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02 décembre 2006 

efficacité et éducation:journal

 「大学淘汰時代」と煽られて、学ぶことに経済的合理性と効率性が求められている。学生が何を学び、何を得たかということより、就職率○%という数字でしか「世間」は判断しないようである。貧しい評価基準しかもたないのを棚に上げて、人を「評価」できると思っている傲慢さはひとまずおくとして、こうした傾向により、大学から仏文科、独文科などをはじめとする多くの学問領域が消えているそうである。
 こうした事態は心情的には極めて残念だ。残念だと思う以上に学習者にとっては将来にわたって大きな損失になるのではないかと危惧している。どの学問でもそうなのだと思うが、特に言葉を習得するにあたり、学習者の年齢が極めて大きく左右する。学ぶ意欲があれば何歳でも学ぶことは確かに可能である。しかし、言葉の勉強はとどのつまり反復練習による暗記に頼る比重が極めて高いため、加齢するほど習得は困難になる。言語形成期が個人差を含めておおよそ8歳〜12歳であることを考えると、大学生の18歳、19歳というのは外国語を学ぶには決して早い年齢ではない。この時期が人生のほぼラストチャンスと言ってよい。また言葉の習得には極めて高いコストがかかるため、どれだけ多くの授業を受けても授業料が変わらない大学時代に学んでおくというのは経済的に合理性が高いことである(単位がとれるかなどはそういう意味では些末なことである)。
 この時期に新たな外国語を学ぶ機会を逸することはその人の人生で外国語を習得する機会を逸することに等しい。「意欲という才能」でカバーできる部分もあるが、それには若かりし頃よりずっと多大な資本と労力の投入が必要になる。国内の私立大学では次第に英語だけを外国語として学べば履修上問題ない制度に傾斜しているそうだが、大学が一方で「生涯学習」を謳いながら、長期的な見通しで学ぶことを考える状況になくなっていることはやはり問題であろう。これは大学の見識が問われることである。
 人生は何が起こるか判らないのである。言葉の通じない人と恋に落ちるかもしれないし、就職した会社に突然海外転勤を命じられるかもしれないのである。若いときに少しだけでも学んだかどうかということはこうした時に思った以上に発揮されるものなのである。