空中庭園:films
豊田利晃監督の『空中庭園』を観た。郊外のニュータウン。両親と一男一女の家族。京橋家のルールは秘密をつくらないこと。しかし、実際は、夫は浮気をし、娘も息子も学校をサボり、母・絵里子の実母との間に確執がある。しかし、絵里子はそうした家族が偽りと気付きつつも彼女の理想とする家族を作ろうとする…。
「嘘のない家庭」の家族による嘘まみれの日常を描いた作品。「家族の崩壊と再生」がメインのテーマだと思われるが、一方のテーマは「絵里子の思いこみと現実」も挙げられよう。絵里子がtraumaとして抱える家族の記憶は本当にそんなに悲惨なものだったのだろうかということが、観ていると揺らいでくる。
だが人は自分が愛されている、あるいは愛されていたかをどのように判断するのだろう?絵里子は断片的なエピソードの記憶から愛されていないと心に銘記しているが、第三者からは必ずしもそうではないという印象を持たれている。絵里子が思いこんでいたものが、つまり彼女の記憶がそんなにも信頼の置けないものであるなら、一体、私たちは何をもって体験したことを心に刻んでいけばいいのだろう?
最近はこうした記憶にまつわるテーマを題材にした作品が多いように感じる。そこで扱われる記憶はしばしば「自分を裏切る」記憶、記憶とは曖昧なものだというメッセージである。人はしばしば自分が信じたいと思っていることを信じ、そうあってほしいと願うほうに意識が向きがちである。これは過去の「記憶」についても同様である。絵里子は本当に母に嫌われ、疎まれていたのだろうか?それは兄の「証言」によってあっさり否定され、その確信めいた記憶は揺らぐ。また絵里子が夫から愛されていなかったか、ということについてもバスのなかでの夫の言葉によって、観客にはその思いこみが一面的であることを知らされる。
えげつなさを求めすぎた劇中の崩壊家族は逆にリアルさを失っている。団地の家を子宮にみたて、絵里子を赤児と見立てれば、それが彼女が再び「泣きながら、それも血だらけで生まれる」ことの比喩になっていることが判るが、やや過剰な演出だ。そしてラストは純白のイメージで家族の再生を高らかに宣言する。やや唐突な、ある意味で予定調和的なラストだったと思う。一般的には救いのあるラストということになるのだろうが、理想的な家族の幻想に取り憑かれていた絵里子が再び「家族」のなかへと囲われてしまうのではないかと危惧したのは僕だけだろうか。
家族の再生というテーマで言えば、ひょっとすると先日観たSpielberg監督の『宇宙戦争』もその範疇に入るであろう。この映画、ナンセンス・アクションとでも名付ければいいのだろうか。ともかく宇宙から野蛮な侵略者でもこなければ、家族再生の契機にならないのであれば、その可能性は絶望的な数字になろう(笑) 家族とは難しいものである。
