Code : inconnu:films
Michael HANEKE監督のCode: inconnuを観た。家業を継ぐことを嫌がって兄を頼ってパリに出てきた白人青年。彼は兄の恋人から兄が不在であることを告げられ、苛立ち紛れにゴミを物乞いの女性に投げつける。その行為をみかけた黒人青年は彼の行為を咎めて女性に謝るように求めるが、彼は拒否。逆に黒人青年におどりかかってもみ合いになってしまう。集まった警察は事情聴取と称して逆に黒人青年と物乞いの女性を連行してしまう。
無造作に並べられたような細切れにされた場面群から、連行された黒人青年は彼をよく知る人々から愛され、人格的にも優れた青年であることがわかる。冒頭のシーンは人がいとも簡単に偏見に基づいて行動し、それがとんでもない結果に繋がっている様が描かれる。
一方、白人青年の兄の恋人であるJuliet Binoche扮するフランス人女性。彼女は女優を生業としているが、恋に悩み、地下鉄にも乗るごく普通の生活を送っている。彼女は「普通のフランス人」の体現者である。ある夜、彼女は家でアイロンがけをしている時に隣人の叫び声を聞く。その争うような叫び声に耳をすますも、それをそのままやり過ごしてしまう。逆に地下鉄で彼女がマグレブの男性に絡まれても誰も助けてくれない状況に陥ってしまう・・・。彼女を通して、偏見に染まり、他人の不幸をやりすごしてしまう「普通の人々」の身勝手さや酷薄さを我々は「見いだす」。これはもちろん彼女だけ、あるいはフランスだけのことではない。
また、ゴミを投げつけられた物乞いの女性は屈辱を受けたことで警察に連行され、紛争中のコソボに強制送還されてしまう。彼女は印象的なエピソードを紹介する。紳士が物乞いする彼女に20フランを差し出してくれた時、その紳士は彼女の汚れた手をみたとたん、お金を手ではなく膝に投げたという。
この映画は最初の偶発的な出来事以外は、主要な人物が交わることはない。それぞれの人物の行動は細切れなエピソードとなって散りばめられるため、一人ひとりがどういう人物なのか、どういう生活を送り、何を感じているかといった事柄はそれぞれの断片を頭の中で再構成しなければならない。群像劇にありがちなバラバラの場面が最後に一つに繋がるということではなく、最初の場面がそれぞれの物語に派生している。そのため、最初の場面を何気なく観ていると、最後には頭上に???マークが付いてしまうことになる。何気なくみえる場面も集中を切らしてならず、観る者にフル回転の思考を要求する。
HANEKE監督は彼自身の意図を分かりやすく提示するような手法はとらず、観客が自ら「見いだす」ように観客を誘導している。混沌の中から何らかの関連性や意味を見いだすというのは人間の脳の特徴である。彼の作品はそうした人間の特徴に訴えかける。一見して何の関連もない事柄から、我々は登場人物の行動や心の動きを「見いだす」のだ。同じ映像を観ていても、わかる人とわからない人、「見いだす者」と「見いだし得ない者」との間に大きな溝ができてしまう。ハネケはあるインタビューで言っている。
「映画は気晴らしのための娯楽だと定義するつもりなら、私の映画は無意味です。私の映画は気晴らしも娯楽も与えませんから。もし娯楽映画として観るなら後味の悪さを残すだけです。快適で親しみやすいものなど、現代の芸術には存在しません。にもかかわらず、映画にだけは気晴らし以外の何も求めないことに慣れてしまっているのです。だからこそ、気晴らしのできない映画を観ると苛立つのです。」
先にこのブログでHANEKE監督の最新作『隠された記憶』を紹介した。Code:inconnuはあたかもこの作品と相似の関係をなすものであるが、作品の構成としては『隠された記憶』よりも複雑になっている。サスペンス的な要素も少なく、観客を引きつける力という点では『隠された記憶』の方がより強いであろう。しかし、Code inconnuの方が何度も何度も見なおしたい、そのたびに新たな発見がある作品といえるかもしれない。
この映画の冒頭とラストは手話、あるいは身振りで意図を伝えようとする聾唖の子どもが登場する。しかし、身振りの意図はなかなか伝わらない。この場面は「伝わる者には伝わるが、伝わらない者には伝わらない」といった達観を装った思考停止状況を言いたいのではない。冒頭の観客である少女たちは手話を使って身振りの意図は何かを少女に問いかける。必死に理解しようとすること。小さな聾唖の子どもたちは、今の時代に生きる我々に求められているものを提示しているように思う。(原題はCode: inconnu(コード:未知)、邦題『コード:アンノウン』日本劇場未公開作品)こうした素晴らしい作品を直輸入の形で放映してくれたCinefil Imagicaに感謝したい。
