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11 avril 2006 

GONE WITH THE WIND:film

Victor Fleming監督のGONE WITH THE WIND−ニューマスター版−を観た。
 実はこの作品を観るのは初めて。「感動の大作」、「不朽の名作」ということで期待したが、恐らく二度と観ることはないだろう。前半は奴隷制度の下、贅沢きわまりない生活を送っていた我が儘な美貌の南部娘の半生を描く。「壮大なラブ・ストーリー」の傑作というが、スカーレットに3度の結婚をさせた理由は、フラれた腹いせ、税金調達、豪華な生活である。結婚や相手の気持ちなどは彼女の失恋や金銭の欠落を埋め合わせる道具でしかない。スカーレットは「純粋」と評されるが、それは自分の自尊心保持や欲望に対して純粋なのである。スカーレットというキャラクターに一秒たりとも共感しないまま長い、長いフィルムは終了した。この作品は広告にあるように、ラブ・ストーリーだったのだろうか?レッド・バトラーにしたところで、じゃじゃ馬娘を乗りこなす自分の度量の大きさをナルシスティックに感じたかっただけではないかと思ったりもする。
 スカーレット人気とは一体何なのか?時に女性が言いたいことをズケズケ言っていると、それだけで人気を博すことがある(男性もそうかも。上祐に上祐ギャルが付いた例もあるし)。発言内容を吟味すると、首をかしげざるを得ないことも多く、疑問を抱かざるを得ない時もある。もしかすると発言内容ではなく、発言スタイルが人気の源泉なのではないかと思う。誰しも言いたいことを言って、生きていきたいものである。スカーレットのように我が儘と欲望で周囲をねじ伏せ、周囲の反応に気づかない鈍感さ(=強さ?)を得ることができればどれだけ幸せだろう。日本で言うなら、田中まきこ氏などが彷彿とするが、スカーレットは彼女のキャラクターに酷似しているように思うのは僕だけだろうか?
 この映画は南部の特権階級の視点で描かれている。映画で起こる戦争の大儀など、一顧だにされない。北部の者は攻め込んでくるYankeeでしかないし、奴隷はあくまで奴隷である。そういう時代なのだろう、スカーレットはそうした社会システムには疑問さえ抱かない。むしろ、奴隷貿易や制度があって、豊かでいい時代だったね〜とばかりに憧憬さえ抱き、それを取り戻すため躍起になって人身売買まがいのことさえやってのける。GONE WITH THE WINDで去っていたものというのは、そうしたスカーレットに代表される白人富裕層の「いい時代の南部」である。これは映画の最初で明確に謳われている。
 この映画が製作され、公開された時代。この映画は圧倒的なスケールと映像表現で熱狂的に受け入れられたことは想像に難くない。太平洋戦争をしていた時にこんな映画を作ることができたことを考えると、日本とアメリカの圧倒的な差を感じる作品なのだろう。
また、戦争で丸裸になったスカーレットが何をしてでものし上がってやると決意をする前半のラストシーンは、敗戦後の日本を彷彿とさせるのかもしれない。そうした意味でこの映画は世代的に見方が変わるのかも知れない。今日的な観点でこの作品を批判するのはフェアではないが、作品としては普遍性をもたないように思う。興行成績や時代を経てなお人々に観てもらえる作品という外的な要因を考えると驚くべき作品なのかもしれないが、個人的な好みとしていうと、所詮ハリウッドの娯楽大作である。