« Home | Fibre optique:journal » | late show de Nagoya:journal » | demi-pension:journal » | question bizzare:journal » | Matière obligatoire:journal » | une imprimante portable HP:journal » | comme une samuraïe:journal » | ULTRA BLEU:journal » | ROIS ET REINE » | Code : inconnu:films » 

01 novembre 2006 

FLAGS OF OUR FATHERS:films

 Clint Eastwood監督のFLAGS OF OUR FATHERS を観た。"Flags of Our Fathers: Heroes of Iwo Jima"を原作に、後に硫黄島陥落のモニュメントとなった摺鉢山に星条旗を打ち立てた6人の兵士の戦場での体験と、生き残った3人のその後の人生を描く。
 物語は過去の記憶が蘇り、PTSDで夜中に目が覚める老人のシーンから始まる。若かりし頃に行った戦場での体験が80も越えた老境に達してもなお、生々しく迫ってくる。勘違いとなりゆきで星条旗を立てた行為によって、のちに"英雄"と祭り上げられることで苦悩を感じる主人公たち。現実に彼らが行った行為とそれにそぐわない賞賛の嵐。そして、それが戦争を継続させ、新たな戦死者を結果的に生んでしまう状況に荷担してしまう。"英雄"たちの一人は沈黙し、一人はこの状況を利用し、一人は酒に溺れて堕落していく。
 この作品は太平洋戦争を描いた作品であるが、国民輿論や兵士を戦争に駆り立てる方法は今も昔も同じパターンだということに驚いた。若者を戦争に駆り立てる裕福な層と戦地で死んでいく若い兵士たちという構図も同様。しかも、哀しいことに人々が政府の意図や策略に簡単に引っかかってしまうことも。最近では捕虜になったジェシカ・リンチとその救出劇を美談に仕立て、映画化さえした滑稽ともいえる物語の創造は、今も昔も戦争には恒例行事となっている(彼女はその後のインタビューで恐怖一発も銃を撃てなかったことを明言している)。
 辛酸をなめた経験を何度も思い出すことは極めて苦しいことだ。しかも、それによって後悔の念や自己嫌悪が再生産されてしまう。それゆえ、過酷な経験や屈辱的な体験は多くは人に沈黙をもたらす。そうして強いられた沈黙に乗じて、他人が都合のいい物語を捏造する。これは日本とて同様。それは違う!と心では叫ぶが、国を挙げて作られてしまった熱狂に冷や水をかけるマネはできない。せいぜい戦闘で死んでいった者の「意志」を借りて、謙遜してみせることしかできない。英雄譚に隠された当事者の苦悩を通して、英雄の真実の姿に迫るという点において、この題材は極めて有効である。
 写真と戦争で想起するのは戦場カメラマンのJames Nachtweyである。彼は言っている「戦争は一人にさえやってはならないことを万人に行っている」。日本の新聞に溢れているほぼ全て事件と同じレベルの犯罪をやっても何ら罪に問われることがないのが戦争だ。戦争が美談や英雄譚で語られるほど美しいものでも感動的なものでもないことを陰惨な戦闘シーンが物語っている。そういう意味で戦争の悲劇を伝える作品としては評価したいし、監督が主張したかったことや、メッセージには強く賛同する。しかし、この映画に関してはどうしても違和感が付きまとってしまう。
 この作品はアメリカ側の視点と日本側の視点という両者の視点をぶつけることで一方に偏ることのない戦争の現実に迫ろうとしている。こうした試みを共同で行うこと自体はこれまでにないものだったが、そもそも硫黄島の戦いというのはアメリカと日本という2つの視点だけに収斂されてしまうものなのだろうか?当事者の戦争の記憶は多種多様で、それぞれが違う現実を生きたはずである。戦闘なら戦士の数だけ、また近親者を含めると多くの視点というのがあり得るのだが、国というたった二つの立場だけで戦争を語れば事足れりと思っているのならそれは間違いだ。観客の方も両方から描いているから「客観的」だと思ったのならそれは違うのだとおもう。
 戦闘シーンに関しても気になる点がいくつかあった。アメリカは多くの兵器で日本の戦士に襲いかかるのであるが、殆ど日本側の死者が画面に現れない。日本兵を殺すシーンがあっても、それはカウンター的で現在のアメリカの国内法なら正当防衛と判断されそうなシーンばかりである。そして、日本兵は自決するというシーンがクローズ・アップされる。史実を文献などで確認することなく、この映画だけをみたアメリカ人は、この戦闘でアメリカ人は日本人を殆ど殺していないようなイメージさえ持ってしまうのかも知れない。そしてアメリカ側の戦死者が多数にのぼることをアピールすることで、実際の死者の数や沖縄戦の住民の死者の数などが隠蔽されてしまうような気がしてならなかった。硫黄島には当時も現在も住人がいない。硫黄島を足がかりにして、米軍は沖縄に入り、多くの非戦闘員の被害を生んだことが、どこか遠くに追いやられてしまうような危惧を抱かざるを得ない。
 また、この米軍兵士には多くのアフリカ系兵士がいたはずであるが、映画の俳優には一人もいなかったように思う。ネイティヴ・アメリカンが戦士たちの出自の多様性を代表するような存在になっているが、戦士のエスニシティの構成に関してはやや無頓着な印象を受けた。ラストに実際の写真が紹介されるが、これらの写真によって映画の映像が構成されていることをアピールし、ひいては映画の描く史実の信憑性を高める効果を演出している。この写真のなかにはアフリカ系と思しき兵士の姿もあった。それが映画になると出ていないのには意図があるのだろうか。
 戦争を映像化するのは本当に難しい。僕は人々が多く悲惨な姿で死んでしまう結果になった過去の現実に「感動」を感じるような気にはどうしてもならない。この映画はそもそも、英雄譚という捏造されたイメージで煽られた高揚感を拒否することからできあがった作品である。他人がこの映画で「感動」を催すのは勝手だが、僕は「なんだかなー」というもやもやとした感情が残ってしまう。両者の視点に立った「物語」が多くの「言い訳」に終始してしまうような結果になることを危惧するのは僕だけだろうか?
 この企画、逆にアメリカ側の状況を日本クルーが描き、日本の状況を米国クルーが映画化してみたらどうなっていただろうか?アメリカは日本の戦士を英雄仕立てにするだろうか?日本はアメリカの兵士たちの行動にエクスキューズを与えるように描くだろうか?
 反省なきところに悲劇はまた訪れる。邦題は『父親たちの星条旗』。