The Constant Gardner:films
Fernando Meirelles監督のThe Constant Gardnerを観た。一等外務書記官のJustinの妻・Tessaが無惨な死体で発見される。彼女は夫の赴任したナイロビで医療ボランティアをしながら、製薬会社が新薬の人体実験まがいのことをしているのではないかと調べていた。Tessaは夫に自分が行っていたことを相談することなく、危険を冒しながら調査をしていたことを後から知る。物語はJustinの想い出の中の彼女の姿と真相を追うストーリーが交互に映し出される。
物語のなかのTessaはその過激な行動からは想像もつかないような優しい笑顔をJustinにみせる。それはまるで飢餓と貧困と疫病と内戦を抱える地域で働くJustinのオアシスのようである。Justinはいつもガーデニングに夢中で、礼儀正しく、お坊ちゃん然としており、時折、その育ちの良さと外交官的合理主義がTessaとの間に溝を生じさせる。しかし、Justinはその溝が次第に深くなっていることに気付かない。Tessaも唾棄すべきJustinの知り合いと「取引」をして、人体実験の証拠を掴もうとする。二人の性格や行動はあまりにも対照的で、この夫婦がなぜ愛し合ったのか首をかしげたくなるほどある。そして、Justin自身もTessaの行動が全て打算ではないかと疑いを抱きながらTessaへの旅を続けていく。
この夫婦は世に流布しているような外交官夫妻像とは随分とかけ離れている。代々、外交官の家系であるJustinと学生運動家風のアグレッシブな性格のTessaという夫妻。二人の置かれる社会階層を考えれば現実的にはちょっと考えられない組み合わせである。外交官の妻と言えば、赴任先の日本人コミュニティではボス的存在で、高級品の買い物やグルメに余念がないようなイメージだ。同じ時期にパリにいた友人と遊びに行った時、その奥さんが会話のなかで「駐在員夫人」という言葉を幾度となく連発していたが、ある種の女性にはステータスなのだろう。妻は夫あるが故のステータスを死守しようとする。よっぽどのことがない限り夫の仕事に支障が出て、自分が「単なる主婦に転落」するようなことは避けるだろう。JustinとTessaはその点があまりリアルではない。
しかし、この物語はアフリカの現状を圧倒的な力で見せつけられる。JustinとTessaの夫婦はある意味で先進国の二面性を体現する存在である。彼らの物語を窓口として、比較的裕福だと言われるナイロビでさえも、あらゆる死と隣り合わせの絶望的な恐怖の中にあることを知らされる。劇中、Justin が雑草を駆除するための農薬を使うことをTessaになじられるシーンがある。Justinは自分が作り上げようとしていた「美しい 庭」は「雑草」を駆除して成り立つものであったことに後から気付く。Justinが必死に作ろうとしていた「美しい庭」は先進国、「雑草」はアフリカの 暗喩である。
物語にあったような非人道的なことが本当に行われていたかのだろうか。原作者のJohn le Carréは実際に外務書記官であったようであるし(世間知らずの外交官をヒロイックに描くのも彼の「願望」の反映か)、多国籍企業も利潤を度外視して単なる社会貢献だけで動くような存在ではないだろう。少なくとも観客に単なるフィクションではないと確信させる状況は存在している。
一方でやはりこの映画は夫婦愛の物語でもある。Tessaへの旅の途中、Justinは幾度となく彼女の夫への愛が疑われる状況に接する。彼女が通訳と不倫していたのではないか、知り合いと不倫していたのではないか、自分との結婚はアフリカに行く口実を作るためではなかったのか、自分自身を信頼していなかったのではないか・・・彼はそれらに一つずつ愚直ともいえる誠実さで迫っていく。彼は外交官という社会的な鎧を一枚一枚脱いでいき、最後には単なる妻を愛する一人の男になっていくが、この映画のタイトルであるconstantは夫の妻への変わらない愛情と彼の性格を示しているのであろう。
最後に映画の音楽に言及したい。この映画にはAyub Ogada の音楽が使われていたが、彼のCDはこの映画を観る前から疲れてリラックスしたい時によく聴いていた。やさしく深みのあるボイスは稀有のものであると感じさせる。しかし、この映画ではアフリカの厳しい現状のバックに流れていたので、ちょっと複雑な気持ちにもなってしまった。邦題は『ナイロビの蜂』。
