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17 octobre 2006 

ROIS ET REINE

Arnaud Desplechin監督のRois et reineを観た。本作はNoraの物語とIsmaelの物語、二部構成からなる。
 Noraは「あんなエレガントな女性には一生かかってもなれない」と女性から言われるほどの美貌をもつ。もちろんその美貌は男たちを魅了するが、全編を通じて彼女には女性の友達というのが全く登場しない。最大の苦況に陥った時でも、人に頼ることができない。孤独な女性である。それ故か男性を常に必要としてしまう。フランスに限らず、日本でもノラのような女性は案外に多い。三番目の夫・Jean-jaqueは結婚という形式には理想の夫であるが、彼は彼女が愛した4人の男のなかにはカウントされていない。フランスの上流階級の結婚の一つの典型であろう。Jean-jaqueがNoraに指輪を渡すシーン、そして結婚を祝う華やかなシーン、二人のシルエットはこの上なくお似合いである。世間でいうところの「釣り合い」がとれているのであるが、二人の思いはそれぞれで、お互いに本音を言えない関係でもある(映画では一つの安らかなエンディングを迎えるが、Jean-jaqueとNoraのその後の人間関係がどうなるのかは個人的には不安だ)。
 Noraを語る上で特筆すべきは父親のNoraへの複雑な愛である。Noraのエゴイスティックで傲慢な性格を憎みつつも、彼女の甘える姿やまなざしに愛おしさを感じ、殺したいほどの愛憎を抱いている。子どもが必ずしも親を愛することがないように、親もまた子どもを全人格的に愛するとは限らない。娘に「お前が俺の代わりにガンになれ」と残した言葉の意味をどのようにとらえたらいいのだろうか。ノラは父親の愛憎の言葉をどんな気持ちで燃やしてしまったのだろうか?
 もう一人の主人公であるIsmaelはヴィオラ奏者。「第三者による強制入院」(そいういう制度があるなんて知らなかった。僕の場合、映画で初めて知る海外の法律も多い)という形で精神病院に入れられてしまう。破天荒で子どもじみた性格と愛すべきキャラクターは精神病院のなかであっても人を引きつけ、彼自身も逆に気楽にな場所に変えてしまう。Noraの息子エリアスがIsmaelになついてしまうのも分かる。Ismaelの性格は地方のEpicerie(乾物を中心とする食料品)の息子で、社会的な後ろ盾がなく自力でヴィオラ奏者になったという生い立ちと関係するのであろう。NoraとIsmaelはは一時期、同棲していたが、イスマエルの生活環境の問題から別れてしまう(社会階層の違いにNoraは耐えられなかったのだろう)。全く異なった物語に生きるNoraとIsmaelとの関係はいわば腐れ縁である。
 この映画はシンメトリーで溢れている。美貌と財力、そして愛した男の分身である一粒種をもち、表面的には自由で恵まれているように見えるNora。一方借金にまみれ、その奔放さ、傲慢さゆえに同業者の悪意によって精神病院に強制入院させられてしまうIsmael。Noraは裕福な作家の娘でこれといった手に職もなく、IsmaelはEpicerieの息子でヴィオラ奏者。Noraは介護、Ismaelは入院という閉ざされた空間のなかでNoraは孤独を舐め、Ismaelは愛をみつける。Noraの家族は陰鬱な憎悪で繋がり、Ismaelの家族は開けっぴろげな親和性で結ばれている。Noraの物語は悲劇、Ismaelの物語は喜劇。もう一つ付け加えるなら、観客にとってNoraのキャラクターはある種の女性の典型を描いて現実的であるのに対し、Ismaelのそれは脱社会的で、あまりにも非現実的である。Noraに共感を寄せる観客は多いかもしれないが、Ismaelのそれに同一化する人は少ないだろう。こうした相反する二人の物語はエイリアスの養子問題で接し、映画としてお互いに補完的な関係となる。
 この映画の美しさはこのシンメトリーとその接点を結ぶ設定の妙にある。対照的でありながら補完的なストーリーは一枚の扇のように芸術的である。二人が劇的ともいえる非日常的な境遇に置かれることによって、人間としてまた一枚脱皮する。赤裸々ともいえる人生の一時期を切り取っているが、この物語には「感動」をもよさせるような仕掛けはない。そのためやや物足りない印象をもつ人も多いかも知れない。
 この映画のプロローグとエピローグではMoon Riverが流れる。Moon Riverといえば、もちろんBREAKFAST AT TIFFANY'Sで使われた音楽である。NYはParisの風景に移り、仕事帰りにショーウィンドーを眺めるだけの娼婦は、光あふれる画廊で値段も尋ねずに18世紀の絵画を買うNoraという対極の立場にある女性に置き換わる。そして、エンディング。駆け引きも打算もない真実の愛に目覚め、熱い抱擁でラストを迎えるHepburnと「理想の夫」との打算的な結婚を控え、穏やかな表情をたたえるNoraで幕を閉じる。デプレシャンの物語はこのシンメトリーが指し示すように、ロマンティックで「純粋な愛」だけでは生きられなくなった現代のBREAKFAST AT TIFFANY'Sなのかもしれない。シンメトリーで溢れていると言う所以である。原題は『王たちと王女』、邦題は『キングス&クイーン』。