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20 décembre 2007 

生きる:films

黒澤明監督の『生きる』を観た。
役所の市民課で「お役所仕事」で日々の仕事をやり過ごすことに慣れきった渡辺は、ある日、自分が胃ガンで余命幾ばくもないことを知る。深い絶望と不安に駆られた渡辺は、大金をもって失踪するが、何をしたらいいか分からない。ある晩、酒場で出会った自称作家に連れられ、夜の街で遊びまくるのだが・・・。
 渡辺という無為に過ごす一役人が、死期を目前にして生きる意味を模索していく作品。渡辺が体現するこの作品の「生きる意味」とは何だったのか?それは自発的に生を充実させること、人に尽くすこと、そして生産すること、ではないだろうか。渡辺は貯金を蕩尽して、一時期ひたすら遊興に走るのだが、結局それで残ったのは空しさだけであった。それは彼の遊び下手という側面もあったであろうが、消費していく行為では彼は生きる実感を得ることができなかった。そして、公園を作るという生産行為に身を投じて初めて、彼の生は燃え上がるのである。
 我々は日常を振り返り、反省するばかりなのだが、そもそも日々の生活で「生きる」ことを実感することは、簡単なことではない。数日間、日記を付けてみればよい。その平凡な日常に堪えらずに、ほどなく筆を擱いてしまうだろう。「ローマは一日にしてならず」「学成りがたし」の言葉のように、日々何かを生産していると実感することは日常生活では難しいのである。
 しかしこの作品、我々の人生を、生活を、社会を考えさせるに十分な説得力をもつ。何より感心したのは渡辺の死を情緒的で安易な落としどころで話をまとめるのではなく、リアルな状況に強烈に引き戻す点と、それを効果的に演出する脚本の妙である。渡辺の役所の同僚たちは自らの仕事ぶりに一瞬は猛省するのだが、渡辺のように生きるという誓いは日常生活の前ではあっさり放棄されてしまう。「あの人の死をきっかけにみんなが頑張るようになりました」という現代でもありがちな安易で迎合的なオチを否定して、徹底的にリアルに描こうとする姿勢は今も、新鮮である。翻ると官僚機構を変革することはこの映画から半世紀を経った今でも困難であることを思い知らされる。昨今も形は違えど官僚機構は問題だらけ。『県庁の星』のようなお役所を皮肉った映画が好評を博す時代である。
 この映画は、現代との比較で実に時代の流れを感じさせる作品だ。癌の告知、末期医療、女性の描き方・・・。渡辺は生きる証として公園を作るのだが、官僚によって無用なハコモノがどんどん作られてしまう現代が舞台であったら、人々の渡辺の行動に疑問符を付けるであろう。また、公園を作ってくれた地域住民があれほどまでに感謝の涙を流すのも現代では考えにくく、名場面と誉れの高い渡辺がブランコに乗って歌うシーンも、僕にはやや過剰な印象。しかし、戦後間もない時期を考えれば、遊興施設を作ることの難しさはかなりあったであろうし、死を悟った人間の境地は僕にはまだ、分からないから何とも言えない。
 日々の人生をちゃんと生きているのか?という問いに、僕は恥じ入るばかりなのだが、開き直って言えば、やはり人生は生産だでけはないと思う。鳥の囀りや波の音、木々を揺らす風の音に耳を傾け、友人との対話や読書に思考を巡らし、社会の理不尽に憤慨することも、「生きる」ことである。渡辺の人生は、通夜のシーンで多くの人に評価されるが、人の評価はどうでもいいから、楽しく、愉快に生きたいと思う。いや、人の評価はどうでもいい、は言い過ぎだ。少しは気になります。