も見え隠れしている。知性も教養もあるが、それは自らの激情の前では何ら刃止めにはならない。その激しさは老境に至っても弱まることなく彼の心を苦しめている。それは先立つ『ある結婚の風景』と同様である。小心で悪夢に魘されて人に救いを求めずにいられない弱い人間である。マリアンはそんなヨハンと愛憎にまみれた人生を送ってきた。何度も屈辱にまみれ、悲しみにうちひしがれるのだが、彼との幸せだった頃の想い出にすがりついているのかもしれない。もちろん、このヨハンという人物は監督Bergmannの分身である。そのせいかヨハンのキャラクターは他のどれにもまして重層的で、作り込まれている感がある。因みに僕の現実の生活にも、ヨハンのようなパーソナリティをもつ人物が、いる。
 もう一つ、物語の大きな軸をなすのは、ヘンリックとカーリンの愛憎とカーリンの自立物語である。恐らく近親相姦の関係にあるのだろう、二人は抜き差しならない泥沼に沈み込んでいる。カーリンは母・アンナの亡き後、父との差し向かえの地獄のなかに生きている。外の世界に憧れつつも、自分の存在が父の生き甲斐になっていると思い、自らの可能性を絶ちきってしまう。父のヘンリックは、亡き妻の面影を残す娘をまさに人生の一縷の望みとして生きている。愛情という言葉だけでは言い尽くせない抑えがたい感情を娘に抱き、娘に依存している。
 カーリンは祖父と父の確執の間で、極めて危うい人生を送ってきたのだが、最後は祖父でもなく、父でもない、自分自身が選んだ道に進むことで自立していく。しかし、劇中では語られることのなかったカーリンのその後の人生は、父の自殺未遂によって大きく影を落とすことであろう。カーリンの人生もまた、祖父、父の存在によって狂わされてしまう。
 では、なぜマリアンはヨハンに会いに行ったのか?それはよく分からないし、劇中でも明言されることはなかった。人生を振り返った時に、自分がもっとも心奪われた相手に会いたくなってしまうのだろうか。年老いたら、まったく違った良好な関係が築けると淡い期待を抱いてしまったからだろうか。マリアンはヨハンと再会して会話を交わしたとたんに後悔してしまうが、現実とはそういうものなのだろう。最後にはヨハンの死が暗示される。
 この映画、人間の深き業というものを感じずにはいられない。「家族」とは、
地獄への入り口なのかもしれない、とさえ思う。その入り口は幸せの幻想という甘い果実に飾られ、人はその甘い匂いに引き寄せられてしまう。老境は必ずしも安住の地とはならず、最後まで十字架を背負っていかなければならないのか。
 この作品だけ観るだけでもいいが、やはり前作と併せて観るべし。