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08 octobre 2006 

Le temps qui reste:films

François OZON監督のLE TEMPS QUI RESTEを観た。
 売れっ子のカメラマン・Romainは撮影中に倒れ病院で診察をうける。診察の結果、肝臓と肺にガンが発見され、余命3ヶ月と告げられる・・・。
 自分の残りの人生が僅かであることを知り、自分が死に行く運命であることを告げずに家族やゲイの恋人から離れていく。彼は周囲が自分の死後に自責の念に駆られることを知りながら、孤独に人生から退場していくつもりだった。それは自分のことを理解しなかった家族への復讐だったのかも知れない。自分がRomainの立場になる可能性を露程も考えない向きにはRomainの振る舞いは身勝手にうつるかもしれない。しかし帰らぬ旅に出る人間に身勝手という批判はあまりに無力であり、残り僅かな人生の最後でも自分の思うとおりにできないのは自分がRomainの立場ならいささか窮屈でもある。もし彼が周囲に自分の死を告げたら、この物語は全く違ったものになったであろう。当然、誰も彼を放ってはくれないからだ。孤独であることが、彼を自由にし、この物語を成立させている。Romainの祖母が彼の最大の理解者である所以は、彼の選択をあくまでも尊重する姿勢を貫いたからであろう。
 祖母との邂逅の後、彼のなかで変化が訪れる。姉との和解し、恋人と再会し、不妊症の男性の代わりに子どもを授ける。子どもができないカップルが突然現れて代理の父親になることを求められるのは、ややご都合的なストーリーだ。それはあたかも子孫を何らかの形で残すことが「本能」であるかのようである。3人のセックスシーンもややとってつけたようだった。この点をどうとらえればいいか、まだ消化不良である。
 そして彼は美しく着飾ったモデルたちではなく、自分の最大の理解者である祖母やみずみずしいまでに生の輝きを放つ姉と子ども、そしてバカンスの浜辺で遊ぶ人々をファインダーに収める。誰のために?カメラで撮るという行為は彼にとっては自己の存在証明なのだろう。たとえ自分が写っていなくても。カメラマンを職業とした彼にとっては自分が撮った写真こそが、彼自身の証である。
 主人公の年齢は僕とほぼ同じである。こうした映画を観たなら、誰しも「自分ならどうするだろう」というつきなみな問いを立てるであろう。因みに僕なら・・・痛みを緩和するためにあらゆる手段を講ずる。夭折に追い込む病なら、激烈な身体的な痛みを伴わないはずはないからである。この映画でもRomainは次第にやせ細り、苦しんでいるようだが、激痛に発狂せんばかりに苦しむようなシーンはみられない。耽美な死という幻想から監督が離れることができなかったのは、主人公が監督自身の投影であるからなのかも知れない。また、観客に死という甘美な果実に対する過大な恐怖を与えることで、この映画のテーマがぼやけてしまうことを避けたかったからかもしれない。邦題は『僕を葬る』。原題は『残された時間』の意。この作品の対極にあるのはDenys ARCANDのLES INVENSION BARBARES(邦題『みなさん、さようなら』)である。併せてご覧になるといいかもしれない。