31 décembre 2006 

Mademoiselle:films

Philippe Lioret監督のMademoiselleを観た。
一番好きな女優は誰かと訊かれればいつもSandrine Bonnaireを挙げる。しかし日本で彼女の名前を挙げても殆ど誰も知らない。儚いような、少し影のあるような、しかし落ち着いた佇まいが大人の女性を感じさせる。演技も自然でバランスのとれた女優である。この作品はそんな彼女の魅力が静かに光る一本だ。製薬会社の営業をする既婚で子供もいる女性が即興劇団の俳優と短い恋愛をするものだが、劇的すぎない物語の運び方や過剰になりすぎない台詞回しが好感がもてる作品。日常のできごとをそっと切り取って余韻を残すような、ほのかな味わいがある。劇中の「灯台守の物語」のモチーフが形を変えてL'equipier(『灯台守の恋』)に繋がっていく。Bonnaireは出演していなかったが、ParisでLioretの最新作"Je vais bien, ne t'en fais pas."を観たが、この作品も素晴らしかった。Lioretは女優の起用が絶妙である。難しすぎず、かつ良質な大人向けのフランス映画を観たい方は是非、どうぞ。

 

les films de l'anée:films

 今年観た作品のなかで強い印象の残っている作品。どれも素晴らしい作品なので、ランキングには大きな意味はない。殆どはブログにコメントを書いているが、自分の中で熟考するうちに結局は書けなかったものもある。くしくも第一位は日本未公開だし、第二位は日本での公開が危ぶまれた作品。第三位は沖縄ではついぞ公開されなかったし、第四位は日本での公開は未定である。特にそうした作品を選んだ訳ではないが、上位の順位は揺るがない。傾向としては桜坂劇場で上映された作品が多い。映画は映画館で観るに限るが、市場原理ゆえに自宅鑑賞を強いられる点がやはり惜しまれる。
 第一位:ミヒャエル・ハネケ監督『コード:アンノウン』
 第二位:テリー・ジョージ監督『ホテル・ルワンダ』
 第三位:ミヒャエル・ハネケ監督『隠された記憶』
 第四位:ブリュノ・デュモン監督『フランドル』
 第五位:ダルデンヌ兄弟『ある子供』
 第六位:池谷薫監督『蟻の兵隊』
 第七位:アルノー・デプレシャン監督『キングス&クイーン』
 第八位:マノエル・デ・オリヴェイラ監督『永遠の語らい』
 第九位:ポール・ハギス監督『クラッシュ』
 第十位:ピーター・グリーナウェイ監督『建築家の腹』

番外
 リーアム・ニーソン監督『プルートで朝食を』
 ケン・ローチ監督『麦の穂をゆらす風』
 ラース・フォン・トリアー監督『マンダレイ』
 スティーブン・ギャガン監督『シリアナ』
 市川準監督『トニー滝谷』
 ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス監督『リトル・ミス・サンシャイン』
 セドリック・クラピッシュ監督『ロシアン・ドールズ』
 ジャン=フランソワ・プリオ監督『大いなる休暇』
 スティーヴン・スピルバーグ監督『ミュンヘン』
 マイケル・ゴンドリー監督『エターナル・サンシャイン』
 ベネット・ミラー監督『カポーティ』
 Nuri Bilge Ceylan監督のUZAK

僕が映画を判断する基準は、その作品の問題意識の高さ、世界的な規模をもつ普遍性、そしてそれを鋳型にはめるような形ではなく、自然な姿で提示する技術の高さである。
観客動員数、製作費の多寡などの数値的な基準や「共感」や「感動」、俳優の人気は僕の評価とは無関係であると言ってよい。

30 décembre 2006 

un shampoing:journal

 シャンプーがなくなった。買わねば、買わねばと思いつついつも忘れてしまう。しかし、いざ選ぶとなるとどうしても能書き、成分表示などを熟読してしまい、なかなか決まらない。一度買うと使い切るまで意外に長いため、慎重になってしまう。俵万智の短歌に

 シャンプーを選ぶ横顔見ておればさしこむように「好き」と思えり

という歌がある。「さしこむように」という表現が秀逸だが、恐らくシャンプーを選ぶ時の僕はそんな眼差しをはねつけるほどの真剣さが滲んでいたであろう。
 それはともかく、
これはバス・ケア用品全般に言えることであるが、シャンプーの多様性といったら度を超えている。なかには炭、胡麻、豆乳、海苔、利尻昆布、海泥、黒糖、母乳(誰の?と一瞬思ったが、これは成分)なども。これらは意外に「自然派」の範疇に入るタイプに多い。確かに「自然派」ではある。僕は炭系に強烈に引きつけられたが、髪が短いので頭皮ケアタイプの商品から絞った結果、「コラージュフルフルシャンプーS なめらか処方」をアマゾンで購入。頭皮ケアタイプは頭皮の炎症を抑えるために、メントール系の成分が配合されていることが多いため洗髪後どうしても頭がスースーしてしまう。あまり冬には向かないが、さんざん選んで肌に合わないのはヤだなー。

29 décembre 2006 

Um Filme Falado:films

Manoel de Oliveira監督のUm Filme Faladoを観た。
2001年7月、Rosa=mariaは娘のMaria=joanaとともにインドのボンベイへ飛行機のパイロットの夫に会うために地中海をめぐる船旅に出発する。ポルトガルのベレンの塔からマルセイユ、ナポリ、ギリシャ、トルコ、エジプト、紅海と「西洋文明」の源流を辿りながら旅をする。何故?どうして?と娘は多くの疑問を母に投げかけ、大学教授である母はそれをかみ砕いて説明する。前半は母子の旅行を通じて西洋文明の源流をたずねる紀行ものような趣をもっているため、こちらも観光気分でリラックスしながら観ていた。実際に同じルートで旅行したらどんなにいいだろうと思った(船酔いするので無理だが)。しかし、娘に対する母の返答は、決して誰もが素直に納得できるものではないということに次第に気付いてくる。映画の全編を通して歴史学者である母も「キリスト教史観」とでもいうべき観点から「西洋文明」や「世界」について語っていることがあぶり出されるのだ。例えば彼女の語る「アラブ人」は聖書に書かれているアラブ人の姿である。大型客船にゆられ、柔らかな日の光を浴びながら旅する親子をみているとつい、気を抜いてしまうところに落とし穴があるのである。その他にも「どうして戦争をするの?」という娘の問いに対して、「権力が欲しくて戦うから戦争になる、人間の本能ね」と答える。本当に「戦争は人間の本能」なのだろうか?それを「本能」と言い切ることによって、思考停止してしまってはいないだろうか?例えば、戦争で亡くなった人に対して、「戦争は人間の本能だから」と片づけることができるであろうか?自分から時代的にも心象的にもほど遠いものだからこそ、「本能」で片づけるてしまう思考の怠慢がほの見える。また、親子はイエメンのアデンにも立ち寄る(唯一ここだけが字幕で場所が示される)が、ポルトガルがここを奪おうとしたことがあることを説明した程度で買い物をして立ち去ってしまう。
 旅が紅海を過ぎ、「西洋文明」の圏外に出て、舞台が船上に移ってから、様相が少しずつ変化していく。豪華客船のレストランのテーブルには、ポーランド系アメリカ人の船長、フランス人女性実業家、元モデルのイタリア女性、歌手のギリシャ人がそれぞれの言語で男女、文明などについて語り合う。彼女たちはそれぞれ自分たちの言語で話し始めるが、ギリシャ人がギリシャ語を話し始めた時はいくらなんでもこの会話が成り立つ訳はないだろうと思った。しかし、ある意味で不自然なこのシーンはリアリティが重要なのではない。それは彼らが「西洋文明」と現在の国々をある意味で体現する存在として登場しているからだ。そのためそれぞれの職業も「お国柄」を反映するものとなっている。特に豪華客船の船長がアメリカ籍であることは、グローバルに経済活動を行っているアメリカ人の体現していると思って間違いない。彼女たちの語るアラブ観というのは極めて西洋優越主義に立脚している。「世界を植民地化した」英語によって、彼女たちが最後にはやむなく英語で話さざるを得なくなったことは彼らが体現者と考えるなら極めて必然であり、ある種の現実を示唆している。
 そして、船長はMaria=joanaにヴェールを纏ったイスラム女性の人形をプレゼントする。そもそも人形を作ること自体イスラム圏では禁じられているし、イスラム女性の人形をプレゼントするという行為自体が彼ら「西洋文明」の内部にいる人間のイスラム圏の人々への無理解を示している。そして、この人形がラストでこの母子の不幸を招くことになってしまう。「西洋文明」の異文化への無理解が招いた不幸という含意が込められている。この映画は決して「西洋文明」を礼賛したものではないということが、ラストで大きな衝撃を伴って観客に突きつけられる。恐るべき傑作である。邦題は『永遠の語らい』

27 décembre 2006 

Always:films

山崎貴監督の『ALWAYS3丁目の夕日』を観た。
VFXを駆使した「古き良き時代」へのnostalgiaとfantasiaに溢れた作品。監督は新聞その他で当時の状況を調べ上げたうえで、多くのアイテムを時代の記号として多用している。この映画を観ながらずっと考えていたのは、この懐かしいような香りは何に由来しているのだろうか、ということ。
 想い出は時に美しい。また人は自分が経験していないことさえも「懐かしい」と感じることができる。現に映画の舞台からほど遠い場所に住んでいた人も「懐かしい」と連発する。こうした感覚が一体何に由来しているのかは分からない。これと同じ感覚を抱くのは唱歌「ふるさと」である。兎を追うことなどなかったし、小鮒も釣ったことはない。そんな経験は何もしてないのに何故かノスタルジックなものを感じてしまう。この映画も同様で、記号に溢れた映像とストーリーで何故か「貧しかったけれども未来があった昔」を想像できてしまう。僕が上海に初めて行ったのは1989年であったが、その頃、年配の日本人が終戦直後の日本にそっくりだと言っていた。一体彼が何をもって当時の日本との類似を見いだし、ある種の「懐かしさ」を感じたのかは判らない。この映画の昔の日本は想像の産物だから、いいところだけを感じていればよいとも、思う。しかし、実際に当時は「いい時代」だったのだろうか?
 学校では暴力が日常化していただろうし、理不尽な体罰などは当たり前であった。女性は今よりもっと差別されていたし、恐らく誰もがそれを当たり前だと思っていただろう。警察の統計(pdf)によれば昭和33年は強盗や強姦などの犯罪の認知件数も「犯罪が多くなっている」と言われる現在より高かった(あの映像からは想像もできないが)。今の時代になってマシになったことはたくさんある。
 経済成長の途上で、経済や科学技術が自分たちを幸せにしてくれると素直に信じていられた時代。残念ながらもうそんな時代には戻れないし、経済成長が一体どれほどのものかも気付いてしまった。「モノがなくても夢があった時代」は翻って言えば、モノがあっても夢や幸せとは関係がないことを時代が証明してしまった。
 この映画の象徴となっているのは東京タワー。東京タワーをあの角度から眺めることができた住人は今、何をしているのだろう?おおかたは土地を売ってそのお金でどこか別の所に住んでいるのだろう。
 自分もいつしか「あの頃はよかったなー」とCGで作られた映像から懐旧の情を抱くのだろうか?
そういった感情を否定する訳ではないが、何だかそんな生き方はしたくないと思う。

 

Calvaire:films

Fabrice Du Welz監督のCALVAIREを観た。
街から街へと老人ホームなどのどさ回りを続ける売れない歌手・Marc。彼は南仏でのクリスマス(!)の仕事をするために車を走らせるが、車が故障してしまう。そこでBartelという初老の男に宿を借りる。しかし、Marcは親切そうなその男によって村に閉じこめられてしまう・・・。
 この映画の題名はキリスト磔刑の地のCalbariaを語源として転じて「十字架」、「受難」などの意味がある。この映画は直接的にキリスト受難が織り込まれている。もっと言えばキリスト受難のパロディである。しかしこの物語ではキリストとは逆の性格の人間がキリストと同じ受難に遭遇する。Marcは売れない歌手であるが、彼の魅力は周りの者を引きつけてしまう。愛されるが故に、主人公は人々の孤独や欲望を一身に受け、キリストと同じように十字架に磔にされる。
 この映画ではどうしても村人たちの異常さに目が向きがちであるが、注目すべきはMarcの性格である。彼はキリストのように何かをなしたのだろうか?他人から憎まれたであろうか?逆である。むしろ劇中では彼は何もしてない。歌えと言われれば一度は断るが歌うし、善意を与えられればさして疑うこともなくそれを受ける。流されているだけである(彼の仕事も流れていくだけである)。彼からはキリストに観られた信念のようなものは微塵も感じられない。ヨーロッパの観客には弥が上にもキリストとの対比が彼の身の上から浮かび上がってくるはずだ。
 この村には女性が出てこない。村人は女性がいないが故に獣姦に走ったのか、獣姦が女性を遠ざけたのか。おそらく前者であろうが、かつてこの村にも女性がいた。女性のいない村で人々は極限までに精神を病み、「歪んだ愛」がMarcに向けられる。(しかし、そもそもなぜ獣姦が罪になるのだろうか?生殖にかかわらない性交がキリスト教では禁忌にあたる論理は分かる。日本では法律で禁止されていないようだが・・・あまり書くとこのブログが「
獣姦」のキーワードばっかりでヒットするようになるため控えよう)
 この映画、邦題ではなぜか『変態村』となっている。確かに映画で繰り広げられる物語は変態的で、倒錯的である。恐らく日本の配給会社は日本の観客にあらゆるシーンで織り込まれる宗教的インプリケーションを理解させることを放棄したのだろう。きっとこの題名でカルト的作品として売り込みたかったに違いない。それはそれで監督の意図がねじ曲げられているので、残念なことである。TSUTAYAではこの映画とそっくりのパッケージで『変態男』という題名のDVDが並んでいる。『エス』同様の便乗タイトルのような臭いがプンプンする。しかし、『変態男』も制作者が全く『変態村』を意識せずに作っていたら、あのパッケージ作りはクリエーターへの侮辱である。

 

Sauté de huitres à la sauce d'huitre:journal

 ノロウイルス騒動で牡蠣の卸売価格が暴落しているというニュースに接した。このニュースを聞きつけてさぞかし牡蠣が安くなっているかと思いきや、スーパーでは普段と同じ値段であった。しかし、牡蠣を食べることに執着していた僕は結局購入することに。そして作ったのが「牡蠣のオイスターソース炒め」である。これは僕の冬の定番となっているが簡単なのでここで紹介しよう。
 1,牡蠣を洗い、ペーパータオルで水分をよくとる。
 2,塩、オイスターソース、オリーブオイルの順に絡める。
 3,フライパンで1分ほど焼く。焼くというより、火を通すという感じだろうか?
 オリーブオイルは気持ち多めに使うのがコツ。からませたオイルが牡蠣の内部に残っていた水分を逃さずにふっくらとしたできあがりになる。つまみに最適なので風評被害など気にせず是非どうぞ。

26 décembre 2006 

あおげば尊し:films

市川準監督の『あおげば尊し』を観た。
末期ガンで余命幾ばくもない父を自宅で見送るために、息子で小学校教師の光一は父を自宅介護することに決めた。その頃、光一の生徒たちの間で死体を掲載したサイトを観ることがはやりだし、生徒たちの雰囲気も少しずつ変化していく。そこで光一は死に向かう父の姿を子供たちにみせることにするが・・・。
 「死のポルノグラフィー化」が進み、すでに子供たちは「死」というものをリアルに感じられなくなっている。そこに人間ができた「先生」(テリー伊藤の演技は自然でよかった)がやってきて自らの父の死に彼を対面させることで、死ぬことの意味を実感させる。そして、その子供はそれをきっかけに自分の父の「死」を乗り越えていく・・・・なんだかできすぎた話だ。
 この作品を観ていて複雑な心境になった。光一は「おやじは最後まで先生なんだ」と「教育的配慮」から死にゆく自らの姿を児童に見せる。教師という職業はここまで私生活をさらけ出してまで子供の「教育」をしなければならないのだろうか?そうした光一の姿勢を同僚は批判するが、批判のポイントは別の意味で外れている。金八先生の呪縛とでも言えばいいのだろうか?「いい先生」は全てを犠牲にしても子供たちに尽くすべきなのだろうか?そこまで子供たちの心の問題に介入すべきなのか?どうして学校の先生は知育だけでなく、徳育も行わなければならないのだろうか?(最近は食育もだが)逆にこうした金八的な教師を「いい先生」「素晴らしい先生」とすることで、親たちは自らの責任を放棄しているように思う。こうしたあり方を所与のものとして想定しているこうした作品を観ると、げんなりしてしまう。
 また光一の家庭にもやや違和感を抱く。在宅介護を望む祖父の希望で家に戻ってくるが、介護をしているのは妻と嫁だけのようである。そのことで特に光一は家族からとやかく言われている訳ではなさそうである。この物語は「死」というものを扱いながら、介護の問題をはじめとするそれにまつわる悲惨な部分をできる限り捨象し、美しく物語を構成しようとしている。そして、訪れることもないと思われた教え子たちの「あおげば尊し」で感動的なフィナーレを演出する。一部の人間には「感動」を強烈に植え付けるだろうが、僕は違った。この作品を観て、昔習った先生は今頃どうしておられるだろうか?と懐かしく思った。同じように昔に思いを馳せる人も多かろう。そんなに悪い作品でもないと思うが、違和感も多い作品だった。

 

La vita che vorrei:films

Giuseppe Piccioni監督の"La vita che vorrei"を観た。
経験のある男性俳優と新人女優との恋愛を描いた作品。彼らの現実での恋愛と劇中劇の恋愛が同時進行していく。ストーリーは陳腐との批判を逃れられないだろうが、現実の台詞と劇中のそれがオーバーラップし、渾然一体となっているため、そうした印象は受けにくいかもしれない。主演の二人は『ぼくの瞳の光』でも共演しているが、この物語では不似合いな点が気になった。ロ・カーショはイタリアきっての若手俳優で、最近のイタリア映画では数多くの作品に主演しているが、チェッカレッリと並ぶと若くて、華奢で、線の細さが目立ってしまい、「経験のある俳優」という感じがしない。
 この作品はイタリア映画祭でしか上映されていないようだが、他の作品のラインナップをみると自分がイタリア映画を心から渇望していることに気付いた。 邦題は『映画のようには愛せない』。

25 décembre 2006 

GiNGA:films

Hank Levine等監督のGiNGAを観た。
ブラジルの様々なサッカー・シーンを追ったドキュメンタリー。超絶技巧をこれでもかー、これでもかー、もっと観ろー、もっと観ろー!とばかりに見せつけられる。このドキュメンタリーはプロの男子サッカーだけではなく、女子サッカー、女子ビーチサッカー、障害者のサッカー、フットサルなども扱っている。如何にサッカーが国民全体に浸透しているか、またブラジルの人々に夢や希望を与えているかがよくわかる。また、厳しいお国の事情も裸足でボールを追う姿からも垣間見られる。若い選手は家族に楽をさせたいからどこでもいいからサッカーがしたいという。
彼らの姿をみていると、欧州のクラブチームでおよそブラジル人がいないチームなどないのも首肯できる。また、各国で次々に国籍を取得して代表入りしていることも。ワールドカップでもブラジル生まれの帰化選手だけでチームを作っても決勝トーナメントに出られるのではないかとさえ思う。それほどまでにサッカーの裾野が違うのだ。また彼らのボールタッチはまさにスピーディなサンバそのもの。こうしたリズム感こそがブラジル・サッカーの強みであるという主張も納得できる。
 ワールドカップ・ドイツ大会で日本とブラジルが対戦したが、この映画を対戦前に観ていたら全く期待してゲームを観ることができなかったであろう。それほど彼らのサッカーは桁外れに思ったが、彼らは果たして優勝できなかった。さらに過去に日本は彼らに勝ったこともあるのだ(マイアミの奇跡と言われているが)。スポーツというのは分からないものである。

24 décembre 2006 

Les Poupées Russes:films

Cédric Klapisch監督のLes Poupées Russesを観た。
同監督のスパニッシュ・アパートメントの続編。親のコネで就職するためにBarcelonaに留学したクサヴィエのパリに戻ってから5年後を描いた作品。彼はその後、子供の頃の夢・小説家になるために物書きの仕事をしているが、ゴーストライターをしたり、テレビのソープドラマの脚本を書いたりとその場しのぎの仕事を受けるだけ。女性との関係もその場限りで、仕事も恋も中途半端で・・・。
 ハリウッド仕立ての青春ものは文法にキッチリ当てはめることが多く、その年齢の観客は一定程度は満足するが、20代後半、30代の物語はそうはいかない。仕事も、恋も様々で、若かりし頃の幻想から自由になっているからお約束のストーリーでは満足できない。しかし、このフランスの作品は多様な意味で大人になりきれていない30代も十分に楽しめ、共感できる作品になっている。また今回も大笑いするネタも豊富で、コメディ映画のように楽しめた。
 年齢を重ねたからといって人間は成長するとは限らない。案外に考え方や振る舞いは以前とさほど変わらなかったりする。クサヴィエも同様、人並みに悩み、人並みにいい加減。30歳なのだが世間的に落ち着いているわけではなく、祖父からはいつ嫁を連れてくるのかそのことばかり尋ねられる。そんな姿が妙にリアルでどうしても自分の姿とダブってしまう。しかし、何となくクサヴィエに親近感を感じるのは、彼も若かりし頃に留学をして、感覚的に自分と同じような経験をしているということもあるだろう。
 題名の由来はラストの台詞に集約されている。マトリューシュカ。これが最後だと思っても次がある。人形は次第に小さくなっていく、夢が現実によって次第にしぼんでいくように。
 この映画は魂を揺さぶるような感動もないし、人生について深い内省に導く作品でもないのだが、この作品が大好きだ。今の自分の等身大のような作品である。邦題は『ロシアン・ドールズ』

23 décembre 2006 

THE DESCENT:films

Neil Marshall監督のTHE DESCENTを観た。洞窟探検の女性たちが地下3kmの洞窟で味わう恐怖を描いた作品。
 知人からよく恐い映画を紹介して欲しいと言われることがあるが、いつも適当な作品が思い浮かばない。ホラーの多くは音響によって観客を驚かせる。また、ある種の気持ち悪さを演出するものが多い。そのため、恐怖感に類似した感覚をおぼえるが、それが「恐怖」かと言われると違うような気もする。この映画は上記のホラー映画の古典的な手法が多用された作品と言える。
 物語としては気持ち悪い残酷な生物が出て、暗闇から襲ってくるようなあり得ないストーリーよりも、洞窟に閉じこめられて閉塞感を味わいながら死をジワジワと予感する方がずっと恐ろしいと思うのだが、どうだろう?僕はむしろこうした映画よりも『ホテル・ルワンダ』や『エス』のような映画に恐怖を感じる。

21 décembre 2006 

Yokai Daisenso:films

三池崇史監督の『妖怪大戦争』を観た。
バカバカしくて笑える映画であった。監督は確信犯的にギャグ映画として作っていた。僕はお化けや幽霊や妖怪や来世や前世の存在を信じてはいない。しかし子供の頃から日本に住んでいると妖怪は案外にキャラクターとしてはなじみ深いものになる。僕の場合その多くがゲゲゲの鬼太郎に由来していたりする。このほど欧州でもこの作品が上映されるが、こうした背景がない地域では妖怪の姿は極めて創造的で個性的な姿に映るに違いない。妖怪はともかく、幽霊などは幼少期にはその存在を前提に思考していたこともある(夜中のトイレに何度幽霊の姿が頭によぎったか)。そうした恐ろしいものの存在はえてして恐怖によって他者を服従させようという意図によって捏造されてきたものなのだろう。それは子供にお化けの話を持ち出したり、政府がテロの不安を煽ったりするのと構造的には変わらない。さすがにお化けが出るので米軍基地を沖縄に固定化しましょうとはならないが、お化けの部分が別のものに代入されるだけの違いである。
 話を映画に戻そう。水木しげるは劇中で「戦争はいけません、腹が減るだけです」と言っている。太平洋戦争に従軍し、片腕を失いながらも執筆活動を続ける氏にしてはかなり控えめな表現のように思うが、虚を突かれたようなリアルさをこの言葉に感じる。荒俣宏や宮部みゆきなどがちょい役で出演していたが、不思議なもので、立ち姿、歩き方一つで素人臭さがモロに出てしまう。現実世界では気になることがない程度のことが、映像のなかではかえって不自然な感じになってしまう。目立ってはいけないところが誇張されてしまうからであろう。演技をすることはやはり簡単ではないだなと思う瞬間である。今回、宮部みゆきが歩く姿を初めて観た。文章でしか知らない人の歩く姿をみるのは感慨深い。また論文でしか名前の知らない人やいつも座っているアナウンサーが歩くのをみると、つい見入ってしまう。何故かは自分でもよく分からない。
 また話は飛ぶが、大学には基礎演習という授業がある。一年生向けのゼミだが、いつも学生に「幽霊はいると思いますか?」という質問を投げかけるようにしている。驚くことに6人中4,5人はその存在を信じている旨の発言をし、明確に否定するのは一人いるかどうかである。僕はたたみかけるように「幽霊の存在を証明してください」というが、その多くは「友達が見たことがあるから」とか(ちなみにその友達は「嘘は絶対に言わない」という注釈まで付けられていた)、「おばあちゃんからそんな話を聞いた」(おばあちゃんは「いい人」らしい)とか「テレビで念視していた」(テレビでよくみる例のオバサン)とかそういう発言を繰り返す。「証明しなさい」という問いに対して殆どが伝聞で答える点が論理的に逸脱しているが、こうした学生がむしろ「多数派」であることに絶望に近い脱力感を感じる。しかし、一方でこうした学生こそ、大学での学問を修める必要があるとも思う。僕はそれらの学生に言い残す「君らが幽霊が存在すると断言したことは絶対に忘れない」、と。

19 décembre 2006 

Letters From Iwo Jima:films

Clint Eastwood監督のLetters from Iwo Jimaを観た。
同監督の『父親たちの星条旗』と対をなす一本。太平洋戦争の硫黄島での戦いを日本の視点から描いた作品。最初にこの企画を聞いたとき、日本軍の物語は日本の監督がメガホンを取るのだと思っていた。そもそも企画になかったこの物語を監督が『星条旗』の取材をすすめるうちに、新たな一本にしたのだそうだ。
 戦争映画は過去を史実に基づいてできるかぎりのリアリティをもって描写する過去の物語ではなく、すぐれて現代的なものなのだと感じた。新聞の映画評にもあったが、兵士の家族たちへの思いを強調するあまり、「天皇陛下のために」という「大儀」が薄められているように思った。右、左、どちらから反論を受けてもかわせるような「配慮」が随所になされ、台詞はあるときは「天皇のため」あるときは「閣下のため」、あるときは「故郷」のため、あるときは「本土のため」とコロコロと順番に唱えられた。観客からの異議に備えるこうした台詞づくりが誰のためにあるのかは明らかである。ここでは真実に迫ることは二の次になっているように思える。
 時代考証や配役はいかがなものかと思う部分も多かった。こうした杜撰さは、アメリカの観客の視点を意識していると弥が上にも感じさせた。例えば、硫黄島に住んでいた人々の住居や服装、そして二宮演じる兵士の家の住居や服。日本家屋で障子が外側にむき出しになっているはずがないではないか。江戸時代じゃあるまいし、みんな着物というのも不自然。元はパン屋という家のなかはまるで蕎麦屋。戦争中の街並みとして多くの家庭では外に光が漏れないようにライトのシェードを布で覆い、空襲で窓ガラスが飛散するのを防ぐため、テープを貼り付けておくというのをテレビでよくみていたため、こうした点には違和感を持った(僕の認識は間違っているのだろうか?)。また20歳すぎの二宮の妻が36歳の裕木奈江というのはいかがなものか。まあ米国人なら違和感を感じないだろうが。「36日間に及ぶ戦闘」も映画ではせいぜい「5日間で終わらせる戦闘」ぐらいにしか感じられなかった。
 色々と不満も書いたが、評価もしている。戦争の悲惨さを伝えるには十分な作品だったと思う。だがやはり、こうした作品を観て当時の戦闘を理解したような気にはなれない。どんなかたちでも人が死ぬことはもっともっと悲惨で、悲しく、心に一生残る傷を残すものだと思うし、誰かの視点を絶対視することができないものだからである。やっぱり僕は商業的な「戦争映画」は好きになれない。人の生き死にを扱ったこの映画も米国アカデミーの賞取りレースに(急遽)参戦し、人々の死は直接は関係のない現代人に消費されることになる。もし、こうした題材を映画にするならClaude Lanzmann監督の"SHOAH"のように作って欲しい。僕は戦争を消費したいのではなく、「本当のこと」を知りたいのだ。

18 décembre 2006 

CONFIDENCES TROP INTIMES:films

 Patrice Leconte監督のCONFIDENCES TROP INTIMESを観た。
誰の言葉か忘れたが何かの本に「あなたが女性にもてたいのなら、その女性の話にきちんと耳を傾けることだ」という主旨のことが書かれていた。多少不細工でも、大して収入がなくても、それだけで相手はかなり好感を持つはずであるということも言い添えられていたように思う。
 この映画は既婚女性Annaがカウンセラーの部屋と間違えて隣の税理士の部屋に入ってしまい、その税理士をカウンセラーと間違えて夫婦の秘密を打ち明けてしまうことから始まる。相手が税理士であることが判っても、女性はそのまま男性のもとに通い続け、税理士はそれを受け入れる。ある意味この映画は上記の言葉を裏付けるようなストーリーとなっている。この税理士は清潔で、物腰も丁寧なのだが、何となく爬虫類を思わせるため、決して容姿で女性を引きつけるタイプではないところが配役の妙を感じる。税理士は甘い言葉をかけるわけでもなく、どこかに連れて行く訳でもなく、プレゼントをくれるでもなく、観ているだけでうっとりする容姿でもない。これが誰でも好感をもつキャラクターなら女性が引きつけられる理由が「話を聴くことだけ」だというようには思わないかも知れない。ラストに税理士が自分の言葉を全て覚えていたことを女性が驚きの表情をもって感動するが、話を憶えているということもポイントである。時に女性が相手の記憶に関して執着をみせるが、「話を聴く」だけでは十分条件ではないようである。映画ではラブシーンもなく、触れ合うこともないが二人が惹かれあっているということは十分に伝わってくる。
 この映画はいくつかの意味で、モラルから自由になっている。カウンセラーとクライアントが恋愛関係になるのは現実の世界では御法度である。カウンセリングの関係は特にクライアントが恋愛感情をもちやすい状況にあるため(秘密を打ち明けた相手が重要な相手と錯覚しがちになる)、実際にそうなった場合はカウンセラーのモラルも問われるし、映画なら陳腐に陥る可能性がある。しかし、この二人は通常の関係ではないため、恋愛に発展しても職業モラルは問われない。また、現実のカウンセラーはカウンセリングを通じて職場からの解放に向かうことはないだろうが、この物語では税理士自身も自分に運命づけられた事務所から解放され、光溢れる南仏にAnnaを追っていく。この映画はカウンセラー、クライアント双方の禁忌(あるいは夢想)を暗に実現しているような趣を感じる。この映画にエロティシズムを感じるなら、こうした禁忌の破壊が背景にある。邦題は『親密すぎるうちあけ話』

17 décembre 2006 

le meilleur livre de cette anée:journal

このミス第1位の平山夢明『独白するユニバーサル横メルカトル』を読んだ。このミス第1位作品も天童荒太『永遠の仔』を頂点として確実に下り坂を下っていることを確信した。この作品で「底を打った」ということになってほしい。今年読んだ本のなかで圧倒的な迫力を持っていたのは、小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉—戦後日本のナショナリズムと公共性』新曜社。随分前に出版されているが相当な分量のため、買ったまま放置してあった。だが、ひとたび読み始めたら内容に圧倒され、1.4kgもあるにもかかわらず出張先に持参したほど。読了後、ニュースの風景が変わって見えた。お薦めである。

16 décembre 2006 

Trois CD:journal

今年購入したCDのなかで比較的よく聴いた作品を3枚、紹介しよう。
バラフォン・マリンバ・アンサンブル 『トロピカル・マリンバ』 リスペクトレコード







Paolo CONTE『The Best of Paolo Conte』 Nonesuch








アルバン・ベルク四重奏団『ベルク 弦楽四重奏曲&叙情組曲』EMI Classics







1枚目はノリノリの曲で、朝に聴くと自然と身体が動いてしまう。バラフォンの深みのある響きが耳に優しいのでツライ朝でも不快感はない。
2枚目のPaolo Conteはフランソワ・オゾン監督の映画“5×2”で使用されていたので、ゲット。渋い歌声をに耳を傾けながらブランデーやウィスキーをゆっくり味わうには恰好の一枚。
3枚目は衝撃的な一枚。聴きながら恐怖感を味わったアルバムは久しぶりである。

 

Ligue des Champions de l'UEFA:journal

欧州チャンピオンズリーグの決勝トーナメント1回戦の組み合わせが決まった。お気に入りのチーム、ArsenalはPSV、BarcelonaはLiverpoolと対戦することになった。このレベルになるとどの試合もレベルが極めて高い。大好きなBarcelonaとLiverpoolのどちらかがこの時点で消えてしまうのでは残念だが、とにかく2月まで待ち遠しい。
 今、Barcelonaがトヨタカップに変わるクラブ世界一決定戦のために来日している。ここ数年、シーズン前に多くの欧州のビッグクラブが興業としてアジア遠征を行っているが、そのためかコンディションを崩してリーグ戦でなかなか実力を発揮できないようである。やはりタイトルがかかった公式戦でこそ、生のゲームの観戦する価値があるし、来日する意味もあろう。
 ここ最近観た試合のベスト・ゲームはChelseaとArsenalのプレミアでの対戦。Arsenalが細かく正確なパスをエリア付近で繋いで先制したのに対し、ChelseaはEssienの個の力でもぎ取ったようなゴールでドローであった。チームの特徴がよく反映されていた。Chelseaは選手交代でシェフチェンコを下げ、バラックが攻撃に絡まなくなった途端、攻撃に流れと迫力が出てきた。Essienのシュートはこの流れの中から出てきたものだ。個人の力も重要だが、それが必ずしも有効に機能するとは限らない。この不思議さがサッカーの醍醐味でもある。
 ChelseaとBarcelona、どちらが強いのだろうか?まあこうした議論は意味をなさない。どちらが強いかを決める戦いがチャンピオンズリーグだから。勝ち残ったチームが強いのである。

14 décembre 2006 

Tout sauf japon coulet:films

河崎実監督の『日本以外全部沈没』を観た。
題名の通りになった時の論理的な帰結を巧みに利用したブラック・コメディ。筒井康隆のパロディをもとにしているが、設定は現在の政治状況を反映しているため、一通りの国際情勢が分かっていれば、かなり笑える。先日、日本で制作された『西遊記』が「中国文化を侮辱している」と一部の人々から非難を受けているようだが、それに比べたらこちらの方がもっとヤバイだろう。『西遊記』はともかく、この映画のブラックなユーモアが分からず目くじらを立てるのは無粋というものである。
 この映画はウルトラマンを作った金城哲夫へのオマージュに溢れている。だが、模型の建物が爆発する「特撮」を21世紀になって久しい現在にリアルタイムで観るとは思わなかった(笑) 全体を覆うチープな雰囲気が笑いに一役買っているが、映画の制作費は5千万かかっているそうである。これでも映画の制作費としては安いというのだから、映画制作には金がかかるんだなと改めて思った次第。
 上映後に監督のトークショーがあった。監督の話自体は面白かったが、聞き手が喋りすぎるのが気になった。聞き手の話はいいから、監督の話をもっと引き出すようにしてほしかった。
前回のトークショーもそうだったが、少しは話題を観客に振ってもよかったのではないか。

 

Ice princess:films

ティム・フェイウェル監督の『アイス・プリンセス』を観た。
ハーバードを目指す物理オタクの女子高校生がスケートのスピンを研究するうちにスケートにのめり込んでいく話。ライバルとなる選手がトーニャ・ハーディング風。
 またしてもハリウッドお約束のありがちな青春ストーリー。この映画も昨今の邦画と同様、努力せずにサクセスをつかんでいる。スケーティング・シーンは編集されているし、その点での見どころは少ない。土曜日にはグランプリ・ファイナルが開幕するが、実際のスケートの方が技術的にも芸術的にも遙かに素晴らしい。どうせなら『少林サッカー』のようにCGを駆使して思いっきり崩せばよかったのにと思った。驚いたのは、ラストの方に突然「伊藤みどり」の名が!

12 décembre 2006 

Le caractère chinois de l'anée

漢字能力検定協会が発表する今年の漢字は「命」になったそうである。ここ数年は恒例の行事になっているようだが、僕の感覚ではこの企画自体はそれほど古いものではないという印象。僧侶が仰々しく毛筆で書いた漢字を発表する姿がある種の「由緒正しさ」を演出しているようにみえるが、そもそもは漢字検定協会が話題作りのためにやっているという感じもしないではない。
 ところで、僕の今年の漢字を選ぶとしたら何にしようかと考えた。そこで30秒ぐらい熟慮して出した漢字が「費」である。何故か。ヘルシオ、ウォシュレット、エスプレッソメーカー、エアコン(二台目)、一人がけソファ、キャビネット、コーヒーテーブル、抱き枕・・・これらは今年に買ったモノである。こうして並べると生活必需品と贅沢品(宝石とか子どもとか)の中間ぐらいに位置するものばかりである。なくても困らない代物。僕はこれにフロアランプとオットマンを加えようとしている。もちろん、部屋には備え付けの蛍光灯があるし、読書に困らない。むしろフロアランプは実用に向かない。仕事の面でもそうだったのだが、空費に近いようなこうした中途半端さが僕の今年であったような気がする・・・。(画像は合成です)

10 décembre 2006 

STEALTH:films

Rob Cohen監督のSTEALTHを観た。つまらないストーリーで、二度観るような作品ではない。この映画はスピード感と音響がウリなので何にも考えないでジェットコースターに乗っているような映像を観たい方にはいいかも。また、この映画は部屋のスピーカーの能力を実力以上にゴージャスに見せることができるかもしれない。逆に言うと、この映画のデモを観てスピーカーやアンプを選ぶと別の作品を観たときに随分と見劣りするように感じること間違いない。今はやりの5.1chのスピーカシステムのデモでこの映画を使っていたら要注意だ。現にこの作品を使っているメーカー(例えばBOZE)もある。

09 décembre 2006 

L'annulaire:films

 Diane Bertrand監督のL'annulaireを観た。工場での事故で薬指の一部を失ったIrisは工場を辞めて標本準備のアシスタントの仕事に就くが・・・。
 フランスの寂れた建物のなかでおこる奇妙な体験を描いた寓話。工場の事故で薬指を傷つけ、喪失感を抱えて職探しをするうちに、Irisはミステリアスな標本技師に出会う。男は彼女にぴったりの靴をIrisにはかせ、Irisは次第に彼の虜になっていく。しかし、Irisは嫉妬という名の牢獄に幽閉されてしまう。技師とIrisの二人のシーンは「匂い立つような官能」という言葉をそのまま映像にしたように耽美。このラブシーンは秀逸。このシーンを観るだけでも劇場に足を運ぶ価値がある。ラストに彼女は彼からもらった靴を脱ぎ捨てて新たな扉を開く。彼女が幽閉された状況から自分の足で歩き始めることの暗喩である。この物語が現実から浮遊している感じがするのは、物語や映像だけではない。登場人物たちのフランス語が徹底して敬意表現を使用しているからだ。二人の物理的な距離は圧倒されそうなほど近いのに、言葉は丁寧さを失わない。これが独特の雰囲気を醸し出している。
 この映画は現実的に考えればツッコミどころ満載である。しかし、そんなことは耽美に描くことに終始しているこの映画には無意味である。またこの映画は何故か多国籍である。原作は日本の小川洋子、主演のIrisはウクライナ出身、ホテルの管理人はドイツ人、部屋をシェアする男もドイツ人(『ベルリン僕らの革命』に主演していた)。とくにイタリア語でIrisを褒める管理人役は『カフカ、映画に行く』の著者であるHanns Zischler。脇役に至るまで存在感抜群である。
 上映後、この映画についてのトークショーがあった。映画に関するコメントはトークショーの企画が無意味なほどに早々に切り上げられ、殆ど劇場の宣伝のような内容になってしまったのは残念である。邦題は『薬指の標本』(原題は「薬指」の意。)

05 décembre 2006 

CASINO ROYALE:films

 Martin Campbell監督のCASINO ROYALEを観た。Daniel Craigによる新たな物語。アクションも凄かったし、ジョークもセンスがあってとても楽しめた。こうしたシリーズは水戸黄門のように主人公が別の俳優になると一定数のファンを逃すものだが、僕は最初からこのシリーズを思い入れをもってみてはいなかったため、そうした抵抗もなかった。ボンドが007になる以前の物語なのでこの物語が出発点ということになろう。このシリーズが長年つくられているのはひとえにJames BONDのキャラクターにある。今回のボンドガールはやや地味な感じだったが、好感の持てるキャラクターだった。たまにはこうしたアクションを大画面と大音響で楽しむのはいいもんだ。以前の007はヘンテコな日本人が出てきたり、特撮が貧弱だったりした部分もあったが、今回はそういう点ではあまり気になることはなかった。ただ、爆弾犯を追いかけるシーンで、爆弾犯が何を考えてあんな高いところに逃げていったのかは未だに不明だが(笑)
 僕は古典的作品よりも新しく製作された作品をより好む傾向がある。それは新しい作品はそれが古い時代を扱っても現代を題材にとっても何らかの現代性が織り込まれているからである。きっと僕はそうした「今」を感じたいのだろう。古典的な作品でどんなに名作の誉れが高くとも、今を感じられないことはどうしても否めない。

04 décembre 2006 

Patinage artistique:journal

 週末は自宅でスケートのNHK杯を観た。日本勢の圧勝で、連盟の不祥事にかかわらず、今や全盛期である。
 フィギュア・スケートは男子より女子の方が華やかである。確かに男子の方が身体能力に優れるが、演技においてはジャンプで3回転が4回転になる程度で、素人目からするとそれ自体はさほど顕著な違いではない。その代わり女子はビールマンなど身体の柔らかさを使ったスピンなど見所が多い。この競技、優雅さと破綻が紙一重である。タイミングを間違えると、一瞬にして尻餅ついて大股開いてクルクル回ってしまう羽目になる。そんな緊張感も、いい!
 今回、またしても高橋の後塵を拝した織田信成。信長の子孫らしいが、信長はまさか自分の子孫が負けてもなお観客に投げキッスをするとは思っていなかったであろう。

02 décembre 2006 

efficacité et éducation:journal

 「大学淘汰時代」と煽られて、学ぶことに経済的合理性と効率性が求められている。学生が何を学び、何を得たかということより、就職率○%という数字でしか「世間」は判断しないようである。貧しい評価基準しかもたないのを棚に上げて、人を「評価」できると思っている傲慢さはひとまずおくとして、こうした傾向により、大学から仏文科、独文科などをはじめとする多くの学問領域が消えているそうである。
 こうした事態は心情的には極めて残念だ。残念だと思う以上に学習者にとっては将来にわたって大きな損失になるのではないかと危惧している。どの学問でもそうなのだと思うが、特に言葉を習得するにあたり、学習者の年齢が極めて大きく左右する。学ぶ意欲があれば何歳でも学ぶことは確かに可能である。しかし、言葉の勉強はとどのつまり反復練習による暗記に頼る比重が極めて高いため、加齢するほど習得は困難になる。言語形成期が個人差を含めておおよそ8歳〜12歳であることを考えると、大学生の18歳、19歳というのは外国語を学ぶには決して早い年齢ではない。この時期が人生のほぼラストチャンスと言ってよい。また言葉の習得には極めて高いコストがかかるため、どれだけ多くの授業を受けても授業料が変わらない大学時代に学んでおくというのは経済的に合理性が高いことである(単位がとれるかなどはそういう意味では些末なことである)。
 この時期に新たな外国語を学ぶ機会を逸することはその人の人生で外国語を習得する機会を逸することに等しい。「意欲という才能」でカバーできる部分もあるが、それには若かりし頃よりずっと多大な資本と労力の投入が必要になる。国内の私立大学では次第に英語だけを外国語として学べば履修上問題ない制度に傾斜しているそうだが、大学が一方で「生涯学習」を謳いながら、長期的な見通しで学ぶことを考える状況になくなっていることはやはり問題であろう。これは大学の見識が問われることである。
 人生は何が起こるか判らないのである。言葉の通じない人と恋に落ちるかもしれないし、就職した会社に突然海外転勤を命じられるかもしれないのである。若いときに少しだけでも学んだかどうかということはこうした時に思った以上に発揮されるものなのである。