Bashing:films
小林政弘監督の『バッシング』を観た。評価が難しい作品である。作品の冒頭でこの映画がフィクションであることが強調されているが、この作品がイラクにおける邦人人質事件を題材にしていることは明らかである。実際には人質事件のバックグラウンドを知らない人が観たら主人公の葛藤も何も判らなかったかもしれない。しかし、敢えてこれをフィクションとするのは、監督が想像で補った部分もあったからだろうし、何より実話とすることにより実際の被害者に更なる圧力がかかることを懸念したからであろう。
実際のイラクにおける人質事件が起きたとき、僕はパリにいた。その時、え?なんでそんなところに日本人の女の子がいるの?とちょっと正気の沙汰ではないと感じたのが僕の最初の感想である。一気に人生のブレイクを狙った行為だとも思った。しかし、そうした感想がボランティアやNGOの活動に対する僕の無知からきていることを、あとで知った。その時、日本で巻き起こった人質被害者へのバッシングや嫌がらせがどれほどであったのかはあまり判らない。しかし、パリでは人質被害者に対する日本政府あげてのバッシングに否定的な論調であった。「どうして人道的な行為を行う彼らを日本は誇れないのか?そればかりかどうして制裁をするようなことをするのか?」と。折しも、フランス人ジャーナリストが同様に人質になっていた時期でもあった。アパルトマンの近くのフィガロの社屋には「解放しろ!」の文字とともに人質になった二人の大型パネルを掲げていたし、新聞各紙は毎日彼らの写真を掲載して人質になって何日目と出していた。フランスの当時の外務大臣Michel Barnierは自ら交渉にイラクまで赴いた。そしてついに解放された日、「最高のクリスマス・プレゼント」とフランス全土が安堵と喜びに包まれたことを今でも鮮明に憶えている。シラク大統領もモロッコから喜びの声明を出すほどであった。日仏の反応の違いをもって良い/悪いの判断を下すつもりはない。しかし、この反応の違いはなんなのだろう?
映画の話に戻ろう。帰国して半年経っても、いたずら電話や周囲の刺すような視線は変わらない。メディアの発達が日本という村をより小さいものにしている。話をすれば世間の人間はみな一言、言ってやりたいとばかりに説教モードで主人公に接してくる。親しくしていた者も持ち上げつつも敬遠する状況。主人公がとろうとするコミュニケーションはことごとく成立しない。コンビニさえも購買拒否される。これはあまりに息苦しい。さらに家族も同罪と言わんばかりにバッシングは波及していく。人は「お前はみんなに迷惑をかけた」という。しかし、「みんな」とは誰で、具体的にどのような「迷惑」をかけたというのだろう?スティグマを背負った人間に容赦ない嫌がらせを行うメンタリティ。それを座視する政府やメディア。この集団リンチ状態に戦慄をおぼえる。ただ気になったのは主人公が何故イラクに赴くのかを吐露するシーン。主人公の女の子は日本では何をやってもうまくいかず、誰からも必要とされないが、イラクでは子どもたちが笑顔で自分によってきてくれる。彼らは自分を必要としてくれている、というもの。彼女が戦地に赴くのが自らの欠落感を補うものであるのなら、複雑な心境になる。それぐらいの人間なら日本に掃いて捨てるほどいるからだ。彼女の行為の是非を判断することは難しい。周囲に行きたいと言う人間がいたら、それが親しい人であればあるほど、やめろと言うであろう。しかし、彼らの信念に基づいて行われる人道的行為が、国の方針と違うからといってやめさせるのは間違いである。ましてや被害者にダメージを加えるようなことは許されない。
この映画は「日本」という村に住む人々の、輪郭のつかみにくい歪んだメンタリティをあぶり出したかったかも知れない。間違いなく「日本」のタブーを描いた作品である。個人の問題に収斂するような問題ではなく、一つの社会の問題としてこの点を取り上げたことには最大限の評価をしたい。この作品もここ最近はようやく観られるようになってきているが、アレクサンドル・ソクーロフ監督の『太陽』同様、海外でしか気楽に観られないというのは残念なことである。まあ、両者がいずれもタブーを扱っているという点では同様である。
