Calvaire:films
Fabrice Du Welz監督のCALVAIREを観た。街から街へと老人ホームなどのどさ回りを続ける売れない歌手・Marc。彼は南仏でのクリスマス(!)の仕事をするために車を走らせるが、車が故障してしまう。そこでBartelという初老の男に宿を借りる。しかし、Marcは親切そうなその男によって村に閉じこめられてしまう・・・。
この映画の題名はキリスト磔刑の地のCalbariaを語源として転じて「十字架」、「受難」などの意味がある。つまりこの映画は直接的にキリスト受難が織り込まれている。しかしこの物語ではキリストとは逆のパーソナリティを持つ人間がキリストと同じ受難に遭遇する悲劇を描いている。Marcは売れない歌手であるが、彼の魅力は周りの者を引きつけてしまう。しかしそれ故に彼は受難の憂き目に遭う。愛されるが故に、主人公は人々の孤独や欲望を一身に受け、キリストと同じように十字架に磔にされる。
この映画では村人たちの異常さに目が向きがちであるが、注目すべきはMarcのパーソナリティ。彼はキリストのように何かをなしたのだろうか?他人から憎まれたであろうか?逆である。むしろ劇中では彼は何もしてない。歌えと言われれば一度は断るが歌うし、善意を与えられればさして疑うこともなくそれを受ける。流されているだけである。彼からはキリストに観られた信念のようなものは微塵も感じられない。ヨーロッパの観客には弥が上にもキリストとの対比が彼の身の上から浮かび上がってくるはずだ。
この村には女性が出てこない。村人は女性がいないが故に獣姦に走ったのか、獣姦が女性を遠ざけたのか。おそらく前者であろうが、かつてこの村にも女性がいた。女性のいない村で人々は極限までに精神を病み、「歪んだ愛」がMarcに向けられる。(しかし、そもそもなぜ獣姦が罪になるのだろうか?生殖にかかわらない性交がキリスト教では禁忌にあたる論理は分かる。日本では法律で禁止されていないようだが・・・あまり書くとこのブログが「獣姦」のキーワードばっかりでヒットするようになるため控えよう)
この映画、邦題ではなぜか『変態村』となっている。確かに映画で繰り広げられる物語は変態的で、倒錯的ある。恐らく日本での配給を担当する会社はキリスト教の受難の物語が意識の中にはない日本で題名から設定、ストーリー展開に至るまであらゆるシーンで織り込まれる宗教的インプリケーションを観客に理解させることを放棄したのだろう。きっとこの題名でカルト的作品として売り込みたかったに違いない。それはそれで残念なことである。
