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18 décembre 2007 

SARABAND:films

Ingmar Bergman監督のSARABANDを観た。
同監督による『ある結婚の風景』の続編。離婚後、数十年経ち、マリアンは人里離れた山荘で隠居しているヨハンを訪ねる。ヨハンは莫大な遺産を相続してから大学の職を辞し、孤独な生活を送っていた。近くには息子のヘンリックがその娘カーリンにチェロのレッスンをつけるためにに住んでいたが、ヨハンとは絶縁状態だった・・・。
 物語はヨハンとマリアン、マリアンとカーリン、ヨハンとヘンリックなど、常に二人の対話で進行していく。
 どのエピソードも互いの恐らく人間の尤も醜い暗部を顕在化させるが、特に凄まじいのはヨハンとヘンリックの親子の確執。その対話のなかで垣間見られるヨハンという人物像、極めて興味深い。40年前に息子に言われた言葉を根にもち、今なおも息子を苛む言葉の選択に躊躇はみられない。言葉の端々に息子の妻アンナへの思慕やそれに連なる嫉妬も見え隠れしている。知性も教養もあるが、それは自らの激情の前では何ら刃止めにはならない。その激しさは老境に至っても弱まることなく彼の心を苦しめている。それは先立つ『ある結婚の風景』と同様である。小心で悪夢に魘されて人に救いを求めずにいられない弱い人間である。マリアンはそんなヨハンと愛憎にまみれた人生を送ってきた。何度も屈辱にまみれ、悲しみにうちひしがれるのだが、彼との幸せだった頃の想い出にすがりついているのかもしれない。もちろん、このヨハンという人物は監督Bergmannの分身である。そのせいかヨハンのキャラクターは他のどれにもまして重層的で、作り込まれている感がある。因みに僕の現実の生活にも、ヨハンのようなパーソナリティをもつ人物が、いる。
 もう一つ、物語の大きな軸をなすのは、ヘンリックとカーリンの愛憎とカーリンの自立物語である。恐らく近親相姦の関係にあるのだろう、二人は抜き差しならない泥沼に沈み込んでいる。カーリンは母・アンナの亡き後、父との差し向かえの地獄のなかに生きている。外の世界に憧れつつも、自分の存在が父の生き甲斐になっていると思い、自らの可能性を絶ちきってしまう。父のヘンリックは、亡き妻の面影を残す娘をまさに人生の一縷の望みとして生きている。愛情という言葉だけでは言い尽くせない抑えがたい感情を娘に抱き、娘に依存している。
 カーリンは祖父と父の確執の間で、極めて危うい人生を送ってきたのだが、最後は祖父でもなく、父でもない、自分自身が選んだ道に進むことで自立していく。しかし、劇中では語られることのなかったカーリンのその後の人生は、父の自殺未遂によって大きく影を落とすことであろう。カーリンの人生もまた、祖父、父の存在によって狂わされてしまう。
 では、なぜマリアンはヨハンに会いに行ったのか?それはよく分からないし、劇中でも明言されることはなかった。人生を振り返った時に、自分がもっとも心奪われた相手に会いたくなってしまうのだろうか。年老いたら、まったく違った良好な関係が築けると淡い期待を抱いてしまったからだろうか。マリアンはヨハンと再会して会話を交わしたとたんに後悔してしまうが、現実とはそういうものなのだろう。最後にはヨハンの死が暗示される。
 この映画、人間の深き業というものを感じずにはいられない。「家族」とは、
地獄への入り口なのかもしれない、とさえ思う。その入り口は幸せの幻想という甘い果実に飾られ、人はその甘い匂いに引き寄せられてしまう。老境は必ずしも安住の地とはならず、最後まで十字架を背負っていかなければならないのか。
 この作品だけ観るだけでもいいが、やはり前作と併せて観るべし。