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07 juillet 2008 

scandale:films

黒澤明監督の醜聞(スキャンダル)を観た。
新進の画家・青江は画家仲間たちと山の風景をスケッチする最中に、そこを通りかかった音楽家・美也子と出会う。美也子は三時間後のバスを待ちあぐね、徒歩で目的地に行く途中であったが、その目的地があまりにも遠い。そこで青江はバイクで彼女を旅館まで送ることにした。しかし、彼女を追う雑誌『アムール』の記者により、二人が恋仲であるとスキャンダラスに報道される・・・。
 一種の法廷モノである。この映画で争われているのは、根拠のない捏造記事の事実関係のようである。この映画の中ではプライバシーという言葉は一度も使われていないが、現在でいうなら「古典的プライバシー権」の問題に入る事柄なのなのだろうか。
 黒澤がまだ存命で、今日、同じテーマで作品を撮ったならば、全く別の問題が争点となったであろう。現代では記事の事実関係如何を問わず、名誉棄損という事柄が成立しうるからである。当然、現在ではプライバシーとして認められるようになっている「自己情報コントロール権」などは含まれていないため、裁判自体は至って単純である。しかも、観客は青江と美也子の間には関係がないことを知っているため、裁判の事実関係は観客にとってさほど魅力的ではない。
 そこで物語は次第に弁護士・蛭田の葛藤へとシフトしていく。蛭田は青江を扱った記事に義憤を感じるほどの正義感を持ち合わせているにもかかわらず、ギャンブルの誘惑に弱い小心者。賄賂性の強い金品や接待で弁護士本来の役割も全うできない。彼の存在がこの物語の行方を左右する。
 この映画はプライバシーの問題を扱ったというよりは、裁判というものが必ずしも真実を反映する訳ではないということと、蛭田に代表される人間の弱さを克服することの大切さを説いているように見える。この作品は黒澤の先見性を示すとして紹介されるが、むしろ黒澤のある種の正義感が撮らせた作品だと言った方がよかろう。それは『生きる』などの作品と同様である。
 だが、プライバシーの問題が現在でも複雑な様相を呈していることをみるにつけ、やはり黒澤の慧眼は認めざるを得ない。
社内での自らの立場のために、著名人の生活を餌食にし、ありもしない捏造記事で給料をもらう輩がいることは今も、昔も変わらない。不誠実な記者は、今も、昔も、大勢いる。
 これに断固ノーを突きつけたのは、中田英寿だ。彼はこうしたマスコミの姿勢に強く異議申し立てをした数少ないアスリートの一人である。彼は自らのサイトを立ち上げ、自らテレビのチャンネルを持つことで、自らの主張を率直に述べた。凡百のアスリートと彼が一線を画すのはこうした姿勢だ。しかし、昔はそういうメディアがなかったため、泣き寝入りするか、この映画のように法に訴えるしかなかった。
 黒澤の現代劇はいつも時代を感じさせる。まず、法廷のシーン。今日の法廷では裁判中のカメラは禁止されているが、この時は至ってオープン。満員の傍聴席はさながら舞台を観る観客席の如くである。また、個人的にあれ?と思ったのは、1950年に発表されたこの作品で、市民がクリスマスを行事として楽しんでいること。戦後、5年も経っていない日本で、自宅でクリスマスの飾り付けをして「きよしこの夜」を歌っている・・・つい五年前にアメリカ軍の空襲があり、沖縄戦があり、原爆が落ちていることを考え合わせると、「敵国」の風習を嬉々と楽しんでいるさまに、奇妙な驚きがあった。
 かつて、僕は黒澤の描くヒーローは常に独身であるという旨を書いた。こちらこちら。 この作品の青江も、女に囲まれてこそいるが、男女の関係をもった女性がなぜか登場しない・・・。ある意味で黒澤映画の王道とも言える。