18 août 2007 

ma montre:journal

携帯電話もなく、腕時計ももっていない社会人というのがいる。それはボク。周囲の大多数の人は両方もっており、あとの少しはどちらかを持っている。両方もっていないのは寡聞にしてきかない。それでも研究室や自宅ではパソコンがあるので困らないが、困るのは授業の時。これまでは昔使っていた携帯電話(解約済)を時計代わりにしていたが、充電を忘れた時には時計なしで90分の授業をこなすことになる。授業にはペース配分というのがあるので、これは結構、面倒だ。
 そこで携帯電話を契約するか、時計を買うかで迷った末、腕時計を買った。時計を持っていないボクでも、腕時計についてはちょっとだけ詳しい。まあROLEXが世界の最高級と思っている人よりは多少知っている程度であるが。
 中途半端で余計な知識故か心から大切にしたいと思える一生ものの時計を選びきれずにずっと過ごしていた。実を言えば、ずっと欲しかったのはPATEK PHILIPPEのCalatravaとVacheron ConstantinのMillésime、そしてPhilippe DufourのSimplicity。いずれもクラシカルでシンプルなデザインの筐体に職人の技術がギッシリと詰まっている手巻き時計の逸品である。しかし、ボクごときが購入できるような値段ではないし、日常使えるような代物ではない。分不相応。まさに僕にピッタリの言葉だ。
 僕が探していたのは最近流行のデカイ筐体でゴツゴツしたタイプではなく、クラシックでシンプルで、エレガントなものだ。上記のようなものまではいかずとも、JAEGER-LECOULTREの中古ぐらいならひょっとして手が届くかもしれない、あるいはGIRARD-PERREGAUXなら新品も・・・などと夢想しながら時計ナシ生活を続けていた。
 一般に高級時計と言われるのは手巻きか自動巻である。クォーツのそれは高級のうちには入らない。手巻き時計や自動巻時計はデザインもよく、まさに一生モノなのであるが、維持費も手間も一生モノ。手巻き時計ならほぼ毎日同じ時間に同じ回数分ねじを巻く作業が必要とされるし、生活防水さえないので、使用には細心の注意を払わなければならない。さらに3〜4年に一回はオーバーホールをしなければならないし、それには約5万円のお金がかかってしまう。本体の高さもさることながら、OHも一流の技術を必要とする。しかし、手巻き時計や自動巻時計はどんなに精度を誇るものでも、Quartz以上の精度はほぼ望めないのである。どんな高価なものでも日差±10秒以上のズレが生じる。有名ブランドの数十万円のQuartzというのがあるが、正直、あれはいただけない。内蔵されているmovementがQuartzなら、価格に十万単位の開きがあっても時計の性能としては大差がないかもしれないのである。しかも、内蔵されるmovementはETA社の同じレベルだったりする。極端なことをいえば、外側のデザインだけ違うのに値段が格段に違うことがあり得る。それゆえ数十万円のクォーツを身につけている人をみると、時計が好きなのではなく、単に見栄を張りたいだけに思えてしまう。それを意識していなければ時計の知識が欠如しているということを露呈するようなものだ。さらにアナログのQuartzは磁気による影響を受けやすい。時計に磁気が残りやすく、携帯電話やパソコンと一緒に使うと狂いやすい。そんなときは販売店などで脱磁を行なう必要がある。50年前ならまだしも、パソコンを使うたびに時計を外すワケにはいかない。時計でもっとも評価されるべき精度、値段、デザイン、利便性、手間などの諸要素が全く比例しない。時計選びのジレンマはここにある。
 本当の時計好きというのは、たとえ手間暇と維持費がかかってもそれが苦にならず、それらを愉しみに昇華している人々だ。あるいは時計メーカーの歴史と技術に敬意を払い、その全てを愛する人々である。しかし、ボクは長い長い時間をかけて時計を維持していく自信がない。この先も本当の時計マニアになれないと思う。そんなボクが一本の時計を選んだ。今のところ、結構、気に入っている。

06 août 2007 

certificat médical:journal

 処分が下りた朝青龍の病状を伝えるニュースに接した。朝青龍にかわって医師が病状についてインタビューに答えていたのだが、あれ?と思ったのはその医師が沖縄でよく見かけるテレビCMに出ていた人物だったからだ。本田昌毅医師。沖縄で開業している医師だと思う。元巨人の宮本投手と一緒にヘンテコなCMに出ていたので憶えていた。いわゆる男性の「あっち」の悩みを専門としているのだと思う。その医師が朝青龍のメンタルの危機について「鬱病の一歩手前」と説明しており、即座に別の専門家がそれはおかしいのでは?というコメントを付けていた。ボクも何だかあやしーなーと思った。
 今回の騒動の発端は、深刻な病状の診断書が出ていたにもかかわらず、ピンピンとサッカーに興じていたことだが、医師の診断書というのは
本当は病気ではないのに出てしまうものなのか?診断書は裁判で使われれば、これが決定的な証拠となりうるものだ。一般に医師の診断書は内容の信憑性が低い文書とは考えられていないので、何だかこれは恐ろしいことなのではないかと思った。

05 août 2007 

Je ne suis pas là pour être aimé:films

Stéphane Brizé監督のJe ne suis pas là pour être aiméを観た。
 51歳の法務執行官、つまり家賃滞納者に取り立てや家財の差し押さえをするような職業にある、Jean=Claudeは妻に去られ、週末にそりの合わない父親を見舞う、孤独な日々を送っている。息子が自分の事務所に入ってきたが、息子はそれほど楽しそうではない。そんなある日、Jean=Claudeは事務所の向かいにあるタンゴ教室に通うようになる。そこで、妻が面倒をみていたという女性Francoiseと出会う。
 フランス版のShall we dance?とも言える作品だが、コメディ色は薄く、人生に疲れた男の哀愁と結婚を前に戸惑う女性の心情を中心にした大人のラブストーリーとなっている。
 この作品はどちらかといえばJean=Claudeの方に細かい描写が施されている。父との関係というのは、息子にとっては良くも悪しくも軽いものではない。この親子3代は、互いに言いたいことも言えない、似た者親子である。孫の父親に接する態度は、かつてのJean=Claudeの父への態度を容易に連想させるようなものとなっている。また息子に愛情を示すことができない父親の態度も、Jean=Claudeと息子の間では相似の関係にある。父親が息子が勝ち取ったトロフィーを後生大事にとっておきながら、息子には捨ててしまったと嘘をついていたことが、父の死後、明らかになる。息子に素直に愛情を表現できない不器用で不自由な父親の心情を雄弁に物語って、極めて感慨深い。
 Jean=Claudeが買った香水の名前が"Rose des sables"というのはふるっている。まさにFrancoiseはJean=Claudeにとっては「砂漠の薔薇」。もちろん、薔薇といえばフランスでは誰もがエディット・ピアフのLa vie en Rose(バラ色の人生)を想起する。これを狙ってこの香水の名前が付けられている。こうした名前の香水が存在するのかは知らないが。
 結局、Francoiseは婚約を破棄したのだろうか?ラストは観客の想像に任されている。きっと結婚前に迷うのは女性ばかりではないだろうが、Francoiseの婚約者についてはやや無頓着な描かれ方になっているし、そういうキャラの俳優が選ばれている。登場人物の殆どが不器用な性格の持ち主であるだけに、妙に浮き立った印象だった(笑)
 タンゴの調べは大人の恋に合うのであろう。成熟した男女とタンゴをからませた映画は結構、多いような気がする。Robert Duvall監督の"Assassination Tango"やCarlos Saura監督の"Tango, no me dejes nunca"など。タンゴには忘れかけていた何かを蘇らせるものがあるのだろうか・・・きっと音楽だけの力ではないのかもしれない。原題は「愛されるためにここにいるんじゃない」だが、邦題は真逆の「愛されるために、ここにいる」。作品ではつい裏腹なことを言ってしまう大人の複雑な心境が描かれているが、この邦題になるとそうした機微がでないんだけどな・・・。

 

それでもボクはやってない:films

周防正行監督の『それでもボクはやってない』を観た。
26歳のフリーター・金子徹平が入社試験の面接に向かう満員電車から下りたとき、女の子に袖を引っ張られた。「痴漢したでしょ!」と言われ、そのまま駅の事務所へ。その後、容疑を否認するも警察に拘留される。それから思ってもみなかった彼の長い戦いが始まる・・・。
 凄い迫力だった。笑いを狙ったシーンもあるが、まさにシャレにならない凄まじい状況だった。取り調べからラストまで本当にリアルで、如何なる微罪でもこの国で警察に拘留されて、起訴されたらおしまいだ、と思った。この国の裁判制度をここまで恐怖させる映画はなかなかないように思う。嫌疑をかけられた時点で、進むも地獄、引くも地獄という窮地に立たされる。警察の取り調べも検察のそれも、殆ど問答無用。日本でもアメリカ同様、取り調べの時に弁護士が立ち会うという制度を整備しなければこんなことが常に起こるのではないか?
彼の拘留期間は4ヶ月に亘ったが、会社員ならこんな長期間拘留されてはたとえ裁判に勝利しても社会的に抹殺されてしまう。映画ではあまり時間の経過が感じられないが、精神的にも追いつめられることは必至だ。
 世間では、現実的な対応や実を取るような妥協を強いられる時が多い。仕事をしていればなおさらである。いわゆる「大人の対応」である。だがこういう妥協に慣れきってしまっていると、「やっていなくても容疑を認めて罰金と短期の拘留で釈放」という手段をとってしまいそうだ。それが嫌疑をかけられてしまったということで、こうなってしまうのだから恐ろしい。
 この映画に描かれる日本の裁判の進め方には驚かされることが多かったが、裁判長が途中で交代してしまい、そこから一気に裁判の流れが変わってしまったのには目が点になった。教科書に沿って進む授業じゃないんだから、スイッチされては・・・と当事者にしてみればやりきれない思いを懐くだろう。そんな時の加瀬亮の表情は出色だった。救いのない立場に追い込まれてしまったときの落胆の表情は彼のなかで何かがポキッと折れたような音が聞こえるようであった。
 以前、元某大学教授が手鏡でスカートのなかを覗き込んでいたとして逮捕されるという事件があった。その際に自宅にあったアダルトビデオの内容までも報道されていた。その時は痴漢で家宅捜索?と何となく疑問に思いつつもスルーしていたが、この映画でも被告の部屋に捜査が入り、アダルト系のDVDや雑誌が押収されていたのをみると、拘留された時点でプライバシーなどなきに等しい状況になってしまう。そして、全てが裁判の場で白日の下に晒されてしまう。恐るべし!国家権力!
 面白かったのは金子の右隣にいた女性が駅長室の前で何を言ったか、ということが証言者によって食い違う場面。僕自身も注意深く観ていたつもりだが、あれだけ食い違った内容を耳にしてしまうと、ふと自分が憶えていたことに確証がもてなくなってしまう。多くの観客も「あれ?どうだったっけ?」って思ったに違いない。そのあたりも非常にうまい脚本づくりになっていたと思う。また、この映画には裁判の傍聴マニアもしっかりとキャラクターとして描かれている。傍聴マニアの存在は以前読んだ北尾トロの『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』などで知っていた。親戚にも足繁く傍聴に通う人もいるので、監督も裁判制度そのもの以外の事柄もしっかりと取材していたということがわかる。
 ラストは僕が予想していたものとは違った。やっていないことの証拠を挙げる。恐ろしく困難だなことだ。存在することを証明するより、存在しないことを証明する方が何倍も難しい。しかも、証拠を挙げたとしてもそれが採用されていない。再現実験で反証されたことは一体、どうなってしまったのだろう?
 この映画は痴漢を題材にしているが、これが殺人などの嫌疑がかかっている時はどうなってしまうのだろう?警察も検察も文字通り容赦ない勢いで有罪に持っていくに違いない(むしろ慎重になるかもしれないが)。被告はきっと裁判のプロセスを経るだけでボロボロになってしまうだろう。沖縄は満員電車がなくってよかったぁ〜(モノレールできたけど)と思いながらも、同様のドツボの状況は日常生活にはたくさん、ある。まさに地雷のように。この映画、ぜひ、たくさんの人に観て欲しい。とくに自分だけは絶対に犯罪を起こさない、裁判の被告になる、ましてや有罪なんてあり得ない、なんて心の底で固く信じている人ほど、みてほしい。テレビドラマのような凡百の法廷モノを観るより、よっぽど勉強になった。『不撓不屈』や『日本の黒い夏ー冤罪ー』と併せて観るといいかも。