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02 janvier 2007 

Tournesol:films

張揚監督の《向日葵》を観た。
1976年の北京。胡同(モンゴル語語源、沖縄方言ではスジグヮーか)の四合院に住む母子のもとに下放されていた父が帰ってくる。かつて画家を目指した父は息子にその夢を託すが、息子は突然現れた「父親」になじめない・・・。
 この映画に登場する息子は年齢的には1970年前後の生まれだろうか。そうなると物心がついた時には
文化大革命を経験していないし、それが中国社会を未曾有の混乱に陥れ、人心を荒廃させたことなどは関知することはないのだろう。学者、作家、医者などの「知識人」だけでなく、芸能関係者や芸術家の被害者も数多い。父親がその被害者の一人であったことを理解するのは、子供心には難しかったであろうと思われる。こうした時代的な背景を知らずにみると、父親の息子への粘着的な愛情が常軌を逸しているようにみえるであろう。過度に教育熱心な親は自らの夢や欠落感を埋め合わせるために子供への過干渉(これも依存の一種)の度を強める。こうした姿はある意味で現在の中国でも、日本でもよくみられる状況なのではないかと思われるのだが、この映画では社会的な要因がより強調されている。
 この映画を通して、中国社会の移り変わりや若者の意識の変化などもよく分かる。『玲玲の電影日記』や『ジャスミンの花開く』などの作品では過去を美化して扱いたい気分を感じる(時代考証がひどい)が、それらと本作が決定的に異なるのは、過去をリアルに描こうとする姿勢である。負の歴史にも真摯に向き合う姿勢がこの映画では感じられる。また再開発のなかでの中国の住宅問題なども描かれているが、どこの国でも古い街並みが失われていくのはやはり哀しい。年始に録画しておいた紀行もので海外(特にヨーロッパ)の街並みをみているといっそうその思いを強くする。89年に北京の瑠璃廠に行ったときに附近の胡同に紛れ込んでしまったことがあった。そこで迷ってしまい、不安な思いをしたことがある。土壁に囲まれた迷路のようなイメージが残っているが、今ではそうした家屋も再開発で少なくなってしまったのだろう。伝統を潰してお金に換える行為を日本もやってきたが、世界中でこうしたことが行われるのはやはり残念である。
 それはともかくストーリーでやや不自然に思った部分もある。それはあれほど反発した息子がその後、絵を続けていたことである。絵画に対する情熱が息子には全く感じられなかったのに、展覧会で家族の肖像をモチーフにした絵を発表し、それが評価されるのはやや唐突な感じもしないではない。また、絵の手ほどきは音楽や勉強とは決定的に方法が違うので、父親のレッスンが息子に大きな影響を与えたとはあまり思えない点も違和感を感じた。ストーリーの根幹に関わるのでこの点に関してはもう少し丁寧に描いてもよかったかもしれない。
 観ていて懸念したのは、こうした題材は中国の多くの親を勇気づけたのかも知れないということ。中国の教育熱というのは今や壮絶を極めていると聞いているので、スパルタ系の親のもとで結果的に息子が成功したお話は、親に大きな自己肯定感と自信をもたらしたかも知れない。これは『北京ヴァイオリン』も同様であるが、もしそうした副次的な効果があったのであるなら、残念なことである。なぜなら監督の主張としてはやはり自分の人生を生きることを逆説的に描きたかったと思われるからである。
ラスト附近のカットで思い思いの趣味に興じる老人たちの姿が収められているのはその証左である。邦題は『胡同のひまわり』