31 mars 2008 

The Bridge:films

Eric Steel監督のThe Bridgeを観た。サンフランシスコのゴールデンブリッジを舞台に、自殺した人の遺族や友人、そして奇跡的に生き残った人の証言、そして飛び降りた、あるいは飛び降りようとして助けられた人々の映像を織り交ぜて構成されたドキュメンタリー。この橋には行ったことがないが、雲が立ちこめた幻想的なこの橋の写真を一時、パソコンの壁紙にしていた。写真でみる限り、本当に美しい橋だ。当時、自殺者が多いことなどは知らなかった。
 映画の話に戻ろう。橋から飛び降りて自殺する人の理由(もちろん想像される理由)はさまざま。周りの対応も様々。明らかに生前の自殺者をもてあましていたような発言をする人もいれば、心から悔いているような人もいる。だが、一定の時間が経過しているからだろうか、どの人も一応に死者への自分の思いに整理をつけているように思える。橋の欄干を越えた人に共通しているのは、恐らくは絶望。橋の欄干の向こうに、解放や救いを見ていたのかも知れない。本当にそんなものがあったのかは確かめようがない。
 最後に黒い長髪をなびかせて黒ずくめで橋を行き来する青年の話題に及ぶ。周りによると頭も良く能力もあるのにやる気だけが欠けていた。彼の留守電には彼が望む管理職への採用を告げるメッセージが入っていたという。彼がそれを聞いていたのかは判らないという。留守電を聞いていたら、思いとどまったかもしれない、という思いを禁じ得ない。
 人生は何が起こるか分からない。絶望的な状況がずっと続くとは思えないが、精神的に落ち込んでいる時は未知の世界に光を見いだすこと自体ができないのであろう。ラストシーンにあるように、監督の意志としては、太陽が再び昇る一日は、新しい一日なのだということを伝えたかったのだろう。
 やはりこの映画を観て、倫理的な問題が頭をもたげた向きも多いのではないだろうか?撮影する側は、誰かが柵に足をかけたらすぐに管理局に電話をすることにして撮影をしていたようである。ハリウッドのコードとして、子供と大統領は劇中であっても殺さないという暗黙のルールが存在する。先日、バンデージ・ポイントというハリウッド映画を観たが、この映画でもそのルールは完全に守られていた。その他、撮影のために動物は殺さないとか、青少年への影響を考えて煙草のシーンは控えるとか、数多くの暗黙のコードが存在する。これらに比べると一般人の自殺の映像はこうしたコードをあっさりスルーしてしまうほどに軽いのか?と思わざるを得ない。
 ちなみに自殺する動物やはり人間だけのようだ。ディズニー製作の映画でレミングが集団自殺するという話が広まったようだが、これは本当のことではないようである。

30 mars 2008 

Brødre:films

Susanne Bier監督のBrødreを観た。
国連軍のエリート少佐のMichaelは、仲間の通信兵を救い出すべくアフガニスタンに向かう。しかし、アフガニスタン上空で撃ち落とされ、奇跡的に助かるも捕虜となってしまう。祖国ではMichaelは殉職したと報されるが・・・。
 邦題の『ある愛の風景』をみると夫婦愛の話のようだが、原題(「兄弟」の意)ではMichalの妻を挟んだ兄と弟の関係を描いたものでもある。優等生の兄と劣等生で銀行強盗で服役した弟。父親は兄への愛情と弟への憎悪を隠そうとしない。しかし、道徳的で冷静で模範的な兄の死亡が伝えられ、帰還するも、戦地での激烈な経験によって精神のバランスを完全に失してしまう。喜びの感情を失い、笑うことが全くできなくなってしまう。
 アフガニスタンの紛争がデンマークの一家を崩壊させてしまうことの不条理。このグローバル化する社会では当然の帰結なのかもしれないが、海外の兵士が戦地に行かせてしまう世界状況に疑問を感じざるを得ない。兵士にとっても家族にとっても死ぬも地獄、生きるも地獄の状況に襲われる。
 しかし、この映画には一筋の救いがある。ラストが美しい。やわらかな夕陽が差す刑務所の中庭で、Michaelが妻に告白を始める。凍り付いた心を溶かすようで秀逸。Lars von Trier、Lone Scherfig、そしてSusanne Bier。デンマークはいい監督を輩出するね。邦題は『ある愛の風景』

29 mars 2008 

PERSEPOLIS:films

Marjane Satrapi&Vincent Paronnaud監督のPERSEPOLISを観た。
パーレビ国王の失脚とイラン革命、そしてイラン・イラク戦争。イランでの幼少期とウィーンでの少女時代、そしてイランでの大学時代を経てパリに出るまでを描いた自伝的アニメーション。
 恐らく彼女はかなりの上流家庭のお嬢さんなのだろう。彼女のようにウィーンのフランス語学校に留学したり、パリに出たりすることは一般のイラン家庭ではできない。しかし、イランだけでなく、どこで暮らしても異端扱いされてしまう。彼女は年齢的には僕とさほど変わりないが、政局により生活が一変し、翻弄されてきたと言っても過言ではない。政治的な変化で社会がこれほど変化をしていまうことに暗澹たる思いを抱く。やや暴露的な印象も持ったが、庶民から観た政局などはああした灰色のものだったのだろう。ラストはフランスでとこから来たのかと尋ねられたことに対して、きっぱりと「イランから来た」と答える。これは出自を隠したりしてきた過去へ別れを告げる、高らかな宣言でもある。印象に残ったのは祖母。何歳になってもジャスミンの花を胸に忍び込ませる粋なところがある女性。おしゃれをしたいというささやかな楽しみさえも奪った政府がやりたかったこととは一体何なのだろう・・・日本上映はフランスのオリジナル版。キアラ・マストロヤンニとカトリーヌ・ドヌーヴの母娘が声優をつとめていた。

 

IPPEI:journal

 本土では桜が咲いているようだが、沖縄ではイッペーが鮮やかな黄色の花を咲かせている。イッペーはノウゼンカズラやコガネノウゼンと呼ばれ、ブラジルの国花となっているようだ。サッカーのブラジル代表のユニフォームを髣髴させる色だ。
 朝は鳥たちが様々な鳴き声を聞かせてくれるが、何の鳥なのか判らないのが口惜しい。どうやったら鳥の鳴き声と名前を同定できるのだろう?誰か教えてくれないかな。

 

C'est tout? :journal

 昨日、WOWOWでX JAPANの復活コンサートをしていた。最初にテレビをつけたのは7時頃だっただろうか。開演前の会場風景が映し出されていた。ザッピングして、8時半。まだ会場の映像。9時少し前だっただろうか、チャンネルを合わせたらコンサートをやっていた。
 何曲か聴いていたら、小休止。何曲か聴いてまた小休止。段取りも何となく場当たり的。新曲なのだろうか、観客に歌わせようとTOSHIがマイクを向けるが、会場の声は小さい。それで、10時半を回った頃にYOSHIKIのお約束の失神でライブは終了したようだ。
 チケットの値段は知らないが、開演が2時間以上も遅れて、楽曲も少ない。X JAPANの大ファンと報道されていた前首相は会場で待っていたのだろうか?会場に駆けつけた観客やコンサートにかかわったスタッフや生放送をしたWOWOWはお気の毒。金輪際、彼らとは仕事をしたくないと思った向きも多いのではなかろうか。

26 mars 2008 

KUNDUN:films

Martin Scorsese監督のKUNDUNを観た。
 チベットの最高指導者ダライ・ラマ14世が見いだされ、インドに亡命するにまでのチベット社会におこった悲劇と彼の苦悩の日々を描いた作品。最初は全編英語の台詞に違和感を抱いたが、内容としては、チベットの民が舐めた辛酸がいかなるものだったのか、その概略がよく判る作品に仕上がっている。
 昨今、チベットの「問題」が再びクローズアップされているが、現在のようにデモから暴動に至った背後には何があるのか、また何が繰り広げられてきたのかがよく伝わってくる。何事も現在の状況のみから判断するのではなく、その歴史的経緯がどのようにあり今に繋がっているのかを押さえなければ、表層的な理解に留まってしまうのであろう。毛沢東は何故に宗教を「毒」として敵視したのか?かつての日本がそうであったように侵略行為は必ず「人々の解放」という体裁をとる。イラク戦争もそうだったように、こうしたことは中国だけに繰り広げられていることではない。10年以上前に製作された作品だが、そういう意味で、今観ても感じるところの多い作品である。自分はもっとチベットの声に耳を傾ける必要があることを痛感した。因みにダライ・ラマはノーベル平和賞を受賞している。邦題は『クゥンドゥン』

20 mars 2008 

Okonomiyaki par Healsio

 ヘルシオでお好み焼きを作った。大阪人にフライパンでええやん!とツッこまれそうだが、油を使わないのでに台所の汚れ知らず。これは嬉しい。
 作り方は具を入れたお好み焼きの生地を、キッシュを作るトレイに敷いてピザ・モードで焼くだけ。裏側は焼けないので、途中で裏返す。
 ヘルシオで作ったはじめてのお好み焼きは・・・不思議な食べ物になった。言うなればお好み焼きの味をしたパン。ヘルシオで焼いた以外は僕が作ったが、全く「人間味」が感じられない代物。きれいに成形されているが、逆にそれが「機械化風味」を演出している。確かにお好み焼きなんだけど、何かが決定的に足りない。

17 mars 2008 

A la Bretagne?:journal

 授業も会議もない春休み。
久しぶりにしっかりお肉を食べたくて家でステーキを焼いた。お肉は沖縄産和牛のサーロイン、付け合わせはヘルシオで野菜のグリルを作った。
 まずは付け合わせ。野菜を切って、トレイに並べ、塩とオリーブオイルをかけるだけ。オリーブオイルはトリュフの香りを付けたものを使ったので、一層、香り高いものとなった。
野菜のグリルは簡単で美味しい。
 ステーキは霜降りもしっとりしているかな〜という感じの常温にして、ゲランドの塩とインド産テリチリペッパー(Fauchon)をふるう。そして、南部鉄器のフライパンで素早く焼き上げる。仕上げにCalvadosを少々。これってBretagne風?
 最後に、ステーキを焼いたフライパンでガーリック・ライスを作る。やはり大葉を加えるだけで随分と違う。
 エド・はるみ風にグー!と言いたいデキであった。

14 mars 2008 

20 ans ou 18 ans? :journal

 成人の年齢を20歳から18歳に引き下げるという議論が出ている。国民投票の資格年齢の問題を発端として、18歳以上から20歳未満に対する刑罰の厳罰化という義務の観点、投票可能な年齢を下げることで政治参加を促す権利の観点があるようだ。引き下げられる可能性があるのは以下の項目であろう。
・選挙権
・国民年金への加入
・財産の処分など各種契約
・現在の成人に対する罰則の適用
・飲酒、喫煙
 ざっとみると、引き下げた方が国の税収は上がりそうである。それはともかく、昨今の報道では18歳に引き下げられたら、一体何がどう変わるのかが不透明なまま是非が問われている。
 18歳の是非に関してアンケートに答える人がどの程度、上記のことを念頭に置いているかは不明であるが、18歳に下げることに反対する理由として、「18歳は未熟」という意見が多いらしい。何を以て成熟したとみるのかは人それぞれ。実際に成熟しているかどうかを基準にするのは難しい。「お前は成熟しているか?」と問われれば、三十代にして否である。大多数が成熟する年齢を基準としたら、今の日本社会の現状では30代後半にまでずれ込むかもしれない(根拠はないが)。しかし、個人的な意見としては、18歳は大人としての自覚と相応の振る舞いを意識していい年齢だと感じる。判断能力も
殺傷能力も結婚さえ可能であるのだから、20歳以上に適応されている刑罰を18歳に引き下げたとしてもいいのではないかと思う(これは少年法の厳罰化を言っているのではありません)。
 それよりも僕は18歳で納税している者が何割かいる以上、彼らに選挙権に付与するのは正当なことだと思う。
大人としての自覚を促したいのであれば、きちんと権利と義務を付与して、婚姻も男女18歳に統一し、飲酒・喫煙も被選挙権以外の全ての事柄を18歳に統一したほうが、明快いいと思う。