29 avril 2007 

La rose bleue :journal

 友人がブログで青い薔薇を鑑賞したことを記していた。やや紫色・灰色がかった色であったようである。僕は実際に観たことがないが、青い薔薇というのはimpossibleの比喩のようで、「あり得ない」もののようである。
 ネットで青い薔薇がどのように開発されたか調べている時に、実際に色々な薔薇を売っているサイトにたどり着いた(こちら)。本当に青だけでなく、レインボーカラーの花びら一枚一枚が違う色の薔薇もあり驚いたが、ちょっと毒々しすぎて悪趣味。デコラティブでキッチュな内装のキャバクラにマッチしそうな感じ。青の花はスプレーしたように青かったので、紫色・灰色よりも青らしいと思っていたら、なんのことはないこれらの花は、白い薔薇にインクを吸わせて作っているようである。まあ、縁日で売っているスプレーで着色されたひよこと大差がない。
 今回レポートのあった青い薔薇は、バイオテクノロジーによって開発されたもので、より「天然」に近いもののようだが、そもそも青い薔薇を作ることに何の意味があるのか?という問いを抱く人もいるかもしれない。しかし、目的が青い薔薇であっても、そこにいきつくためには多くの知識と技術が必要とされるものであり、それを作り出す過程で多くのことを開発者は学び、大きな喜びを感じたはずである。さらに新たな知見も生まれたであろう。研究とはこういう営みのことを言うのである。例えば、F1カーは実用的には何の意味もない車である。360km出せても公道ではそんなスピードは出せないのだから。しかし、F1カーの開発を通して、多くの技術が生み出されたかもしれない。今乗っている車にもどこかに必ずその技術が生かされているだろう。以前、IBMのパソコンの筐体にF1カーで使われる素材が使われていたが、軽くて丈夫な素材で、パソコンの軽量化に一役買っていた。技術がこうした全く異なった目的で使われることはよくあることである。だから、青い薔薇の開発によって得られた技術や知見が何か別の事柄に転用される可能性もないとは言えない。科学とはこうしたやっている本人さえも思ってもみなかった繋がりが生じるものだから、「青い薔薇の開発が本当に必要かどうか」という孤立した疑問はあまり意味をなさないばかりか、その必要性を安易に否定することで、科学全体の可能性を摘んでしまう危険性さえあるのである。(もちろんアインシュタインのE=MC2が核爆弾を生んだような負の転用もあるが。)研究はそれが行われるプロセスを通じてそれが研究されなければならない必要性を感じるものなのである。研究する前から研究する意味や効果がわかるぐらいなら誰も苦労しない。

26 avril 2007 

cours anglais:journal

東亞日報の記事「英語だけでの英語講義の効果は少ない」を読んだ。(こちら)
 確かに、こうした場合はあるであろう。学習者のレベルや授業の姿勢によって効果は大いに左右されるであろうが、効果を疑ってみる必要はあることは確かである。
 僕が働いている大学でも英語で行う授業は効果が高いと思っているようである。何せ授業の半分を英語にしようと本気で学長が言い出したぐらいだから、効果が高いと思っていることは確かである。こう思わせる理由はいくつかある。それは一般にその外国語が話されている地域に留学した場合、必ずその外国語で授業を行うからだ。留学では一般的に自分の言葉の能力が向上したと感じる者も多いが、それは英語による授業の賜なのか、生活全体を覆う言語環境がなせる技であるのか、その判断は難しい。しかも、語学留学の場合、日本で授業を受ける何倍もの授業時間をその言葉の勉強に充てることになるため、ある程度の成長は誰でも実感できるであろう。
 では、そうした言語環境がない場所で、その外国語のみで授業を行うのは効果的だろうか?正直、僕にはそれが判らない。授業のなかでその言語を話さなければならない状況に追い込むという意味では極めて有効である。だが、そうした二、三日に2時間程度の環境作りが、最大の効果を生むかは判らない。そもそも、何を以て「効果」とするのかは、言語の習得にとっては分かりにくいだけに、この問題の答えは簡単ではない。
 この結果は延世大学のものであるが、今日の会議で私の大学と大学間交流協定を締結することになった。延世大学の先生は友人として「英語だけでの英語講義の効果は少ない」ですよ、とアドバイスしてくれるだろうか?

25 avril 2007 

Le monstre:films

 봉준호監督の괴물を観た。米軍の科学者が漢川に大量に化学物質を流したことが原因で生まれた怪物が漢川を暴れ回るというストーリーで、最初は普通の怪獣モノだと思い、あまり期待していなかったが、結構面白かった。
 何が面白かったかというと、怪物が出現した時の人々の反応である。これらの反応はある種、韓国社会を皮肉ったり風刺したりするシーンがdetailに織り込まれている。また、韓国の全共闘世代ともいわれる386世代についても描写されており、学生運動で火炎瓶を投げながらもちゃっかり大企業に就職したり、家族の次男のように大学を出てもロクな就職にも就けない者がいたり、映画の全編を流れる反米的な雰囲気もこの世代の雰囲気を表しているのかも知れない。
 一家は愛娘の奪還に立ち上がるが、誰もが何だか冴えない。
このポスターでは一家は凛々しい顔つきであるが、映画のなかのキャラクターと随分違うので改めてみると笑ってしまう。特に主人公のダメ男ぶりは怪物という大いなるものとの戦いを通じても、変わらない。娘の手を引いているかと思いきや他人の少女で、娘は怪物にさらわれてしまうし、発砲した拳銃の球数を間違えて父親を殺されてしまうし、奮闘空しく娘は結局、死んでしまう。ダメな男が非常事態には意外な力を発揮するような、ありがちなキャラクター作りを否定し、そうした安易な成長物語に肩すかしを喰らわせている。結果的に怪物は殺されることになるが、この物語はハリウッドにありがちなカタルシスを観客に与えてくれない。怪物が出現しても、怪物がいなくなっても、何も変わらない社会の状況を感じるのである。
 この映画、怪物の造形が過去の日本のアニメと似ているとかそうした話があるようであるが、そうした議論は本質的ではない(まあそんな話はないにこしたことはないが)。日本のゴジラは人間が作った核の副産物として生まれ、それが社会で暴れ回るという皮肉をモチーフにした物語である。日本の場合、意外にも多くの怪獣モノが多かれ少なかれそういう社会性を持っている。この映画のポイントは怪物の造形が云々ということではなく、怪物を出現させた、また怪物が出現した時の韓国
社会のありようなのである。邦題は『グエムル−漢川の怪物』。因みにグエムルは「怪物」の朝鮮語読み。

24 avril 2007 

United 93:films

Paul Greengrass 監督のUnited 93を観た。
2001年9月11日に起こった同時多発テロを題材にした「再現」映画。ハイジャックされた4機の航空機のうち、ユナイテッド航空93便だけが目的を果たすことなく、墜落した。この映画はテロ発生時、機内でまた機外で何が起こっていたのかを「再現」している。特に管制塔の混乱や機内の状況は緊迫感があり、観る者をひたすら圧倒する。
 ただ、この「再現」には疑義も呈せられている。それは93便の残骸の状況などから、93便が乗客とテロリストの格闘の末に墜落したのかどうかという極めて根本的な点に疑問符が付いているからである。
 確かに疑問に思うこともある。映画の中をみると、配膳カートをコクピットのドアに何度もぶつけてドアを破壊し、乗客がコクピットに侵入することになっている。内から鍵がかかっている外開きのドアを開けるにはドアを引かなければならない。それができなければドアを突き破るしかなく、映画でもそうなっていたのだが、もの凄い勢いで揺れる機内でそんなことが果たして可能だったのだろうか?落下しようとしている機内では恐らく普通に立つことさえできないだろうし、急降下したなら失神もするだろう。何だか腑に落ちない。
 疑いだしたらキリがないのであるが、あのテロでなくなった方を思うと本当に心が痛む。想像を絶する恐怖のなかで亡くなったのだから、自分があのなかにいたらと思うと本当に気分が沈むし、絶対に機内では観たくない映画である。こうした疑問を棚に上げ、実際に乗客がテロリストと格闘しそれで墜落したのであれば、この映画は極めて節度を保った作品作りになっている。感動やお涙頂戴の物語に仕立て、一つの悲劇を消費しようという意図はなるべく排除しようという姿勢がよく現れている。なるべく無名の俳優を起用しているのはテロリストに立ち向かったのは一般の人だったということを強調しようとしたからだろうか?映画の「作品」としてはよくできていると言えるが、根本的な疑問が解消されないのであれば、プロパガンダになる可能性さえある、微妙な作品である。

23 avril 2007 

Serendipity:films

Peter Chelsom監督のSERENDIPITYを観た。クリスマスの買い物客で賑わうデパートでSaraとJonathanは同じ手袋を買おうとする。それを譲り合っているうちに二人は惹かれあうものを感じる。お互いに好意を持ちながら二人は別れる。数年後、互いに結婚を控える身になるが、あの日一日だけ会ったお互いのことが忘れられない・・・。
 ニューヨークを舞台にしたこじゃれたロマンティック・ラブ・ストーリー。予定調和的なストーリーであるが、主人公の二人が憎めない等身大のキャラクターで、好感度が高い。ジョン・キューザックはこうしたどこにでもいそうな青年を演じるのがうまい。
 しかし、この映画の主人公たちもそうだが、人は「運命」という言葉になぜかくも魅了されるのだろうか?人との出会いを「運命」と感じるか否かは、その人が「運命」だと思いたいかどうかによって決まる。ただ、あまりにも簡単だと人はそれが「運命」だと思いたがらないので、手の込んだ障壁が必要となる。まさにこの物語のように。二人を隔てる数多くの障壁は彼らをして二人の関係が「運命」であると思わせることに一役も二役も買っている。身の上に起こることは全てが偶然とも言えるし、必然とも言える。ある出会いを偶然と呼ぶか、必然と呼ぶかは、心次第である。

22 avril 2007 

Frere Mamiya:films

森田芳光監督の『間宮兄弟』を観た。
 兄はビール工場で働くサラリーマン、弟は小学校の校務員。二人仲良く過ごす兄弟の日常と小さな恋を描いた作品。ほのぼのした仲の良い兄弟の姿に癒される人も多いのではないかと思うし、実際にそれを狙っている。しかし、ちょっと考えるとこの兄弟はかなりアブノーマルである。休日は一緒に出かけ、椅子を並べてビデオを観て、一緒に銭湯に行き、一日の終わりには布団を並べて「反省会」をする。兄弟は漂白されたように清潔で、人畜無害な存在。そんな彼らをとりまく、パートナーとの関係に満足していない美女たち。
 この物語は原作が女性によって書かれているためか、癒されたい女性の観客の視線を強烈に意識した作品となっている。よって二人の兄弟は女性によって極めて都合の良いキャラクターとなっている(これは母親にとってさえも極めて都合の良い兄弟である)。休日に肩の凝らない食事を振る舞ってくれて、ほのぼのとしたゲームに興じる。会話も相手の実存を脅かすようなものではなく、決して自分に踏み込んでこない。この兄弟は女性を癒すことはあっても傷つけたりするような存在として描かれることは、決してない。それはあたかもペットのように。
 彼らの奇妙さは「絶対的に人畜無害でなければならない存在」であることから一歩も出ることができないことに由来する。物語では描かれていなかったが、どちらかに彼女ができた時、兄弟の関係はどうなるのだろう?親密な兄弟の間に女性が入っていけずに早晩逃げ出してしまうと思うが、兄弟の関係の破綻を招く可能性を排除することで、この物語は成立している。それはあたかも寅さんの恋が成就しないことで『男はつらいよ』が成り立っていることと同じである。
 仲のいい兄弟の物語がこのように成立するなら、仲の良い男女のカップルのほのぼのした物語もあってもいい。しかし、案外にそうした物語が少ないのは、一般にそうしたカップルは閉じた関係になりがちだからであろう。外からみて閉じた関係のカップルが周りを癒すというシチュエーションはなかなか考えにくい。

13 avril 2007 

La mode dans Doraemon:journal

 アニメ・ドラえもんの登場人物のファッションが「今風」になったとのことで、チェックしてみた。左の画像がそれであるが、まあ、大して変わり映えがしない気がするのは僕だけだろうか?しずかちゃんの露出が多くなったのは夏服だからであろう。最初に「今風」と聞いて、のび太君がダバダバのhip-hop風ストリートカジュアルのようになった姿を想像したから、肩すかしを食らった感じであった。
 サザエさんは日本の家庭の3分の2に普及したものをマンガのアイテムに順次取り入れているという話を聞いたことがある。電話やドライヤー、家庭の風呂などがそれに該当するらしいが、まだ携帯は持っていないようである。
 携帯電話とマンガで思い出したが、時代を反映させたばっかりにおかしなことになったマンガもある。それは『ガラスの仮面』。中学生ながら住み込みでラーメン屋の出前(!)をやっていた北島マヤが登場して数年しか経っていないはずであるが、最新刊では桜小路君が携帯電話を使っていたそうである。僕はまだ読んでいないが、ちょっと前にはオーディションで清水健太郎の「失恋レストラン」を歌っていたという場面があるのに、数年後に携帯の登場とは・・・思い切ったものである。

10 avril 2007 

ツォツィと映倫:films

映画TSOTSIが日本公開を控え、映倫の指定でもめているようだ。
http://www.asahi.com/culture/update/0410/TKY200704100334.html?ref=rss
この映画については以前コメントしたことがあるが、素晴らしい作品である。
http://printemps75001.blogspot.com/2006/09/tsotsifilms.html
日本の映倫の独特のコードに関しては、常々疑問を持っているが、今回は本当に失望した。世界は暴力で満ちあふれている。貧困の中で暴力に走る子供も世界中には大勢いる。残念だがこれが現実である。この映画の暴力シーンは物語の必然性からなるものであり、決して猟奇的なものではない。映画のプロであるなら、それぐらいの見極めができなければいけないのではないだろうか?それができないのであれば、映倫など不要である。