Jardins en automne:films
Otar IOSSELIANI監督のJardins en automneを観た。相変わらずの作風である。テイストも前作と似たようなものだ。だがまたしても、人生を感じさせる作品だ。
Vincentはフランスの農業大臣。職務中にトランプに興じ、執務室にはフィットネスクラブよろしくトレーニング用品を並べ、愛人を公邸に囲って、さも仕事をしているように取り繕っているが、とうとう失策により職を追われてしまう。その途端、本妻には愛想を尽かされ、公邸を追われてしまう。帰るべきアパルトマンは15人はいるのではないかというアフリカ系移民によって占拠され、自分のベッドには病的に痩せこけた老人が咳をしながら現れる。そこに住まうなどとは想像だにできない状況。愛人は別の男を捕まえて頼りにならず、とうとう行き場もなくなってしまう。
しかし、彼には彼の失職記事を「おめでとう!」と歓迎する友人や、金の無心に気安く応える母親、甘えさせてくれる女性たちがいた。酒を飲み、歌をうたい、友人と遊び、新たな女友達ができ・・・彼は気ままで行き当たりばったりのその日暮らしを送る。ダメ大臣の転落譚と思いきや、Vincentはなかなかの人物であるように思えてくる。失脚した政治家は数多いが、昨今ではアベシンゾーが記憶に新しい。彼は決してこの映画の男のように人生を楽しむことはないだろう。
人は誰しも、生きていれば仕事の第一線から退いていく。その退任の理由は様々だろうが、肩書きを失い、看板を下ろした時に、人は鼎の軽重が問われるのかも知れない。以前、日本で『鉄道員』という作品が流行ったが、実直に働いた主人公は定年と同時に死んでしまう。作中で殺してしまっては、面白くない。これも日本的な美学なのかも知れないが、非現実的なご都合主義に不満が残った。老後、日本では特に「センセイ」と呼ばれた人の多くは、センセイ時代の感覚が抜けきらず、周囲から浮いて嫌われる例が多いという。僕は如何に社会人として勤め上げたかではなく、老後どのように生きるのかということの方がより切実で難しいことなのだと思う。
映画のキャッチ・コピーに「大切なのはお金や物、肩書きじゃない」とあるが、確かにその通りだ。しかし、それらがないと生きてはいけない。特に、成人をしてから年金生活に入る間は、ある程度は必要である。何よりも現代では時間が何よりも貴重なものになっている。お金で手間暇を省くのも、お金で時間を買っているのと同じだ。きっと、時間は苦労して働いた人へのご褒美なのだろう。これが若者を主人公にしたら、全く違ったイメージなってしまう。そういう意味で、これは大人のための映画と言える。
イオセリアーニとベルイマン。まさに対照的な二人だ。ベルイマンは16世紀まで遡れるほどの名家に生まれ、鬼のような真剣さで人間の業を描くのに対し、グルジア生まれのイオセリアーニの作品は軽妙洒脱。人生の豊かさを感じさせつつも、社会に対する批判的なスタンスは失わない。人間の内面を突き詰めるあまり社会への視線が感じられないベルイマンとは対極にあるようだ。イオセリアーニはMichel Picoliに女装させてロー・アングルからのカットを入れたり、小さな笑いを誘うシーンに拘りをみせたり、自分も端役で登場して落書きやピアノで遊び心を発揮する。奇しくも下のポスターも真逆の構図である。
冒頭には棺桶工場で棺桶を物色する老人たちが、一つの棺桶をとりあって口論になるというカットが挿入される。当然、どのような老後を送るかという問いの先には、どのようにこの世から去るかという最後の課題が待っている。
原題は『秋の庭』、邦題は『ここに幸あり』。
