mon voyage episode 6 :journal
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29日。今日はサラエボ滞在の実質的な最終日。Holiday InnからRadon Plaza Hotelへ移動しなくてはならない。Holiday Innはどうみてもお客が多いとは言えなかったのに、どうして予約がとれなかったのか判らない。Radon Hotel はサラエボ随一のホテルらしいが、明朝は6時半のZagreb行きに搭乗するため、朝食も食べられない。これは残念である。

さて、午前中は荷物をまとめ、ホテル向かいの博物館に行く。10時の開館と同時に行ったためか、まだ電気さえついておらず、部屋も施錠されたままであった。最初は考古学の部屋であったが、殆どの遺物が全体として残っていないようだった。よくもこんな断片から全体像を想像したと感心することの方が多かった。この展示室はセルビア語の表記しかないため、正直言って、何世紀のものといったことぐらいしか判らなかった。写真も撮ってはいけないという指示があったが、ボクの後から来た団体客を率いていた先生らしき人はレーザーポインタを遺跡に直截照射して説明をしていた。まあ、そんなもんだろう。
中庭を通って次に行ったのは、ちょうど18世紀の職人の部屋をそのまま移築したような展示だった。ちょうど昨日見た と同じような作りになっていて、やはりトルコ風な趣である。天井や柱の精密な模様から、かなり裕福な家庭の家だったようだ。部屋には当時の生活がしのばれるようにという配慮から、多くの人形が配置されていたが、かえって不気味にうつった。展示自体は素晴らしものだった。
次の建物は、動植物の展示場。哺乳類や鳥類、昆虫や草花の展示がされていたが、昆虫が一番充実しているようであった。その前に観た女性の服を展示した部屋はあまりにしょぼかった。
表示されている解説を殆ど読むことがなかったので、約1時間半で全体を見終わった。その後、部屋に帰りチェックアウトの準備をする。

一度ホテルに戻り、荷物をたたんでRadon Plaza Hotelにトラムで向かう。地図では3駅目で降りればすぐみえる距離のように思えたが、実はそれは違うようで、乗り合いの別の乗客に訊くと、ずっと先だという。こちらの人は英語ができる・できないに関わらず親切に教えてくれる。本当にありがたい。
移ったホテルは新しく立派なホテルであった。新車のディーラーも入っているビジネスセンターに隣接しており、とてもしゃれた作りになっている。部屋も1万円にしては相当、リッチな気分を味わえるような感じだ。朝5時に出発するということを考えると、かえすがえす惜しい。部屋からは、廃墟となった建物が見えた。砲弾でやられたのだろう。内戦の激しさを想像せずにはいられなかった。

部屋で荷物を広げると、旅程やホテルの予約表を印刷したファイルが見あたらない。Holyday Innに忘れてしまったようだ。そしてそのまま、もといたホテルに戻る。帰りはその足で、ユーゴ内戦のときに掘られて物資を秘密裏に輸送したと言われるトンネルを見に行くことに。
3番の終点で降り、昼飯にピザを一枚食べてからタクシーに乗る。最初は10KNと言われたが、値切って7KNにする。結局、7KNでも高いぐらいの距離だった。
トンネルの建物は、砲弾で外壁が穴だらけだった。そして展示場にもなっている中に入り、20分間のビデオを観る。ナレーションはなく、ミサイルや機関銃で街が次々に破壊されている映像が流された。そして、トンネルから武器や食料(なかには羊もいた)を運んでいる様子が描かれた。画面斜め上の壁には、サラエボがユーゴスラビア連合軍により完全に包囲されている様子を描いた絵が張られていた。サラエボは盆地のようになっており、周囲は山に囲まれている。つまり、袋のネズミ状態になってしまうのだ。ここに来て、逃げ場のない恐怖がよく判った。丘陵地帯には家が建ち、独特の長閑な風景なのだが、まちの広範囲に及ぶ砲弾の痕は、街全体が戦場と化してしまった恐怖を物語る。浦沢直樹の『モンスター』のラストはこの街がモデルだったのだろうか。
トンネルは今はとても短く、若干のトンネル体験をできる程度になっているが、なかなか迫力があった。

トンネル博物館は畑のなかにあるような所なので、タクシーなどは通りそうもない。結局、別の客にタクシーに相乗りすることに。別の客はデンマーク人で空港まで行くという。空港からはあとは交渉してくれということだったので、とりあえず空港に行く。地理感覚が掴めなかったため、ホテルまで8KNということでイタリア語とセルビア語しかできない運転手との交渉は妥結したが、もっと安くてもよかったと後悔する。運転手はイタリアにしばらく滞在していたらしいが、おそらくは内戦で国にいたたまれなくなっていたのだろうと想像する。


それからサラエボ冬季五輪施設の近くにある共同墓地に行く。ここはもともとグランドであったが、紛争時に犠牲者を埋葬する場所として使われたところだ。共同墓地に足を踏み入れた時、その墓標の多さに立ち竦んでしまった。目に入った墓標には1992年か93年が記されていた。こんな短い間にあんなに多くの人を埋葬しなくてはならなかった現実に、人々はどう向き合ったのだろうか。想像するだに暗澹たる心持ちになった。墓標の一つに祈りを捧げる一家を目にしたとき、彼らにカメラを向けることはボクにはどうしてもできなかった。
ホテルに戻り、ホテル内のトルコ式風呂に行ってみる。ボクが入ろうとドアを開けようとしたら、ビキニの大柄な女性が出てきて、ややきつく睨まれた。サウナは男女混浴のようだ。それでボクはやや尻込みしてしまい、再び出直すことに。
晩ご飯はやはりトラムで中心街に行く。ホテルが遠くなったせいか、やはり時間がかかるが、スナイパー通りなどの状況や、街の雰囲気を感じるのにはやはりいい。日曜日の夕方とあってか、人通りはぐっと少なくなっていた。昨日夕食をとったところの隣に入る。ここでは、地元の人々がたばこを吹かせ、Pivoを呑みながら、談笑している。
まだ5時を回ったところだったが、ボクだけが早い食事を注文。昨日の昼に食べたピタに、羊の挽肉と生タマネギの刻んだものと、ビールを注文。それだけでもお腹いっぱいになったが、ここは最後の夜とばかりもう一品、注文する。注文したのはボルシチ風の煮込み料理。注文するときに、自分で食べるの?と訊かれたぐらいだから、やはり量は多めだったに違いない。
しかし、この煮込み料理が絶品であった。長方形の耐熱容器に骨付き牛肉、ジャガイモ、にんじんが入っていた。骨などから出た出汁とローリエとハーブの香りに食はどんどん進む。ついでにビールももう一本。あまりに美味しかったので、カメラを持ってこなかったのを悔やんだ。
帰りにイチゴのパックとケフィアを買って帰る。セルビア語で「ケフィア下さい」と言ったら、すっと棚から出してくれたが、やはりこちらでは普通の飲み物なのだろう。ちなみに密閉されていた。
ホテルに戻り、もう一度、トルコ式サウナに行く。トルコ式といっても、雰囲気は真四角のタイル張りの空間があるだけである。誰もおらず、室内にはテレビも音楽もない。とりあえずそこで汗が噴き出すのを待つ。トルコ式は普通のサウナよりも温度が低いためかあまり汗が出てこない。どちらかというとミストサウナに近い。女性も進入してくることを予期して海水パンツを着用していたが、どこか落ち着かない。
結局、多少の汗が出た時点で近くでシャワーを浴びる。シャワーを浴びてから体を拭いていると、かなり太った現地のお兄ちゃんが中国人?と英語で尋ねてきた。日本人だというと、この間中国に行ってきたから、中国人だと思ったとの由。そのまま日本の印象などの話になり、誘われるままにサウナに入る。彼はバスタオルを巻いたままでその下は海水パンツを穿いていないようだった。女子の人も入ってくるかもしれないのに、それでいいの?と思ったが訊かなかった。その後、彼の父の友人というオシム監督の話に及び、彼の父も脳梗塞で倒れたこと。さすがにその脂肪だらけの体だったら君も危険なのでは?とは言えなかった。
部屋に戻り、シャワーを浴び直す。そして、モーニングコールと朝のタクシーを依頼し、眠りにつく。ベッドはキングサイズだったが、やたらに大きな枕が5つもあり、大きなベッドは枕に占拠させられているた。あまり余裕を持って寝られたとは言えない。部屋の窓には強い風が吹き付けていた。
さて、午前中は荷物をまとめ、ホテル向かいの博物館に行く。10時の開館と同時に行ったためか、まだ電気さえついておらず、部屋も施錠されたままであった。最初は考古学の部屋であったが、殆どの遺物が全体として残っていないようだった。よくもこんな断片から全体像を想像したと感心することの方が多かった。この展示室はセルビア語の表記しかないため、正直言って、何世紀のものといったことぐらいしか判らなかった。写真も撮ってはいけないという指示があったが、ボクの後から来た団体客を率いていた先生らしき人はレーザーポインタを遺跡に直截照射して説明をしていた。まあ、そんなもんだろう。
中庭を通って次に行ったのは、ちょうど18世紀の職人の部屋をそのまま移築したような展示だった。ちょうど昨日見た と同じような作りになっていて、やはりトルコ風な趣である。天井や柱の精密な模様から、かなり裕福な家庭の家だったようだ。部屋には当時の生活がしのばれるようにという配慮から、多くの人形が配置されていたが、かえって不気味にうつった。展示自体は素晴らしものだった。
次の建物は、動植物の展示場。哺乳類や鳥類、昆虫や草花の展示がされていたが、昆虫が一番充実しているようであった。その前に観た女性の服を展示した部屋はあまりにしょぼかった。
表示されている解説を殆ど読むことがなかったので、約1時間半で全体を見終わった。その後、部屋に帰りチェックアウトの準備をする。
一度ホテルに戻り、荷物をたたんでRadon Plaza Hotelにトラムで向かう。地図では3駅目で降りればすぐみえる距離のように思えたが、実はそれは違うようで、乗り合いの別の乗客に訊くと、ずっと先だという。こちらの人は英語ができる・できないに関わらず親切に教えてくれる。本当にありがたい。
移ったホテルは新しく立派なホテルであった。新車のディーラーも入っているビジネスセンターに隣接しており、とてもしゃれた作りになっている。部屋も1万円にしては相当、リッチな気分を味わえるような感じだ。朝5時に出発するということを考えると、かえすがえす惜しい。部屋からは、廃墟となった建物が見えた。砲弾でやられたのだろう。内戦の激しさを想像せずにはいられなかった。
部屋で荷物を広げると、旅程やホテルの予約表を印刷したファイルが見あたらない。Holyday Innに忘れてしまったようだ。そしてそのまま、もといたホテルに戻る。帰りはその足で、ユーゴ内戦のときに掘られて物資を秘密裏に輸送したと言われるトンネルを見に行くことに。
3番の終点で降り、昼飯にピザを一枚食べてからタクシーに乗る。最初は10KNと言われたが、値切って7KNにする。結局、7KNでも高いぐらいの距離だった。
トンネルの建物は、砲弾で外壁が穴だらけだった。そして展示場にもなっている中に入り、20分間のビデオを観る。ナレーションはなく、ミサイルや機関銃で街が次々に破壊されている映像が流された。そして、トンネルから武器や食料(なかには羊もいた)を運んでいる様子が描かれた。画面斜め上の壁には、サラエボがユーゴスラビア連合軍により完全に包囲されている様子を描いた絵が張られていた。サラエボは盆地のようになっており、周囲は山に囲まれている。つまり、袋のネズミ状態になってしまうのだ。ここに来て、逃げ場のない恐怖がよく判った。丘陵地帯には家が建ち、独特の長閑な風景なのだが、まちの広範囲に及ぶ砲弾の痕は、街全体が戦場と化してしまった恐怖を物語る。浦沢直樹の『モンスター』のラストはこの街がモデルだったのだろうか。
トンネルは今はとても短く、若干のトンネル体験をできる程度になっているが、なかなか迫力があった。
トンネル博物館は畑のなかにあるような所なので、タクシーなどは通りそうもない。結局、別の客にタクシーに相乗りすることに。別の客はデンマーク人で空港まで行くという。空港からはあとは交渉してくれということだったので、とりあえず空港に行く。地理感覚が掴めなかったため、ホテルまで8KNということでイタリア語とセルビア語しかできない運転手との交渉は妥結したが、もっと安くてもよかったと後悔する。運転手はイタリアにしばらく滞在していたらしいが、おそらくは内戦で国にいたたまれなくなっていたのだろうと想像する。
それからサラエボ冬季五輪施設の近くにある共同墓地に行く。ここはもともとグランドであったが、紛争時に犠牲者を埋葬する場所として使われたところだ。共同墓地に足を踏み入れた時、その墓標の多さに立ち竦んでしまった。目に入った墓標には1992年か93年が記されていた。こんな短い間にあんなに多くの人を埋葬しなくてはならなかった現実に、人々はどう向き合ったのだろうか。想像するだに暗澹たる心持ちになった。墓標の一つに祈りを捧げる一家を目にしたとき、彼らにカメラを向けることはボクにはどうしてもできなかった。
ホテルに戻り、ホテル内のトルコ式風呂に行ってみる。ボクが入ろうとドアを開けようとしたら、ビキニの大柄な女性が出てきて、ややきつく睨まれた。サウナは男女混浴のようだ。それでボクはやや尻込みしてしまい、再び出直すことに。
晩ご飯はやはりトラムで中心街に行く。ホテルが遠くなったせいか、やはり時間がかかるが、スナイパー通りなどの状況や、街の雰囲気を感じるのにはやはりいい。日曜日の夕方とあってか、人通りはぐっと少なくなっていた。昨日夕食をとったところの隣に入る。ここでは、地元の人々がたばこを吹かせ、Pivoを呑みながら、談笑している。
まだ5時を回ったところだったが、ボクだけが早い食事を注文。昨日の昼に食べたピタに、羊の挽肉と生タマネギの刻んだものと、ビールを注文。それだけでもお腹いっぱいになったが、ここは最後の夜とばかりもう一品、注文する。注文したのはボルシチ風の煮込み料理。注文するときに、自分で食べるの?と訊かれたぐらいだから、やはり量は多めだったに違いない。
しかし、この煮込み料理が絶品であった。長方形の耐熱容器に骨付き牛肉、ジャガイモ、にんじんが入っていた。骨などから出た出汁とローリエとハーブの香りに食はどんどん進む。ついでにビールももう一本。あまりに美味しかったので、カメラを持ってこなかったのを悔やんだ。
帰りにイチゴのパックとケフィアを買って帰る。セルビア語で「ケフィア下さい」と言ったら、すっと棚から出してくれたが、やはりこちらでは普通の飲み物なのだろう。ちなみに密閉されていた。
ホテルに戻り、もう一度、トルコ式サウナに行く。トルコ式といっても、雰囲気は真四角のタイル張りの空間があるだけである。誰もおらず、室内にはテレビも音楽もない。とりあえずそこで汗が噴き出すのを待つ。トルコ式は普通のサウナよりも温度が低いためかあまり汗が出てこない。どちらかというとミストサウナに近い。女性も進入してくることを予期して海水パンツを着用していたが、どこか落ち着かない。
結局、多少の汗が出た時点で近くでシャワーを浴びる。シャワーを浴びてから体を拭いていると、かなり太った現地のお兄ちゃんが中国人?と英語で尋ねてきた。日本人だというと、この間中国に行ってきたから、中国人だと思ったとの由。そのまま日本の印象などの話になり、誘われるままにサウナに入る。彼はバスタオルを巻いたままでその下は海水パンツを穿いていないようだった。女子の人も入ってくるかもしれないのに、それでいいの?と思ったが訊かなかった。その後、彼の父の友人というオシム監督の話に及び、彼の父も脳梗塞で倒れたこと。さすがにその脂肪だらけの体だったら君も危険なのでは?とは言えなかった。
部屋に戻り、シャワーを浴び直す。そして、モーニングコールと朝のタクシーを依頼し、眠りにつく。ベッドはキングサイズだったが、やたらに大きな枕が5つもあり、大きなベッドは枕に占拠させられているた。あまり余裕を持って寝られたとは言えない。部屋の窓には強い風が吹き付けていた。
