しゃべれども しゃべれども:films
あまりパッとしない二つ目の落語家・今昔亭三つ葉は、ふとしたきっかけで落語教室を開くことになる。そこに集まったのは無愛想な女性の十河五月、関西弁が抜けず東京でいじめられている少年・優。それに歯切れの悪い野球解説者が加わり、彼らに落語を教えるが・・・。
この物語のキャラクターはみな、話すことに対して何らかの困難をもっている人々である。五月は愛想がなく、ぶっきらぼうな表現しかできないことに悩み、優は方言で躓き、湯河原はメディアでの解説という公的な場で使うべき言葉を持っていない。三人はそれぞれ私的領域、公的領域、地域の差異といった、困難な言葉の状況を体現している。
彼らに限らず、話すことに何らかのコンプレックスや悩みを持っている人は、多いのではないだろうか。社会生活を営んでいくためには、話す相手や、話す場、話す状況によって言葉遣いをきっちり使い分けなくてはならないし、加えて適切な話題を選ばなくてはならない。公的な場ではそれに相応しい表現が求められるし、私的な領域で公的な言葉遣いばかり用いれば、なかなか相手との距離は縮まらない。進学、就職、引越などさまざまな理由で地域を越えれば、方言の問題にもつきあたるであろう。これが書き言葉になればさらに高度な能力を要求される。話をすることは実は簡単なことではないのである。落語を通してそれが克服できるのかどうかは、分からない。この映画の人々のように少しだけ成長するかどうかも、分からない。
主人公である三つ葉は好きで入った世界なのに、なかなかブレイクできない。好きな仕事に就ければ誰しも幸せだと思うかも知れない。しかし、見るとやるでは大違いということは多いのではないだろうか。好きだったはずなのに、しまいには嫌いなことになってしまっている。趣味を仕事にしない方がよい、と言われる所以もこのへんにあるような気がする。
この映画、師匠と弟子の関係も興味深い。小三文師匠は三つ葉を熱心にあれこれ指導しているという感じではない。しかし、三つ葉は師匠を尊敬し、何とか一人前になりたいと思っている。一方、三つ葉は実力不足であることが明らかながら、人に教える立場になってしまう。三つ葉は何とか言葉で教えようとし、態度だけは大きいのだが、生徒からは敬意を示されていない。きっと、芸道というのは言葉で教えて何とかなる性質のものではないのだろう。きっと学ぶ側がどれだけ試行錯誤して自らの道を切り開いていくかが、重要なのだと思う。ずっと師匠がついているなんて状況は実は短いのだから。
この映画、笑いを題材にした作品だが、殆ど笑う場面がない。優役の少年が笑いを誘う役所になっているが、劇中で描かれているような愛らしい子供が、同級生とうまくいっていないという設定に無理があるように思える。笑いについて語れば語るほど、笑いから遠ざかってしまう典型的な作品だ。題名から最初から笑わせるために作った作品でないことが明らかだが、もう少し笑わせてくれてもよかったんじゃないかと思う。
