Caché:films
このコメントは是非、映画をみてから読んでください。Micheal HANEKE監督のCachéを観た。邦題が『隠された記憶』、そして「衝撃のラスト」という「あおり」によって、封印した過去の記憶がラストになって強烈に観客に突きつけられるのだと思っていた。しかし、最後にクレジットが流れた時、僕の心の中では「あれ?まだ終わってないよね?」「クレジットの後に、来る!」という期待とも祈りともいえる願望が渦巻いた。しかし、映画が終わってしまったことを確信した刹那、「え?これで?衝撃のラストはどこだったの?」「もしかして見逃した?」という強烈な焦燥感にさいなまれたを告白しよう。僕は恥ずかしくもハリウッド的なオチを期待していた。自分ではそういうつもりではなかったが、すっかりハリウッド的文法にのっとってこの映画を観ていたことに気づいた。そして、まんまと「あおり」にやられたという悔しい思いを噛みしめてもう一度、観た。
夫は人気キャスターGeorge、妻は編集者、そして一人息子Pierrotという幸せで裕福な一家のもとに一本のビデオテープが届けられる。そこには彼らの家の外観を長時間撮影した映像が入っていた。その後、口から血を吐く絵が届けられ、再びビデオが届けられる。次々に送られる絵とビデオ。警察は事件が起こらなければ動けないという建前でアテにならない。そしてある日、子どもが夜遅くまで帰らないことに気づく・・・。見えざる人物によって監視されているような不安が、疑心、暗鬼を生じる状況になっていく。キャスターの幼い頃の悪事が、ビデオや絵が送られてくる原因であることが次第に判ってくる。
この映画の背景をどこから話し始めればいいのだろう?フランスの植民地政策だろうか?戦後の移民受け入れの経緯だろうか?アルジェリア戦争だろうか・・・。この映画はこれだけの射程をもっている。
Georgeの人生に即していうなら、彼が6歳の頃はおよそアルジェリア戦争末期である。そもそも、何故裕福なフランス人であるGeorgeの家族がアルジェリア人の男の子を養子に迎えたのか?それはアルジェリア戦争末期のパリの状況と1961年に起きたアルジェリア人虐殺の悲劇が関係している。アルジェリア民族解放戦線(FLN)にフランス人警官が襲撃されたことで、アルジェリア人の夜間外出禁止令が敷かれる。それに反対したデモ隊に対し、フランス警察はパリ市内至るところでアルジェリア人に対する虐殺を行った。虐殺を免れたアルジェリア人も逃げ場を失い、次々とセーヌ川に身を投じた。また死体もセーヌ川に捨てられ、セーヌ川は血の色で染まった。翌日パリ警察からの死者の発表はわずか2人。日を追うごとにセーヌの岸辺におびただしい数の死体が打ち上げられていっても、警察はこの死者の数を訂正しなかったという。これが隠された歴史的事実である。恐らく、Majidが養子になった陰にはこの悲劇が関係していたのだろう。Georgeの母親が涙を流すシーンがあるが、このことと無関係ではない。
そして、当時アルジェリア人の男の子を養子に迎えたことに対して幼いGeorgeは快く思っていなかったのだろう。Majidが血を吐き、家畜である鶏の首を切り落とす行為をしていることをでっち上げ(Magidが感染症か何かに罹っており、残虐な人格であることをねつ造)、それを両親に告げ口することで首尾よく彼を家から追い出すことに成功する。Majidは親を失い、裕福な一家の養子になったのも束の間、Georgeの悪意によって家から放逐されてしまう。ラスト近くのシーンにあるように当時においてもMajidは施設に送られることに抵抗しているところからみると、彼にとっては非常に苦しいできごとだったであろう。もしも、Majidがそのまま家に残り、Georgeと同様の教育を受けていたならば、彼の人生は全く違ったものになったのかもしれない。人生のある時点を堺に袂を分けた人生。それは映画のシーンにあるように万巻の書と瀟洒な家具に囲まれて暮らし、教養番組のキャスターとなっているGeorgeと狭いMagidのアパルトマンを観れば、一目瞭然である。
その後、40年もの時間が経過して、Majidは恐らくテレビを見てすっかり有名になったGeorgeのことを自分の息子に話したのであろう。どのように話したのかは不明だが、Georgeが吐血と鶏のことを捏造したことは話したに違いない。そして、Majidの息子はGeorgeの息子と共謀してささやかないたずらを試みる(ラストシーンでGeorgeの息子・PierrotとMagidの息子が学校の前で話をしているシーンが映し出されて映画は終了する。これが一つの謎解きのヒントのようだ)。これが一連のビデオテープと絵である。
ビデオテープが送られてきたことによって不安にさいなまれるGeorgeと妻。この不安が彼の隠れた記憶を呼び起こし、内なる差別主義を露わにさせる。息子がいなくなってしまったことで、Majidを疑うGeorgeはすぐさま警察に通報し、Majidと息子は警察に連行される(証拠不十分にもかかわらず社会的に著名なGeorgeの話を信じてしまうフランス警察の態度も問題)。結局、彼らは何の咎もなかったが、Majidやその息子に対してGeorgeは謝罪することもしない。また、目の前で幼い頃の知り合いが自殺しても救急車を呼ぶことはおろか、警察も呼ばずに立ち去ってしまう。被害者である意識から抜けられないGeorgeは他人を非難することにかけては躊躇がないが、引いて撮した画像だけみれば一体どちらが被害者なのかという疑問が湧く。時折、妻がそうしたGeorgeの態度を諫めても聞く耳を持とうとしない。彼の態度の根底にあるのは罪の意識であるが、彼はその罪と真正面から向き合おうとはしていない。このGeorgeのパーソナリティを通して、フランスの社会のあり方、フランスという国家が罪とどのように向き合っているのかが問われているように思えてならない。こう考えるのは穿ちすぎだろうか?引いた構図でひたすらに家の外観を撮影するという行為はできごとをより客観的にとらえようと考えることの一つのインプリケーションに思えてならない。
映画cachéで隠されているものは決して一つではない。それはアルジェリアとフランスとの血なまぐさい隠蔽された歴史であり、記憶の底に隠されたGeorgeの幼い頃の悪事であり、教養番組のキャスターという皮にくるまれてGeorgeが内包する差別主義(もちろんこれは「文明国」という皮をかぶったフランスのアナロジー)であり、一家にビデオを送りつけた犯人は誰かという謎解きの「答え」であり、そしてサスペンスの形をかりて織り込ませた監督の意図である。お薦め。
