27 juillet 2008 

Masumi:journal

 和歌山カレー事件が発生してから10年が経った。将来的に、こうしたケースも裁判員制度によって裁かれるようになるのかも知れない。
 林真須美被告は今も無罪を主張している。しかしもし、今、ボクが裁判員だったら・・・すでにできあがった林真須美像に大きく左右されて、「真須美は真っ黒」という思いこみで出廷するのかもしれない。
 だがボクがこう思う根拠というのは、極めて薄弱である。マスコミの報道のみによる判断だからだ。実際の裁判では、こうした報道は一切考慮しないというルールが適用されるだろう。しかし、果たしてそんなことが自分のような一般人にできるだろうか。
 他人の人生を左右する裁判である。当事者だけではない。その家族や知人、友人たちの人生も大きく関わるだろう。やはり荷が重いと言わざるを得ない。

26 juillet 2008 

Kauas Pilvet Karkaavat:films

Aki Kaurismäki監督のKauas Pilvet Karkaavatを観た。
 市内電車の運転手Lauri、そしてレストランで給仕長をするIlona。二人は共働きで倹しい生活を送る夫婦。しかし、不況のあおりで運悪く二人は失業してしまう。しかし、ソファや本棚、SONYのカラーテレビのローンも残っている。何とか仕事を見つけようとするが、やることなすことみんな裏目に出てしまう・・・。
 カウリスマキのいわゆる「敗者三部作」の一作目。テーマは「働くこと」なのだろう。登場人物はどこか無表情。しかし、二人はどんな苦境でも相手をなじったりはしない。無口ながらも二人の夫婦の間に交わされる労りや思いやりは、観客によく伝わってくる。
 働くことは人生に不可欠な生活の基盤である。二人が求める仕事には、日本の若者が口にする「自分に合った仕事」や「やりがいのある仕事」、また「どんな仕事がしたいか分かりません」といった文脈で使われる仕事とは全く異なる意味をもつ。二人は職探しのプロセスで、何度も何度も不愉快で、理不尽な思いをする。とても不運で、不器用で、見ていて同情を禁じ得なくなる。しかし、最後にはそんな二人に幸運がやってくる。きっと「やりがい」とか、「楽して儲ける」とか、「自分を高める」とかそんな言葉で仕事を形容する者たちには、決して訪れない幸運なのだろう。リスクがあっても仕事をまかせられるのは、まさに地味だが彼らのような人たちなのかもしれない。
 この映画には、多くの場面で赤と青が多用される。監督はこの二つの色に強い拘りを見せる。ラストのシーンで、何とかやっていけるかも知れないという予感と、充実感をにじませながら、夫婦は空を見上げる。恐らく、二人の目には爽やかな青空と白い雲が広がっていただろう。しかし、監督は敢えてその色を画面に切り取らない。このあたりが心憎い。邦題は『浮き雲』

24 juillet 2008 

tarifs d'électricité

 7月10日以来、エコ生活をしているが、効果はあったのだろうか?
 今月の「電気ご使用量のお知らせ」によると(6月23日〜7月21日使用分)208kwhで、金額は5,197円。先月の6,246円と比べると、1,049円安くなっている。エコと言っても、クーラーを使わないだけで、その他は全く変わっていない。ネットには常時接続しているし、洗濯の回数は増えているし、食洗機もヘルシオも使っている。あと一ヶ月、同様の生活を継続して、電気代の推移を見守るつもりだ。
 しかし、勘違いしてもらっては困る。これはCO2の排出量を抑制したり、電気代を安くあげるためにやっているのではない。電気代など、どれだけ安くなっても高が知れている。支出を抑制するなら、映画やボウリングの回数を減らしてプチ断食した方がよっぽど効果が高い。これはあくまでもクーラーなし生活でどれだけ電気代が抑えられるかの実験である。
 アメリカの賃貸住宅では家賃に電気代が組み込まれている例が多いと聞く。もし、電気をどれだけ使っても請求額が変わらないのであれば、むしろ湯水のように電気を消費するだろう。現代人は必要量がどれだけかということより、損得が行動の指針になることが多い。スーパーの消費行動をみよ。必要以上の分量でも、それがオトクなら買ってしまう心理と同じである。
 こんな話をすると、CO2を削減するためにエコ生活を送る人は、冷や水をかけられるような思いをするだろう。だから、CO2削減のために脱クーラーをする訳ではない、とわざわざ宣言するのである。
 では、エコな生活を何故、ブログにしたためるのか?それはボクのイメージ戦略、である。

21 juillet 2008 

Little Children:films

Todd Field監督のLittle Childrenを観た。
裕福だが、どこか退屈そうな郊外の街。専業主婦として娘を育てるSarah。高学歴で知的な彼女は公園で同じように子供を遊ばせる主婦連中とそりが合わない(アメリカにも公園デビューってあるんだ・・・)。ある日、その公園に司法試験浪人をする主夫Bradがやってくる。一方、その街に性犯罪で出所したばかりの男Ronnieが戻ってくる。しかし、彼を待ち受けていたのは、元警官Larryによる執拗な嫌がらせだった・・・。
 物語はSarahとBradの不倫が軸になるが、全体的にはRonnieとその母、そして元警官のLarryの群像劇であると言えよう。
 この物語は劇中で引用されるように、FlaubertのMadame Bovaryへのオマージュで溢れている。いまや古くさいとさえ思える、登場人物の心情を説明する「神の声」も、その一つか。Sarahの日常はまさにボヴァリー夫人が置かれていた状況を髣髴とさせる。夫の豊かな収入で金銭的には何ら問題のない生活を送るも、冷めきった夫との関係や退屈な田舎生活に倦んでいる。Bradは妻の収入で司法試験浪人をするが、勉強はさぼってばかり。彼は美人で有能な妻にパラサイトしているが、持ち前の容姿と性格で自分の居場所はしっかり確保している。だが、彼とて今の生活に満足している訳ではない。そんなSarahとBradは不倫の関係にのめり込み、二人で駆け落ちすることさえ、考える。しかし、SarahもBradも収入がなく、二人が今の生活から逃げ出したとしてもその先は火を見るよりも明らか。冷静に判断すれば、愚かな行いであろう。劇中の「別の人生への渇望」、「不幸な生き方への拒絶」という言葉が示すように、そうした愚かなことまでしてしまうのが、人間の性なのだ。そういう人間を現代では、題名のように言うのである。そういう意味では、人は全然変わっていない。
 近年、海外では性犯罪の前科がある人物については、住所などの情報をネットで公表するところもあるという。この映画においても、そうした社会を髣髴とさせるシーンがある。プールでRonnieが泳ぎだすと、さながらプールに鮫や鰐が放たれたように、親や子供たちが半狂乱になるシーンがそれだ。しかし、その直後のシーンをみると、そうしたことも住民にすれば日常のちょっとした刺激や娯楽を得る手段のように見える。いじめられている子をみんながイヤだイヤだと避けつつも、それ自体を楽しんでいるような感じだ。罪を償ったはずの男性が、出所した後も地域からハラスメントを受ける。罪を償った人間には、人権などないのであろうか?空恐ろしいものを感じる。Ronnieのように、いつ終わるとも知れぬ社会的リンチを受けたら、その人間性はどうなってしまうのか?少なくともそんな社会を大切に思うことは、ないだろう。蓄積した怨嗟が社会への憎悪を生み、秋葉原の無差別殺人のような恐ろしい竹篦返しとなるような気がする。
 あと執拗にRonnieを虐めるLarryにも痛々しさを感じる。Larryは警官時代誤って少年を殺してしまったことで職を追われてしまった。しかし、新たな職にも就かず、Ronnieへの嫌がらせと性犯罪者であったことへの広報活動に余念がない。その執念に、彼の歪みを感じる。ラストに彼がとる行動は、感動的とさえ思えるのであるが、ある種の
暴力的な「正義」を振りかざす彼の姿に、狂気をみる。この映画は主人公二人よりも、むしろ脇の強烈さが印象に残ってしまう。
 題名に戻ると、
あの街の住人は何らかの形で子供の存在に囚われた生活をしている。題名には庇護しなければいけない子供の存在も含まれているのだろう。この映画が大人になることをテーマにしているのかは、正直よく分からない。きっと、結婚をしても、父親になっても、母親になっても、今とは違う人生というものを求めて足掻いてしまうものなのだろう。今の不幸から脱出したい、という気持は極めて自然で、「純粋」とさえ言える。しかし、役割があれば責任が伴う。だが責任という言葉だけでは、不幸から脱出したいという強い気持を抑えられないのかも知れない。それこそが「子供」と言われればそれまでなのだが。ラストの「神の声」に「過去は変えられない。だが未来は違うものになる。 一歩踏み出さなければ」とある。確かにその通りだ。しかし、誰しもその一歩をどこに向けて踏み出すのかで迷っている。

 

melon d'eau:journal

 蝉時雨を聞きながら、西瓜を食す。夏の風情を感じるひとときである。しかし、西瓜を美味しく頂くときに邪魔なのが、あの黒いタネ。これは人類における課題の一つと言ってよい。ここで不肖、が一つの方策を呈示したい。
1,まずは、縞目と垂直に切る。










2,その切れ目と平行に端の部分を切る。









3,以下のように置き、放射線状に切る。









4,こう以下のようになったら、タネをこそぎ落とす。









5,できあがり。


 





6,
要するに、タネというのは、西瓜のなかでは一定のラインに沿って並んでいるのだ。よってこのように切れば、タネに遭遇したとしても、一挙にこそげ落とすことがで きる。スーパーで売られている形に切ってしまうと、食べるときにタネが不規則に出てくるため、食べるよりもタネを排除するのに腐心することになる。お試しあれ。

7,最後に蝉丸の一首を。
 「世の中はとてもかくても同じこと宮もわら屋もはてしなければ」

 

pickles:journal

 連休の週末。やはり夏はどうしても食欲が減退しがち。そこでさっぱりと食べられるピクルスを作った。

【材料】
大根(葉に近い部分)
パプリカ
ゴーヤ


以下、ピクルス液
ローリエ2枚
黒胡椒5粒
鷹の爪1本
ニンニクのスライス
ワインビネガー


【作り方】
1,材料を適当な大きさに切る。
2,ピクルス液を沸騰させ、材料を入れる。
3,2が常温に近くなったら密封した容器に入れて冷蔵庫で冷やす。

 一晩浸しておいたものでも、十分に美味しかった。ポリポリという食感がいい。ゴーヤに関しては、しっかり綿の部分を取っておくのがいいだろう。これは他の食材よりも早めに鍋に入れ、火を通した。これで苦みは緩和される。基本的にピクルスの材料は何でも宜しい。

18 juillet 2008 

l'escroc:journal

 年齢を三十歳も鯖読みしていた女結婚詐欺師の裁判が、宇都宮地方裁判所で開かれたそうだ。
 その被告は今日、70歳の誕生日を迎えるそうだ。犯行当時、自分は40歳代と相手に伝えていたらしい。
 聞くところによると、詐欺師というのは案外、魅力ある人が多いという。人に嫌悪感を抱かれるような向きは詐欺師として生計を立てられない、という説は確かに首肯できる。今回の女性詐欺師も40代の男性に同世代以下と思わせていた。男性には痘痕も靨という側面もあったのかも知れない。しかし、瞞しの話術やテクニックだけではない、女性としての「何か」が男性を強烈に惹き付けていたことは確かだろう。被害男性も「許せないので、ずっと刑務所に入れてほしい」という、詐欺罪では不当に長い懲役を切望している。この憎悪は明らかにかつての愛情のリバウンドである。
 一方で男性が手玉に取られた背景には、愛情ばかりとは言えない側面もあろう。やれ非婚だ、やれ関係が多様化していると言っても、結婚に対する有形無形の圧力は常に社会に瀰漫している。特に年配者ほど、その傾向は強いように思える。そのやわらかな心情というのか、強固な世間体というのか、とにかく男性の「弱み」につけ込んで、カネをふんだくる女性は確かに性悪である。
 ニュースによるとこの詐欺師、実際に夫もいたという。夫は「今度は別れる」と言っていたそうだ。「今度は」ということは、別れようとしたが別れられないという過去があったということである。この言葉から男女の深い淵をのぞき込んだような心境になった。
 今回詐欺にあった男も、夫も、心のなかでは嘲えない。詐欺師の顔を報道で見たときは、噴飯モノだったが。

17 juillet 2008 

Hard Candy:films

David Slade監督のHARD CANDYを観た。
 14歳の少女Hayleyは出会い系サイトで知り合ったカメラマンJeffと初めて会うことになった。Hayleyによって巧妙に仕組まれたこの出会いが、Jeffを恐怖と絶望のどん底に落とす結果に・・・。
 ホラー映画を観客に恐怖心を味わせる映画と定義するなら、この作品はまさにホラー映画だ。世にホラー映画と言われている凡百の映画よりも、ずっと怖い。ほぼ二人の会話のみでストーリーが進行する密室劇だが、飽きさせない・・・どころかHayleyの表現がどぎつすぎて、悪趣味とさえ思える。14歳以下の少女しかナンパしない男も確かに鬼畜なのだが、総体としては子供が一番残酷なんだと思わせるに十分な追い込みようだった。
 この映画、リアリティに欠ける点がたくさんある。小柄な女の子が男を椅子に座らせて縛ったり、机の上に立たせて首つり状態にさせているが、いくら眠ったり気絶しているとはいえ、そんな腕力はないだろう。劇中での十四歳という設定さえ怪しいのだが、あまりにも世知に長けすぎているのもやりすぎな感じがしないでもない。
 この映画はHayleyの服に表象されているように、グリム童話の赤ずきんちゃんの現代版と言える作品だ。童話の赤ずきんちゃんは、甘い言葉で誘う男には注意しなさいという教訓を与えるものだ。しかし、この作品ではオオカミの方に大きな教訓を与える作りになっている。小さな女の子だと思って侵害していたら、この映画のようになりますよ、と。この作品をみてリアルな戦慄を憶えた男もいただろう。
 やや話題がそれるが、一般に異性の好みは千差万別である。年齢、容姿、性格などに関わりなく異性なら誰でも構わないという人は稀である。どういったタイプが好きかということは、人は意識的に選択した結果、そうした好みになっているのだろうか?自分が何かを嗜好する場合、誰しもそれに意識的に、明確に答えられるのだろうか?
 それはともかく、この映画のJeffは有り体に言えばロリコンである。こうした嗜好は社会的には断罪されるべき範疇に入るが、彼の嗜好は彼自身の選択の結果なのだろうか?タブーとなっているから、欲望が喚起されるという説明は確かにあり得よう。しかし、それだけでは一面的な「解釈」のような気がする。
 これは女性も然りである。ジャニーズの未成年の人気を支えるのは、未成年だけではない。しかし、児童ポルノや児童買売春の被害者の多くが女性であることを考えると犯罪性は圧倒的に低い。やはりこの問題は根深いのだ。
 とにかく、この映画の教訓は、赤ずきんちゃんのそれより、よっぽど強烈であることを世の男性諸氏は憶えておいた方がいい。

14 juillet 2008 

piston et pot-de-vin

 大分県の教員採用汚職。救いようのない話だ。これは関連する全ての人にお気の毒な話である。採用試験に落ちた人はもとより、賄賂を渡さずに採用された人も、痛くもない腹を探られるだろう。不正で合格した人のなかにも、採用されてから何とか一人前になろうと努力し、何年も身を粉にして働いた人もいるだろう。賄賂の効果で自分が合格したと知らなかった場合、その教員も被害者であると言える。
 もちろん、大分の児童・生徒にとっても好ましい話ではない。今習っている教員に対する信頼が揺らげば、
確実に学習効果に響く。教員にとってもしんどいが、敬意を払わなくなった結果は児童・生徒に跳ね返ってくる。
 今回は教員採用をめぐる贈収賄事件だが、地方公務員や国家公務員の採用などに関しては、コネやカネは絡まないのだろうか?では、民間企業の採用はどうだろうか?直接的に金品は贈らずとも、会社にとって利害のある人物の師弟ならば、企業は試験の成績は度外視してまで採用するだろう。例えば、議員や許認可権をもつ官僚やスポンサーの師弟・・・。一般企業は、企業活動に有利になる人材を採用するし、人事の裁量権がその企業にあることを考えれば、一概に糾弾もできない。
 では、公務員はどうだろう?小さな自治体になればなるほど、採用にはコネやカネがモノをいいそうな印象である。しかし、こちらに関してはあまり話題にもなりそうもない。教員ではない公務員の場合、世間やマスコミはここまでバッシングするだろうか?芸能界の場合はどうだろう?気がつけば、二世、三世ばかりだ。
 今さら申すまでもないが、日本の風土のなかに、採用を巡ってのコネの利用や、金品の贈与は頻繁に行われているのが現状である。いま、たまたま韓国版『白い巨塔』をテレビで放映しているが、舞台を韓国に移しても大ヒットしたところをみると、韓国も似たような風土があるのだろう。中国も、欧米も似たようなことは絶対に、ある。
 誤解のないように言っておくが、今回の汚職は言語道断である。昨今、教員免許の取得に関しては極めて高いハードルが科せられるようになっており、大学もその対応に大童になっていることを考えると、採用段階でこんな不正をやられたんじゃ、どんな努力をしても無駄、ということになる。また、ボクなどはコネもカネもないから、自分がとった点数を下げられてまで不合格になった人の心情を思いやると、怒りを覚える。不正をして合格をした教員の代わりに落とされた受験生をきちんと救済すべきだと思う。
 しかし、今回の汚職を断罪しても一向にスッキリしない。誰かが誰かを採用する。そもそも、成績だけが唯一のファクターではないはずである。よって第三者にとって納得できるだけの要素を提示することは難しいと思われる。スポーツのチーム編成をする監督の立場になれば、抜群の技術をもっていても協調性がないメンバーを選ぶことに躊躇するだろう。逆に、技術は人並みでも、その人物の存在がチームを和ませたり、ポジティブに物事を進める潤滑油になる時もある。サッカーの代表チームでも、能力的にあれ?と思う選手がいたり、抜群の能力がある選手が外されたりすることがよくあるが、そこにはきっと余人には判らない何かあるのだろうと思う。
 話がやや迷走した。要するに今回の汚職は、日本の採用風土から生まれてきたものである。誰もが大分だけではない、と感じていることからそのことはうかがえよう。採用に関しては、民間企業のように半ば公然と縁故採用が行われているところもあるし、公務員も公然の秘密。教員の世界だけは聖域だなんて・・・と思ってしまう。あってはならないことだし、納得できないことなのだが、日本ってそんな国なんだよな・・・と思わせるニュースだ。世の中、カネやコネで就職した人ばかりになれば、若者の未来に対する意欲は減退してしまうだろう。努力しても無駄。そんな雰囲気が瀰漫すれば社会は活力を失うに違いない、今がまさにその時なのかもしれない。

12 juillet 2008 

l'alcool du soir

 ここ最近の晩酌と言えば、専ら芋焼酎。前回お取り寄せした萬膳はあっという間になくなってしまった。今日も、取り寄せた二本、金峰櫻井と伊佐美が届いた。
 万膳酒造の萬膳は、麹米としてひとめぼれ、いもに黄金千貫、麹菌に河内麹菌、NK黒麹を使う。仕込み水に超軟水を使っているからか、口当たりがまろやかなのに、黒麹が効いているためかコクがある。香りもよし。
 今回届いた、金峰櫻井も旨い。麹米にひのひかり、いもに黄金千貫を使う。萬膳に比べるとスッキリと洗練されているので、今の流行はこんな感じなんだろうと思わせる。
ロックが最適。お土産に頂戴した渡嘉敷産まぐろジャーキーを噛みしめながらやるのも、悪くない。
 
櫻井がなくなったら伊佐美を開けよう。これでしばらくは、楽しめそうである。
 宅配業者が二本の焼酎を届けに来たとき、僕はシャワーで全身石鹸まみれだったが、早くゲットしたいがために、ソッコーで洗い流してバスタオル一枚腰に巻いて受け取りをした。さすがに、業者は困惑の面持ちであった。

11 juillet 2008 

Slip et Hideyoshi:journal

 最近のテレビは、毎日のようにクイズ番組を放映している。僕もトリヴァルな知識が得られるため、よくHDに録画しているが、それを観るときはいつも二倍速で観ている。普通のスピードだと時間が勿体ないからだ。
 それはさておき、先日のクイズ番組では驚いた。Qさまだっただろうか、ある問題で「豊臣秀吉は日本で初めてパンティーをはいた人物」と解説されていた。我が耳を疑って、その時ばかりは普通の早さで見返した。しかし、特にそれ以上の解説はなく、秀吉の話題はあっさりスルーされた。
 僕がひっかかったのは、なぜ、パンツではなく、パンティなのか、だ。秀吉に女装趣味があった、という話は寡聞にして知らない。百歩譲って「パンティのようなもの」なら、ブリーフと言い直してもよかろう。しかし、わざわざ「パンティ」と言っていた、それは何故か?
 ネットで調べると、真偽は定かではないが、本当にパンティだったようである。ポルトガル人から献上されたものに足を通したとされる。秀吉はパンティが女物と承知の上で履いたのか、履いたときの感想がどうだったのかなども分からなければ、肝心のそれがどんな文献に掲載されていたのかわからない。下着を献上品リストに加えるという発想も、今日的にはあり得ない。今に伝わる秀吉の性格なら、その場で客死する覚悟も必要だろう。僕はこうした面白すぎる話は鵜呑みにしないように心がけている。しかし、それを明記した一次資料が残っているなら、応接するにやぶさかではない。

10 juillet 2008 

La vie écologique:journal

エコな生活を始めてみた。

1,自宅でも職場でもクーラーはつけない。
2,シャワーは水。
3,車に乗るときはエコドライブに努める。エアコンは切り、エンジンの回転数は平地では1500回転、坂道も2500回転に抑える。
4,夜は10時には寝る。

 これでCO2はだいぶ削減できる。しかし、どれだけ白い歯を見せて笑っても、どれだけ爽やかに振る舞っても、汗臭さは、残る。渾身の右ストレートのように鼻につくだろう。また、これだけ頑張っていれば、周囲に対してもエコ・ゲシュタポよろしく振る舞うに違いない。それが人情というものである。
 ふと思った。こんなエコ戦士と一緒に住みたいと思う人間がいるだろうか・・・・と。

 

悩む力:journal

姜尚中の『悩む力』を読んだ。そのなかの一節を紹介する。
 
 「空腹さえ満たせれば食べるものは何でもいいとは思いませんし、着られるものならボロでもいいとも思いません。趣味にお金を使いたいと思いますし、余裕があるなら積極的に使ってもいいとさえ思っている。かといって、利殖に現を抜かすようなことには強い抵抗感があります。・・・いくら寄生的なマネーゲームがいけないと言っても、われわれの中に、その恩恵を受けている人は少なからずいます。株、預貯金、保険、年金・・・、これらはすべてマネーゲームの所産であり、われわれはもはやそれと隔絶した世界で生きているわけもありません。・・・結局は、漱石たちと同じように、できる範囲でお金を稼ぎ、できる範囲でお金を使い、心を失わないためのモラルを探りつつ、資本の論理の上を滑っていくしかない。」
 
 きっと自分は極めて凡庸な人間なのだろう。何だか、自分の生活そのものと言ってもいい表現だ。本書は漱石やウェーバーの生きた時代と現代が似通った状況であったと述べている。細部には異論があるかもしれないが、非常に面白く読んだ。漱石を再読してみたくなった。

07 juillet 2008 

scandale:films

黒澤明監督の醜聞(スキャンダル)を観た。
新進の画家・青江は画家仲間たちと山の風景をスケッチする最中に、そこを通りかかった音楽家・美也子と出会う。美也子は三時間後のバスを待ちあぐね、徒歩で目的地に行く途中であったが、その目的地があまりにも遠い。そこで青江はバイクで彼女を旅館まで送ることにした。しかし、彼女を追う雑誌『アムール』の記者により、二人が恋仲であるとスキャンダラスに報道される・・・。
 一種の法廷モノである。この映画で争われているのは、根拠のない捏造記事の事実関係のようである。この映画の中ではプライバシーという言葉は一度も使われていないが、現在でいうなら「古典的プライバシー権」の問題に入る事柄なのなのだろうか。
 黒澤がまだ存命で、今日、同じテーマで作品を撮ったならば、全く別の問題が争点となったであろう。現代では記事の事実関係如何を問わず、名誉棄損という事柄が成立しうるからである。当然、現在ではプライバシーとして認められるようになっている「自己情報コントロール権」などは含まれていないため、裁判自体は至って単純である。しかも、観客は青江と美也子の間には関係がないことを知っているため、裁判の事実関係は観客にとってさほど魅力的ではない。
 そこで物語は次第に弁護士・蛭田の葛藤へとシフトしていく。蛭田は青江を扱った記事に義憤を感じるほどの正義感を持ち合わせているにもかかわらず、ギャンブルの誘惑に弱い小心者。賄賂性の強い金品や接待で弁護士本来の役割も全うできない。彼の存在がこの物語の行方を左右する。
 この映画はプライバシーの問題を扱ったというよりは、裁判というものが必ずしも真実を反映する訳ではないということと、蛭田に代表される人間の弱さを克服することの大切さを説いているように見える。この作品は黒澤の先見性を示すとして紹介されるが、むしろ黒澤のある種の正義感が撮らせた作品だと言った方がよかろう。それは『生きる』などの作品と同様である。
 だが、プライバシーの問題が現在でも複雑な様相を呈していることをみるにつけ、やはり黒澤の慧眼は認めざるを得ない。
社内での自らの立場のために、著名人の生活を餌食にし、ありもしない捏造記事で給料をもらう輩がいることは今も、昔も変わらない。不誠実な記者は、今も、昔も、大勢いる。
 これに断固ノーを突きつけたのは、中田英寿だ。彼はこうしたマスコミの姿勢に強く異議申し立てをした数少ないアスリートの一人である。彼は自らのサイトを立ち上げ、自らテレビのチャンネルを持つことで、自らの主張を率直に述べた。凡百のアスリートと彼が一線を画すのはこうした姿勢だ。しかし、昔はそういうメディアがなかったため、泣き寝入りするか、この映画のように法に訴えるしかなかった。
 黒澤の現代劇はいつも時代を感じさせる。まず、法廷のシーン。今日の法廷では裁判中のカメラは禁止されているが、この時は至ってオープン。満員の傍聴席はさながら舞台を観る観客席の如くである。また、個人的にあれ?と思ったのは、1950年に発表されたこの作品で、市民がクリスマスを行事として楽しんでいること。戦後、5年も経っていない日本で、自宅でクリスマスの飾り付けをして「きよしこの夜」を歌っている・・・つい五年前にアメリカ軍の空襲があり、沖縄戦があり、原爆が落ちていることを考え合わせると、「敵国」の風習を嬉々と楽しんでいるさまに、奇妙な驚きがあった。
 かつて、僕は黒澤の描くヒーローは常に独身であるという旨を書いた。こちらこちら。 この作品の青江も、女に囲まれてこそいるが、男女の関係をもった女性がなぜか登場しない・・・。ある意味で黒澤映画の王道とも言える。

 

Conférence au sommet d'Hokkaido:journal

 洞爺湖サミットが開催されているということで、メディアはこぞって環境問題の話題を取り上げている。まさに一大キャンペーンの様相。我が生活を振り返れば耳の痛い話ばかりが喧伝される。
 CO2の排出量を効果的に減らすためには、これまで慣れ親しんできた便利で快適で合理的なライフスタイルやビジネススタイルを捨てなければならない。車から公共交通機関に乗り換える。エレベーターは使わない。クーラーは消す、パソコンも使わない(無益なブログも書かない)・・・要するに電気で支えてきた快適さを我慢することから始めなければならない。
 また、家庭のCO2を削減するために最も効果的なのは家庭内の電化製品を全て省エネ性能の高いものに切り替えることだ。どれだけチマチマ電源を消しても、この方策には敵わない(しかも快適さを損なわない)。しかし、そのためには何十万もの支出が必要になる。CO2を削減するために求められていることは、便利さを捨て、快適さを求めず、しかもお金をかける行為に他ならない。温暖化論や環境破壊の未来予想への懐疑論が絶えないのは、エコなるものが実はもの凄く金のかかることで、どこかで誰かが利権を貪っているのではないかという疑念が払拭できないからだ。どこかの小学校では「20分クーラーを付けたら、シロクマが一匹死ぬ」という恫喝まがいの言説をふるってまで削減を求めているそうだ。ここまできたら、異常に近い。
 しかし、サミットが終われば、メディアも市民もじきにこの話題に飽きる、と僕はみている。ロハスだなんだと言っても、それを貫徹できるのは、環境に負荷をかけない!というポリシーのためにはお金や時間をどれだけでも消費して構わない人たちだけで、損得の前では環境への負荷云々は常に後回しにされる。現に職場では何十年も前のクーラーを全て省エネタイプに切り替えれば、電気代は半分以下になることが分かりきっているのに、誰もそんなことを実行しない。長期的なスパンで有効なことも、短期的に出費がかさむ予算の前では簡単に膝を屈するのを僕らはイヤほど眼にしている。私の知っている環境にうるさい方は、ハイブリッド・カーでも、軽自動車でもない、普通の乗用車にお乗りである(しかも燃費の悪いオートマ車)。要するに本気で有効なことを実行する気がないのである。
 今日は七夕。僕も環境論者の顰みに倣い、夜は電気を消してキャンドルを灯している。しかし、これでは本は読めない。そう、夜に本を読むという振る舞いに代表されるライフスタイル全てが、環境問題では問われているのである。あなた、今さら、やめられますか?

 

Fleurs de la semaine:journal

 季節の終わりに胡蝶蘭を買った。やはり華やかで生命力が強い。贈り物として供されるのもわかる。










こちらは、少し珍しい色合いのもの。




すでに馴染みとなった花屋の女性から、胡蝶蘭の苗をもらった。植え替えて適度に水をやっていれば、来年には花を咲かせるそうだ。き
れいな花を咲かせたら、誰かに譲ろう。




こちらはデンファレ。花の形はよく似れど、胡蝶蘭とは別種のようだ。花をたくさん付けているので、僕の一輪挿しでは傾いてしまう。もうこの花を楽しむのも最後と思い、花を一房づつちぎってパスタ皿に浮かべた。これも、悪くない。小さなリゾートホテル気分。

02 juillet 2008 

Paranoid Park:films

Gus Van Sant監督のParanoid Parkを観た。
スケボーを始めたばかりの16歳の少年・Alex。どこにでもいるような、高校生。彼はある日、友人に誘われてスケートボード公園、通称パラノイド・パークに行く。憧れのスケボーの聖地でのデビュー。しかし、そこに滑り込む前に、その公園に居着く別の少年に貨物列車に飛び乗る遊びに誘われる。しかし、彼らは警備員に見つかってしまい、Alexは警備員を払いのけるが、それによって警備員を死なせてしまう・・・。
 16歳の少年が人を殺めてしまう。一生、誰にも打ち明けられない秘密を抱え、それをおくびにも出せない。激しい内面の葛藤とは裏腹に、日常は淡々と過ぎていく。観客が観ることができるのは、彼の外面的な日常だけ。内面は推し量るしかない。警察の調査やテレビの報道、その他、事件にかかわる友人のコメントに内心は激しく揺さぶられる。「あの日」を境に、Alexの内面は大きく変化したはずである。今まで当たり前のように生きてきた日常が色を失うような感覚を抱いたのかもしれない。だが時系列をバラバラに散りばめたようなカットやAlexの佇まいからは、それが「あの日」の前なのか、後なのかよく分からない。この映画では宗教的な罪の意識や心の葛藤があまり描かれていないが、若いときであればあるほど、自らの所業が、全能的な何かに看破されているような心持ちになるのかも知れない。(少なくとも彼の行った行為を見ている人間がいるため、彼の心配の種は決して消え失せることはない。)
 Alexの日常。それは、絶望的なまでの孤独が支配する。もしかしたら、大きな秘密を抱え込まなければ、彼の孤独はAlexの意識のなかで顕在化しなかったかもしれない。Alexには悩みを打ち明けられる人物が一人も登場しない。両親は離婚調停中。アテにしようとしていた父はタイミング悪しく、自分から離れていく。自分を気に入っているクールな恋人がいるが、内面を打ち明けるほど関係を深めていない。Alexの恋人への接し方はどこかよそよそしい。唯一、Alexに悩みを文章にしたためることを提案する女の子が出てくるだけだ。この映画のなかには、「大人」が存在しないのである。
 この映画、同じ監督だから当然とも言えるが、Last daysに似ている。この作品の主人公も、救いようのないほどの孤独の中で死んでいったミュージシャン。誰からも崇拝されているはずが、奥深い山荘で絶望的な孤独の中で死んでいく。Paranoid Parkではカメラマンがクリストファー・ドイルになっていることで、ややソフトフォーカスや叙情的なカットが増えた感があるが、基本的には同じリズムだ。両作品に共通するのは、現代人の孤独なのだろうか。
 この作品は安易な答えを用意してくれない。彼は事の真相を告白すべきなのか、出頭すべきなのか、罪を償うべきなのか・・・こうした「現世的な決着」をつけることに監督の興味はない。社会的な罰を受けることで、物語を完結させてしまうというのは、それこそ安易の誹りを受けないだろう。