Um Filme Falado:films
Manoel de Oliveira監督のUm Filme Faladoを観た。2001年7月、Rosa=mariaは娘のMaria=joanaとともにインドのボンベイへ飛行機のパイロットの夫に会うために地中海をめぐる船旅に出発する。ポルトガルのベレンの塔からマルセイユ、ナポリ、ギリシャ、トルコ、エジプト、紅海と「西洋文明」の源流を辿りながら旅をする。何故?どうして?と娘は多くの疑問を母に投げかけ、大学教授である母はそれをかみ砕いて説明する。前半は母子の旅行を通じて西洋文明の源流をたずねる紀行ものような趣をもっているため、こちらも観光気分でリラックスしながら観ていた。実際に同じルートで旅行したらどんなにいいだろうと思った(船酔いするので無理だが)。しかし、娘に対する母の返答は、決して誰もが素直に納得できるものではないということに次第に気付いてくる。映画の全編を通して歴史学者である母も「キリスト教史観」とでもいうべき観点から「西洋文明」や「世界」について語っていることがあぶり出されるのだ。例えば彼女の語る「アラブ人」は聖書に書かれているアラブ人の姿である。大型客船にゆられ、柔らかな日の光を浴びながら旅する親子をみているとつい、気を抜いてしまうところに落とし穴があるのである。その他にも「どうして戦争をするの?」という娘の問いに対して、「権力が欲しくて戦うから戦争になる、人間の本能ね」と答える。本当に「戦争は人間の本能」なのだろうか?それを「本能」と言い切ることによって、思考停止してしまってはいないだろうか?例えば、戦争で亡くなった人に対して、「戦争は人間の本能だから」と片づけることができるであろうか?自分から時代的にも心象的にもほど遠いものだからこそ、「本能」で片づけるてしまう思考の怠慢がほの見える。また、親子はイエメンのアデンにも立ち寄る(唯一ここだけが字幕で場所が示される)が、ポルトガルがここを奪おうとしたことがあることを説明した程度で買い物をして立ち去ってしまう。
旅が紅海を過ぎ、「西洋文明」の圏外に出て、舞台が船上に移ってから、様相が少しずつ変化していく。豪華客船のレストランのテーブルには、ポーランド系アメリカ人の船長、フランス人女性実業家、元モデルのイタリア女性、歌手のギリシャ人がそれぞれの言語で男女、文明などについて語り合う。彼女たちはそれぞれ自分たちの言語で話し始めるが、ギリシャ人がギリシャ語を話し始めた時はいくらなんでもこの会話が成り立つ訳はないだろうと思った。しかし、ある意味で不自然なこのシーンはリアリティが重要なのではない。それは彼らが「西洋文明」と現在の国々をある意味で体現する存在として登場しているからだ。そのためそれぞれの職業も「お国柄」を反映するものとなっている。特に豪華客船の船長がアメリカ籍であることは、グローバルに経済活動を行っているアメリカ人の体現していると思って間違いない。彼女たちの語るアラブ観というのは極めて西洋優越主義に立脚している。「世界を植民地化した」英語によって、彼女たちが最後にはやむなく英語で話さざるを得なくなったことは彼らが体現者と考えるなら極めて必然であり、ある種の現実を示唆している。
そして、船長はMaria=joanaにヴェールを纏ったイスラム女性の人形をプレゼントする。そもそも人形を作ること自体イスラム圏では禁じられているし、イスラム女性の人形をプレゼントするという行為自体が彼ら「西洋文明」の内部にいる人間のイスラム圏の人々への無理解を示している。そして、この人形がラストでこの母子の不幸を招くことになってしまう。「西洋文明」の異文化への無理解が招いた不幸という含意が込められている。この映画は決して「西洋文明」を礼賛したものではないということが、ラストで大きな衝撃を伴って観客に突きつけられる。恐るべき傑作である。邦題は『永遠の語らい』
